<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


■ゆびくっき■





「――あのぅ」
 昼を過ぎた空白の時間。
 白山羊亭のウエイトレスであるルディア・カナーズは、ようやく訪れた休息兼昼食の時間にくたりと息を吐いてテーブルに伏せていた。
 そこに聞こえて来た小さな声。
 オレンジを連想させる瞳をぱちりと開いてお下げのウエイトレスは身体を起こして左右を見る。それから下。
「あのぅ」
 足元から聞こえてきたのは間違いじゃなかった。
 ルディアの履き慣れて柔らかくなった靴の近くから黒猫が見上げている。いやいや黒猫の背に乗る形で小さな女の子が、だ。女の子の隣には猫が歩くにも少々邪魔なサイズの袋。とはいえ猫自身は気にする様子なくきろりとルディアを見詰めている。
「おねがいがあるんですが」
「……はい?」
 正体不明の小さなお客様。
 お下げを揺らして興味津々、ルディアは覗き込んでいたのだけれど。
「きゃ――っ!」
 うんしょと両腕で袋から引っ張り出されたものを見た瞬間、奥から誰かが転げる音も掻き消す勢いで絶叫した。
 女の子が出したのは指だ。人の指。肌色も鮮やかな指。
「クッキーなんですが」
「きゃー!きゃー!指!指が……え、くっきー?」
「くっきー」
 どうぞと差し出されたそれをおそるおそる摘んでみる。
 目の前に持ってきた指は確かに鼻を寄せれば食べ物の匂いだけれども――更に出された女の子には一抱えある小瓶と合わせるとなんとも言えない。だって瓶の中身ジャムだし。苺ジャム。ちょっと色が濃いから尚更に。
「付け根につけてどうぞ」
「うん気持ちだけ貰っておきます!」
「おいしいですよ?」
 言いながらジャムをつけた指の形したクッキーを抱えて齧る女の子。
 思わず出入口なんかに人が居ないか確認してしまうというものだ。
 幸いにも誤解されそうな光景の目撃者は居ない。よかったよかった。店員が奥から出てきてルディアの摘んだクッキーに仰天しているが後で説明するし今はとりあえず放っておくべし。
 と、いうことで。
「それでお願いってなんですか?」
 女の子がクッキーを食べ尽くすのを見守ってからルディアは問うた。
 遭遇から多分結構な時間が経っている。
 でもそれもどうでもいい。
 気にしていたら話が進まないというものだ。ルディアの休憩時間はなんといって有限かつ短縮気味であるのだから!時間は惜しい、今更ながら。
「クッキーがたくさん落ちちゃってるんです。拾うのお手伝いしてくださいな」
「たくさんって、どれくらい?」
「この色のがええと、たくさん。で」
 数は不明。たくさんねたくさん。
 己の休憩と昼食を惜しみつつ相手をしていたルディアはその変化のない数量表現に遠い目になる。が続いた言葉にテーブルに突っ伏し額を打った。
「それから死人色のクッキーがそれよりたくさん」
「死人色……」
 そこかしこに散乱している指と見紛うクッキーを想像してルディアはがくりと肩を落としつつ考えた。
 ああそりゃ確かに回収した方がいいよね!なんて。


 さて、いたいけなウエイトレスが貴重な昼休憩を失いつつあるその頃。
 裏街道のお兄さん方は諸々の面倒事を片付けている途中で困惑していた。
「……やっぱこれ、指も探すべきだよなぁ……」
「だよなぁ……ったく、どれだけ細切れにしたんだあの女」
「たいした執念だぜ」
「やってらんねぇ」
 はー、と仲良く溜息をつく前にはバラバラ殺人の被害者であるお兄さん方の知人。片方の手に指がない。たとえバラバラでも他は揃っている。でも三本ばかり指がない。
 めんどくせぇと渋々動くお兄さん方であった。


「猫のおともだちには見つけたら食べていいよっていってます。でもたくさん落としたからちみっこも見つけないと」
「…………」
 想像するのも辛い光景が街中で展開されることになりそうだ。
 指(の形をしたクッキー)を食べる猫。多分複数。
「……クッキーなんですよ、って探しながら説明しましょうか」
「じゃあお手伝いさんおねがいします」
「頑張って依頼します……はい」
 答えつつ眺めるのはテーブルに転がるクッキー。
 それがまたやたらに生々しいとルディアは思ったそうな。



■ゆびくっき■



 まじ、と拾い上げたそれを見る。
 それから提げた袋の中のそれらを見る。
 形は同じであるのに明らかに異なる感触だと再確認して千獣はぽつりと呟いた。

「……これ……人間の、指、だよね?」

 数歩分の距離を置いて立つ男にゆるりと瞳を向ける。
 拾ったときも落とした呟きだったけれど、今の言葉は男にも向けたもの。
 千獣の手にあるのを確かめてからあれこれと話しかけてきたのだ。関係を考えてもおかしくはないだろう。
 そうして問い詰める、険しい赤の瞳が刺すのを相手は困った風に装ってから曖昧な笑みを顔に乗せた。
「まあそうっちゃそうだが」
「指、だけなの、は……」
 つまりどういうことか。
 千獣の中で組み立てる事の出来る言葉でもって解答を導き出してみれば、つまり、つまりだ。
「……狩り?でも……人間は」
「あーお嬢ちゃん」
 稚い、無垢な印象を抱かせる相手に男は警戒も薄く――装いこそ奇妙なものではあっても異世界からの訪問者ならば不思議でもなかったので――身体を傾けて覗き込み、それから一歩進み出た。
「人間って……人間、を、食べたら、ダメ、なん、だよね……?」
「ん?何が」
 食べるって、と聞きかけた男の眼前に素早く千獣の爪が突きつけられる。
 柔らかく細い指先だが眼下から伸びたその勢いは凶器の程を思い知らせ、男はぎくりと身体を固めて千獣を見下ろす。ごくと咽喉が鳴った。
「じゃあ……どう、して……指、だけ、あるの……?」
 他の部分は?どうしてこんなに小さな場所しかないの?
 まるでそれは――

「食べちゃった……?」

 獣達がするようにけれど決定的に違う行為。

「この、指」

 食べ残しなの?

 陽光の下であるのに紅色の瞳が夜の中の猫と似て煌いて見える。
 その空気に気圧されて男はもう一度咽喉を鳴らして唾を飲み、それがやっとのことだった。
 ぎしりと目の前の若い娘の手が軋む。何かおかしな軋みが聞こえる。
 ざわざわと少女から少女と異なる何かが滲み出てくる。
「ルール」
 何か言っている。
 だがそれが限界だった。息が詰まる。
 と、しまった!と何処かで響いた声に目の前の少女が意識を逸らす。知人であるのかもしれないが男の知った事ではない。機を逃さず、伸ばされた手を振り解いて男は走り出した。毟り取るようにして千獣の手から指先一つを奪う。手を握り潰されるかと無意味に考えたが無事だった。あとはただ駆ける。
「冗談じゃねぇ!」
 それだけをようよう叫んで、理由も解らず恐れ力を失いかける足を叱咤して。

 目の前で若い娘が拾った指をどうにか言いくるめて回収しようとしただけなのに。
 なのになんだってあんな迫力のあるヤバそうな相手なんだ。
 オレはただ探して回収するだけの下っ端じゃねぇか何の災難だこりゃあよぉ!


 ――もしも、この心の声を千獣が聴けば。
 あるいは男自身が自棄でもなんでもいいのでその場で喚けば。

 状況の把握は正確に為されただろうし、千獣もも今頃は別の場所を移動しているアレスディア・ヴォルフリートも場合によっては協力なりとしただろう。事情説明は大切である。話せば解る相手であるならむしろ必須だ。
 しかし男は誤解させたまま逃走した。むしろ誤解させたいかと思う勢いで。
「おしおき、しなきゃ、だめ、だよね……」
 きりと鋭い眼差しで取り逃がした男の去った先と、手と、弾みで零れた為に追い損ねた原因のクッキーと、順に見回し決意に満ちた声で彼女はひとりごちた。

 つまり誤解は誤解のままなのである。


 ** *** *


 さて、事の始まりは白山羊亭であったので少しばかり遡ろう。
 訪問するなりルディアに泣きつかれたアレスディアは、まず知らん顔して出て行こうとしていた小人を引き止めた。通った場所、落とした心当たり、そういったものはないかと問うたのである。
「正確な数がわからずとも、どの辺りに落ちているかぐらいはわからぬかな?」
 闇雲に探し時間と体力を浪費することを思えば、ある程度場所を絞って探せる方が当然有り難いものだ。それを丁寧に話すと猫に乗った小人はルディアに街の地図を用意させ、きゅうきゅうとインクをべったりと染ませた筆で印をつけ始めた。
「あ――!地図!それお店の!」
「この辺でたくさん」
「……」
 三つ編みを振り乱して悲鳴を上げるウエイトレス、ルディア。
 彼女の様子を気の毒に思いはするが、既に書いてしまったものは仕方がない。場所を確かめつつ、そして悲鳴を耳に通しつつアレスディアは心当たりと通り道を頭に叩き込んでいく。
「……指……の、形、した……クッキー……? ……探せば、いい、ん、だよね……?」
 ひょっこりと顔を覗かせた千獣がぽつぽつと言葉を落として問う。
 探しやすいかな、とたどたどしい口調で話した彼女はルディアがテーブルの上に置いたままにしていたクッキーを摘み、先程までふんふんと匂いを覚えていた。そういったことはアレスディアには不可能なのでこちらは地道に情報収集の上で捜索の予定である。
「この線、が、道……通った……のかな」
「らしい。足を止めたりしたのがこの印の辺りだ」
「……わかった」
 こくりと頷く千獣が指先でインクの豪快な線を辿るのを見てから小人を見れば今度こそとばかりにとっとと立ち去ろうとしていた。いや、一応自分も探すのだろうけれど。
「集めたら此処に持って来ればいいのだな?」
 その背中(というか猫の立った尻尾というか)に確認の声を投げる。
 いいです、とかろうじて聞こえたのを確かめてからアレスディアも地図を再確認すべく身体を動かせばそこに恨めしげなルディアの顔。
「な、にか、あっただろうか」
 一般人だからこそ気配に警戒しない。
 見知った相手だったから尚更警戒しない。
 至近距離でじとりと見上げるおさげの娘にいささか驚きつつアレスディアが問い掛ければ、彼女の代わりに千獣が答えて曰く。
「気持ち……悪いから、他所に、してくれたら……だって……」
「だってこんな生々しいのたくさん!」
 沈黙じと目から一転して再び雄叫びに戻ったルディアに千獣もアレスディアもぱちりとまばたきする。アレスディアに至っては大声から遠去かるべく反射的に後退りした程だ。
「二人ともこれ!このクッキー!こんな本物みたいなのいくらなんでもイヤじゃないですか!?」
「……う、む……実に、リアルに、作られている、が……」
 びしりと指差された先で千獣の手からテーブルにと戻った指先一本。いやクッキーだけれども。
 それを見ながらつと沈黙し、なにやら苦しげに言葉を返すアレスディア。
 さらに彼女の隣では千獣がじぃーっと、それはもうじぃーっと、匂い以外に凝視で覚え込むなんて形以外にあったかな、という程に見詰めている。
 リアル過ぎます!と勢い良く返したルディアも苦笑するばかりのアレスディアも千獣の沈黙から落ちる返事を当然待つ形になったのだけれども、ややあって戻った一言にがくりとまずルディアが力尽きた。
「……別に……」
 千獣からすれば当然なのだ。
 形が指であれなんであれ、食べ物は食べ物。それ以外にどう判断しろというのか。
 その発想を推し量ることの出来たアレスディアは複雑ながらも「そうだな」と頷いてから、膝をついて芝居がかった脱力を見せるルディアを立ち上がらせた。
「如何なる形であれ、食べ物は食べ物。見かけで判断するのは、良くない……うむ」
「……うむ?」
「いや……己に言い聞かせようと」
「……?わかった」
 立ち上がるなり、いい加減に仕事に戻れと叱られてルディアが戻っていく。
 その背中で跳ねる三つ編みを眺めつつ、千獣の何気ない反芻を彼女にしては白々しい様子で受け流してアレスディアはとりあえず、と心を落ち着けた。気持ち深呼吸した後のような感じで。
「ではともかく、地図の印に沿って回ろう。千獣殿は匂いも辿られるのだな」
「そう……零れてる、ような……離れた場所も、見る、から」
「では私はなるべく事情も話して回るようにしよう」
 そういえば猫が食べてる可能性もあるのだった。
 事前情報なしにそんなもの見た日には巷に溢れる悲鳴の宴だ。
「あと猫の、食事についても一応。だな」
 思わず脳裏に描いてしまって笑えばいいのか泣けばいいのか、表情そのものに困るアレスディアの隣で千獣はどこまでもマイペースにこっくりと頷いていた。


 ** *** *


「匂い……こっち」
「よし!――そういうわけなので、猫が食べていても本物ではありませんから」
「あらまあそうなのありがとうねぇそうだわざわざ教えてくれたのだからお礼にお菓子をちょうどそういう時期だから」
「いえお気持ちだけ、それでは」
「アレスディア」
「すまない」

 という次第でもってクッキー捜索に出た道中で男と遭遇したのだが。
 互いに合流して怪しい相手について話し、それぞれが出会っていると判明した後は一緒に移動している。ルディアには悪いがクッキー捜索の取りこぼしは多目に見て貰いたいところだ。
 無残な殺し方をされた指の主。
 その彼だか彼女だか――指の正確な形は見ていないので骨格も当然不明だった――の為にも男二人は捕らえて然るべき場所へと連れて行かねば。
 そういった考えから、千獣が覚えていた男の匂いを頼りに移動している。
 移動してはいる、のだが。

「きゃー!猫が指を!誰かぁ――!」

 まだ男達は指を探している様子。
 目撃情報が僅かな匂いに頼って移動した先で拾えたことから、まだ一本は確実に探していると知れた。
 そしてここで考えてみたい。
 男達が探しているのは指(本物)で千獣達が探していたのは指(クッキー)だ。
 万一人目についていたらという考えでもって男達がちらちらと転がる指(クッキー)のエリアをうろついたらどうなるだろう。というか実際それが原因だろうアレスディア達と男達の遭遇を考えるに、つまりだ。

「いやー!指!指が!」

 追う先追う先で上がる悲鳴、猫の猟奇食事風景。
 その度に急ぐとはいえ放置も出来ず品物確認(そしてクッキーついでに回収)と猫から没収、そして事情説明。延々とそれを繰り返す。
 説明は主にアレスディアであるが、更に運の悪い事に話好きなオバサマがやたらと多い。捕まる捕まる捕まる。切り抜ける間に千獣が糸より頼りない匂いを探して方角を確かめる。呼ばれて一緒に走り出す。
 きりがないにも程があるというものだ。
「これで何度目だったかな」
「……えっと……こっち」
 アレスディアの呟きに答えかけた千獣が鼻先をすいと動かして方向を変えた。
 急な移動だが黒衣を翻してアレスディアも軽快な動きで千獣の後を追う。
 男達を追い始めてから余計に膨らんだクッキー回収用の袋ががさりと揺れて、その量が彼女達の働き振りを知らしめている。
「……いた」
「どこだ」
「あそこ……東の」
 そして善良な冒険者達はばっちりと男達を捕捉した。
 おしゃべりオバサンを振り切ったり猫が食べているのを没収したり影では見逃してやったりした甲斐があるというもの。善行には褒美があるものだ。
 なんのかんのと言いつつもクッキー捜索を二の次にした分だけ、相手を早々に見つける事が出来た。
 距離を置いて状況を見る。
 あれこれと話している二人組の男はそれぞれに覚えのある背格好だ。
 互いに頷いて確認し、次いで男達が歩き出す先を窺った。
「裏通りに回りそうだ」
「……あっちなら……ちょっと、遠いけど……回りこめる」
「千獣殿ならば?」
「うん……大丈夫」
 この訥々と話す女性の身体能力は高い。
 俊敏さも確かだとアレスディアは千獣の言葉に首を縦に振った。
「ならば私はこのまま追う形だな」
「……クッキー、も……匂い、しないから……」
 大丈夫、と真顔で言う千獣に思わず苦笑を洩らしてしまったのは、直前までの猫が猫がと賑やかだったオバサマ連中の記憶の為だ。それは幸いだ、と笑ってから男達を挟み込む為に二人は手早くルートを確かめて立ち上がった。


 ** *** *


「じゃあそれで戦ったんですか」
 うわぁ、と感心した声を上げるルディアはなかなかに聞き上手なのだろう。
 クッキー集めのはずが死体の指を集める男達をぶちのめしたという、なんとも意外な展開に走った二人――千獣とアレスディアの武勇伝とも言い難いちょっとした話にもこれだけ大仰に反応を返すのだから。
「挟み撃ちにしたんですよね。あっという間?」
「いや――あっという間、という程では」
 ちらりとアレスディアはそこで千獣を見た。
 彼女は素知らぬ顔でお礼のお茶をご馳走になっていて、話を一通り代わってくれそうもない。もとより千獣が口の回る部類ではないと知ってもいるので、アレスディアはルディアの興味津々と大書きしている顔に自分が話す他ないかと半ば諦めのように笑って言葉を続けることにした。


 とんとんと時折何処かを蹴る軽い足音がする。
 少しでも早くと見つからない位置は跳躍して移動しているのだろう。
「逃がすか!」
 槍を逆に持ち振るう事は稀だ。
 重量の感覚が普段と異なってどうしても技量が鈍る。
「――っ」
 たとえそれが本人にしか解らない程度の違いであっても、だからこそ尚更に僅かな差がもどかしく、アレスディアは一人の足元を払いながら奥歯を噛んだ。
「関係無ぇのに口突っ込むなよ!」
「確かに、どのような事情があったか、それは知らぬ――だが」
 脇から槍を直線に押し出し正面の男の更に向こう、じりと小さな包みを懐に収めなおして退がる一人へと突き出す。寸前で避けるもすかさず一気に払えば柄が横腹を打つ形で向かう。腕にかかる尋常ではない勢いの負担を堪えて振るったそれはぎりぎりの位置で男を捉え損ねた。
「っだぁ!っぶね……っ」
「あのような無残な行いを目にした以上は、放っておけぬ」
 勢いとそこから増加する重み。眉を寄せながらも扱いなれた長物の穂先を背後にしてアレスディアは腕をぐいと引いて戻した。ふ、と呼吸を挟みながら足を動かすも、更に迫るには手前の男が邪魔だ。
「く」
「見逃してくれってのにぃ!」
「出来るものか!」
 迂回しかけ遮られ、間に今度こそ踵を返すもう一人。
 包みが指だとすれば(そして九割方指だと考えている)逃す訳にはいかない。
 とん、と足音が頭上に至った。
「千獣殿!」
「……だめ……」
 行かせない、と上方から進路を塞いで降り立った少女の黒髪が靡く。
 赤い瞳がその下からきろりと覗けば男は一度目の遭遇を思い返した。
 ――あの、鋭い、手。


「わぁ!なんですかその絶妙なタイミング!狙ってた?狙ってたんですね!」
「……狙う……って、何、を?」
「いや。ルディア殿の勝手な感想だ」
「そう……わかった……」
 頭の中では格好良くひらりと舞い降り着地する千獣を想像していると思われる声。
 間違いとは言わないが過剰演出がされているだろうルディアの脳内を修正するのも手間である。不思議そうな千獣の言葉に代わってアレスディアが答えておいた。
「危うく逃すかと思った」
「……わりと、人がいる、道……あったから」
 間に合って良かった、とほっこり上がるお茶の湯気に当たりつつの言葉に「助かった」と笑ってアレスディアもカップを取った。
 目の前に詰まれた報酬らしきクッキーの形は今日一日で目一杯馴染んだもの。


「ルール……破ったら……おしおき、しなきゃ、だめ、だよね……」
 言葉を探しながらゆっくりと話す。
 けれどそのどこか稚い様子さえ感じさせる声とは異なり眼差しは鋭い。
「ルール?」
 男が問い直す。
 気圧されて、知らず繰り返しただけのようだ。
「人間を、食べちゃ、いけない、ていう……ルール」
 それは人間という群の中で生きる為に守るべき事だと。
 千獣の感覚で考えればそういうことになる。
 だから守らなかった者は相応の罰を受けるべきで、そうすべく千獣はきりと射竦める鋭い眸を向けて男に近付いた。構えた刃物は千獣からすれば緩慢な動き。膝を落として潜り込み一気に咽喉元を抑えてしまおうとすれば、けれど流石に相手は身を引く。だが通り抜けて逃げ出す事は出来ない。
 振り返ればそちらでも槍にあしらわれて今にも打ち据えられそうな連れの姿。
 どうしてこんな事になっているのだろうかと嘆きつつ逃走手段を彼は考える。
「ってあるわきゃねぇ!」
 だー!と自棄っぱちに一声あげた男はそこで頭上に差した影に動きを止めた。
「――え」
 それを、丸い目をして見下ろして繋がる先を辿る。
 源は柔らかな曲線も豊かな彼女は黒髪の、つまりさっき飛び降りてきて進路を塞いでくれたお嬢さんである次第。
 そのお嬢さん即ち千獣の手が、常とは異なり頑健な獣の爪を供えて持ち上げられているではないか。
 自分が今居る場所は壁際で道は前後とも物騒なお嬢さんに塞がれていて、そして相方はといえば背後で今まさに――
「……おしおき」
「申し開きは、相応の場所でするがいい」
 そんな余裕はないのに思わず確かめた連れの姿。
 彼は彼で、今まさに黒衣を翻した少女に槍で――穂先は彼女の背後で煌いていたので手加減されていたと解った――したたかに打ち据えて昏倒させられたところだった。
 そのときに聞こえた黒衣の娘の凛と通る声と、そして握り込められた獣の手を振り上げた目の前の娘の稚い声と、どちらが先に耳に届いたのか。

 ごつん、と火花が散るより先に視界がぶれた男は解らなかった。


「気絶ですか?」
「私達が裁けば済む話でもないからな」
「……騎士、団に……預けた……よ」
「それで話がもう広まってるんですねぇ!」
 凄い凄いと感心するルディア。
 と、背後から名前を呼ばれて慌てて仕事に戻りかけ――はたと足を止めて振り返った。
「クッキーは、ちなみにどうなったんでしょう」
 見たいけど見たくない。
 聞きたいけど聞きたくない。
 そんな彼女の顔に、千獣は平然と、アレスディアは案じるように、それぞれが膨らんだ袋を持ち上げた。一抱えはあって、それが二つ。
「……全部、ですか」
「完全には回収出来ていないかもしれないが」
 それでもこれだけ集まった、と言外に。
 アレスディアの声に合わせてこっくり頷く千獣。
 引き攣った顔のウエイトレス。
「ところでルディア殿」
 そして気の毒に思いつつもアレスディアとていつまでもクッキーを抱えておく訳にもいかない。
 中身の光景を想像しているのだろう(そしてまさしくそのままの光景が詰まっている)ルディアへと、それでも遠慮がちに呼び掛ける。千獣は抵抗を覚えない様子で袋越しに漂う香りに時折ふんと鼻を動かしているだけだ。
 はい、と緊張したルディア。
 こういうタイミングでは呼んでくれない客も同僚も嫌いよ、なんて彼女が考えているかは不明だが、なかなかに辛そうな表情。
「このクッキーは……その、彼女が戻るまでは預かって頂けるのだろうか」
「預かる、ですか」
 ふん、とまた鼻を鳴らす千獣。
 どこをうろついているのやら件の小人はアレスディアにも千獣にも遭遇しないまま今もって戻らない。というかこのまま行方知れずいやいやとんずらいやいや、どちらがマシかはともかく連絡出来なくなったらどうしよう。
 うんうんと唸るルディア。一緒に案じるアレスディア。
 二人の真面目な顔を見ながら千獣はふと思った。
 食べればいいのにと。
 形は指でも食べ物でしかないのだから、いらないなら猫達にまたあげればいいのだ。
 ぷんと南瓜を炊いた匂いが鼻先をくすぐって、他のウエイトレスの手で運ばれていく。
 美味しそうなそれに自然と視線を誘われながら、ルディアが立ち返るまでを付き合うアレスディアと一緒に袋を抱えて待つことにした。膨らんだ中身は指先の形をしたクッキー。
 ちょっと口を緩めて覗き込み、それから『おしおき』されているだろう男達をちょっと思い出した。もう目は覚めているはずだ。
 そして、あの二人組は今頃きちんと反省しているだろうか、とも。


 菓子と本物。
 関わる理由の誤解は解けず彼らは切なく牢屋の中。
 上役が来て回収するまで不遇な己達の何がいけなかったのか、涙しつつ考えていたという。



 ――ハロウィンなる行事の頃のある日の話。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【2919/アレスディア・ヴォルフリート/女性/18歳(実年齢18歳)/ルーンアームナイト】
【3087/千獣/女性/17歳(実年齢999歳)/異界職】

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■         ライター通信          ■
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 お待たせ致しました。あまりバタバタしないノベルをお届けいたします。
 PC様の組ごとにある程度は違うようにしてありますが、如何なものでしょうか。
 ご参加ありがとうございました。