<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


【Go WEST!】金魚と銀魚の棲む河



 ■0■

 はじまりの大陸−朔には陽〈ヤン〉と陰〈イン〉の二つの国がある。その陽〈ヤン〉の東のはずれには皖という村があり、少し南西に下ったところに柴桑という小さな町があった。皖から柴桑の間には夾石山という深い谷底に切り立った崖に囲まれた峻険な山がある。
 山には人一人が歩くのが精一杯の桟道があったが、行き交う人は殆どない。
 それは無理して山を越えずとも南東に大きく山を迂回すれば柴桑まで一月あまりで辿りつけるからだ。勿論、この山を何事もなく越えれば1週間とかからない。ただし、何事もなければ、という条件付きだが。
 多くの旅人は敢えて山を迂回する道を選んだ。
 急ぐ用があるか、或いはよほど腕に覚えがあるか、人よりちょっと多い好奇心がなければ、敢えて誰もその山には近づかなかったのだ。

「やめときな。あそこにゃ、とんでもねぇ妖怪が棲んでるって話だ」


 *****


 水を跳ねて、女は大きな河の水面からその岩場にあがった。
 白い透き通るような肢体に豊満な胸を紺の水着で隠して、腰から下はまるで魚のような青銀の鱗で覆い隠した人魚だった。
 鱗と同じ銀色の緩くウェーブのかかった髪を掻きあげて女は妖艶に微笑むと、既に岩場に腰をおとしていた女に楽しげな声をかけた。
「姉さん。久しぶりに、この山に人が登ってくるみたいよ」
 長い睫をわずかに伏せ、その視線は森の向こうを見つめている。
 姉さんと呼ばれた女が、金色の鱗で覆われた下半身で水飛沫をあげると笑って言った。
「あら、素敵じゃない。久しぶりに美酒がいただけそうね」


 名前を呼ばれ返事をした相手を吸い込むという紫金紅酒樽。それに吸い込まれた者は中で溶け美酒に変わると言われていた。






 ■1■

 皖の村には小さな居酒屋ぐらいしか食事の出来る店はなかった。だから、彼らがその場に居合わせたのも、さほど偶然というわけではなかったのかもしれない。
 居酒屋であるにも関わらず、店内には不釣合いな年若の者達が多くあった。とはいえ、その殆どは旅装をしている。
 大きな合席用のテーブルが1つと、普通のテーブル席が2つ、カウンター席が6つしかない居酒屋は、この日幾分賑わっていた。
 店の一番奥の合席テーブルで、黒い髪に銀の目の背中の両翼に2本の剣を刺した女が豪快に飲み干して空になった酒瓶をテーブルの上に置くと、勢いよく立ち上がった。
「行くわよ、ファーちゃん!!」
 有無も言わせぬ物言いで傍らの少女の肩を叩く。
 いきなり叩かれ、隣で食事を取っていた少女――桜・ファーラングは咽たように咳きこんで顔をあげた。呆気に取られた顔でウェルゼ・ビュートの顔を見上げる。
「その前に、妖怪の話をもっと詳しく聞きたいわ」
 同じテーブルで食事をしていた金髪碧眼の娘――ユリアこと、ユリアーノ・ミルベーヌがウェルゼが淡々とした口調でウェルゼの乗り気に水を差す。
 山には妖怪たちが棲んでいるという。そして、その妖怪たちは不思議な酒樽を持っている、というのだ。そんな村人たちの話を途中で遮ってウェルゼは立ち上がったのである。
「酒樽の話だけで充分よ。永遠に空になることのない酒樽。私のために存在しているとしか思えないわ!」
 ウェルゼは満面の笑顔で言った。彼女は終始、酒樽の話しか聞いていなかった。彼女の特殊な耳は興味の対象物しか入ってこないのである。興味の対象物=酒樽。
「永遠に空にならないという事が、どういう事かわかっているの?」
 ユリアは言ったが勿論、そんな事ウェルゼが知るわけがない。わかっているわけでもない。ついでに知りたいとも思ってない。何と言っても、そんな事はぶっちゃけどうでもいいのだから。重要なのは、酒と酒樽。それだけだ。
「だからなに? 私は私のものを取りに行くだけよ」
 ウェルゼは胸を張ってきっぱりと言い切った。私のもの、と。
「…………」
 何の衒いもなく自らの所有権を主張するウェルゼに、ユリアは呆気にとられたように見返すぐらいしかできなかった。
「やっぱりお酒にはおつまみが必要よね。川があるらしいから投網でも用意して……」
 などと、楽しげにウェルゼは傍らに置いてあった誰かの背負い袋を漁り始めた。
「まぁ、この前の毒龍より酷い事もないか」
 溜息を一つ吐き出して、ユリアは皿に残っている最後のパセリを口に運ぶと水で喉の奥へ流し込んだ。よく考えてみれば、落ち着いて考えてみたら、ユリアが彼女に同行する理由はかけらもなければ微塵もない。である以上、ほっておいてもいいはずなのだが、何故かその事に気付けずにいた。或いは桜の身を案じているのか。時に人はそれを“運命”とか“腐れ縁”と呼ぶのかもしれない。
「お酒には焼き魚っと。これ、持ってね」
 ウェルゼが網を取り出し、当たり前のようにユリアに差し出した。
「自分で持ちなさいよ」
「何で私が持たなきゃいけないのよ」
 睨み付けたユリアにウェルゼはきっぱりと答えてみせた。
 一瞬、開いた口の塞ぎ方を忘れかけたユリアが気を取り戻す。
「それはこっちのセリフだわ」
「これだから、小利口な人間は……」
 自分のことはエルザードの城にある棚の上に投げ上げて、ぶつくさと呟きながらウェルゼは店内を見渡した。隣のテーブル席で旅装姿の少年が二人顔をつき合わせて食事をしているのが目に止まる。
 一人は黒髪に黒目の無愛想な感じの少年が辛気臭そうにスープを口に運んでいた。もう一人は、同じく黒髪に黒目だが、目の前の少年とは打って変わって無意味に明るそうで、口に食べ物が残っているのに、一生懸命何事か目の前の少年に話しかけていた。
 勇者がどうの、とユリアには聞こえたが、何の話をしているのかはさっぱりわからない。しかしどうやらウェルゼの特殊な地獄耳には、その内容がしっかり聞き取れていたらしい。でなければ、この後の会話が繋がらないからだ、とユリアは後に思うのであったが、とりあえずは―――。
「そこのぼーや」
 ウェルゼはにこにこしながら、少年たちのテーブルに近づいた。
「俺たち?」
 明るそうな少年が振り返る。
「そうそう」
 ウェルゼは愛想笑いを全開にしてみせた。
「何?」
 無愛想そうな少年が視線だけをちらとウェルゼに向けてぶっきらぼうに聞く。興味もないが声をかけられてしまったので、仕方なく社交辞令的に聞いたといった感じだ。
「これから悪い妖怪を退治しに行くんだけど……」
 ウェルゼはもったいぶったように切り出して、明るそうな少年を見返した。
 酒樽はどうしたのよ、とユリアは内心でだけ突っ込む。
「何だって!?」
 明るそう少年は目を輝かせてウェルゼを見た。
「手伝ってくれるかしら?」
 とびっきりの営業用スマイルで言ったウェルゼに、無愛想そうな少年が面倒くさそうに答える。
「まっぴらご……うぐっ」
 そんな少年の口を塞いで、明るそうな少年が立ち上がった。
「行く! 行く!! それでこそ勇者だもんな」
 少年は興奮気味にまくし立てて拳を握ってみせた。
 明るそう少年。名を芦川光。職業、見習い勇者。勇者になる事を志、勇者になる為に日夜努力している少年である。だからウェルゼは、酒樽ではなく妖怪退治を少年に持ちかけたのだった。
「なっ……おまえ、本気か?」
 無愛想そうな少年。饒剛虎が目を丸くして立ち上がった。職業、賞金稼ぎ、金にならない妖怪退治に興味はない。それは同業者であるユリアもその筈なのだが……それはさておき、光は、まるで当たり前のように言った。
「うん。お前も勿論行くだろ」
「行くわけないだろ。宿、帰るぞ」
 剛虎は話しにもならないといった態で胸のポケットから財布を取り出すと、金をテーブルの上に置いた。
 しかし光は既に全然剛虎の話を聞いていないどころか、見てもいなかった。
「まぁ、見習い勇者? なら、これを持って行きなさい。これは、に・んージャという伝説の勇者が捕縛用に使ったという有難いアイテムなのよ」
 ウェルゼは光に網を差し出しながら嘘八百を並べ立てた。どんなに逆立ちしても小魚を獲るぐらいしか用をなさそうにない投漁網である。しかも、誰かの背負い袋から勝手に失敬した代物だ。
「すげー。俺が持っててもいいのか? わかった。凄い武器なんだな」
 光は目をキラキラさせてそれを受け取った。疑う事を知らないのだろうか、ユリアは真実を教えるべきかそっとしておくべきか、暫く逡巡して後者を選んだ。ウェルゼを相手にするには人身御供が必要なのだ。
「…………」
 それが勿論、に・んージャなどという怪しげな眉唾ものの、伝説のアイテムなどではない事に気付いている剛虎は、光の喜色満面に言葉を失っていた。
「まぁまぁ。お友達の方はたいへん乗り気みたいですよ」
 剛虎の肩を、1人の女が叩いた。まるで元気付けるように。
 青い髪に青い目をした女性だった。額にひし形の青い石が輝いている。おっとりと話す女性――シルフェに剛虎は半ば吐き捨てるように言った。
「別に、友達じゃない」
 その言葉にユリアが振り返る。
 きょとんとした顔でシルフェは剛虎の顔を覗き込んだ。
「そうですの? では、一緒に行かないんですか? 面白そうですのに」
「…………」






 ■2■

 夾石山。
 草木もない切立った岩壁で出来た山の桟道を下って、見上げた山の頂には、うっすら雲がかかり、どこか幻想的な、或いは悠然とした、不思議に趣のある景色が続いていた。
 それが一転して谷の方は、大きく葉を広げた広葉樹が影を映す。木漏れ日が風に吹かれて揺れる山道には数日前まで雨だったのか濡れた新緑が連なる。この大陸にしか咲いていないのか、見た事もないような花咲き、綺麗な羽の蝶が飛んでいた。
 先頭をやる気満々の光と、意気揚々のウェルゼが歩いている。その後ろに、ユリアと桜が続いていた。
 木々の葉に切り取られた青い空を見上げながら、最後尾を歩いていたシルフェは、ふと思い出したように隣を歩く剛虎に言った。
「やっぱり饒様はお友達が気になるんですのね、うふふ」
「…………」
 剛虎は友達じゃないと否定するのも面倒になったのか、じろりと嫌そうな一瞥をくれただけで、無言でそれをやり過ごすと黙々と山道を歩いた。
 木々の合間を抜けると、程なくして幅20mほどの川に突き当たる。流れは穏やかであったが、せせらぎは少し前から聞こえていた。
 長い金色の柔らかそうな髪をした女と、同じく銀色の髪をした女が岩場に腰を下ろしている。腰から下はそれぞれ髪と同じ、金と銀の鱗を纏い魚の姿をしているから、いずれマーメイドと呼ばれるものだと思われた。
 妖怪と呼ぶには違和感を感じる。けれどウェルゼは見逃さなかった。人魚の傍らに置かれた朱塗りの酒樽。あれこそは紫金紅酒樽に違いあるまい。
「旅の方?」
 一行に気付いて銀色の人魚が声をかけた。
「酒樽!!」
 興味の対象物しか映さないウェルゼの特殊な瞳には、最早人魚の姿は映っていない。
 ふらふらと、誘われるように酒樽に向かって歩き出すウェルゼに、ユリアはこめかみを押さえた。
「この川を越えたくば、名を名乗られよ」
 金色の人魚が厳かに言った。突然言われて光が面食らう。
「え? 名前? 俺は芦……」
 名乗ろうとする光の後頭部を剛虎は慌てて後ろから殴り飛ばした。
「バカ!!」
 振り返った光に、お前は居酒屋で何を聞いてたんだ、と睨みつける。
 光は頭をさすりながら人魚たちを見やって真面目腐った顔で言った。
「……芦馬鹿だ」
 どうやら偽名のつもりらしい。
「…………」
 冷たい沈黙が辺りを包み込んだ。
 そこへシルフェが進み出る。
「人に名前を尋ねる時は礼儀正しく自分から名乗るものですよ」
 場を明るくするため、というわけでもないのだろうが、シルフェがにこやかに言った。
「それも道理」
 銀色の人魚が頷いた。
「我は金魚」
 金色の人魚があでやかに笑って言った。
「我は銀魚」
 銀色の人魚がつややかに笑って言った。
「要するにそのままなのね」
 ユリアは溜息まじりに呟いた。
「金魚さまと銀魚さまですね。私はシルフェと申します」
 シルフェは何のためらいもなく名乗った。どうやら彼女が村人たちの話をあまり聞いていなかったらしい。それとも知っててやっているのだろうか。だとしたら侮れない。
「シルフェさん」
 金魚が呼びかける。いつの間にか酒樽の蓋が開いていた。
「はぁい」
 シルフェは元気よく返事をした。呼ばれたら返事は基本である。
 万事おっとりしており、人よりワンテンポずれた彼女を、しかし誰も止める事ができなかった。皆、まさか返事をするとは思っていなかったのである。
 刹那、ぶれるように、或いは空気に溶けるようにシルフェの体がくずれた。
「!?」
 一部を除いた者達が目を見開いた。
 とうの本人はなんとものんびりした口調で、のんびりと呟いた。
「まぁ?」
 その声は、その体と共に酒樽の中へ吸い込まれる。
「…………」
 金魚が酒樽の蓋を閉じた。
「他の皆さんは何と仰るの?」
 金魚が尋ねたが、今の光景を見て、さすがに即座に答える者はない。
 するとウェルゼが進み出た。
「中に人が入ったら中のお酒はどうなるの?」
 彼女にとっては、それが最重要項目であったらしい。
「美味しくなるのよ」
 金魚が答えた。
「まさか……」
 ユリアの脳裏を一つの嫌な予感が過ぎっていく。ウェルゼとは長くもなく短い……付き合いというほどのつの字もしていないが、彼女がお宝をこよなく愛し、同じくらい酒に目ざとい性質である事は、この上もなくよく知っていたのだ。
「その酒、是非、頂きたいわ」
 そう言ったウェルゼに、ユリアはこめかみを押さえた。
「やっぱり……」
 こうなっては、彼女は敵も同じである。
 どうせなら、自ら進んで名前を呼ばれて、酒樽の中に入り、中の酒を全部飲み干して、上機嫌で出てくるくらいの気概を見せて欲しかったが。ユリアは内心で舌打ちする。
「まぁ、では、皆さんの名前を教えてくださる?」
 尋ねた金魚に、ウェルゼは何のためらいもなく答えてみせた。
「右から、芦川光くん。饒剛虎くん。ユリアーノ・ベルメールちゃん。桜ファーラングちゃん」
「…………」
 ユリアは視線を泳がせた。名前を知られてしまった以上は、後は返事をしないだけだが。
「芦川光くん」
 金魚が呼んだ。
「返事するなよ」
 剛虎が声をかける。
「お、おう」
 光は頷いた。
「饒くんたら、いじわるー」
 ウェルゼが頬を膨らませてみせる。
「…………」
「まぁ、急ぐ必要もないわね。少しお話でもしましょうか」
 そう言って金魚は、世間話でも始めるように全く脈絡もない話を始めた。
「あなたはチョコレートはお好きかしら、芦川光くん?」
「え? ああ、うん。好き……え?」
 その瞬間、シルフェの時と動揺に光の体がぶれた。
「バカッ!!」
 咄嗟に剛虎が腕を掴もうとする。
「ダメだよ!!」
 光は慌てて剛虎の手を振り払った。彼も一緒に酒樽の中へ吸い込むわけにはいかない、と思ったらしい。
「お…おい……」
 あまり感情を表さない面が動揺に歪む。
「信じてるから」
 光は満面の笑顔で言ってみせた。
「バカッ……芦川ぁぁぁ!!」
 伸ばした手が空を掻く。剛虎の絶叫にも似た声が届いただろうか、光の体もまたシルフェ同様に酒樽の中へと吸い込まれて消えた。
「あらあら。あなたも一緒に入ったら? 饒剛虎くん」
 ちゃっかり酒樽を確保するように立って、その手には蓋をしっかり握りウェルゼが言った。
「挑発に乗っちゃダメよ」
 ユリアが声をかけたが、剛虎は、そもそもウェルゼの声も聞いていなかったらしい。
 普段より2オクターブは下がった低い声で剛虎が言った。
「……俺の…友達を返せ」
 地を這いそうな声音である。白虎掌・フェンデレ=フィーロの右手が掲げられた。
「ちょっ……!!」
 ユリアは咄嗟に止めに入ろうとしたが、剛虎の視界に全く自分がいない事に気付いて留まった。怒りに頭に血を昇らせ、既に冷静さを欠いている。それでも尚、彼は今にも飛び掛らん体勢でありながら、ぎりぎりのところで踏みとどまっているのだ。恐らくは幼少の頃、何かしらの戦闘訓練を受けていたのだろうと思われた。体がそれを覚えているのだ。
 籠手に仕込まれた鉄線を引き出す剛虎に、ウェルゼは酒樽に頬杖をつきながら肩を竦めてみせた。
「熱いなぁ、少年。ねぇ、ユリアちゃん」
 お気楽な声をかける。
 剛虎に気を取られていたユリアが「何よっ?」と、振り返った。
 ウェルゼは酒樽の蓋を持っている。酒樽の蓋は開きっぱなしだ。
「え?」
「あら、フルネームじゃなくてもいいんだ」
 予想外のことにウェルゼは少しだけ目を丸くした。
 実は名前などなんでもよかったらしい。声をかけ返事をしたら吸い込む酒樽だった。しかし、それでは警戒されてしまうため、人魚達は敢えて名前をフルネームで呼んでいたのである。そうして、フルネームではないといけないと思いこませ、警戒心の強い相手の油断を誘うのである。
「くっ。あなたも一緒にいらっしゃい」
 ユリアは酒樽に吸い込まれる直前、咄嗟に銀魚に抱きついた。今までの二人は体だけが身一つで吸い込まれたわけではない。所持していた剣なども一緒に吸い込まれている。ならば、こういうのは有効に違いない、と思ったのだ。
「銀魚!?」
 金魚が驚いたように腰を浮かせた。
 だが銀魚の体はユリアと共に酒樽の中へ飲み込まれた後だった。
「…………」
「お前も、最初からこいつらの仲間だったのか」
 ユリアを吸い込ませたウェルゼに、剛虎が言った。相変わらず地獄の底から響いてきそうな声音である。
 しかしウェルゼはそれに臆した風もなく、あっけらかんと答えた。
「違うわよぉ。人魚たちを油断させようと思っただけじゃなーい。私はいつだってどんな時だって、お・た・か・ら・優先!」
 酒樽を大事そうに抱え込んでウェルゼが笑った。今にも頬擦りしそうな勢いである。いや、実際、頬ずりしていた。
「…………」
「敵を欺くには、まず味方からって言うでしょー」
 けらけらと笑って、手を振る。
「……親友を返せ」
 剛虎が地を蹴った。それが、酒樽を狙っていると気付いてウェルゼは慌てて止めに入る。
「壊さないで出す方法があるはずよ。ね、金魚ちゃん」
「…………」






 ■3■

 一方、酒樽の中である。
「あらまぁ、困りました。びしょ濡れです」
 シルフェはスカートの裾を持ち上げながらのんびりと独りごちた。酒樽の中に吸い込まれたというのに慌てた風もなければ動じた風も無い。おっとりしているが故なのか、今の自分の置かれている状況を今一つ把握出来ていないのか、自分に自信があるのか。彼女はゆっくりと辺りを見渡した。底には膝下まで液体がある。それを酒だと断定できなかったのは、アルコールの匂いを感じなかったからだ。酒樽に謎の液体。永遠に空にならない酒樽。
 掴んだスカートの裾がほんの少し糸がほつれたようになっていた。それが液体により溶かされた結果だと彼女が気付くのは……結果として永遠になかったが。
 辺りは白一色の世界だった。その液体が無色であるなら、酒樽の中は真っ白に塗装されている、という事だろうか。
 中を探検してみようと歩き出したシルフェだったが、一人ではつまらない。
「うふふ。皆さんも呼んでみましょう」
 どうやら今の状況からかんがみるに、名前を呼ばれ返事をしたらこの中に吸い込まれてしまうようなのである。シルフェはさっそく上に向かって声をかけた。
「芦川光さまぁ。芦川光さまぁ」
 ここで、彼女が彼を呼んだことに別段他意があるわけではない。もしそこに、強いて理由をあげるとするなら、一番返事をしそうだと思ったから、といったところだろうか。
 しかし、いくら待ってみても返事もなければ、外の音すら聞こえてこなかった。
 どうやら防音効果は抜群と判明する。蓋が開かなければ外には聞こえないのだろう。
 シルフェは酒樽の壁を叩いてみることにした。酒樽の壁へと歩きだす。
 しかしその足は程無くして止まってしまった。それは中が狭いから、とかそういう理由ではない。むしろその逆だ。歩いても歩いても、あるのは白い世界で、壁に近づいている感じが全くしなかったからである。
 その上、ちっとも楽しい事が起こりそうにもない。まるで遊びに飽きたような顔でシルフェは呟いた。
「まずはここから出ませんと……」
 こんなところに一人でいつまでも居ても楽しくない。
 シルフェはわずかに首を傾げて上を見上げると、誰とはなし確認するように呟いた。
「酒樽の中ですよね」
 いたずらを思いついたような笑顔でシルフェはペンダントを掲げてみせる。
「上に出口があるなら海皇玉で水を出してあふれさせてみましょう、うふふ」
 そして蓋までたどり着いたら、水圧で強引に開けて皆の名前を呼べばいい。
 そんな事を考えながら、水を出そうとしたら、白い頭上にぽっかり黒い孔が出来て、突然それが落ちてきた。
「あらあら、まぁ」
「ってーーーーっっ」
 落ちてきたのは光である。どうやら、一番返事をしそうだと思ったのは間違いではなかったようだ。
「うふふ」
 シルフェは満足げな笑みを浮かべてペンダントから手を離した。
 光は腰から下を謎の液体に浸しながら、うった腰を片手でさすり、もう片方の手で上体を起こした。
 それからシルフェを見つけて指を差す。
「あ、おまえは!」
 それに眉を寄せ、光の指を押しやり「人を指差しては勇者になんてなれませんよ」と諭しながらシルフェは彼の額に手を伸ばした。まるで熱でもはかるような仕草だ。だがそうではない。彼女は水操師であり、癒しを司る者であるのだ。
「大丈夫ですか?」
 尋ねたシルフェに、痛みがひいていくのを感じながら光は頷いた。
「う…うん。……ここは?」
 変な液体を両手で掬いながら立ち上がった光が尋ねた。
「酒樽の中だと思いますよ」
「あ、そっか。そうだよな。よし」
 光がぐっと拳を握る。
「はい。ですので、まずはここから出ませんと」
「うん」
「何か出る方法を思いつきませんか?」
 尋ねたシルフェに光は考える素振りもなく自信満々に言ってのけた。
「大丈夫。すぐに剛虎が助けてくれるから」
 どうやら彼は自分で何とかしようとは考えないタイプらしい。他力本願というやつか。明確な敵が目の前にいれば、彼なりに奮闘するのだろうが――実際の成果はともかくとして、ついでに彼の戦闘能力も別にして――掴まったら大人しく助けを待つというのが彼のスタンスらしかった。
「…………」
「だから、それまで待ってればいいよ」
 何故か自信満々に言ってのける光に、シルフェは暫しのんびりと考えた。
 彼が友達と言っていた少年は居酒屋で、友達じゃない、と断言していた事を思い出す。それでも、なんだかんだと付いてきていたのだから、多少彼の事は気にしているのかもしれないが、そろそろ愛想を付かされていてもおかしくない、かもしれない。何と言っても、芦馬鹿だ。きっとここへも、くだらない事で返事をしたに違いない。
 となっては、頼れる者は自分しかいないだろう。
 シルフェの頬が何故だか無意識に緩んだ。
「光さまは泳げます?」
「え? ……なんで?」
 首を傾げる光に、シルフェが答える。
「ここを水で満たそうと思いますの」
「は?」
 言うが早いか、シルフェは光の返事も待たずにペンダントを掲げてみせた。海皇玉から水が溢れ出す。
「うわぁぁぁ〜げぼごぼげぼ……」
 大量に吐き出される水に光は背負っていた聖獣装具の大剣を手放す事も出来ず、その重さに底へと沈んでいく。
「あらあら、まぁまぁ」
 困ったような微笑を浮かべて、シルフェは水面に顔を出すと、沈んでいく光を見やった。
 しかしほどなくして水はゆっくり引いていった。
「あら?」
 水面が膝下に戻ってしまったのに、シルフェは首を傾げた。
 水を大量に飲んでしまったらしい光が、ごほごほとむせ返りながらも何とか息を整え、シルフェに怒鳴りかかる。
「おまえ、俺を殺す気か!?」
 しかしシルフェはそれどころではない。
「……まぁ……」
 何故、溢れさせた水が消えてしまったのか。シルフェは不思議そうに首を傾げて、ペンダントと周囲を交互に見返した。
 しかしじっくり考える暇もなく、再び頭上に黒い孔が出来、ユリアが銀魚を抱えて落ちてきた。
 銀魚を手放し軽やかに着地してみせたユリアは、辺りを見渡している。
「……ここは」
「酒樽の中だ」
 光が答えたが、ユリアは納得のいかない顔で足元の液体を指で掬っていた。
「違うんじゃないかしら……」
 呟くユリアに光が目を丸くする。
「えぇ!? じゃぁ、まさか、あの世!? 俺たちもう、死んでるのか!?」
「落ち着きなさい、縁起でもない。まず第一にあの酒樽の大きさから見て、私たちがこんな風に立ってられるのも、そもそも3人も入っているのもおかしいと思わないの?」
「……それは、俺たちが小さくなったから……」
「確かにそれも考えた。でも、小さくなったとして、酒樽の壁が見えないわ。一体、どれだけ小さくされたんだか」
「…………」
 ここがもし酒樽の中なら、周囲を囲む壁があるはずだが、遠くまで白い世界が続いているように見えた。実際、歩いても壁が近づいてくる感じがしなかったシルフェである。壁も液体も全てが白く見えるが故に目の錯覚だったのかもしれないが。余程小さくされた、と考えるよりも、別の場所と考えるべきなのだろうか。
 それに、とユリアは続けた。
「ここが酒樽の中なら明るすぎるわ」
 確かに、蓋を閉じられた酒樽の中がこんなにも明るいわけもないだろう。いや、明るいというのには多少の語弊がある。影が出来ないという事は光がないという事ではないのか。白い闇が辺りを覆い隠しているような。
 けれど互いの姿ははっきり見える。
「あ……」
「つまりここは異空間と考えるのが妥当じゃないかしら。酒樽はその入口ってとこかしら。ね、銀魚さん」
 ユリアは傍らの銀魚を見やった。
「まあ、異空間……。それで水を大量に出しても溢れなかったのかしら」
 シルフェは辺りを見渡しながら呟いた。
 勿論、空間にも限りがあるだろうから、出し続ければいつかは溢れるのかもしれないが。天井まで満たして、果たして出口にたどり着けるものなのだろうか。
「すげぇ、さすがお姉さん。で、ここからどうやって出るんだ?」
 光は目を輝かせて尊敬の眼差しでユリアを見た。ユリアが一番的確に状況を捉えているのは確かだったろう。
 ユリアは腕を組んで銀魚に言った。
「教えてくれるわよね、銀魚さん。あなたも出なければ、溶けてお酒になるしかないんだから」
 そして酒になったらウェルゼに飲まれるのだ。ユリアは嫌な想像に苦々しく奥歯を噛み締めた。
「……まさか。教えるわけないでしょう。どうして私まで酒になると思うの? ここは私が作った世界なのに」
 銀魚が嗤った。
 嗤って手を掲げると、底の液体がゆっくりと持ち上がり小さなゲル状の水柱を作った。
「!?」
 ユリアは咄嗟に銃を構える。
「私を殺せば永久にここから出られなくなるわよ」
 言った銀魚に、ユリアは無意識に息を呑む。二人の間に一触即発的な空気が生まれた。
 しかしそんな空気を全く無視して、シルフェが何やら期待感に胸を膨らませて、おっとりと尋ねた。
「うふふ。海水を出してもいいかしら」
 人魚は川に棲んでいたのだ。きっと淡水魚に違いない。ならば、海水は苦手かもしれないと思ったのである。
 しかし、人魚が答える前に光が口を挟んだ。
「……それはちょっと勘弁して欲しいな……」
 泳げないわけではなかったが、それでなくても服を着ての泳ぎは大変なのに、その上彼には自分の体くらいもある剣があったのだ。確実に沈める。カナヅチくらいには沈める。
「何をいくら出しても、この世界は満たされないわ」
 銀魚は冷たく言い放った。
 確かに、先ほどの結果から溢れる事はないだろう。それでも、一時、海水に沈める事が出来れば、シルフェ的には満足でもあったのだが。
 銀魚は更に続けた。
「すぐに仲間達もここへ呼んであげる。そしてこの世界の糧となるがいい」
 そう言って両手を掲げ、ゲル状の水柱の上に座る銀魚が、ゆっくりと上昇を開始する。その前にユリアは拳銃の照準を銀魚の額にピタリと合わせて進み出た。
「お姉さん?」
 光が声をかける。
「この世界を作ったのがあなたなら、あなたを壊せばこの世界は壊れるんじゃないの?」
 ユリアが笑って言った。
「…………」



 *****



「酒樽が?」
 その異変に最初に気付いたのは桜だった。
 ウェルゼと金魚と剛虎は3人で互いに牽制しながら戦闘中であったから、それどころではなかったのである。
 桜の呟きを耳ざとく聞きつけたウェルゼが、2者を振り切って酒樽を振り返った。
 朱塗りの酒樽が見る見る内に色あせていく。
 ウェルゼは一気に跳躍すると、それにしがみついた。
「いやーん。私の酒樽がー。ちょっと何やってるのよ。まさか中から壊す気じゃないでしょうねぇ!?」
 ばんばんと叩きながら酒樽の中に向かって声をかけ、蓋を開けて中を覗く。中は真っ暗でよく見えない。
 慌てるウェルゼに、金魚も異変に気付いて目を見開いた。
「銀魚!?」
 酒樽を奪い返そうと突進してくる金魚に、ウェルゼとて、お宝をそう易々と返すわけもない。
 両翼のブレードを抜き放って飛翔した。お宝もお酒も死守。そんな顔付きだ。ベルトポーチに手を伸ばし生け捕り用に用意した網を探したが、ほどなく光に持たせていた事を思い出して、ウェルゼは舌打ちしながらブレードを一閃した。
 金魚が邪魔をされていきり立つ。
「おのれ、よくもぉぉぉ!!」
 金魚の憤怒の形相が更に歪んだ。と思う間もなく下半身に纏っていた金の鱗が剥がれ落ち、二つの胸は潰れ、両手はその胴体へと吸い込まれていった。体長約八m。龍にも見えたが鱗もなければ髭もない。四肢も持たぬそれは大蛇にも見えた。この地方では蛟(こう)と呼ばれる龍の仲間だ。但し、時に洪水を引き起こすそれは、人を水中に引きずりこんでは溺れさせ、人の血を啜るとんでもない化け物である。
「これが人魚の正体か……」
 剛虎はどこで入手したのかシリカゲルを投げつけた。それは干上がるほどの効果は示さなかったが、わずかに動きを止めるくらいの役には立ったらしい。彼の右手が弧を描く。鉄線が走った。
 金魚が投げてくる水のつぶてを軽やかにかわして、鉄線は水をも切り裂いていった。
 丁度同じ頃、酒樽に小さな穴が穿たれた。そこからひびがはいり酒樽が砕けた。
 剛虎の鉄線は金魚の巨体を捕らえた瞬間、それを切り裂いて。
「ちょっ……どうしてくれんのよ! 私のお宝〜! お酒〜!!」
 ウェルゼが吼える。それに金魚の断末魔の叫びが重なった。
 闇雲に暴れだした金魚の巨体が、やがて力尽きたのだろう川を両断するようにずしんと大きな音をたてて倒れた。
 水飛沫が高くあがる。
 壊れた酒樽から生還した光とユリアとシルフェがその向こうに立っていた。
「剛虎!!」
 光が水飛沫を掻き分けて駆けて来る。思いのほか元気そうな彼の姿に剛虎はホッとして、ホッとしている自分に気付いてムッとして、嫌そうにそっぽを向いた。
「へへ。友達を返せって?」
 光が笑う。
「言ってない」
 剛虎はそっぽを向いたまま言った。
「言ってたわよ」
 ユリアが笑う。
「言うわけないだろ!!」
「へへ」
「……だから、言ってないっつってんだろ」
「うん」
「…………」
 そんな二人にユリアはやれやれと肩を竦めてそちらを振り返った。
 そこではウェルゼが、壊れた酒樽の破片をかき集めている。
「繋ぎ合わせたら、元に戻るかしら」
 恐らくは、空にならないからくりは銀魚が作り出していたものだから、酒樽が元に戻ったとしても無理だろう。しかし、それをわざわざ教えてあげる必要も感じられなくて、ユリアは復元された酒樽を前に意気消沈しているウェルゼを想像して楽しそうに目を細めただけであった。
 勿論、実際に復元されて、酒が出てこなかったら、彼女は意気消沈するどころか咆哮搏撃するに違いないのだが。
「これ、乾かしたら薪に使えますかしら、うふふ」
 ウェルゼがかき集めた酒樽の破片を取りあげてシルフェが笑った。
「お〜た〜か〜ら〜!!」
 森に、ウェルゼの声が響き渡ったのだった。






 ■大団円■



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┃登┃場┃人┃物┃紹┃介┃
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【整理番号/PC名/性別/(外見)年齢/種族/職業】

【0509/ウェルゼ・ビュート/女/24/魔利人(まりと)/門番】
【3326/饒・剛虎/男/15/人間/賞金稼ぎ】
【3188/ユリアーノ・ミルベーヌ/女/18/人間/賞金稼ぎ】
【2994/シルフェ/女/17/エレメンタリス/水操師】
【3406/芦川・光/男/15/人間/冒険者】

【NPC0046/シオウ<桜>ファーラング/男/16/ハーフエルフ/シーフ】

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┃ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 ありがとうございました、斎藤晃です。
 楽しんでいただけていれば幸いです。
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