<東京怪談ノベル(シングル)>


堕人

 かちり――。
 何かの音がしたような気がして、わたくしはうっすらと瞳を開きました。
 けれど、わたくしの瞳には何も映りはしません。
 雰囲気だけが、わたくしにその場の全てを教えてくれるのです。
 一瞬の戸惑いもなく、わたくしはふと、思い起こします。
 あぁ、わたくしは死んだ身なのだと。

 鬼灯はどこぞの誰かに毒を盛られて死んだのだ。
 魂だけで彷徨っていた鬼灯は、陰陽師の手によって拾われたのだ。
 そうして、鬼灯は一度、自分を見失ったのだ。

 音をきっかけに自分を取り戻したわたくしに知れたのは、ほんのわずかなこと。
 そこがわたくしの知りえない場所であるということ。
 目の前にわたくしの知りえない人物がいるということ。
 わたくしの身に、わたくしの知りえないことが起こっているということ。
 何もかもが知りえない、そんな現状。それだけが、わたくしが知り、理解したこと。

 鬼灯の魂が捕らえられたのは、ほんの小さな珠だった。
 透明な球体の中にぽつんと置かれたような、そんな、限りある自由。
 それは宮中での暮らしに少し似ていて、けれどそれよりもずっと暗い不安を煽られるものだった。
 助けを求めるように声を上げても、それは空気を震わせる音とはならず、いずこかへと掻き消えて。
 逃げ出すように手足に力をこめても、それに応えてくれる肉体など、その場所にはなくて。
 得体の知れない『何か』の中に囚われていると知りながら、鬼灯にはそれをどうすることもできないのだ。

 わたくしは俄に不安を覚えました。
 不安などという曖昧なものではなかったかもしれません。
 言い換えるならば、予感。
 わたくしの知りえない人物がわたくしに触れようとしているのを感じた、その瞬間。
 わたくしはわたくしという存在を失うことを、その刹那に感じたのです。

 一瞬だけ、痛みを感じたような気がした。
 その後に鬼灯が得たのは、絶対的な圧力。
 鬼灯の収められた珠に刻み込まれたのは、彼女が知りえない――後に主と呼ぶ人間への絶対的な服従。

 ちくり、痛みが刺した。
 わたくしの中から反抗が切り取られる。
 ちくり、痛みが刺した。
 わたくしの中から不満が切り取られる。
 ちくり、痛みが刺した。
 わたくしの中から自尊が切り取られる。
 ざくり。心の臓を貫かれるような痛みと共に――。

 わたくしの中から、『わたくし』が抉り取られた。

 鬼灯の魂は、小さな小さな珠の中で氷付けにされたようなものだった。
 やがてその珠は『核』と呼ばれ、人形という空っぽの道具を起動させる装置と化した。
 魂という存在の持つ力だけが自由を手にし、鬼灯の気持ちを置き去りにして外へと出て行った。
 きし、と小さな軋みが聞こえる。
 それは土塊の傀儡が放つものなのか、それとも、置いていかれた鬼灯の気持ちが放つものなのか……。

 きしきしと軋む感覚を経て、私の瞳は少しずつ光を宿し始めました。
 それがわたくしの瞳ではなく、人形の瞳であることを知るのはそう遅い話ではありません。
 見慣れない部屋に見慣れない男。
 けれど不安を感じる心は深く深く沈んだまま。
 水の底から浮かび上がるような感覚と共に、何事かを尋ねるような声が聞こえてきました。
 それも、わたくしの耳ではない、人形の耳を通じてのことでありました。
 静か過ぎる空間に耳慣れない声。
 けれど恐れを感じる心は遠く遠く消えたまま。
 やがてしっとりとした空気が肌に纏わりついてくるのに気づきました。
 無論、わたくしの肌ではない、人形の体が感じるものではありますが。
 するり横切っていく冷たい空気。
 けれど……わたくしはもはや、まるで当然であるかのように、何を感じることもありません。

 きしきし、音を立てた間接は球体。
 そこから伝わってくる痛みは、鬼灯に自らが人形と化したことを否応なく突きつける。
 これが夢ならば。幻ならば。嘘ならば――。
 けれど、主と呼んだ男は『灯姫』の名を奪い、『鬼灯』の名を与えてくる。
 押さえ込まれた意識がかすかに願った希望が、容赦なく崩された瞬間でもあった。

 わたくしは主様を護り、主様のために戦い、そして主様のために朽ちるのです。
 それは人形と化したわたくしに突きつけられた定めなのです。
 それが、人形として生まれたわたくしの、生きる理由なのです……。
 けれど、もしも、もしもわたくしに人として望むことが許されるのなら。
 わたくしは切に、切に、祈りましょう。

 どうかわたくしを還してください――。