<東京怪談ノベル(シングル)>


真夜中の淑女
 まだ夜も浅い内は気軽な居酒屋として賑わっていた「お気楽亭」も、夜の深い頃合を迎えれば、その顔を静かなバー ──「気楽」へと姿を変える。
 顔馴染みの者たちが、或いはふらりと立ち寄ったものが、気兼ねなく飲める場所。
 今宵もその場所は変わらず、矢張り今宵もまた、幾人かの客が立ち寄り酒を飲み、そして立ち去った。

 カウンターに指先を滑らせながら、バーテンであり店主でもある蒼い男──ルーンは小さく嘆息する。
 そろそろ看板の頃合かと、そんな事を思い始めた時間。
 一人きりの空間で幾分かぼんやりしていたその耳に響いたのは、店のドアに取り付けた小さなベルの音だった。
 おや御客かナ、とルーンは視線をドアの方へと滑らせる。
 いつものように微笑を浮かべ、いらっしゃいませと声を掛けようとして──ルーンは、一つ瞬きをした。
「────……、」
 ルーンの視線が向く先に佇んでいたのは、身なりの良い婦人だった。
 目元は目深に被った大きな鍔付きの帽子で見えない。更には薄くヴェールが顔に垂らされ、その表情は霞んで見えた。
 麗しい色合いのルージュが引かれた唇が、ゆったりと持ち上げられる。
 鈴を転がすような声音で、婦人──否、貴婦人は言う。
「一杯、頂けて?」
 帽子の内側に結い上げているらしい髪の毛、その後れ毛を上品にかきあげながらの言葉。
 豪勢な金色のそれに目を奪われながらも、ルーンは微笑を崩さぬままに頷いた。
「勿論ですヨ、御婦人」
 この界隈には似合わぬその貴婦人を、す、と差し出した掌にて、カウンター席の一つへと誘う。
 完璧な角度で乗せられている帽子は薄いクリーム色で、纏うドレスと同じ色のようだった。
 パニエか何かで膨らませているらしいドレスが、婦人が足を運ぶたびにふわふわと揺れる。
 磨き込まれたスツールへと、婦人がゆったりと腰掛けた。
「ご注文は」
「何でも。でもそうね、バーテンさん──貴方の御薦め、なんて如何?」
 可憐な仕草で笑う婦人の口許からは、その年齢を推し測る事は出来ない。
 不思議な御婦人だと──そんな事を思いながら、ルーンは後ろの棚から幾つかボトルを選り抜いた。
 婦人が楽しそうにバーテンの手元を覗き込む中、銀色に鋭く輝くシェイカーの中へと酒を落としてゆく。
 マドラー伝いに落とされるそれは、目分量ながらも的確だ。手元から伝わるものだけで、少なくともカクテルくらいは作る事が出来る。
 緩やかに目を伏せ、ルーンはシェイカーに蓋をする。慣れた手つきで軽やかに振れば、ぱちぱちと婦人が楽しそうに拍手をした。
 小振りのグラスに出来上がったカクテルを注ぎ、小さな果物を添えて婦人へと差し出す。
「どうゾ、レディ──それとも、マダム?ふふ、無粋カナ」
「あら、無粋よ、バーテンさん。でも良いわ──秘密だけどね」
 婦人がグラスを典雅な仕草で持ち上げ、そのルージュに濡れる唇をそっと添える。
 小さく嚥下すれば、ほう、と満足気な溜息が漏れ落ちた。
 そんな仕草を含めて婦人を見定めようと、ついルーンの視線が興味を伴って差し向けられる。つと遣る視線に婦人が気が付けば、小さく笑って小首を傾いだ。カウンターにグラスを置く音が、かち、と聞こえる。
「不躾ね」
 でもまあ良いわと呟いて、婦人はカウンターに肘を乗せる。
 手の甲の上へと顎を添えながら、ねえ、と婦人はバーテンに問うた。ヴェールの向こう側は、不思議とぼんやり霞んでいる。
「くだらない昔話に、付き合って頂けて?」



 或いはそれは、昔話。
 或いはそれは、噂話。
 どちらにしろ確証は無く、どうせ裏通りにたむろする娼婦たちの夢物語だろうと誰かが言っていた。
「ほろ苦い恋物語──……」
 宝石粒が絞られた証明に煌めき、声が紡がれる。
 かつての昔、この界隈で起こっていたという連続通り魔事件。
 いつも狙われるのは、着飾った若い娼婦──そのどれもが、背中をばっさり一太刀。
 事件を捜査する者は多数いた、けれど誰であれ最後にはこう言った。
「“どうせ娼婦だ、殺されたって構いやしないさ”……」

 婦人はカクテルで喉を潤しながら、尚も言葉を続ける。

「けれど、“巻き込まれた者”がいるのは、御存知?」
 悲劇は二人の男女を襲った。
 裏通りに住む小間使いの青年と、麗しい貴婦人の恋物語。
 引き裂かれたのは、その二人の間にあった、切ない慕情。
 裏通りにいてもおかしくないように、貴婦人は変装をしていた──年若い娼婦のように。
 美しい少女と逢っていても目立たないように、青年は変装をしていた──黒い布をすっぽりと引き被って。
「そう、悲劇としか言いようがなかった」
 麗しい貴婦人は背中をばっさり一太刀、誰かにやられて命を落とした。
 彼女の悲鳴を聞いて駆け付けた青年は、運悪く居合わせた他の娼婦に指差されてこう言われた──“人殺し!”。
 美しい少女は貴族の館で手厚く葬られたけれど、青年の行方はちっとも知れない。
 いまも尚、年若い娼婦たちの間で熱っぽく囁き交わされる、そんな悲恋の物語。



「──良くある話ね、」
 柔らかく締括って、婦人はグラスをカウンターへと置いた。中身はもうない。
 緩やかな時が穏やかに流れる店の中、ねえ、と婦人は黙っていたルーンに問い掛ける。
「貴方はこの話、信じていらっしゃる?」
 裏通りを庭とするものであれば、大抵が知るこの話。
 ルーンは緩やかに笑みかけて、そうしてそのまま頷いた。
 言葉は無い。
 ただ至極穏やかに、頷いただけだ。
 受け取る彼の微笑みに、婦人はにっこりと嬉しそうに笑む。──そう、まるで自分の事のように。
 ヴェールの奥で揺れる気配が、柔らかなものへと変化した。
「夜更けにごめんなさいね──……そろそろ、御暇させて頂くわ」
 深く染み込む様な声音で告げた婦人は、緩やかな足取りで立ち上がる。
 スツールから立ち上がったその身体が、くるりと扉の方を向く──向けられた婦人の背中に、ルーンは目を細めた。
「有難う。カクテル、美味しかったわ」
 振り返らぬ侭に婦人が呟く。
 それを合図にしたかどうかは推し測れる域ではなかったが──婦人の身体が、ゆら、と揺らいだ。
 扉へ向けて歩き出したその身体は、薄く金色の光に覆われている。
 夜の闇には明るいその色に、ルーンはゆったりと瞼を伏せた。
「──……また、お越し下さいマセ」

 背中に一太刀の傷を持った貴婦人は、その言葉を聞いたのか。
 それは解らない事ではあったけれど──少なくとも、カクテルには満足してくれたらしい。
 光が消えてゆく気配と共に、ルーンは一度、穏やかに口端を吊り上げた。



- END -