<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


空の祈り



『ベルガモット劇団公演/空の祈り』
 大々的に貼り出されているポスターを眺めながら、紳士のような出で立ちの初老の男が溜め息をついた。
 彼こそは件のベルガモット劇団・団長、ペスカトーレ・ベルガモットである。
 街中を埋め尽くさんばかりのポスター、看板、チラシ、広告──今の彼にとってそれらは全て悩みの種が咲かせた花でしかない。
 ベルガモットはよろよろと覚束ない足取りで、『白山羊亭』と書かれた看板がぶら下がる店の扉を潜り──そして、何気なく店内に巡らせた視線の先に、一番見たくないものを見てしまった。
 看板娘たるルディアが上機嫌に鼻歌を交えつつ店の奥の一番目立つ所に貼り付けていたものこそ、ベルガモットがこの店に至るまでに散々目にしてきたあのポスターに他ならなかったのだ。
 ──眩暈がする。
「……と、と、いらっしゃいませ、お客さんっ! 大丈夫ですかっ!?」
 ぱっと振り向いた娘がぱたぱたとこちらへやってきて、ベルガモットはそのまま失ってしまいそうになっていた意識を繋ぎとめることで精一杯だった。


「……本当に申し訳ありません、この所慌しかったので、疲れがピークに達していたのでしょう」
「このところの慌しさというと、お客さん、もしかして、アレ……ですか? 空の祈り!」
 冷やしたタオルをベルガモットに差し出したルディアは、きらきらと目を輝かせて先程己が貼り付けたポスターを見やった。
 望まぬ結婚を間近に控えた『囚われの姫君を救い出す』勇敢なる戦士の物語。世間一般ではありふれた恋愛活劇だが、公演日が近づくにつれてソーンの界隈がこれ以上ないほどの活気に包まれていったのは──何を隠そう、主役を務める役者達に対する歓迎の挨拶に他ならなかった。
 見る人々に夢を希望を、そして一欠けらの勇気を与える存在──何年も掛けてソーン中で公演されてきた『空の祈り』の話は、彼らがこの聖都エルザードに到着するよりも早く伝えられていた。
 役者達の演技もさることながら、舞台の仕掛けがそれはそれは美しいのだという。
 ルディアもこっそりとチケットを入手して、心躍らせていたのはここだけの話だ。
 それほどまでに人々の期待を集めている劇──その劇団と役者達を束ね上げている張本人たる当のベルガモットの表情は、まるで苦い草を噛み締めたかのような沈鬱さを背負っていた。決して素性を言い当てられたからだけではないだろう、その裏に淀む理由を探るべくルディアは首を捻った。
「……ベルガモットさん、どうか、なさったんですか? 舞台設営の人手が足りないとかでしたら、みんな喜んでお手伝いさせて頂きますよ?」
「実は……」
 長い長い溜め息をつき、観念したように口を開いたベルガモット。

 事態はその場に居合わせた人々が思っているよりももっとずっと深刻なものだった。
 公演を三日後に控えているというのに、主役の二人がそろって風邪をこじらせ喉をやられてしまったというのである。

「か、開演を延ばすとかそういうのは……やっぱり、できないですよね」
「できません……このペスカトーレ・ベルガモットの名において、そのようなことは断じて! ああ、けれどこのままではエルザードの皆様に最高の舞台を見せることができないのも事実、歌えない彼らを無理矢理舞台に立たせて失笑を買わせるなんてことも、できるはずはない……どうすれば……」
「そうしたら……やっぱり」
「……やっぱり?」
 ちらり、と、ルディアは店内に縋るような目線を向けた。
 屈強の冒険者達、月と星の音色を奏でる歌姫──
「あっ、でも、ベルガモットさんさえ宜しければ、ですけれど!」
 呼びかけてみれば、我こそはと名乗りを上げる者達がいるのではないか、と。
 問題は、ここにいる冒険者達に劇をやらせるとなると、筋書き通りに行かない可能性の方が大きいということくらいか──


     ※


 公演初日。期待に胸を躍らせて詰め掛けた観客達の間には、不思議なざわめきが満ちていた。
 主役を演じる役者達が風邪を引いたという話は、この三日の間に瞬く間にエルザード中に広まっていた。尾鰭背鰭がついていたが、彼らが肝心の喉をやられてしまったという根本の事実は変わらないまま。
 それにも関わらず、舞台は予定通り開演──これはきっと何か奇跡が起こるに違いないと、少々大袈裟かもしれないが、そう思う者も少なくはなかった。
「みなさん、ようこそ!」
 開演のベルよりも先に、元気一杯の声が会場内に降り注ぐ。舞台の袖から駆けてきた声の主たる少女──ロレッラ・マッツァンティーニは、真っ白な兎耳をぴょこぴょこと動かしながら観客達の前で立ち止まった。
 ペチコートで膨らませた白いワンピースの裾と天使の羽飾りが、耳の動きに合わせるようにふわふわと揺れる。
「──そして、まずはごめんなさい」
 盛大な拍手の後、静まり返った観客を見て、ロレッラは深々と頭を下げた。
「本日、お集まり下さったみなさんは、ベルガモット旅団の公演を楽しみにしていらっしゃると思います。でも、みなさんもご存知の通り、役者さん達は喉を痛めて歌が歌えない状態です」
 そこまでは皆が知っている。だが、そこから先を知る観客は、誰もいない。ぴんと立たせた耳をすぐにへこりとさせて、ロレッラは声高に告げる。
「それでもいらして下さったみなさまに、今日は、ソーンを代表する美男美女による『空の祈り』をご覧頂きたいと思います! もちろん、ベルガモット劇団員の人達に比べたら空と海くらいの差があると思うけど──決して期待外れとは言わせません。どうしてもダメ!だったらお代はお返しさせていただきます。でも、あたし達はみんな、あたし達の演技を見てくれる人達に、少しでも、わずかでも……何か心に残るものがあるように、願っています!」
 互いに顔を見合わせていた観客達が、一人、また一人と、拍手を始め──劇場内はあっと言う間に歓迎の声に満たされた。きっと上手く行くに違いないと、そんな確信があった。
 ロレッラはもう一度、深く頭を下げて、舞台の袖へと戻って行った。


   ──鳥が空を翔けるように、祈りの歌も、空を翔ける。
   それは何時か何処かで紡がれた、一欠けらの勇気を握り締めた者達の物語──


 そして、舞台の幕が開かれる──


     ※


   今ではない何時か。
   此処ではない何処か。

   空を舞う翼持つ人々と、翼なき地上の民が共に住む世界の物語。

   翼ある者は雲よりも高き塔の上に住み、空に近い場所で風を抱く。
   翼なき者は羨望を抱いて彼方の空を見上げ、舞うことの叶わぬ足で大地を踏みしめる。

   高き塔の礎も見えぬほどの辺境にある名もなき村。
   森の泉の辺にて、娘は今日も歌を歌う。
   傍らには幼馴染の青年。二人にとっての『何時もの風景』──


     ※


 何の変哲もなかった舞台が、雲よりも高くその頂が見えぬ塔の姿を映し出し、そして瞬く間に泉のある森へと転じる。観客席の周りに、森の木々が現れる。
 泉には木漏れ日が差し込み、木々の梢と鳥のさえずりがBGMとして加わる。
 観客達は息を飲み、広がり行く風景と整えられていく舞台を見つめた。
 これこそが美しいと評判の、舞台の仕掛けの一つ──団長であるベルガモットの手による幻影の魔法だ。

 ──泉の辺には、二つの影。木の幹に背を預け、傍らに座る少女を見つめる青年、羽月。
 そして、美しく優しい歌声を持つ少女、リラ。
 羽月は僅かに身を屈めると、リラにしか聴こえない小さな声で何かを囁く。合図のようなそれに頷いて、リラは口を開いた。

 溢れる歌声は柔らかく耳朶を擽り、鼓膜を揺らす。紡がれるのは遠い異国の子守唄──羽月もよく知っている、リラの生まれた世界に伝わる歌だ。
 決して暮らしが豊かでなくとも、彼女と共にいられるだけで何もかもが満たされる。
 羽月にとって、この何気ない時間こそが何よりも大切なものだった。
「リラさんは、本当に歌が好きなのだな」
 彼女の歌を聴くだけで、心がとても穏やかになる。まるで歌そのものが魔法のようで、例えばどんなに荒れて乾いた心をも潤してしまう。
 それはきっと彼女が歌を愛しているから。本当に、歌うことが好きだから。
「……それは、羽月さんがこうやって、側で聴いていてくれるから」
 羽月が胸中で呟いた言葉に、答える声があった。だから好きなのだと、リラは花のような笑顔を綻ばせる。
 いつにも増して可愛らしい表情。愛しいと、抱き締めたいと、羽月は思ったが何とか堪えた。
 ──羽月とリラが演じている役は、まだ『幼馴染』というだけの間柄なのだ。ここで彼女を攫って消えてしまったら、物語は続かない。


     ※


   壊れるはずがないと思っていた、とても穏やかで優しい日常。
   しかし、その『切っ掛け』はとてもささやかなものだった。

   幸か不幸か、偶然か必然か──この辺境の地へと視察に訪れた『翼持つ民』の王子。
   王子は彼女を一目で気に入り、是非とも自分の妻にと申し入れた。
   村人達にとってそれは願ってもいないことで、無論、断る理由などなかった。
   他ならぬ王子の頼みを断るということは、国に反旗を翻すのと同じこと。
   断れるはずもないというのが実情ではあったが、
   それ以上に、一介の村娘とはいえリラが王宮に嫁ぐことで、村が授かる恩恵がある。
   彼女の幸せのために。そして、村の繁栄のために。

   結婚の儀が行なわれる前夜、村では祝宴が開かれ、人々は喜びと酒に酔いしれた。

   ──彼女と、彼女の幼馴染である青年を除いては。


     ※


 祝宴の夜。村の中央にある広場には華やかな灯りが点され、女達の手によって作られた数々の料理がテーブルに並んでいる。村人達の陽気なざわめきが舞台を潤し、それはまるで観客席をも巻き込んでの宴になりそうな勢いだった。
 中央に一際豪華な席が設けられ、少しだけおめかしをしたリラの姿がそこにあった。

 ライラックの花そのものの、ほのかな甘さすら感じられそうな色合いの髪がさらにとりどりの花で飾られ、余るばかりの祝福の言葉を受けながら、リラは微笑んでいる。けれどその表情はどこか遠慮がちでぎこちなくて──羽月はそんな彼女の姿を遠くから見つめながら、小さく溜め息をついた。
 今の彼女は皆を心配させないようにと無理矢理笑っているだけだ。羽月は心の中で呟きながら、湧き上がる嫌な気持ちを押し込めるように唇を引き結ぶ。あんな悲しい顔をさせたくなどないはずなのに、周囲がそれを許さない。
 特に羽月は今日に限って、『王子様の前でリラに恥をかかせてはいけないから』と、宴の席に着くことすら許されていないのだ。

 思えば彼女の結婚が決まってから今に至るまでのたった数日、彼女とまともに言葉を交わした機会がなかった。
 避けられているのだろうかと、羽月は思う。逢いに行っても逢えないと言われ、挙句昨日はとうとう村の長が直々に叱りにやってきた。
『リラの幸せのために、お前が余計な口を挟んで迷わせてはいけない』
 王子と結婚することがリラの幸せだと、いったい誰が決めたのだろう。
 そう思っても誰も答えをくれないまま、ただ時間だけが過ぎ去っていくことに焦燥と彼女への思いが募るばかりだった。

 溜め息が燻っている様子の羽月の元に、喧騒を逃れたらしい一人の少女が近づいてきた。
「えっと、きみが羽月クン」
「あ、ああ、そうだが」
 ひょこひょこ動く兎耳と背中の羽の飾りは変わらぬまま、ただ服装だけが先程と異なる村娘の衣装に転じている、ロレッラだった。王子とは恥ずかしくてまだ口が聞けないと言ったらしいリラの相手を、王子の代わりに勤めていたのを、羽月はこっそりと見ていた。
「リラさんから伝言、預かってるよっ♪」
 兎の耳を示してみせたロレッラの口元に、羽月は耳を寄せる。囁かれた言葉はまるで魔法の呪文のように、羽月の心に入り込み、広がって行った。
「……何てことだ」


『いつか、あの空よりも遠い場所で』


 今ではない、いつか。約束に縛られない、未来の果て。
 ──リラはこの結婚が、望まないものであっても避けられないと、理解しているのだ。
 そして、あるがままの未来を受け入れ、真っ直ぐにその道を生きようとしている。
 嫌だと言えば皆が困るだろう。何より羽月なら彼女を連れて村を出ようとまで考えるかもしれない──事実、考えていないこともなかったのだが──羽月や皆に余計な心配を掛けたくはないと、あえて彼女は何も言おうとしなかったのだ。
 彼女はそういう女性なのだ。これが彼女の強さであり、羽月はそれを知っている。だからこそ、自分はこんなにも彼女のことが好きなのだから。
 好きなのだと、自覚したところで遅かった。彼女は明日には──
「どうするの、羽月クン。リラさん、手の届かない所に行っちゃうよっ」
 ロレッラの言葉に、羽月は我に返る。そう、明日にはこの宴よりも盛大な結婚の儀が執り行われ、彼女は村を出てあの高い塔の上に行ってしまう。
 翼を持たぬ己には、どんなに手を伸ばしても届かない空のような場所に。
「しかし……」

「王国、万歳!」
「遠夜王子、万歳!」
「リラ姫、万歳!」
 そう声をあげた村人に呼応するように、歓声が上がり、その場にいた人々の目が一斉に今日の主役──リラへと向けられる。
 王子──遠夜に手を取られ、即席の舞台へと上がったリラが、周囲の期待を一心に受けながら、緩やかに唇をふるわせた。


  いつかあの空よりも遠い場所で
  あなたの為に花を咲かせましょう

  雨の代わりに花を降らせて
  あなたの心に歌を届けましょう


 遠い世界の言葉で紡がれる歌の、その意味を知るのは歌う彼女の他には羽月だけだ。
 合言葉──あるいは魔法。心を穏やかにし優しい気持ちを取り戻させるための。
 羽月は彼女の紡ぐ歌の中に、確かに、己へと向けられた『想い』を感じ取った。
 彼の胸中に沸き上がった思いは唯一の、それは揺らぐことなく灯されたほのかな決意だった。
「……リラさん」
 けれど、己に止められるだろうか。
 この夜が明ければ、この宴よりも盛大な婚姻の儀が執り行われる。
 翼を持たない歌姫は、空の鳥篭に囚われてしまう。
 それを止めることが出来るだろうか。翼すら持たない、一介の人間に過ぎない己に。
「羽月クン。あたしにいい──かどうかわからないけど、考えがあるの……もう一度耳貸して」
 ロレッラが囁く。声を潜めて、羽月の耳元に口を寄せる。羽月にしか聴こえない、小さな声で。
「いちお、元気が有り余るくらい無鉄砲な少年っていう役なんだから、一人称は『俺』ね。あと、口調はもっと砕いて……それからリラさんのこともちゃんと『リラ』って呼び捨てにするんだよ?」
「う、うむ……」
「うむ、じゃなくて、うん、だよっ」
「…………」
 ──大人しくて静かな少年というのは駄目なのだろうか。
 羽月にとっては台詞を覚えるよりも難しいことだった。


     ※


 そして夜は明けて、いつもは静かな村の教会に溢れんばかりの人が集まり、新郎新婦の登場を今か今かと待ち構えていた。その中には羽月やロレッラの姿もあり、ロレッラは耳をひょこひょこと動かしながら、羽月は思い詰めたような真剣な眼差しで、じっと祭壇のほうを見ていた。滅多に着ない異国──地球で言うヨーロッパ風の民族衣装のような服。サイズは申し分ないのだが、不慣れなせいもあるだろう、着心地の悪さは否めない。
 祭壇の向こうで穏やかな笑みを湛えているのは、翼を持つ女神の像。その奥に更に鮮やかで美しいステンドグラスが飾られ、差し込む陽光によって神聖ながら煌びやかな空気が満ちていた。

 一方、リラの家。新婦の控え室として用意された一室では、寂しげな面持ちで椅子に座るリラの姿があった。

 不安な時はいつも、歌を歌って心を紛らわせていた。
 歌は、彼女にとってはいつだって心の奥から湧き出るように溢れるものだ。それなのに、今日はいつもと違う。
 それは今着ているこの真っ白なウェディングドレスのせいだろうかと、触ったこともないくらいすべすべしているドレスの裾を握り締めた。
「不安ですか、リラ様」
 髪を飾る花や宝石を持ったシノンが、落ち着きなく椅子に座るリラの元へやってくる。白く質素だが高級感を漂わせるロングワンピースを悠然と着こなしているシノン。その背にさらに映える、空の民の証である白い翼(余談ではあるが、これもベルガモットの手による幻術の一種らしい)もあって、本当に空の民のようだというのはリラの言葉である。
 侍女として王子に仕えている彼女だが、女性で年も近いということで、必然的にリラの世話役を務めることになった。
「シノンさん……」
 不安そうな、怯えているような──それこそ翼を手折られた小鳥のような、そんな眼差しを向けてくるリラに、シノンはできる限りの笑顔で頷く。

 シノンはリラが嫌いではなかった。何よりあの王子が選んだ人を、嫌いになれるはずなどない。
 けれど、リラは本当はこの結婚を望んでいないのではないか。──本当は、心の奥に別に思う人がいるのではないかと、リラの様子を見ていればそう察するのも容易いことだった。
 喜びよりも大きく深く、奥底から湧き上がってきているような『覚悟』。周囲の期待を一身に背負いながら、己の気持ちを奥底に閉じ込めて、蓋をして、空の鳥篭へその身を委ねようとしている少女。

 嫌だと言わなかったのは何故?
 嫌だと、言えなかったからだ。
 それではまるでただ歌うだけの人形と変わらないではないか。

「無理を、する必要は……ないんですよ」
 思わず、そんな言葉が口をついて出ていた。
「え……?」
 違う、こんなことを言うつもりはなかったのに。シノンははっとして口を押さえたけれど、彷徨わせた視線の先に、己の姿を映し出している淡い紫の──あたたかな感情を湛えたライラックの瞳の奥に、湧き上がって溢れてしまいそうな、言葉を見つけてしまった。
「──無理をしなくてもいいんです、リラ様。大丈夫、貴女の信じる道を、進んで行っても構わないんです。その先に待ち受けているのは、もしかしたら、これまで以上に辛いものかもしれませんけれど」
 新たな同胞に祝福を。敬愛するあの人の幸せを。祈るべきなのに、それができない。
 それどころか自分は、今、これから、あの人を──『彼』を裏切ろうとさえしている。
「シノン、さん?」
 だって、あまりにも悲しいではないか。
 手に入れられるはずの幸せを、捨てる必要のない幸せを、取り上げられなければならないなんて。
 ただひとかけらでもいい、偶然を奇跡に変えてしまうほどの──ささやかな『勇気』を、与えることができるなら、許されるのなら。
「……それでも、諦めさえしなければ。諦めなければきっと、幸せを掴み取ることはできますから」
 ならば自分がその役目を担おう。シノンが辿りついた結論は揺るぎないものになった。
「あたしは、思うんです。貴女は籠の中にいてはいけない。翼がなくても空は飛べます。だって、鳥が空を翔け囀るように──歌も祈りも想いもすべて、空を翔けることができるんですから。リラ様は、きっとそのほうが貴女らしい」
 ──だって貴女には、貴女を支えてくれる人が、支えることができる人が、いるのだから。
「自分を閉じ込めて、自分に嘘を吐く必要もないんです。貴女が手を伸ばせば、それを取ってくれる人はいるはずだから」
 言うだけ言ってシノンは小さく息を吐き、リラの顔を見つめ──呆気に取られたようなきょとんとしたような、そんな彼女の表情に思わず息を詰まらせた。台詞自体はアドリブで構わないと言われていたのだけれど、だからこそ何だか言いたいことがたくさん出てきてしまった、そんな自覚は大いにあった。予想以上に調子と勢いがついてしまっただろうかと胸の内がぐるぐるし始めたが、そっと伸ばされたリラの手が、大丈夫だと言ってくれたような気がした。
「シノン…さんは……えと、遠夜様の…こと……?」
 物語は滞りなく進んでいく。ふっと浮かんだ疑問をそのまま口にしたらしいリラに、シノンは大きな安堵の気持ちに浸りながら微笑んだ。

「──準備はいいかい? ああ、とても可愛いよ、我が姫君」
 ノックの音と共に扉が開かれ、白い礼服に身を包んだ王子こと遠夜が顔を覗かせる。いつにも増して可愛らしいリラの姿に、殊更満足そうに目を細めた。これなら羽月でなくとも攫いたくなるだろう、とは、心の中でこっそりと呟いた言葉だったけれど。
「さあ、行こう。我が姫君、皆が待っている」
 遠夜はリラの前で跪き、恭しくその華奢な手を取って口づけるふりをした(本当に口づけたら後で羽月に何をされるかわからないので)。そのまま彼女を立ち上がらせ、舞台の袖へ連れて行こうとする。
「王子……」
 その背中にシノンはそっと呼びかけた。躊躇いがちに、遠慮がちに、けれど精一杯の表情を取り繕って。
「……ん? どうしたんだい、シノン」
「いえ、何も──」
 遠夜の芝居がかった笑みはどこまでも楽しげで、それがなんだか楽しくて笑いそうになってしまうが、シノンはそれを辛うじて堪え、深く頭を垂れた。
「……おめでとう、ございます」
「──うん、ありがとう」
 二人が舞台袖へと消え、一人残されたシノンにスポットライトが当たる。散りばめられたスパンコールがきらきらと輝き、空の民っぽい演出はどうやら大成功と言えそうだ。

 シノンは観客の方へと向き直り、胸の辺りで両手を組み合わせながら目を閉じた。
 そして、多分遠夜が望むものとは、別の結末を祈る。

 これは本当に、本当にささやかな切っ掛け。
 この物語を紡ぎ終わらせるのは、『彼』と『彼女』の役目だから。

 彼女の動作に合わせるように、一度、幕が下ろされる。休憩時間の合図であり、その先に待っている大団円への下準備だ。

 観客達はそれこそ、食い入るように舞台を見ていた。劇が始まる前から既に満席に近い状態で、あれから、誰も席を立っていない。
 観客にも、また、役者である彼ら自身にも本当の結末はわからない、筋書きのないシナリオ──その結末を見たいという思いもあるだろうが、彼らが続きを待っているのは、おそらくはそれだけの理由ではないだろう。
 今日、この時、この場限りで見納めとなる、最初で最後の晴れ舞台。
 ならば何が何でも全力を尽くす以外にないのではないだろうか。元よりそのつもりであったとしても、それ以上の何かがまだまだ、奥底に眠っているような気もしてくるから、『演じる』ということは難しい以上に、面白く、楽しい。
 出来る限り、いや、それ以上の演技を、舞台を。
 そう思いながら舞台の上の役者達が頑張っているのだ。ならば最後まで見届けずして席を立つなど、彼らに対してなんと失礼なことであろう、と。


     ※


 場面は再び村の教会へと戻る。先程と違うのは、観客席までが教会の姿を映し出しているということだ。
 羽月とロレッラは観客席の手前の方に座り、その他にもエキストラの村人達があちらこちらに座っている。
 音楽が奏でられ始めたのと同時に、観客席の後ろにスポットライトが当てられ、振り向いた人々の先に遠夜とリラの姿があった。誰かが始めた拍手につられるように劇場内は盛大な拍手に包まれ、二人を祝福していた。

 王子である遠夜に手を取られながら中央の絨毯を歩み、祭壇へ向かう花嫁、リラ。その歩みはとてもゆっくりとしていて、羽月はいつもよりも更に、目を奪われずにいられなかった。
 ちらりと、僅かに眼差しだけがこちらへ向けられる。揺るぎない決意の先に、大海に落とされた一粒の真珠のような迷いが生じているのがわかる。羽月は瞬きを繰り返したが、そうこうしている内に彼女は遠く──壇上の祭壇へと行ってしまった。

 神父の厳かな声が響く。空に祈りを、大地に歌を。
 ──世界を創り、二つに分けた、女神の前で誓いを。

「そうはさせない」
 聖堂内に凛とした声が響き渡る。人々の目が一斉に羽月へと向けられた。
 立ち上がった羽月は迷いなく壇上へと上がり、リラのほうへと歩いていく。
「羽月! 戻るんだ!」
「──羽月!」
 村人達が口々に彼の名を悲鳴のような声で叫ぶけれど、羽月は振り向こうとすらしなかった。
「……君は?」
「──羽月さん……」
「少なくとも、貴方よりは……リラさんを愛している者だ」
 考えていた台詞を一瞬忘れそうになるほどの真っ直ぐな言葉を、常よりも真剣さを帯びた表情で言い切った羽月に、遠夜は一瞬呆気に取られて目を瞬かせた。気を取り直すように髪をかきあげ、次の台詞までの『間』を作る。
 演劇を超えた単なる『(従)兄弟喧嘩』になりそうな予感は、とりあえず置いておくことにした。演じている当人達が楽しまなければ、観客達も楽しめないだろうと──そんな理由はこじつけに過ぎなかったかもしれないし、羽月にしてみれば色々な意味で楽しむどころではなかったかもしれないが。
「……なるほど、僕とリラが結婚するのを黙って見ていられない?」
「当たり前だろう、リラさんはわた──俺、の、許嫁だ。リラさんに酷いことをするというのなら……俺は、例え貴方であっても」
 遠夜が笑いを堪えるように口元に手を添えた。それすら演技の一環であるかのような、さりげない仕種だ。
「酷いことなんかしないさ。それに、僕も彼女のことは気に入った。彼女もどうやらそうらしい。ねえ?」
「それは、貴方に逆らえないからだろう」
 あっさりと言い捨てた羽月に、遠夜の瞳が細められる。リラの肩に手を回し、そっと抱き寄せるようにして──耳元で何か囁いたが、もちろん羽月には聴こえない。心なしか憮然としたような表情は演技か本心か。
「……そう、彼女はとても聡い子だから。僕の申し出を断ったら君達がどうなるか、わかっているのかもしれないね」
「っ、貴方という人は……!」
 咄嗟に剣の柄に手をかけた羽月に、遠夜は満足そうに笑った。同じように腰に帯びた剣の柄を握り締め、
「それならば──どちらが彼女に相応しいか、ここで決めようか。羽月といったね。さあ、剣を抜くんだ。僕は回りくどいのは好きじゃない。だから手っ取り早く、これで決着をつけよう。異論は?」
「──ない」
「手加減してくれよ?」
「無理な話だ」
 羽月と遠夜は同時に剣を抜いた。そっと目を閉じ、剣に願うのは果たしてどのような気持ちか。
 BGMが剣戟のそれをイメージしたようなものに切り替わった瞬間、二人はやはり同時に飛び出した。

 舞台用の、もちろん刃のついていない剣を、遠夜は大袈裟なまでに振りかぶり、羽月がそれを僅かに身を低くして受け止める。切り返す動作にマントを翻らせ、翼を羽ばたかせ、流れるようにわざわざ回転しながら羽月の追撃をかわす遠夜。足を払うように繰り出された横一線の反撃を、羽月は大きく飛びのいて避けた。互いに目配せを一つ、踏み込みは同時。
 普段から練習している劇団員にもそう簡単にできはしないだろうと思わせるような、見事な呼吸、完成されたような美しさだった。振りかざした剣にスポットライトの光が反射し砕け散る。それはもう、ベルガモットだけでなく間近で見ているリラまでもが、言葉をなくし魅入ってしまうくらいには。
 息をする間も忘れてしまいそうな戦いはどれほどの間続いていただろう──不意に、羽月がリラのほうをちらりと見やった。リラははっとして胸の辺りで握り締めていた両手に力を込める。
 この戦いを止めることができる者がいるとすれば、それは、『彼女』だけだ──
「もう、二人とも……やめて……!」
 リラは泣き出しそうな声でそう叫ぶと、ドレスの裾を引き摺りながら迷わず羽月の側に駆け寄った。躓いてよろけてしまったその身体を、羽月はしっかりと抱き止める。
「……リラ、さん」
「ごめんなさい、ごめんなさい……王子様、ごめん…な、さ……っ」
 震え、怯えているようなリラの声。しかしそれに頷いた遠夜の眼差しは、どこまでも穏やかで優しかった。
「それが君の答えだね、リラ」
 やっと聞くことができた、と、遠夜は満足そうに笑って剣を収める。
「すまなかったね、二人とも。何、負け惜しみは言わないさ──帰ろう、シノン。僕達の世界へ」
「──仰せのままに」
 そして翼ある者達は舞台から降り──あとには、二人だけが残される。
「……羽月さん、大丈夫…でしたか?」
「ああ、大丈夫だ」
 静まり返った舞台、スポットライトに照らされた、二人。我に返れば恥ずかしいことこの上ないのだが、このままでは終われないのもまた、事実であるから──
「リラさん……あの歌を、歌ってくれないだろうか? ……今は、皆のためではなく、私だけのために」
 柔らかな髪に口づけて、羽月は彼女の歌を求める。
 リラは擽ったそうに微笑みながら、その言葉に応えて口を開く。


     ※


   祈りは空へと放たれ、歌は祈りを抱いて空を翔ける。

   今ではない何時か。
   此処ではない何処か。

   それは何時か何処かで紡がれた、一欠けらの勇気を握り締めた者達の物語──


     ※


 余談ではあるが、この一度きりの幻の公演の噂もまた、瞬く間にエルザード中へと広がったらしい。
 旅団には問い合わせが殺到したものの、ベルガモットは有志冒険者達の素性をついに公に明かすことはなかった。
 後日、改めて本来の役者達による『空の祈り』の公演が無事に幕を開け、追加公演が行なわれるほどの大盛況だったというが、それはまた、別の話だ。



Fin.



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 登場人物(この物語に登場した人物の一覧)

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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0277/榊 遠夜/男/18歳(実年齢19歳)/陰陽師】
【1854/シノン・ルースティーン/女/17歳(実年齢17歳)/神官見習い】
【1879/リラ・サファト/女/16歳(実年齢20歳)/家事?】
【1968/ロレッラ・マッツァンティーニ/女/16歳(実年齢19歳)/旅芸人】
【1989/藤野 羽月/男/16歳(実年齢16歳)/傀儡師 】

【NPC/ペスカトーレ・ベルガモット/男/ベルガモット劇団団長】

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 ライター通信

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お世話になっております、ライター羽鳥です。
この度は『空の祈り』へのご参加、まことにありがとうございました。そして何だか色々と、具体的に言うと作品自体の拙さとかが本当に申し訳なく…(平伏)
ややこしくなるだろうかと役者名=PC様方のお名前をそのままお借りする形となりましたが…な、何だか色々な意味でややこしくなることに変わりはなかったようです…!

>シノン・ルースティーンさま
いつもお世話になっております。そして今回もお世話になりました!
シノンさんには今回、王子さまに仕える侍女=リラ姫の世話役=ナレーションと三役をこなしていただきました(文の頭三文字分空いている部分が一応ナレーション…の、つもり…です)。スポットライトを浴びるとやる気が出てくるようなタイプではないかと勝手に想像しながら書かせて頂きました…が、いかがでしたでしょうか。

色々な意味で初挑戦の部分が多く、またそれに伴い粗さも目立つ作品となりましたが、どうぞ、お納め頂ければ幸いです。
この度はご参加頂きまして、また、素敵なプレイングを、重ね重ねではありますが、本当にありがとうございました。
このひとときが皆様にとって、少しでも楽しく、素敵な思い出の一ページとして残ったのでしたら、とても、嬉しいです。
またのご縁が御座いますことを…