<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
8月12日
鳥が鳴いている。見ていた夢が遠ざかって消えていくのがとても残念で、彼女は障子から漏れ入る朝日にごろりと背を向けた。
まだ開かない瞼の向こうで、彼がくすりと笑う。布団に広がる彼女の長く綺麗な髪を、彼は一房すくい上げ、指を滑らせ撫でた。
かちゃり、と茶器の鳴る音。彼は彼女の前髪を優しく横にずらし、軽く前屈みになる。露になった額へ、口付けを落とす。
「‥‥ん‥‥」
「おはようございます、清芳さん」
目覚めを促されて、彼女はとうとう瞼を開く。微笑む夫の顔が見える。
「珈琲の香り‥‥」
「ええ、ここにありますよ。飲みますか」
体を起こし、ほんの少し乱れた衣服を直す彼女。彼は茶器の取っ手の位置を直してから、ソーサーごと彼女に差し出した。
「いかがです?」
ふぅーと息を吹きかける彼女に問いかける。冷まし過ぎない程度にその行動は止み、意を決して唇が添えられる。
「‥‥美味しい」
「それはよかった、淹れたかいがあるというものです」
ようやくしっかりと覚醒した彼女は、意識して彼の顔を見た。
「おはよう、馨さん。珈琲ありがとう」
「どういたしまして」
いつもと同じ朝。けれどいつもとは何かが違う朝。
何が違うのかはもとより、何かが違うという事自体、彼女はまだ気づいていない。今はただ、この世界に来て初めて出会い気に入った飲み物を味わう事に熱中している。
そんな彼女が子供っぽく見えて、彼はまた、くすりと笑った。なぜ笑う、と彼女は言ってくるが、正直に教えられるはずもない。教えた途端に羞恥心で赤くなりながら怒る彼女の姿が目に浮かぶ。‥‥それはそれで捨てがたい。しかし今日ばかりは駄目だ。
「優しい一日を、貴方に」
一生に一度しかない今日という日。共に過ごす、日常で特別な一日を、彼は彼女に贈らなくてはならないから。
◆
細い首筋に細い紐をまわす。力を入れれば折れてしまいそうで、故に殊更ゆっくりと紐を結んでいく。朝食を終え、やってきたのは、海だった。
彼女は大人しく背を向けて、彼にすべてを任せている。彼が水着の紐さえ結んでしまえば、水着の着用は完了する。夏の日差し降り注ぐ中、海に飛び込んだらばどんなに気持ちがいいだろう。早く飛び込みたくてうずうずしているのに‥‥いつまで経っても、「紐を結び終えた」という報告が来ない。
「馨さん。まだ終わらないのか?」
「――はい?」
気になったので呼びかけてみれば、素っ頓狂な声が返ってきた。それもそのはず、彼は見惚れていたのだ。彼女の首筋から、華奢な肩、すらりとした背筋、引き締まった腰。つい触れたくなって、抱きしめたくなって、思わず手を伸ばしかけた矢先に名を呼ばれたのだから、彼としても虚を突かれたのだろう。
振り向いた彼女の視線が痛い。
「何をしてるんだ」
「あ、いや、その‥‥あんまり綺麗だったもので」
おかげでつい、彼は本音を漏らしてしまった。今朝は我慢できたのに。想像していた通り、彼女の頬がかっと赤くなる。
「余計なところは見るな! さっさと結んでくれ!」
そしてやっぱり怒られた。
結局触れる事の叶わなかった彼女の肌を思い出し、彼は手指をわきわきさせる。感触を知らないわけではないが、見上げれば真夏の太陽、足元は白い砂浜、前方には水着の彼女。未知の感触を味わえそうではないか。
「‥‥」
記憶の中の彼女の動きを探るように手は動く。勝手に動く自らの手をじっと見つめる事に、いつしか彼は集中していた。
けれど、手のひらに落ちてきた雫で、集中は途切れた。
「今度はどうした?」
彼がなかなか海に入ってこないので、先に入っていた彼女が戻ってきたのだ。早速随分とはしゃいできたようで、彼女の体と髪はたっぷりと濡れている。もちろん水着も濡れていて、先程まで以上に、彼女の体に張り付いている。
セパレートタイプのその水着は、彼女自身が選んだ物だ。白地に草花の柄が描かれていて、異世界にある彼らの故郷の染物とよく似た図柄だった。まさかこのソーンでそんな水着に出会えるとは思ってもみなかった、というのが決め手だった。
本人はわかっていないだろうが、白という色は彼女に似合う色で、彼女の魅力を引き出してくれる。おまけに植物という地術にも繋がる図柄である事が、地術師である彼には嬉しかった。
「‥‥なんだか気持ち悪いぞ」
胸の内に隠していたはずの喜びが、どうやら外に溢れてしまっていたらしい。一人で笑っていたようだ。
「その水着、よく似合っているなと思いまして」
「つまり、また見てたんだな」
彼女も笑った。
――いや、怒っている。笑顔で怒っている。ただ怒られるよりも怖い。
「一度ならず二度までも‥‥」
彼女の背後に黒いオーラのようなものが立ち上っているように見えるのは彼自身の気の持ちようのせいだろうか。そもそもなぜ彼女が怒るのかと考えてみれば、照れ隠しというのが一つ、遊びに来たのに何をしているのかというのが一つ、そして注意したのに聞かないというのが一つ。
「もしかして全部私のせいでしょうか」
「もしかしなくても全部馨さんのせいだ」
にこ。にこ。
互いに満面の笑みを投げかける。
それは戦闘開始の合図。
「逃げるなっ!」
「お断りしますっ!」
恋人同士の甘ったるい世界とは遠くかけ離れて全力疾走する二人に、まばらな他の海水浴客も何事かと首を傾げる。ほどなく衆目が集まるも、二人はお構いなしに砂浜を駆ける。
と。彼女の足が滑った。誰かが作ったまま放置されていた砂の山を踏んで、足をとられたのだ。前のめりに倒れていく彼女には、時間の流れがやけにゆっくりと感じられた。
「‥‥‥‥はぁ‥‥間一髪でしたね」
顔面から砂に突入すると思われた彼女は、そうなる前に、彼の腕の中に納まっていた。
「あ、ありがとう‥‥」
彼を追いかけていたはずが転びそうになり、その彼に助けられた事が恥ずかしくて、彼女はすぐさま彼から離れようとした。しかしその瞬間、彼女を離すまいと彼の腕に力がこもった。
「せっかちな人ですね。――私が見ていたのは貴方ですよ? ただ水着を見ていたのではなく、貴方が着ているからこそ見惚れたのに」
なのに、貴方はあなたの魅力に溺れる私を咎めるのですか。
「‥‥っ!?」
言外の意味を察した彼女は彼の腕を振り払う。彼も、今度は力を抜いて彼女を離した。楽しそうに目を細めながら。
「ごちそうさま」
食後の礼をした彼女の前の弁当箱やバスケットは、ものの見事に空になっていた。海で遊べばさぞかしお腹もすくだろうと、いつもより少しだけ早起きして、いつもより少しだけ多めに作ってきたというのに‥‥。けろっとしている彼女を見て、彼は彼女の胃腸に改めて空恐ろしさを覚えた。
「しかし、のどかですね」
「そうだな‥‥これぞまさしく平和だ」
先刻彼女が転びかけた場所では、親子が力を合わせて新たな砂の山を築いている。引いては寄せる波に山裾を削られても、手際よく砂を集め、徐々に大きくしていく。
その親子の姿の微笑ましい事。片付けしつつ、彼と彼女は親子を見守っていた。
いつかは自分達もあんな風になるのだろうか‥‥? そんな、同じ想いを抱いているとも知らず。
「‥‥馨さん」
「なんでしょうか、清芳さん」
彼女は彼の名を呼んでしまう。特に用事があったわけではない。想いを共有できたらという考えが脳裏をよぎっただけで。
「‥‥なんでもない」
なのに、想いを伝える事に気後れしてしまって、彼女は口をつぐんだ。
「そうですか」
しかしそれでも彼は微笑む。彼女が口をつぐんだ事で、彼女も彼と同じ想いでいると察したからだ。
「片付けが終わったら、私達も砂の山を作ってみましょうか」
「それはいいな。あの親子に負けないくらい、大きな山を作ろう」
彼女の表情がぱっと華やぎ、意気込みの表れか、拳を握ってみせる。彼女が盛り上がったので、彼も肩の力を抜いた。
未来は自分達の努力次第でどうとでもなる。これまでがそうであったように。
◆
帰り道は朱の空の下。二人とも、片方の手には荷物を、もう片方の手には相手の手を携えて、帰路についていた。何を話すでもなく、相手の体温を感じながら、ただ何をか思う。
今日の出来事は、お弁当を持って海に遊びに来た、それだけの事。それだけだから、今までにも何度かあったし、これからもあるだろう。
だとしても今日あった事は間違いなく二人の胸に刻まれる。必ずだ。なぜなら今日は――
「あ、一番星ですよ」
彼が空を見上げ、一点を指差した。小さく煌めく小さな光。
「誕生日おめでとうございます」
不意に振り返り、彼は彼女にこの一言を述べた。
そう、今日は彼女の生まれた日。
「‥‥うん‥‥」
照れくさそうに視線を揺らす彼女の手から、彼はそっと自分の手を外した。外した手を今度は彼女の腰に添えて、体ごと、彼女を引き寄せる。
ぽすん。抵抗なく、彼女は彼の胸に額をつけた。
「うーん‥‥荷物がちょっと邪魔ですね」
しっかりと抱きしめたくて、彼は荷物を地面に下ろした。次いで、彼女の荷物も下ろさせる。彼女の両腕を自分の背中へ回すように導いてから、自分も彼女の背中に両腕を回した。
――貴方に会えてよかった。貴方が生まれてきてくれてよかった。貴方の誕生に、心からのありがとうを。
覗き込めば彼女も見上げてくる。彼女の瞳に自分が映る至近距離。わずか潤んだその瞳に吸い込まれるようにして、唇に、唇を、重ねた。
「さあ早く家に帰りましょうか。続きはそれからですよ」
「続きって‥‥」
「続きは続きですよ。それとも――1から10まで説明しましょうか。今、ここで」
「‥‥い、いいっ! 説明しなくてもいいから! 遠慮する!」
「そうですか。でもどうせ後で思い知りますよ?」
手を握りなおし、荷物を拾い、二人は前を向く。二人の左手薬指では、指輪が、星の光を受けて輝いている。
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