<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>
【Go WEST!】金魚と銀魚の棲む河
■0■
はじまりの大陸−朔には陽〈ヤン〉と陰〈イン〉の二つの国がある。その陽〈ヤン〉の東のはずれには皖という村があり、少し南西に下ったところに柴桑という小さな町があった。皖から柴桑の間には夾石山という深い谷底に切り立った崖に囲まれた峻険な山がある。
山には人一人が歩くのが精一杯の桟道があったが、行き交う人は殆どない。
それは無理して山を越えずとも南東に大きく山を迂回すれば柴桑まで一月あまりで辿りつけるからだ。勿論、この山を何事もなく越えれば1週間とかからない。ただし、何事もなければ、という条件付きだが。
多くの旅人は敢えて山を迂回する道を選んだ。
急ぐ用があるか、或いはよほど腕に覚えがあるか、人よりちょっと多い好奇心がなければ、敢えて誰もその山には近づかなかったのだ。
「やめときな。あそこにゃ、とんでもねぇ妖怪が棲んでるって話だ」
*****
水を跳ねて、女は大きな河の水面からその岩場にあがった。
白い透き通るような肢体に豊満な胸を紺の水着で隠して、腰から下はまるで魚のような青銀の鱗で覆い隠した人魚だった。
鱗と同じ銀色の緩くウェーブのかかった髪を掻きあげて女は妖艶に微笑むと、既に岩場に腰をおとしていた女に楽しげな声をかけた。
「姉さん。久しぶりに、この山に人が登ってくるみたいよ」
長い睫をわずかに伏せ、その視線は森の向こうを見つめている。
姉さんと呼ばれた女が、金色の鱗で覆われた下半身で水飛沫をあげると笑って言った。
「あら、素敵じゃない。久しぶりに美酒がいただけそうね」
■1■
夾石山。
草木もない切立った岩壁で出来た山の桟道を下って、見上げた山の頂には、うっすら雲がかかり、どこか幻想的な、或いは悠然とした、不思議に趣のある景色が続いていた。
それが一転して谷の方は、大きく葉を広げた広葉樹が足下に影を落とす。木漏れ日が風に吹かれて揺れる山道には、数日前まで雨だったのか濡れた新緑が連なっていた。
目に映るものが真新しく見えてリラは夢中になってしまう。この大陸にしか咲いていないのか、今までに見た事もない花を見つけて愛でていると、綺麗な羽の蝶が一匹、そこから飛び立った。それを追いかけるようにして、木々の葉に切り取られた青い空を見上げ歩く内に、気付いたら誰もいなくなっていた。
どうやら天性の方向音痴をフルに発揮してしまったらしい。
リラ・サファトは明るい紫のライラックの花のような髪を揺らして辺りを見渡した。しかし髪と同じライラックの瞳に映るのは森の木々ばかりだ。
「……また、迷子になっちゃったみたいです」
困ったように呟いて、リラは溜息を吐いた。
木の根元に腰掛ける。小休止というよりも、変に歩いて皆と行き違ったり、もっと酷い迷子になっても困ると思ったからだ。
しかし、近くで水の跳ねる音が聞こえて、川のせせらぎに喉の渇きを覚えたわけでもなかったが、気がつくと低木を掻き分けていた。どうやら好奇心には勝てなかったようである。
そこに大きな川が流れていた。
長い銀色の柔らかそうな髪をした女が川の中州のようになっている岩場に腰を下ろしている。腰から下は髪と同じ銀色の鱗に覆われた魚の姿をしているから、マーメイドと呼ばれるものだと思われた。
興味津々で視線が釘付けになる。
人魚の傍らに、朱塗りの変わった酒樽があった。
人魚がリラに気付いて柔らかい笑みを向ける。
「あら、お嬢さん。この森に迷われたのかしら?」
「あ…はい。……皆さんとはぐれてしまいました。……でもきっと、皆さん探してくださっていると思います」
リラも笑みを返す。
それに人魚は「そう」と頷いて、少し考える風に視線を彷徨わせた。それから。
「この森を抜けるにはこの川を渡らないといけないから、ここでお待ちになったら?」
人魚が提案する。
「そうなのですか。……では、そうします」
そう言って、リラは川縁に腰をおろした。
「あなた、お名前は?」
人魚が尋ねる。
「リラ・サファトです。初めまして。…人魚さん綺麗な方なのです」
「そう?」
「はい」
「そちらのお名前は何と仰るのですか?」
尋ねたリラに、しかし人魚は答えるでもなく柔らかい笑みを湛えただけだった。
「リラ・サファトさん」
「はい」
刹那、ふと体が軽くなったような気がして、リラは驚いたように目を見開いた。
「……え?」
人魚の顔がすぐ傍にあった。それさえも束の間。何かに引かれるようにその体は、朱塗りの酒樽の中に吸い込まれたのだった。
*****
雨露がはねて濡らす頬を手の甲で拭って、藤野羽月は呼吸を整えるように息を吐くと、誰もいない草わらに声をかけた。
「見つかりましたか?」
すると低木の影から音もなく一人の男が顔を出した。羽月と同じ黒髪だが、羽月が碧眼なのに対し、こちらは漆黒の目をしている。モスグリーンのライフジャケットも、羽月が着ている和服とは対照的だった。しかし彼らは親友同士である。
羽月の問いに、倉梯葵は首を横に振った。
「いや、こっちにはいないようだ」
それに羽月が小さく溜息を吐き出したのを、葵は見逃さなかった。彼自身、同じ溜息を吐き出していたからだ。
葉擦れの音に二人はわずかな期待をこめて、そちらを振り返った。反対側の茂みから神父が顔を出す。
赤い目を細め、眉間に皺を作った険しい顔で、神父であり羽月の悪友でもある高遠聖は、二人の視線に首を横へ振った。
「こちらにもいません」
「一体どこに……」
大量の息と共に吐き出して、羽月は空を仰いだ。まだ太陽は中天を過ぎたばかりだろうか。日が暮れる前に何としても見つけなくては。
それは本当に一瞬。一瞬の事だったのだ。山道を少し休んだ木陰で、木の実か何かにほんの一瞬、気を取られている間に彼女は姿を消していた。
彼女の方向感覚からいって、自力でこの場所へ戻ってくる確率は低い。探そうと下手に動き回らず、一箇所に留まってくれていればいいのだが。
「この森には妙な噂がある」
葵が何事か思い出したように呟いた。
「噂?」
初耳、といった顔で聖が葵を振り返る。
葵はあまり想像したくもないといった態で嫌そうに話した。
「山には妖怪が棲んでるって話だ」
その噂は羽月も耳にした。皖の村を出て、少し山に入ったところで出会った隊商が、そんなような話をしていた。
名前を呼ばれ返事をした相手を吸い込むという紫金紅酒樽。それに吸い込まれた者は中で溶け美酒に変わるという。
嘘か真か。危険を伴うかもしれないし、引き返して迂回路を、とも考えたが、彼女がこの峡谷の景色に目を輝かせていたのも手伝って、結局、自分が彼女を守ればいいと思って、こちらのルートを選んだのである。
要点だけをまとめて話した葵に聖が眉を顰める。
「それは心配ですね、急ぎましょう……おや?」
鈴の音がしたような気がして、聖はそちらを覗いた。二人もそちらに視線を移す。
茶色に虎縞の猫が潅木の間から顔を出した。首に鈴をぶら下げている。彼女の飼い猫であり、彼女が行方を不明する直前まで膝に抱いていた猫だった。
「茶虎さん。リラさんがどこに行ったかご存知ありませんか?」
羽月が声をかけると茶虎は羽月たちとは逆の方へと走り出した。
「こっちのようですよ」
「行きましょう」
■2■
茶虎について木々の合間を抜けると、程なくして幅20mほどの川に突き当たった。流れは穏やかであったが、せせらぎは少し前から聞こえていた。
川の袂で羽月が茶虎を抱き上げると、どこかねばついた女の声が彼らの元へ届いた。
「まぁ、いい男が三人も」
不快げに顔をあげた羽月が呟く。
「人魚?」
上半身が人で、下半身が魚。金色と銀色の二人――それとも二匹と呼ぶべきか――いる。
金色の人魚の方が楽しげに肩を揺すった。
「くすっ」
「おい……」
葵が羽月の肩を掴む。羽月は頷いた。
「えぇ」
妖怪と言っていたが、この人魚がそれなのだろう。彼女らの傍らには朱塗りの酒樽があった。あれが噂の紫金紅酒樽。
「遊ばない?」
金色の人魚が言った。
「無視して通りましょう。今は彼女の方が心配です」
そう言って、羽月は人魚たちに背を向けると、川を渡るための橋を探した。深さはわからなかったが、いずれ人魚が棲まうほどの深さに違いない。
「あら、つれないのね。ここを通るには名前が必要なのよ」
川を渡る手段をさがしている3人に銀色の人魚が言った。
「なんだと?」
「教えてくださらない?」
「人に名を尋ねる時は自分が名乗るのが礼儀だろう」
葵が人魚たちを睨みつける。
「あら、確かにそうね。ふふ。私は金魚よ」
金色の人魚が言った。それが偽名かどうかなど、こちらには判別できない。だからこそ、こちらも本当の名前を教えてやる義理もない。
「俺は倉木だ」
葵はシレッと答えた。そして、さっさと立ち去ろうとする。
「倉木さん」
金魚が呼んだ。
「…………」
葵は視線だけを人魚に投げて、すぐにはずす。
「あら、やっぱりつれない方ね。先ほどのリラ……そうそう、リラ・サファトさんといったかしら。彼女は元気よく返事してくださったのに」
金魚が残念そうに言った。
その名前に三人の動きが止まる。
「!?」
「な……に……?」
「リラが……」
三人はそれぞれに息を呑んだ。彼女らが鎌をかけたり、冗談で言ってるわけではない事は容易に想像がつく。何よりも人魚達は彼女の名前を知っているのだ。
「まさか、リラをどこへやった!?」
葵は反射的に胸の自動小銃に手が伸びる。ジャケットの中でストックを握り締めた。血の気がゆっくりと引いていくのを感じる。傍らでは、いつの間に茶虎をおろしたのか、羽月が刀の柄を握っていた。
「迷子のお嬢さんに道案内を、ね」
金魚が銀魚を振り返る。
「あの世とやらまで」
銀魚が嗤った。
「貴様っ!?」
そう声をあげるのが精一杯の葵に、銃を抜くと思ったのかもしれない聖が、手を伸ばして制した。いや、彼が止めたのは葵ではなく、羽月の方か。
「待って!! 彼女たちの言葉に惑わされてはいけません」
葵と羽月が聖を見やる。聖はそちらに視線を送っていた。
聖の視線を辿るように葵と羽月もそれを見る。
「酒樽です」
「あら、知ってたの。ふふふ。まだ溶けてはいないでしょう。声を聞かせてあげたら、銀魚」
「はぁ〜い、お姉さま」
銀魚が酒樽の蓋を開けた。
「とらちゃん……とらちゃん……」
中から聞き知った声が聞こえてくる。
「リラさん!?」
殆ど反射的に羽月は抜刀していた。その腕を掴んで聖が止める。
「……待ってください」
「何故、止めるんです」
今にも切りかからん形相の羽月に、聖はゆっくりと首を横に振った。彼がぶつけてくる激しいまでの怒りに、聖はゆっくりと息を吐き出して諭すように言った。
「いいですか、あの酒樽にリラさんがそのままの大きさで入ってるとは考えられません」
「…………」
金魚の傍らに置かれた酒樽は腰ぐらいまでの高さがあるだろうか。直径50cmあまり。充分人一人が入れる大きさだ。
聖の言ってる事が理解できないのは、それだけ頭に血が昇っているせいか、或いは脳に血が巡っていないせいか。リラが関わると、どうも冷静さを失ってしまうらしい。
羽月に語りかける聖に、葵は酒樽を見やった。銀魚の持つ蓋は直径10cm程度。それ以外に酒樽の中へ入る方法は釘を抜いて木蓋をとるか、底に大きな穴が開いているか。そうでなければ、聖の言う通り、小さくなって入るしかない。
「小さくなっているのか、或いはあの酒樽は単なる入口で、別空間や異次元に繋がっているのか。いずれにせよそれを見極めてから動かなくては……」
小さくなっていたとして、酒樽を外側から破壊した事により、元の大きさに戻らなくなったり、別空間への入口を壊した事により、永遠にその空間が閉ざされてしまい、行き来が出来なくなってしまったら、もうニ度と彼女をその腕に抱けなくなるかもしれないのだ。
聖の言葉にどこか苦々しげに「わかった」と呟いて、羽月は刀を鞘に納めた。
それから、ゆっくりと一つ深呼吸をして聖と葵を見る。
「私が行きます」
ひどく落ち着いた声音で羽月が言った。
「何?」
葵が目を見開く。
名前を呼ばれて返事をしたら酒樽の中へいけるだろう。彼女の元へ。つまりはそういう事なのだ。
「『せい』の言う通りなら、リラさんを中で一人にしておくわけにはいきません。それに彼女たちは、まだ溶けていないと言った」
それはつまり、これから溶ける、という事だ。ずっと中に留まっていたら。
「なら、俺が……」
申し出ようとした葵を羽月は柔らかい笑みで押し留めた。
溶ける。固体が液化する。ならば羽月は自分が行くのが一番適任だと思った。それはたぶん、葵も気付いている筈だ。
「『倉木』さん。後をお願いします」
有無も言わせぬ声音に決意のそれが滲む。
「おい……」
「あなただから、任せられるんです」
羽月がなおも言った。
「何を……」
それに続く言葉が見つからず、葵は大量の息を吐き出した。
「俺は?」
ふと聖が割って入るように尋ねた。
「…………」
しかし羽月はそれには答えず無言で人魚たちを振り返っていた。
「…………」
無言は肯定の意なのだろうか。
「お話はつきましたの?」
金魚が尋ねる。
羽月は静かに答えた。
「藤野羽月だ」
「藤野羽月さん?」
金魚の呼びかけに一拍置いて、羽月は柔和に頷いた。
「はい」
「羽月!?」
ぶれるように、或いは空気に溶けるように体がくずれる羽月に、咄嗟に葵が声をかける。
「後をお願いします」
羽月の声は、その体と共に酒樽の中へ吸い込まれて消えた。
「…………」
葵は大きく息を吸い込む。後を託された以上、何としてもこいつらを倒して彼らを助け出す方法を聞きださなくてはならない。
「あなた達は、何を見せてくれるのかしら?」
人魚たちが楽しげに問いかけた。
無言で一歩踏み出しかけた葵の前にそれを制するように聖が立つ。
「では、まずは僕が主に祈りを捧げましょう」
開いた聖書を掲げ持ち、聖は嘲笑にも似た笑顔を人魚たちに向けた。
「祈り?」
「あなた方に届くかどうかはわかりませんが」
柔らかい口調と、優しげな笑み。しかし、声はいつもよりニオクターブも下がっているように聞こえた。
「もしかして、怒っていたのか?」
「誰かさんたちが熱くなるから、僕も熱くなるタイミングを逸してしまいまして」
「…………」
「勿論、怒っていますよ。リラとはまだ、トマトの決着がついていませんから!!」
「…………」
■3■
「羽月さん?」
リラの声に羽月はほっと息を吐き出した。彼女と同じ場所に、彼女の傍にある。それを確かめるように羽月は咄嗟に彼女の体を抱きしめていた。サイバノイドであるがために彼女の体温は感じられなくとも、自分が触れている、感じているそれこそが、彼女が傍にいる証で、羽月は安堵の息を吐く。
リラの手が困惑げに袖を掴んだのに、羽月は我に返って、こめすぎた力を抜いて手を離した。
「大丈夫ですか?」
リラの体を気遣うようにして、上から下まで見る。
小さくなっているのか、ここが異空間なのか。少なくとも、あの酒樽の中に原寸サイズで納まっていない事だけは確からしいが。
「はい。……あ、でも、ここに長く居ると溶けてきてしまうようです」
リラは少しだけスカートを持ち上げて苦笑を滲ませた。出来るだけ、この不思議な液体に触れていないように、足踏みしていた彼女である。
先ほど彼女が「とらちゃん」と呼んでいたのは、迂闊に名前を呼ぶと皆が酒樽に吸い込まれてしまうと思ったからだった。とらちゃんの本名は茶虎なので、大丈夫だと思ったのだ。そして、茶虎が人魚たちの気を引いてくれれば、と。けれど、結局、羽月が吸い込まれてきてしまった。リラとしては少々複雑な気分だったが、心強くもある。
羽月は膝まである液体に、そっと彼女の腰を抱いた。
「……リラさん」
「はい」
「跳びますよ」
そう言って羽月はリラを抱いて飛び上がった。口の中で呪文を唱えながら。
凍てつく冷気でこの酒樽の中の液体を氷らせる。二人はその上に立った。これで、にわかに溶かされるような事はないだろう。
そうして羽月は初めて辺りを見渡した。
ここがもし酒樽の中なら、周囲を囲む壁があるはずだが、遠くまで白い世界が続いているように見えた。壁も液体も全てが白い。余程小さくされた、と考えるよりも、異次元と考える方が素直に受け止められるのは、勿論そればかりの理由ではない。
蓋を閉じられた酒樽の中がこんなにも明るいわけがなかったからだ。いや、明るいというのには語弊がある。影が出来ないという事は光がないという事ではないのか。白い闇が辺りを覆い隠しているような。段々と上下の感覚がなくなって平衡感覚さえ失いそうな錯覚に息を呑む。
「ここは……」
一体どうなっているのだろうか。答えが得られぬまま巡る疑問に、気持ちが焦れる。
しかしそんな堂々巡りの思考を遮るように、リラの声が届いた。
「あ…羽月さん。…とらちゃん見ませんでしたか?」
「え? ええ。元気でしたよ」
「良かった」
リラがホッとしたように、ふわりと笑った。この中にあって、外にいる時と全く変わらない笑顔に、羽月は何だか呆気にとられてしまった。心にゆとりが戻ってくる。笑顔は伝染するものなのか。
羽月は笑みを返して頷いた。
「はやく元気な姿を見せてあげないと」
「はい。……私も頑張って、出口を探します」
ここが何なのか、考えをめぐらせるばかりでは仕方がない。きっとそれでは永久に答えなど見つけられないのだ。何か手がかりになるものを探そう。焦る必要はない。出来ることから始めればいいのだ。
きっと、外では葵たちが頑張ってくれているのだから。
*****
「何をお話になっているのか、さっぱりわかりませんわ」
聖の紡ぐ言霊に金魚は飽きたように呟いた。
「ここは主の力の及び難い土地柄なんでしょうか」
聖は首を傾げてみせる。大仰に困ったような顔をしているが、動揺の色はない。
今度はこちらの番、とでもいう風に金魚が手を掲げた刹那、彼女の動きが止まった。
「教えてもらおうか。酒樽から抜け出す方法」
聖に気をとられている人魚たちの目を盗んで、気配を殺して彼女たちに近づいていた葵は、酒樽の傍らに立ち、手にしていた拳銃の銃口を金魚の側頭部に押し当てていた。
「……いつの間に」
金魚が横目で葵を睨みつける。葵は無言で睨み返すだけだった。
「妹の名を呼んでいただけませんか?」
聖が言った。勿論、ただ呼べというのではない。
葵が銃口を強く押し当てると、金魚は酒樽の蓋を開けた。その一挙一動を葵はじっと見つめていた。
「……銀魚」
金魚が呼ぶ。
「…………」
銀魚は姉を振り返っただけで答えなかった。
「返事をするとでも思っていたのかしら?」
金魚が嗤いだす。
「勿論、してくれると思っていますが」
聖は飛翔すると、人魚たちのいる岩場に降り立った。ゆっくりと近づく。まだ何か奥の手があるかといえば、微妙なところだ。しかし、あるように見せるには充分だったかもしれない。
「…………」
近づく聖を睨みつける銀魚に一瞥をくれ、聖は金魚の手から酒樽の蓋を取りあげた。
「ね、銀魚さん」
「ええ」
銀魚が観念したように低く答えた。その体が酒樽の中へと消える。
葵は金魚に銃口を付きつきつけたまま言った。
「さぁ、教えてもらおうか」
「ふっふっふっ」
しかし金魚は可笑しそうに嗤い出す。
「?」
「妹が吸い込まれて慌てるとでも思ったのなら、大間違いよ」
刹那、川の水が噴水のように沸き立ち水柱が出来た。
「!?」
その上に座って金魚は両手を頭上に掲げたかと思うと、その手を勢いよく振り下ろす。
水がつぶてとなって二人に襲いかかった。聖が大気の壁を作って何とかかわす。
葵の撃った弾は水の柱を素通りし、或いは水の壁に阻まれ金魚にまで達する事ができなかった。
「羽月がいてくれれば……」
水を氷らせる事も出来ただろうのに、と思う。氷った柱を砕くのは簡単だ。水の壁も彼になら斬れるだろう。
だが――。
葵は聖の作った大気の壁の向こうにある酒樽を見やった。
銀魚が中に入った今、彼らはどうなっているのだろうか。
「リラ、羽月……」
葵は奥歯を噛み締めた。
■4■
白い闇に黒い光、というのもおかしな感じがした。頭上にぽっかり黒い孔が出来たかと思うと、それは落ちてきた。
「まあ……人魚さんです」
銀色の髪に銀色の鱗。金魚に、銀魚と呼ばれていた人魚だった。
氷った液面に叩きつけられるように落ちて、銀魚は眉をしかめながら上体を起こすと、憤然と羽月を睨み付けて嘯いた。
「いいお仲間さんをもったものね」
つまり、葵が彼女を吸い込ませた、という事だろう。この酒樽、或いは異次元空間から出るための方法を聞きだすために。
「出口を教えてもらおうか」
羽月は穏やかに尋ねた。
「冗談」
銀魚が嗤う。
「では、いずれあなたも溶けて酒になると」
「まさか」
銀魚は肩を竦めてみせる。まるで自分は溶けることはない、とでもいう風に。
「…………」
羽月は鞘を握って低く構えた。
リラを背に庇いつつ、間合いを計りながら。
「私を殺せば永久にここから出られなくなるぞ」
殺気を見せる羽月に銀魚は慌てた風もなく言った。
「…………」
氷上ではさすがに動きが取り難いのか、足を持たぬ人魚は両手で上体を支えていた。はるかに羽月に分のある状況で、しかし人魚は臆した風も無い。
「それとも愛しい者と共にここで永劫の時を刻むか?」
「この刀は世界を切り裂く」
いざとなれば、最悪この異空間ごと世界を切り裂くことも出来る。たとえばそれで、元の大きさに戻れなくなっても、ここから出る事は……。
「そして時空の狭間でのたれ死ぬ事を選ぶのか」
銀魚がどこか残念そうに言った。
「そんな脅しにはのらん」
「では、試してみるがいい。彼の者も巻き込んで」
「…………」
羽月は背後のリラに手を伸ばした。彼女の存在を確認するように。彼女が羽月の腕を掴んで身じろいだ。彼女声が小さく「違う」と聞こえてくる。
――――違う?
一瞬羽月は怪訝に眉を顰めたが、鞘から手を離した。
「もう、諦めるのか?」
銀魚が尋ねたが羽月は答えない。
『奴らの言葉に惑わさてはいけません』
こんな時に聖の言葉が脳裏をよぎって、羽月は苦笑を滲ませた。挑発には乗るな、という事か。
リラは「違う」と言ったのだ。人の思念に敏感な彼女は何かを読み取ったのだろう。人魚とて、実は見た目ほど余裕がない、という事か。
守るべき人が傍にいる。逸らず焦らず、事態を落ち着いて見据えるべきかもしれない。
「…………」
羽月はゆっくりと、今までの人魚との会話を反芻した。どこかに答えがある。
「では、外の者達も中へ呼んでやろう。二人きりでは寂しかろう」
銀魚の言葉にリラが羽月の着物の袖を引いた。羽月は彼女を振り返る事なくただ、人魚を見据える。
「…………」
そうして羽月は低く構えた。
銀魚が外へ出る。その瞬間が、ここを出るチャンスかもしれない。
*****
「酒樽が!?」
盾にされてはまずいと、金魚から酒樽を奪って確保していた葵は、思わずそれから飛び退いた。
「中から? まさか羽月が?」
酒樽は冷気を放っていた。凍てつくそれは間違いなく彼の精霊魔法と思われた。
「銀魚!?」
氷りつく酒樽に気付いた金魚がカッと目を見開いて酒樽に突進してきた。
ぴきぴきと何かがひび割れるような音をたてて氷る酒樽に金魚の怒号が続く。
「おのれ、よくも我が可愛い妹を!」
「なっ……!?」
金魚の憤怒の形相が更に歪む。と思う間もなく下半身に纏っていた金の鱗が剥がれ落ちた。二つの胸は潰れ、両手はその胴体へと吸い込まれていく。体長約八m。龍にも見えたが鱗もなければ髭もない。四肢も持たぬそれは大蛇にも見えた。この地方では蛟(こう)と呼ばれる龍の仲間だった。但し、時に洪水を引き起こすそれは、人を水中に引きずりこんでは溺れさせ、人の血を啜る。
「!!」
愕然とその姿を見上げる葵とは裏腹に、聖はやれやれと溜息を吐いた。
「なるほど。人魚だと思っていたら違ったんですね」
「『せい』?」
言霊は言葉に宿った霊の力で言葉を現実化する術だ。しかし現実化、或いは具現化するにはその対象をきちんと言葉で捉える必要がある。
いくら人魚を縛る言霊を紡いでも、人魚でないものは縛れない。
「まんまと騙されました」
聖は舌をだすと、再び聖書を掲げ持ちその言葉を唱えた。
力の発動にその背には大いなる翼が宿る。
「…………」
蛟は、言霊に捕らえられた。
一方、酒樽には刀で斬られたような線が走ったかと思うと木っ端微塵になった。
「銀魚ぉぉぉ〜〜〜!!」
金魚の絶叫重なる。慟哭は地響きまで起こした。縛られたはずの金魚の巨体が、咆哮と共に動き出す。
聖の体が傾いだ。
金魚の怒りが聖の力を超えたのか。
金魚が襲い掛かる。しかし、葵の方がわずかに動くのが速かったようだ。彼の銃が金魚の額を撃ち抜いた。
絶叫と共に闇雲に暴れだした金魚の巨体が、やがて力尽きたのだろう川を両断するようにずしんと大きな音をたてて倒れた。
水飛沫が高くあがる。
その向こうに、羽月とリラが立っていた。
「リラ、大丈夫か?」
「はい」
葵が声をかけるとリラはにこやかに頷いた。それから、
「不思議な体験が出来ました」
と、なんでもない事のように、或いは楽しげに言った。一見儚く見えて、誰よりも肝が据わっている。
不安も恐怖も彼女にはない。でもそれは、皆がいてくれるとわかっているからに他ならないのだが。
葵はホッと息を吐き出した。
その隣で聖が羽月の頬を引っ張る。
「痛た……何するんだ」
頬を押さえて睨む羽月に、リラも頬を膨らませて聖を睨んだ。
「そうですよ」
しかし聖は悪びれた風もなく笑って言った。
「本物のようですね」
それから、木っ端微塵になった酒樽に視線を移す。
「それで、一体?」
羽月はそれに不機嫌そうに答えた。
最初は、銀魚が出て行く瞬間を狙っていた彼だったが、上に向かって飛び上がった人魚の尾鰭が氷っているのに気付いた。不審に思って、一つの仮定のもと人魚を氷らせてみると、逆に白い闇が氷りついたのである。
「どうやらあの酒樽は銀魚自身だったようだ」
そうして銀魚を切り裂くと酒樽も同じように切り裂かれたのである。
「つまり、蛟の腹の中……とはまた、どこかの童話のようですねぇ」
聖が疲れたような溜息を吐いた。
「でも、これで川を越えられそうだな」
「とらちゃん」
リラが、隠れていた茶虎に気付いてそっと手を伸ばすと、茶虎は嬉しそうにその腕に飛び込んできた。
倒れた蛟が作った胴の橋を渡り、四人は森を抜ける。なだらかな丘陵の眼下に広がったのは、柴桑の町。
今にも駆け出しそうなリラの手を取って、羽月はゆっくり歩き出す。エルザードとは違った景色が広がるその先を見やって、その手に少しだけ力をこめると、彼女が振り返った。
時々危険と隣り合わせになる事もあるけれど、この世界にはまだ見ぬ景色が連なっている。
そんな景色を、出来るだけたくさん、見せてあげられれば、と思った。
それは皆も同じ胸の内で。
――――皆と、一緒に見て行けたらいいのに。
紺碧の硝子を透かして見たような空の青さは、どこまでも澄み渡っていた。
■大団円■
■━┳━┳━┳━┳━┳━┓
┃登┃場┃人┃物┃紹┃介┃
┗━┻━┻━┻━┻━┻━□
【整理番号/PC名/性別/(外見)年齢/種族/職業】
【1989/藤野 羽月/男/17/人間/傀儡師】
【1879/リラ・サファト/女/16/サイバノイド/家事?】
【1711/高遠 聖/男/17/地球人/神父】
【1882/倉梯・葵/男/22/人間/元・軍人/化学者】
■━┳━┳━┳━┳━┳━┓
┃ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
┗━┻━┻━┻━┻━┻━□
ありがとうございました、斎藤晃です。
楽しんでいただけていれば幸いです。
ご意見、ご感想などあればお聞かせ下さい。
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