<東京怪談ノベル(シングル)>


うなじの好きなカラス

 焼きたてのパンの香りはたまらない。
「買うのかい?」
「買いたいのですが・・・」
素直に、しかし恥かしそうに黒妖は手持ちのないことを告白した。ポケットの中の財布は、わずかな小銭しか入っていない。これで買えますか、と手の平に載せた額は本当に心もとなかった。
買えないことはないけどねえ、とパン屋は首を捻りながらその後の黒妖の旅を心配してくれた。ここで金を使い切ってしまったら、次に必要なものを買うときはどうするのか。
「あんた、売るものは持ってないのか?」
「売るもの?」
今日は町の大通りに市がたっている。そこへ行けば大抵のものは買えるし、売ることもできた。また、物々交換も成り立つのだった。
 黒妖は手を見た。右の手に、指輪があった。いつからはめているのかは覚えていないし、大切なものかどうかも今の自分にはわからなかった。昔通り過ぎた町で、これと同じような指輪がショーウィンドウに飾られていたのを見たことがあった。
「ありがとうございます。行ってみます」
悪いのにひっかかるんじゃないよ、と親切なパン屋は忠告してくれた。市に店を開いている中には胡散臭い連中もいる。浮世離れした雰囲気のある黒妖は世間知らずに見られ、指輪を買い叩かれるだろう。
 実際パン屋の心配通り、指輪は相場の半分以下で値をつけられた。が、それでもあの店中のパンを買い占められるほどの大金であったし、ものの価値をわかっていない黒妖は充分に喜んで売買を成立させた。
 これが売れるのならと黒妖は思った。あといくつか、ついでに売ってしまおうか。指輪のほかにも黒妖は、髪飾りや腕輪といった装飾品を持て余していた。太陽の光を浴びるたび反射して輝くそれらは、つけている本人にさえ眩しすぎるのだった。

 しかし考えてみたのだが、髪飾りを売ってしまうとそれだけ財布が重くなる。今度は重くなった財布のほうを持て余すに違いない。結局黒妖は指輪だけをその骨董品商に売り払って店を離れた。
 夕方遅い市は帰り道を急ぐ人の雑踏で、一歩進もうとするたび誰かの肩にぶつかり、店の前を通れば必ず呼び止められた。スリが多いから気をつけてというパン屋の言葉を思い出して、財布を入れている胸のあたりを手の平でぎゅっと抑えて歩いた。
 パン屋の注意は三つあった。一つ、たちの悪い商人にひっかからないよう大きな店で売ること。二つ、売った金はすられないように財布を隠しておくこと。そして三つ、変なものを買わないよう声をかけられても立ち止まらないこと。
「カア」
「・・・痛いっ!」
しかし黒妖は立ち止まってしまった。突然何者かから強く髪の毛を引っ張られたのだ、いや、髪の毛がなにかにひっかかったので立ち止まらざるを得なかった。
 髪の毛の付け根をさすりながら振り返ると、自分の髪の先が小さなカゴの中に達していた。後ろに戻って確かめてみると、一羽のカラスが光る石のついた、黒妖の髪飾りを細いクチバシで噛んでいた。店の主が笑う。
「気に入られたようだな、安くしとくよ」
「あ、いえ・・・」
買うつもりはありません、と言おうとしたのだがカラスの鋭い瞳と視線がぶつかり、声が出せなくなってしまう。意志の強さを勝負にするには黒妖は動物にさえ負けてしまう、いつだって相手よりも自分を言いくるめるほうが楽なのであった。
 カゴから出されたカラスはいきなり羽ばたき、一瞬そのまま空の彼方へ飛び去ってしまいそうな気配を見せたのだが、くるりと弧を描いて戻ってくると黒妖の肩にとまった。人懐っこい性格なのか、と黒妖が手を伸ばそうとしたらカラスはいきなり、黒妖のうなじを突いた。
「い、痛いですよ」
慌てて黒妖は差し出しかけた手を防御に回す。なぜかカラスはこれでもかとばかりにしつこく、黒妖のうなじを突くことをやめなかった。

「やっぱり、売りつけられてきたんだな」
「はあ・・・」
まあ予想はしていたけどなというパン屋の皮肉に黒妖は笑うしかなかった。あれからずっとカラスがうなじを突くので、仕方なく黒妖はさらに一枚の細い布を買い求めマフラーのように巻くことで首を守っていた。
「でもこの子、綺麗な顔をしているでしょう?それに尾羽の白いところも珍しいですし」
「尾羽が白い?・・・ああ、確かに」
カラスは、クチバシから尾の先まで全身それこそカラスの濡れ羽色、美しい漆黒に光っているのだが尾羽に一筋だけ目のさめるような白い羽が混じっていた。パン屋は尾羽の白いカラス、と呟きながら黒妖の注文した分だけのパンを袋に詰めた。
 そしてパン屋は、黒妖たちが店を出た後どうにも気にかかってしかたがないという顔で店の奥にある自分の部屋へ戻り、子供の頃に読んだ本を開いた。古くからの言い伝えや、噂話といったものをまとめた一冊であった。
「尾羽の白いカラスは不幸を招く・・・」
記憶違いかと思っていた曰くは本の中ほどに載っていた。挿絵のカラスは黒妖がつれていたものよりずっとぼやけた色の尾羽をつけていた。鮮やかであればあるほど恐ろしい、と感じるのは錯覚だろうかとパン屋は思った。
 膝の上に本を広げたパン屋が不安を感じていた頃、黒妖はまさにその曰くに巻き込まれていた。香ばしい香りのたちのぼる袋を抱えて店を出て、最初の角を曲がった直後に後頭部を殴りつけられた。倒れこむ寸前、犯人の顔がちらりと見えたのだがそれは黒妖が指輪を売った骨董品商と、見知らぬ三人の男。
 男たちは、黒妖が市を出たときから後をつけてきた追いはぎだった。店の中で黒妖が指輪のほかにも売るものを持っているような素振りを見せたので、指輪の金を取り戻すついでに頂いてしまおうと言う算段で来たのである。

 路地の上に引きずり倒され、鈍痛を味わいながら黒妖はカラスの心配だけをしていた。不幸を招く曰くつきとも知らずに、無事だろうかと視線を巡らせる。
「カア」
頭の上で声がした。反射神経で目を上げると、紫色の空が飛び込んできた。既に星が二つ三つ光っているのに、月のあるべき場所はぽっかり取り残されていた。
 新月の夜なのだ、と気づいたときには黒妖の中でもう一人の性悪な自分が目覚めていた。
「おいで」
薄笑いを浮かべた黒妖は手を伸ばした。カラスは翼を広げ、槍のように落ちてきた。黒い生き物の滑降に追いはぎたちが怯んだその隙をついて、黒妖はカラスが爪を立て止まった右手を勢いよく振り回した。
 風を吸って、カラスの滑らかな流線型がさらにしなやかに変化していく。クチバシはますますに尖り、白い尾羽が銀色に光る真っ直ぐな柄となって伸び、全身は光沢を放ちながら鋼よりも硬度を増した。一羽のカラスが大鎌へと変化し、黒妖の腕に絡みつく。
「さよなら」
黒妖は追いはぎたちに別れを告げた。しかし挨拶は遅すぎた。カラスが鎌になった時点で男たちは四人残らず死体となって、首をすっぱりと切断され血を吹きながら倒れていたのだ。
「これがやりたかったのですね」
カラスがしきりに黒妖のうなじを突いていた理由だった。
「僕にぴったりのペットです・・・けれど」
血を浴びた喜びに微笑む黒妖ではあったが、血潮に濡れたカラスが、刃が黒妖自身の首筋に向かってくるのを先読みして鎌を手放し、踏みつけた。四人の命を奪っただけでは飽き足らず、カラスは黒妖の命までもを欲したのだがそれは許されなかった。
「ペットが飼い主に逆らうなんて、有り得ません」
踏みつけられたカラスは苦しさから元の姿に戻り、ギャアギャアと鳴き叫ぶ。しかし黒妖はますますに重みをかけていく。生き物のあがきまわる感覚が靴を通して伝わってきて、背筋が震えてくる。
「お前の名前、なんにしましょう」
嬉しくてたまらないというため息と共に、黒妖は赤い手で自分自身を抱きしめた。