<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>
精霊の森を護れ〜後編〜
記憶のないまま、訪れた森だった。
精霊と呼ばれる、不思議な存在が棲む森――
……世の中にひとりきりでいるような感覚の中、精霊たちの暖かさがどれほど救いになったことか。
元々ない記憶だ。精霊たちのために、捨てることなど構わなかった。
そう……構わなかったのだ。
『あははははっ! そうだよね、キミは僕たちとの記憶と引き換えに、不老不死になったんだもんね!』
心が――
揺れなかった、と言えば、嘘に……なる。
それでも。
「倒してくれ」
クルス・クロスエアは集まってくれた冒険者たちにそう告げた。
「ヤツは……精霊の森を踏みにじった」
失われた過去、精霊の森。
もはや天秤にかけるまでもないそれら――
**********
大人五人分はあるだろう巨体を持つ九尾の狐。
九本ある尾のうち、一本がうねって炎をまとい、冒険者たちのいる場所に叩きつけられる。
冒険者たちは、さっと飛びのいて避けた。
「まーた参ったのが出てきたねぇ……」
トゥルース・トゥースが頭をかきながらぼやいた。
「……要するにあれだろう? あの坊やはお前さんに忘れられたってんで、すねてるんだろう?」
トゥルースはクルスを見る。
クルスは無言だった。トゥルースは苦笑して、
「まぁ、なんだ。盛大な駄々だねぇ。このまま駄々こねられててもはた迷惑なだけだし、大人しくさせてくるから、ちょいとばっかり待ってな」
「……すまない……」
クルスが小さくつぶやく。
その声に、どこか迷いが混じっているのを、周囲の冒険者たちは聞き逃さなかった。
――クルスの隣で、何かがぷつっと切れた音がした。
クルスがはっと顔をあげる。
アレスディア・ヴォルフリートが、なにやら壮絶な顔をしていた。
「……ふ、ははは……なるほど、そういうことか……」
「あ、アレスディア?」
「うむ、わかった……一戦お望みとあらばお相手しよう……クルス殿、少々ここで待っていていただけぬかな?」
アレスディアは壮絶な顔つきで、引きつった笑みを見せた。
「少しばかり、灸をすえてくる」
「アアア、アレスディア?」
アレスディアはコマンドを唱えた。
彼女のルーンアームが、見る間に形を変える。
アレスディアの体を、灰色の鎧が包んだ。手に持つ得物も槍ではなく剣に。
そしてアレスディアは駆け出した。
「その尾、すべて切り裂いてくれるわっ!」
「怖ぇ……」
ランディム=ロウファがつぶやいた。
「おっきい、きつね……」
千獣[せんじゅ]が切なそうな目をして九尾の狐を見上げる。
「……なんか、かなしい」
「千獣」
クルスが少女の名を呼ぶ。
千獣は懐から液体の入った瓶を取り出し、
「クルス……あの子、元に、戻ったら……これ、あの子、に、使って……」
それは以前、精霊の森の癒しの精霊が、千獣にあげた回復の薬――
今まで大切に取っておいていたその薬を、千獣はクルスに手渡した。
悲しげな赤い瞳で、クルスを見上げながら。
「あの子、が……本当に、したい、ことは……こんな、ことじゃ、ない、と……思う、し……ファード、だったら、きっと、いいって、言う、と、思う」
癒しの樹の精霊の名を出しながら、千獣はちらりと九尾の狐を見やる。
「しかし、この薬はファードがキミにと」
「うん……私に、くれた、もの、だけど……私は、もう、癒して、もらった、から……」
そして少女はクルスに背を向ける。
「それじゃあ、行って、きます……と……みんな……行くよ……」
するするする……
千獣の体を覆っていた呪符を織り込んだ包帯が、すべて解けていく。
そして千獣の姿は――
異形の獣へと、変化した。
千獣が狐へと飛びかかる。
「あー、えーと」
デュナン・グラーシーザが頭をぽりぽりかきながら、「今どういう状況?」
――彼と彼の姉、山桜ラエル[やまざくら・―]は前回の精霊解放時にその場にいなかった。「ごめん、遅れた!」と言いながら駆けてきたそのときに、精霊の森から平原へとまとめて連れてこられたのだ。
「おい、あんたらどこ行ってたんだ?」
ランディムがビリヤードのキューを回しながら尋ねる。
「いや、トロドロウツボが生えている場所に」
「『巨大食虫植物あり! 危険!』の立て札を二人で作って立ててきた」
デュナンの言葉に、ラエルが続ける。
この兄弟がごんごんと立て札を立てているところ……
「……容易に想像できるな」
ランディムは虚空を見てつぶやいた。
「まあ、いいお仕事をなさってきたということで」
蒼柳凪[そうりゅう・なぎ]が慌ててその場をとりなそうと笑顔になって、
「ええとですね、今の状況は――」
とデュナンとラエルに状況を伝えようとしたそのとき、
パリン!
凍りつくような音がして、冷気をまとった尾が一行に襲いかかった。
はっと凪とランディムが飛びのき、ラエルがデュナンを蹴飛ばして避けさせ、自分は伏せた。
ラエルのぎりぎり上のラインを、尾が通り過ぎていく。
立ち上がったラエルは、
「……少し冷たかったな。だいたいデューが反応遅いのが悪いのだぞ」
とぶつくさと文句を言った。
「だからって蹴ることないだろ!」
デュナンが非難の声をあげる。
「今はそんな話をしてる場合じゃないんです!」
凪はいったんデュナンとラエルに状況を説明することを諦めた。
そして舞い始めた。――柔らかく衣装が揺れる美しい舞い。
『四魂讃頌』
他の仲間たちの体の表面に、薄い膜ができる。炎、冷気、雷、風の四属性が、これで無効化されるはずだ。
凪が舞っている間に、クルスがデュナンとラエルに告げていた。
「あの九尾の狐の、九本の尾を切り落として欲しい。――九尾の狐は尾をすべてなくすと元の姿に戻ると文献にあった」
「ああ、それでいいんですか?」
デュナンはすでに狐に特攻をしかけているアレスディアと、異形の獣になった千獣に驚いたようだった。
「俺としては――」
凪はそっと九尾の狐を見やる。
「……少し、胸が痛い気もするんですけど」
「ばっか言え!」
虎王丸[こおうまる]が隣から凪の頭を殴りつけた。
「いてっ――虎王丸、何するんだよ!」
「あのな、過去のイザコザを理由に非道な行いをするよーなバカは遠慮なくぶっ飛ばせばいいんだ!」
そうだろクルス! と虎王丸はクルスに指をつきつける。
「過去のことなんか忘れろ! もし興味持って引きずられやがったらぶん殴るからな!」
――過去を捨てたことは――
過去に、クルスが選んだ選択肢を否定することになるから。
虎王丸は絶対に、それを否定したくなかった。
トゥルースががははと笑って、千獣の後姿を見つめながら口をはさむ。
「ああ、殺さねぇよ――殺したがっているやつぁほとんどいねえ」
「俺は殺したって構わねえよ!」
虎王丸が吼えるのを、凪が横から押さえつけた。
「だめだ。まだ……あの狐には訊くことがたくさんある」
「まあ、欲得まみれた野郎なら殺すこたぁ考えなくもなかったろうが、なーんか、な。その気が失せちまった」
トゥルースはどこか穏やかな表情で言った。
そして、横薙ぎに襲ってきた雷の尾を、腕で受け止めた。
「お。兄ちゃん、あんたの舞はすげえなあ。何もダメージ受けねぇぜ」
「ありがとうございます」
凪は微笑んだ。そして次の舞を始めた。
「ん……凪のあの舞は時間がかかんだ」
虎王丸が凪の動きを見てそう言った。「今のうちに、やれるだけのことはやっちまうぜ」
上空に、グライダーが到達する。
乗っているのは、グランディッツ・ソート――グランである。
グランは狐に向かって、
「目的はなんだ!」
と叫んだ。
「森を荒らしたのも何か目的があるはずだ……!」
言いながら目に見えぬ刃・スライジングエアを放つ。
スライジングエアは、トゥルースが動きを止めていた雷の尾を半分ほど切り、止まった。
「ちっ……一撃じゃ切れないか」
精神力でスライジングエアを手元に戻しながら、グランはもう一度それを放つ。
察したトゥルースが、雷の尾を動かないようにがっちりとつかんでくれている。
目標がずれない――それは投擲型の武器にとってどれだけありがたいことか。たとえスライジングエアが思うとおりに動く武器だとしても。
グランの見えない刃は、二度目にして雷の尾を完璧に切り落とした。
「よーし!」
トゥルースの腕の中で、切り落とされた尾がしゅううと音を立てて消えていく。
「………」
クルスが無言でそれを見つめる。その傍らで、キューを両肩に乗せたランディムが口を開いた。
「あんたたちの過去の因縁なんて知ったことかよ」
クルスはランディムを見た。
ランディムは早速一本の尾を落とされた狐を見つめたまま、
「あの男ならきっとこう言うだろうな、イレギュラーなら……狩る、までだ!」
ひゅっ――
空を切り、ランディムのキューの先端が狐を狙う。
撃ち出された法力の弾が、どんな能力を持っているか分からない数本の尾のうちの一本にダメージを与える。
くるくるっとキューを回して、そしてランディムは声を張った。
「さーて、カーニバルの始まりだぜ!」
どろり……
尾の先端から、粘液が放たれる。射程距離はほとんどない。近くを濡らすだけだ。
しかし一番接近していたアレスディアは、粘液の射程距離内にいた。
すかさず千獣が飛び、アレスディアの体を抱えて避けた。
「す、すまない千獣殿」
異形の姿となってもアレスディアは何を言うでもなく、千獣にいつもの苦笑を向ける。
「………」
千獣はすとんとアレスディアを狐の背に降ろし、自身はカミソリをまとう尾に走った。
無言のまま。
アレスディアは、何も言わない千獣を目を細めて見る。
――千獣にとってこの戦いはどんな意味を持つだろうか――
(今は……そんなことを考えている場合ではない、な)
灸をすえる。そう決めた。
と、上からざざあっと何かが降ってきた。
煙に近い、大量の砂――
アレスディアは上を向く。
一本の尾が、その先端をアレスディアに向けていた。
ざざ……あ……
「っ!」
アレスディアはさっとかぶとで顔を隠す。煙のように細かい砂は、アレスディアの鎧の関節には入ったが、顔には効かなかった。
「目潰しか……」
トゥルースとデュナン、ラエルと虎王丸が次々と狐の背に飛び乗ってくる。
アレスディアははっと声をあげた。
「気をつけろ! この尾は目潰しを使う……!」
遅かった。目潰しの尾は、背中にあがってきた全員にシャワーのように煙を浴びせた。
「ちっ……くそ!」
そのとき、目潰しの尾が揺らいだ。
「そいつは真っ先に倒すべきだぜ!」
上空からグランがスライジングエアを放ち、目潰しの尾の一部を切り裂いていた。
アレスディアはすかさず剣を一閃し、目潰しの尾の残りの部分を切る。
まだ……尾は落ちない。
――少々力が足りないか――
その瞬間、つながっていたわずかな部分が、撃ち込まれた何かで切れた。
アレスディアははっとそちらを向く。
狐の背には乗らない位置でキューを構えているのはランディムだった。
「あいよ。二本目ってね」
ランディムはそう言って、にっと笑った。
カミソリに包まれた尾と対峙するは千獣――
「………」
大量のカミソリが千獣を狙う。
しかしどれだけカミソリの刃が食い込んでも、血が流れても、千獣は微動だにしなかった。
――血はあっという間に止まる。
千獣が体の中に『飼って』いる魔、獣たちが癒してしまうから。
「………」
千獣はカミソリの尾に思い切り抱きついた。
痛みなど感じない。――もう充分に胸が痛いから。
そしてそのまま、抱きつぶそうと試みたが、カミソリだけになかなか硬い。
そのとき――
ガァン!
――どこからか、ライフルの音がした。
千獣が抱いていた刃の一部が、砕けた。
千獣は振り向く。
「ああ、えらい目に遭った」
目潰しの被害に遭っていたラエルが、脇に挟むようにして固定して持っていたライフル――
「ああ、あのな。刃ってのは鋭いほど真横からの攻撃には弱いんだ。だから――」
ラエルがあくびをしながら説明する。
千獣はほんの少し微笑んだ。
そして、
残りのカミソリ全てを、うまく横をはさむようにしながら――抱きつぶした。
カミソリの他に、見ただけでその能力の分かる尾が一本――
「狐の尻尾っていやぁ、ふさふさしてるってのに、なんとまあかわいげのねえ尻尾だ」
目潰しから復活したトゥルースが、目をこすりながら見上げるのは――
真っ黒の鋼鉄でできた、尾。
いったいどういう材質でできているのか、鋼鉄なくせに自由自在に動き回る。先ほどトゥルースは、両手で受け止めようとして弾き飛ばされた。
「こんなもんまともに殴ってちゃあ、こっちの拳がもたねえ」
いつも格闘で敵を相手にしてきたトゥルースは、己の拳を見下ろしながらつぶやく。
そして、赤い瞳をきらりと光らせた。
「――久々にちょいとばっかし『喰って』やるかね」
鋼鉄の尾がぶんと振り回される。
トゥルースは後ろに避けた。避けるとともに、尾の反対側に回り込む。
すると尾は、そのまま反対側へとひるがえってきた。
「お――」
トゥルースが慌てて避けようとする。
そのとき、がちんと何かが尾に当たった。
尾が動きをとめた。トゥルースに当たるぎりぎりのところで。
「おっさん、危ないぜっ!」
上空から、声。
見上げると、グライダーの操縦士が上空を旋回していた。
トゥルースはにやりと笑って、手をあげてグランに返事をすると、
ぴたり
と、動きを止めた――おそらくスライジングエアで動きをとめられた――尾に手を当てた。
ず……
鋼鉄の尾が発した音は、たったそれだけだった。
闇に呑まれ、尾はそのまま『喰われ』て消え去った。
トゥルースは、尾に当てていた己の掌を見下ろしてつぶやく。
「……どうして俺がこんな風に『喰える』と思う?」
目を細めて、伏せるように。「むかーしに、な、どーしても殺せねぇ野郎がいたのさ。そいつをな、殺しきるために、俺は心を喰らったのさ……」
懐かしそうなその声は、狐の雄たけびにまぎれて消え去った。
虎王丸は白焔を鎧のように身にまとった。
目潰しの効果の余韻で、痛む目を何とか尾に向ける。
――自分が効果的に倒せそうな敵は、「冷気」か。
まるでそれに応えたかのように、「冷気」の尾が虎王丸に向かって凍りつく息を噴き出してきた。
虎王丸は力をこめる。己の焔の鎧に。
ごうっと勢いを増した焔は、冷気を完全に遮断した。
虎王丸は白焔をまとわせた日本刀と、妖気を帯びた赤鞘の妖刀の二刀流で「冷気」に斬りかかった。
一撃では落ちない。冷気は負けじと冷気を発し、今度は虎王丸だけではなく辺り一面に吹雪のような息を噴き出す。
「―――!」
虎王丸は焦って周りを見渡した。
――異形の姿となった千獣が――
その身をていして、他の面々を護り、凍結していた。そしてその凍結は、数秒後にはすぐ溶けた。
「なめたまねしやがって――」
虎王丸は「冷気」の尾をにらみつける。
あと一撃だ。それでしまいだ――
二つの刀が、
ひゅっと交わるような軌道で閃いた。
交わった場所は、「冷気」の尾の切り落とせなかった残り部分――
今度は仕損じない。「冷気」の尾はたしかに斬りおとされた。
尾が、しゅうしゅうと音を立てて消えていく……
虎王丸は、ふうと一息つき、そして意識を切り替えた。次はどの尾へ行くか――
「えっと、じゃああの炎の尻尾に対応でいいかな?」
デュナンはクルスに訊いていた。
「………」
クルスはしばらく返事をしなかった。
「クルス?」
デュナンがもう一度呼びかけると、ようやく我に返ったように、「あ、なに?」と聞き返してくる。
「いや……」
とそこへ、白焔が飛んできた。
「クルース! てめえ、深く考えるなっつったろーが!」
狐の背の上から、虎王丸が怒鳴りつけてきた。
「こいつは精霊の森を踏みにじった! 倒す理由はそれだけで充分だろうが!」
「そうだ!」
上空からグライダーのグランが大声を落としてくる。
「クルス、お前は精霊の森の守護者だろうがっ!!!」
「―――」
クルスは二人の少年に怒鳴られて、何とも言えない顔をした。悲しいのか、嬉しいのか、……泣きたいのか。
その横で、デュナンが行動を開始していた。
「月に住まいし風の王、その翼より全ての風を生みし大鷲、フレースヴェルグ。貴方の子らを護るため、小さき者の呼び声に応え、その力を現し給え」
呪文が終わる。
周囲の空気が変わる。
グランのグライダーがかしいだ。
「おわっと!」
千獣が狐の背にいる全員を護るように抱え込んだ。
ランディムは狐の陰に隠れた。
そして――
現れたのは――
「風の……大鷲?」
デュナンが大鷲に向かって何事か声をかける。
すると大鷲は一声甲高い音を放った。
「炎」の尾が動きを止める。
「ええと、真空の渦で包み込んで――」
「炎」の尾がほとばしらせていた己の炎が、周囲に飛び散らなくなった。
「空気と精霊力双方を遮断して――」
やがて「炎」は己の体のみに降りかかり――
「燃やし尽くす!」
デュナンが宣言した通り、
真空でも消えなかったのは特殊な火のためだったらしい。しかしそれさえも遮断されて、「炎」の尾はやがて、己の炎で焼き尽くされた。
「こんな感じでいいかな?」
デュナンはクルスを見る。
クルスは苦笑して応えた。
「ああ……あの大鷲がドラゴン並に大きくなければ、もっとよかったんだけどね」
目潰しと鋼鉄、カミソリと炎、冷気、雷は消え去った――
「次はどの尾だ……?」
グライダーの上で、グランは様子をうかがった。
風が吹く。「風」の尾がうねり、突風を起こして背中に乗っている数人を吹き飛ばそうとしている。
さいわい、異形となった千獣が全員をかばって飛ばされないようにしているようだが。
そのときふいに、狐が遠吠えをした。
全員の動きが、一瞬止まった。
「――クルスの過去――」
グランは思わずその単語を思い出した。
「っいっけね」
慌てて首を振り、その言葉をかき消す。
クルスの過去となると、自分も気がゆるんでしまう。そんな自分が許せない。
グランはふと、自分の傍らに置いてあった自分の剣を見た。
――これを渡せば、クルスは自分も参戦するのだろうか?
「………」
試してみたいと思った。本当に守護者になりきれているのなら、クルスはそれをするだろう。
でも……
「………」
いや、とグランは思った。
これはクルスのためではない。
自分は、精霊の森のために、全力を尽くすのだ。
――地上では、「粘液」ともうひとつどろりとしたものを出す尾の二本がどろどろどろどろ嫌な色の液体を流しだしていた。
そして「風」の尾が、それを飛び散らかせていた。
千獣が皆をかばって、その体からしゅうしゅうと煙を立てている。
粘液ではないほうは、毒か……?
「なんにしても……一番邪魔なのは、「風」か」
グランはスライジングエアを放った。
しかし「風」には、同じ風属性のスライジングエアが少ししか効かない。
どうしたものかと思案していると――
地上でこちらに手を振っている人間がいることに気づいた。
「………?」
銀髪の青年、ランディム=ロウファ。
彼の口が動いている。
――「風」は任せろ――
そのことに安心して、グランは他の液体二本に意識を集中させた。
「風」であろうがなんだろうが、関係ない魔法も存在する。
「任侠者とはいえ、元魔術士を軽んじると痛い目見るぜ」
ランディムはキューを下ろしていた。
そして何となくクルスの元へと戻ってくると、
「今さらだけど――」
と口を開いた。
「……刺し違えてでも……なんつーのは勘弁だ。騎士のように格好よく死ぬくらいなら無様でも生きるほうを選ぶ」
「………」
クルスが首をかしげる。そんな彼に、
「そして命拾いした上で、護りたいモン護るし帰りたいところに帰る。これが俺のライフスタイルだ。文句あっか」
「キミらしいね」
緑の瞳をした青年は微笑んでそう言った。
ふん、とランディムは鼻を鳴らし、くるりと体の向きを狐へと向ける。
九尾のうち六本の尾を失った狐――
「本体がまったく動かねえな……あの狐もやる気あんだかないんだか」
少しでも動けば、背中に人を乗せることもないだろうに。狐は一切動かない。
だが、そんなことはランディムにはどうでもよかった。
ランディムは手をかかげた。
かかげた手に、魔力が集まってくる。どんどんと大きくなっていくその力――
高々とあげた手に、魔力をこめてランディムはその魔法の名を告げた。
――ブラックホーリー――
「風」の尾に魔力が収束し――
魔法耐性がないらしい「風」の尾はのたうちまわって、
そしてそのまま、魔力に焼き尽くされた。
「混沌に坐す常世之大神……万有に鳴響む天之大神……」
凪の舞が、激しさを増してゆく。
「不変・不朽の天理の元に……謳え、『空薙常世之弦』!」
神呪の終わりとともに、
粘液と毒、二本の尾の周囲の空間がふっと反応し、まるでそこに見えざる弦が現れたかのように――
一撃で、二本の尾は――最後の尾は切り飛ばされた。
「凪、おっせーぞ!」
虎王丸がゲキを飛ばす。
「う、うるさいよ!」
ぜえ、ぜえと肩で息をしている凪の様子は、その舞の威力の高さとその反動の強さを示していた。
「でも――これで終わり――」
しゅううううう……
九尾を失った狐が、どんどんと小さくなっていく。背に乗っていた面々は千獣に抱えられて地上に降りた。
グランがグライダーを着地させ、走ってくる。
クルスとデュナン、ランディムがゆっくり歩み寄る。
狐は小さくなると、やがてぽんっと人間の子供の姿を取った。
――血まみれになった――
クルスは、千獣との約束どおり、千獣からあずかっていた傷薬で狐の怪我の手当てをする。
「ぁあ!?」
虎王丸がくってかかった。「なんっで癒すんだよ! こっちも体張って倒したっつーのによ!」
「まったくあんたってやつぁ、ほんとに……」
ランディムが呆れきった声ではあとため息をつく。
「まあ、想像はついてたけどな」
トゥルースが葉巻を取り出す。
千獣が人間の姿に戻り、服を簡単に着なおして、そっと子供の額に手を当てた。
やがて――
子供が目を、開けた。
千獣が顔をのぞきこむ。
「大丈、夫……? 声、出る……?」
「………」
子供はぷいとそっぽを向く。
「こいつ、今度こそとどめさしてやろうか」
鼻息荒い虎王丸とグランがそれぞれの得物に手をかけようとする。
「待って! 待て、落ち着けってば」
凪が二人を止めた。
アレスディアが鎧装をルーンアームに戻して、子供に迫った。
「……きっと、クルス殿と多くの時間を共にされたのだろうと思う。そして、その時間はとてもとても、大切なものなのだろう」
静かに、しかし怒りを含んだ声音で。
「それを守護者となるために忘れられてしまった。その心の痛みはいかばかりか。私ごときにははかり知れぬ」
「アレス、ディア……?」
千獣が不思議そうに友人の顔を見た。
アレスディアの拳は、ぶるぶると震えていた。
「だがっ!」
アレスディアは怒鳴った。
「その気持ちのぶつけ方が、ぶつける方向が、間違っている! まこと気持ちを伝えたいのはクルス殿だろう! 男なればこのような迂遠な方法は取らず、正々堂々、クルス殿と向き合えぃ!!!」
アレスディアは怒っていた。本気で怒っていた。
子供がびくっと震えた。
「待って、アレス、ディア……」
千獣がアレスディアを押さえた後、優しく優しく子供の額をなでる。
「………」
それを見ていたラエルが、その場に座り込み、子供の頭を持ち上げ、自分の膝に乗せた。
「忘れられた……のだったな」
ラエルは穏やかに囁く。
「忘れられて、寂しかったのか……?」
「………」
子供は目を閉じて、かたくなに返事をしなかった。
千獣がその頬を撫でて、
「……ねぇ……あなたの、したかった、こと……伝え、たかった、ことって……こんな、こと……?……違う、でしょ……?」
額はラエルが撫で、頬を千獣が撫でる。
二人の女性に暖かなぬくもりを与えられ、子供は少しだけ口を開いた。
「エンジュ……」
「あぁ?」
虎王丸がドスのきいた声で聞き返す。
「エンジュが記憶喪失になったのは……僕らのせいだった……」
みなが顔を見合わせる。
ランディムがあくびをしながら、
「ああ……あふ。エンジュってのはクルスの本名ってとこかねぃ……」
クルスがぴくりと反応する。
「エンジュを谷底に突き落としたのは、僕らの一族だった……」
ぽつり、ぽつりと、子供は話しだす。
千獣が何とも言えない顔で子供を見つめる。
「それを謝りにきたのか……?」
ラエルがそっと囁く。
子供は、言葉が止まらなくなったようだった。
「エンジュは僕たち九尾の一族を護っていてくれたんだ。僕たちが人喰い一族だと知っていて護ってくれていたんだ。だから僕たちは人を喰うのをやめた。エンジュのためにやめた……」
だけど――
「人を喰いたいヤツがいた。そいつにはエンジュが餌だった。エンジュはいつもそいつと戦っていた。でも殺さなかった。いつも……」
クルスの視線が泳ぐ。
今、彼が捨てた過去が紡がれようとしている――
「ある日、そいつはエンジュを谷底に突き落とした……僕らが助けにいったとき、エンジュはもう僕らのことを覚えてはいなかった……」
そして記憶喪失の青年は九尾の狐たちの集落を出て、放浪を始めた。
記憶のない人間にとって、自分が九尾の狐たちを護っているだなんて話は到底信じられることではなかったから。
「僕はエンジュをさがしてここにきた」
子供はぼんやりと虚空を見ながら、
「それで……精霊たちに出会って、エンジュがエンジュじゃなくなったことを知った……」
狐は人間ではない。精霊たちと意思の疎通が可能だったのだ。
子供の目の端に、涙が浮かぶ。
「憎かったんだ……エンジュに護られている精霊たちが、憎かったんだ」
だから――
精霊の森を、壊した。
けれど――
それが八つ当たりだということも分かっていたから――
「それがこのやる気のない戦いってわけだ。はぁ〜面倒くせ」
ランディムがしゃがみこんでぼやく。「巻き込まれた俺たちはいい迷惑だぜ」
「そんなこと、言ってあげないでください」
凪が必死にランディムに訴える。ランディムはちらりと一瞬凪を見やっただけだった。
「クルス殿に、何か言うべきことがあるんじゃないのか」
アレスディアが静かに問う。
子供はびくりと震える。
クルスが――
しゃがみこんだ。片膝を地について。
「……キミの名前は?」
「え……」
突然問われて、子供は困惑した表情になる。
「キミの名前は?」
クルスはもう一度尋ねた。
「―――」
言葉を失った子供に、緑の瞳の青年は苦笑して見せた。
「誓約を行った以上、僕は二度と過去を思い出せない。思い出す気もない――それは精霊たちへの裏切りだ。でも今から先の記憶は残る。……キミの名前を覚えるよ」
「エン……」
「クルス、だ!」
グランが声を張り上げた。
「ク……クル、ス」
子供はクルスを見る。
青年は微笑んでいた。
「――ラタ」
子供は小さな声で、そう言った。
聞き逃さずに、クルスは「ラタ」と繰り返した。
「もう忘れない。……ラタ」
子供が傷だらけの手で両目を覆う。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんな……さ……い……」
その隙間から、透明な何かが流れ落ちていった。
**********
精霊の森はいまだ傷ついたままだ――
「復興に時間がかかりそうだ」
クルスはそう言って苦笑いをした。
ラタは一族の元へ帰っていった。――下手に人間に見つかると、その場で処分されてしまう。
虎王丸やグランあたりには不服な判断だったが、ラタには帰る前に一通りの精霊に謝らせて、それだけで許すことになった。
否。精霊を襲わせて、結局死なせた魔物たちへの詫びも含めて――
アレスディアは「まったく、最近の男は」と何だか違う方向に向かって怒りを向けていた。
トゥルースはそれを聞いて、「悪ぃなあ姉ちゃん。俺たちの鍛え方が悪いのかもしれねえ」と笑っていた。
デュナンは「まだトロドロウツボの周辺に立て札を立て足りない……」と焦って姉に相談し、ラエルと二人でとんかんとんかんやりに行った。
凪と虎王丸はいつも通り、冒険者だ。虎王丸はたまに森に来ては、暖炉の精霊グラッガの炎がダメージを受けてないかとしつこくクルスに尋ねていた。
グランは、
「仕方ねえな」
と毎日森にやってきては、復興作業を手伝っている。
千獣は森の復興作業を手伝いながら、ときどきラタの集落に行っているらしい。
そしてランディムは――
「時が来たらあんたのところへ押しかけに入るぜ」
とクルスに言い置いた。
「これでも俺はあんたのことを生意気なヤツだと思ってるし、ある種俺にない何かを見出したことだしさ」
「歓迎するよ」
クルスは笑って、街に帰っていくランディムを見送った。
精霊の森に、穏やかな朝が戻ってくる。
日差しが差し込む森は、静かに穏やかに輝いていた。
―Fin―
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0142/デュナン・グラーシーザ/男/26歳(実年齢36歳)/元軍人・現在何でも屋】
【1070/虎王丸/男/16歳/火炎剣士】
【2303/蒼柳・凪/男/15歳/舞術師】
【2767/ランディム=ロウファ/男/20歳/法術士】
【2919/アレスディア・ヴォルフリート/女/18歳/ルーンアームナイト】
【3087/千獣/女/17歳(実年齢999歳)/獣使い】
【3108/グランディッツ・ソート/男/14歳(実年齢20歳)/鎧騎士】
【3177/山桜 ラエル/女/28歳(実年齢36歳)/刑事】
【3255/トゥルース・トゥース/男/38歳(実年齢999歳/伝道師兼闇狩人】
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■ ライター通信 ■
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ランディム=ロウファ様
いつもありがとうございます、笠城夢斗です。
今シリーズ全参加、本当にありがとうございました。
ランディムさんは唯一、精霊の森の在り方に興味のない一歩さがった立ち位置でいらっしゃったので貴重でした。書くときには緊張しながら書かせていただきました。お気に召すとよいのですが。
よろしければまた、お会いできますよう……
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