<東京怪談ノベル(シングル)>
■森の記憶■
――ぽつりと頬を打ち頤を濡らした滴が何処から訪れたものであるのか、あまりに不鮮明だった。
千獣の記憶の中にある最初の『親』が、どういった種類のものであったのかは解らない。
ただの糧であったはずの小さく柔らかな生命を咥えて寝床へ連れ帰ったその生物は、人間がなんと称している獣であるか今もって知ることは出来ない。
揺れる木や草、吹く風、そこに乗る命の匂い。
いつまでも尽きることのない世界の息を見上げながら千獣が思い返す『親』といえば――落ち着き無く動き回る自分と『兄弟』を引き戻す咽喉の音だとか、熱を奪われるばかりの剥き出しの肌だった千獣を包むあたたかい熱と鼓動だとか、そういったものばかり。姿形は当たり前に存在する身近なものでしかなくて、脳裏に描くことは出来ても誰かに説明するには難しすぎる。
人の親。千獣と血の繋がりを持っていた、千獣の命を形作っただろう二親。両者であったのか片方であったのか、ともかく人である親は森の奥深くに千獣を捨てた。彼女を拾い生かしたのは獣だった。
だから千獣はその頃には獣の生を歩んでいた。
ずっとずっと遠い昔の話。
――ぽつぽつと肌に落ちて滑る朝露でもないけれど、ひやりと冷たいそれはなんだったのか。虚ろに見た世界は答えなかった。
それが人の生になったのは、思い返す千獣の記憶のこれもずっと遠く過去だけれど、屠られぬべく戦いそして屠った数多の魔のさえ生と溶け合ってからだったと思う。
森は優しいけれど厳しく公平で、千獣と『家族』に特に優しくもなかったから、扱い辛い後足で土を蹴り頼りない前足で獲物を捕らえる朝と夜の繰り返しは平等だった。
どのような命であっても死ねば朽ちて屠られ生きたものの糧となり血肉となる。それは当然とさえ考えない身近く己の内に根付くことだったのに。
(おぼえて、る)
それは、血肉を生き延びる為の熱とするのみならず、屠った生命の何もかもを体内に納めて力とする術を知らず身につけてからどれだけの時間を過ごした頃だったろう。
森の深くに世界の稀な流れがありでもしたのか、数多の獣を宿す主となってからのこと。
独り立ちをしてから長く――朝と夜の繰り返しを数えたりはしないけれど――生きていたはずだ。そしてその巡る静かな生の中、葉先から落ちた朝露のように静かに言葉は降り落ちた。
『ひと?』
ひゅうと咽喉笛を噛み切った獲物とは少し違う、でもなんとなく近い音を出して『人間』が千獣の前に居た。
枯れ落ちた葉と小さな芽。降って来る光。水の匂い。
森の中はいつもと変わらないのに千獣の前に現れた『人間』だけがいつもと変わっているものだった。そのたった一つが千獣の世界を大きく変えることになるなんて――思わなかった。けれど確かに千獣の何もかもを、変えた。
差し出された千獣の前足と同じように爪に鋭さのない身体の一部がとても奇妙に映り込んだことは記憶の中に在る。戸惑うように『人間』は千獣を抱え上げて森の外へと道を示してみせたのだ。
森から離れるということではなかったものの、確かにその出会いが千獣を『人』にする最初の出来事だったろう。
――それは朝露でもなくて、源は千獣の傍らにある気配らしいと思えばまた、ぽつり、と。
珍味だと呼び込んでいた行商の前でぼんやりと一品を見ていた千獣をどう思ったのか、その気風の良い売り手は味見だと大振りの串を一つくれた。
「……ありがとう……」
ぎこちない口の働きにも誰も何も言わない。
ときに怪訝そうにされることはあっても、親しくなったソーンの人々はその怪訝さを排除には繋げないのだ。包帯でぐるぐると巻かれ、呪符さえ織り込まれている姿とて最終的には受け入れる。
何気ない出来事の中にその寛容さを見出しながら、もぐ、と頬張ると至極満足そうにそのまま口を膨らませて咀嚼していく千獣。言葉を人と交わし、感情や思考をそこに込め、意図を示すことが出来る彼女――たとえいささかたどたどしくとも、だ。
おいしい、と小さな声に満足そうに頷く売り手。
『よかった』
そして今以上にたどたどしく紡いだ感想に、売り手と同様頷いて、それから髪を梳いてくれた人がいた。遠い、昔。千獣を『獣』から『人』に育ててくれた人。けれど森で生きてきた時間を理解しようとしてくれた人。
思い出せば身の内で獣がざわりと蠢く。
衝動を抑えきれずに人の形を失った記憶は千獣を構成する全てに混ざり込んでいるようだ。腹の奥にけして消えない孤独を与えた記憶。
耳飾を、その人はくれた。
幼い身体を抱き締めて語りかけ共に歩いては言葉を教えてくれた。
けれど。
その人は死んだ。殺されてしまった。
血の粘っこく広がる赤い臭いにそのとき千獣は凍りつくばかりで、少ない言葉は何一つ拾い上げることもできなくて、その人の名前を呼ぶにも唇そのものが震えてひどく時間がかかっていた。
森で生きる中で死は遠くなかったのに、その人の死はあまりに遠い。そのはず、で。
『――』
ひゅうと洩れた音は初めて会ったときのようでもあったのに、言葉は聞こえなくて焦点の合わない瞳がどこか遠くを見ている。呼んでいる。聞こえないけれどその人は呼んでいる。指が小さく揺れている。だんだんと小さく小さくなっていく。
『――』
呼んでいる、千獣を。
紅瞳を見開いて映し込むのは命の消える瞬間だった。
咽喉がまた動いて血を吐いてから唇が動く。無音の言葉を吐く。呼ぶ。
指の震えは間接が曲がる程に一度強くなって反動のように止まる。
するすると、何か、それはきっと千獣が魔や獣を取り込むときに含まれるようなものだ。それがするりと見えないままにその人から溢れ出て、消える。消えてしまう。
どうしたいのか、千獣は固まって動かない関節を軋ませながら腕を動かした。
その人が梳いてくれた黒髪が伸ばしかけた腕に落ちて手が上に引かれるみたいにして動く。何かがそこに触れる。温かいのにみるみると冷えていく。
ぽつぽつと落ちる千獣の、それは。
後には何も、何も解らなかった。
凍り付いていたのは身体だけではなくて、その未成熟な柔らかい精神もまた凍り付いていた。そこに鋭く打ち込まれた己の悲哀は大きく亀裂を走らせる。常に身の内で自由を器をと暴れる獣達は機を逃すはずもない。
蹂躙される。
育んだ精神の全てを凍りついたまま亀裂から踏み荒らされ食い散らされる。
慟哭は雄叫びに変わり災いじみた吠え声になる。
骨という骨、肉という肉、血の巡る勢いまでもがけたたましく形を変えて千獣を支配する。
獲物を抑えるにも苦労した前足が地に着くときには鋭い爪を具えた頑強なものになり、撓んだ筋肉の形が艶のある体毛の下で盛り上がる後足が地を蹴る。一跳びに向かう先のその人を『殺した』生命が怯えて後退りする。相手の恐れ。怒りはもう言葉を綴らせない。誰の怒りなのか。千獣の感情は千獣の意識と重ならない。心が見つからない。
憎悪も愛情も記憶も、哀しいとさえもはや思わせないその喪失。
『――、――』
耳に届く声が人の言葉かどうかさえ。
――ぽつぽつと、横たわる千獣の傍に小さな物を置いた誰かが涙を堪えきれずに落としていた。歪んだ眸から溢れて落ちる短い間に冷えていく。
それは。その涙は。
魔に呑まれ人の形を失った千獣を憐れんだ涙であったのかもしれない。
千獣が魔に呑まれる契機となった死を悼んだ涙であったのかもしれない。
その死を招くことになった人の情を嘆いたのか、人々の傷の様に憤ったのか、けれど千獣には泣いている何者かの言葉が聞き取れなかった。至らなさを悔いていたのかも、とは後々に閃いたことだ。
そのときには千獣は魔物と変じ、それを押し留めるべく放たれ退魔の力によって修復出来ぬほどに細かく砕かれた、その心の小さな一欠片さえ見つけられずにいたので涙の意味も解らなかった。
何か指先程の大きさで済むものが手の中に与えられて、それだけが不思議と理解出来た。それだけしか理解出来なかった。
『……みみ、か、ざり』
贈り主はもういない。
無意識に零れた言葉に空を隠して覗き込む誰かがまた滴を落とす。
まるで千獣の代わりのように。
――ぽつりと頬を打つ滴。
先触れのように落ちた雨粒は大きかった。
貰ったばかりの串焼き。その最後の一口を飲み込んだ千獣は串をきちんと片付けてから「ごちそうさま」と呟いた。とっくに千獣に串焼きをくれた人の店は立ち去っていたけれど、行儀というやつだ。
「……おいしかった……」
心底から言えばもぞりと手の感触が変わる。
見下ろす先には少女らしく瑞々しい肌と爪があるはずなのに、いつの間にやらごわついた毛と牙にも見える爪。しばし無言で見る千獣。
「……もう、無いから……だめ……」
訥々と話して、め、と最後に付け足すと間を置いてから手は元の細く白い姿に戻った。
身の内の獣が本気で串焼きをねだったのかは、千獣の最近どんどんと増える知り合いが見ていれば首を傾げたかもしれないが生憎と一人である。真実は解らない。
忙しなく家路を急ぐ様子の人々を見ながら千獣はゆるりと足を運ぶ。
途中で小川に花弁が二つ三つと泳ぐのを見てそれも止め、そのままゆらゆらと揺れる彩を覗き込んだ。混ざるのは瞳の赤。けれど見咎めたのは赤ではなく、黒に隠れる微かな硬質の飾り物。
心を失い移り変わる刻を失ったあの遠い過去。
一つ手の中に残された耳飾り。
「……」
そっとあの人の名前を呼びかけて、やめる。
なんだか惜しい気がしたのだ。
代わりに指先で撫でてみる。あの頃と変わらない。
ぽつぽつと雨粒は増えて勢いをつけてくる。大きな粒が千獣の服を見る間に湿らせていくのに空を見上げるが、しばらくそのままの体勢でいてからようやく千獣は立ち上がると手近な軒へとのんびりと歩き出した。その間にも雨は千獣を打つけれど気にしない。
軒下でふるりと頭を振ってから小川へ顔を向ける。野草が雨に揺れていた。
「……変わらない、ものとか……」
長い時間を過ごすことになって久しい。
魔さえ喰らった身は緩慢な時の流れに入り込んでしまっていたけれど、あの喪失の日に流れは干上がり止まってしまった。千獣の時間は動かない。
そうして長い旅路を今も続けているようなものだ。
先の見えない道を行く中で、見る風景はときに異なりときに重なり、今もって千獣を飽きさせることはない。死は遠いものになってしまっていて、心の動きも緩やかになっているのだろうか。
それでも、動くのだ。
見失った欠片は新たに得た素材と合わさって再び組み上げられていく。鍛えられ、磨かれ、そうして千獣を育んでいく。その中には旅路で出会った人々も居て、そして。
「……変わる、もの」
森も今は雨だろうか。
知り合った人は聖都に、遠い村に、森に、様々な場所にいる。
己を懸けて力になりたいと思う相手は増えるばかりで、ときに戸惑うけれど彼らのことを思えばそれも心地良いものだ。
たとえ自分が傷ついても、死に囚われても、それでも助ける。
そんな千獣の気持ちを親しい人々が知ればきっと言葉を尽くして訂正し、自分を省みない思考を案じるだろう。当人だけが知らないことである。
「元気、かな」
皆を思う。それから森の、特によく浮かぶ森の。
そっと胸に触れる。柔らかな肉の下で脈打つ鼓動が普段よりも強い気がして千獣はほんのりと唇と頬を緩ませた。
森の仔は今も生きている。
喪失を過ぎても尚強く、失ったものをまた作り上げている。
大丈夫だよ。
かつて彼女を育んだ『親』達は暖かく彼女を見る。
どこか、深く今も在るだろう森の記憶の中で。
end.
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