<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


記者の悲劇 逃げた文字

 石畳のアルマ通りを素足でぺたぺたと歩きながら、千獣は白山羊亭に向かっていた。通
りは多くの人で賑わっていた。太陽は中空に昇り、街路樹の木漏れ日が道の端にのびてい
た。建ち並ぶ店の飾り窓には色鮮やかな天然石や異国の雑貨など趣きのある品々が品良く
並べられていた。
 千獣はふと歩を止めて、人集りができている白山羊亭の側を怪訝に眺めた。人集りの大
半が野次馬のようで、彼らは白山羊亭の入口や窓から懸命に店内を覗き込んで顔に懐疑の
色を浮かべながら情報を交換し合っていた。千獣が白山羊亭に入ろうと彼らの間を縫うよ
うにして進んでいたとき、周囲の声から店内の様子が窺えた。どうやら記者の男が何か騒
ぎを起こしたらしい。千獣が中に入ったとき、白紙の原稿用紙を持った男が慌ただしく店
内を走り回っていた。彼は他の客のテーブルに突然飛び込んだり、床に伏せたりしながら
何かを追っているようだった。そんな様子を客たちは呆れ顔で眺めて、ウェイトレスのル
ディアはどうしていいか分からないといったふうに困った表情を浮かべておどおどしてい
た。
 ルディアは店の入口で呆然と立ち尽くした千獣を見て、急いで側にやってきた。彼女は
ぎこちなく微笑んだ。
「いらっしゃい!」彼女の声は不自然に上擦り、目は落ち着きなく何度も男の方に向けら
れていた。「お食事ですか?」
「うん……でも、騒が、しい、みたい、だから……サンドイッチ、買って、帰る……」
ルディアは俯いてため息をついた。
「そうですよね。すいません、今日はちょっと事件があって」彼女は力なくそう言ってか
ら、気を取り直すように手をぱんっと叩いた。「すぐにサンドイッチ持ってきますから、近
くの席に座って待っててください」彼女は調理場の方に駆けて行った。
 千獣は席には座らずに、しばらくその場で男の様子を眺めていた。彼は相変わらず店中
をどたばたと駆け回っていた。苦心に満ちた表情から、未だに目的を果たせていないこと
が分かった。
 千獣は前を通りかかった男の肩をぐいと捕まえた。すると駆けることに夢中になってい
た男は驚いてその場に倒れ込んでしまった。彼は夢から覚めたみたいにはっとした様子で
千獣を見上げた。
「ずっと、なに、してるの……?」と千獣は尋ねた。
男は自分がしていたことを思い出したのか、ばつが悪そうな顔をして頭を掻いた。
「いや、ちょっと探し物をね」彼は千獣から目を逸らしながら立ち上がって辺りを見回し
た。
「私、も、探す……?」千獣がそう訊くと男は振り返って彼女の両肩を強く掴んだ。彼は
顔に喜びの色を浮かべていたが、そこには微かに陰のようなものがあった。
「手伝ってくれるのか!」男は歓呼の声を上げた。「助かるよ。夕方までにどうにかしない
といけないんだ」彼はルディアが届けにきた紙袋に入ったサンドイッチを勝手に受け取っ
て金を支払うと、それを千獣に手渡した。千獣は軽く会釈をした。
 男は目を細めて再び店内を見回し始めた。
「なに、探してる、の……?」
「俺が書いた白山羊亭紹介原稿の文章だ」彼は店内に向けていた目線を千獣に向けた。「雑
誌で店を紹介する小さなコーナーを担当していて、その原稿を今日の夕方までに届けない
といけないんだが、原稿用紙から文字が逃げちまったんだ」
千獣は目をぱちくりさせた。
「文字……逃げる……? どうして……?」
「俺は文章を書くのに生きたインクを使っているんだ。このインクは使う人間の心と同調
して自然と文章を豊なものに補正してくれる。使う人間の素質が大きく影響するから誰に
でも使えるわけじゃないんだがね」彼は手に持っていた白紙の原稿用紙に目を落とした。
「生きているインクとは言っても、いつもは紙の上で大人しくしているんだ。だが、どう
いうわけか今日は勝手に動いてどこかに行っちまった。店の中で走り回っている奴は原稿
の一部に過ぎない。他の奴らは店の外にいるはずだ」
「……文字、もう一度、書かない……?」
男は首を横に振った。
「同じ文章は書けないんだ。それにあれ以上のものはもう考え出せない」
千獣は頷いた。
「文字って、どこに、逃げる、の……?」彼女は白紙の原稿用紙を引張りながら訊いた。
男は原稿用紙から手を離した。
「文字がある場所に逃げる傾向があるらしいんだ。たとえば」彼は他の客のテーブルから
メニューを取り上げた。「これとか。あと書籍とか、看板とかな」彼はメニューを戻した。
「生きた、インク、ある……? 匂い、覚えて、探して、みるから……」
 男は原稿用紙が積み重ねられたカウンター席まで行ってその上に置かれていた台型のイ
ンク瓶を取って戻ってくると、それを千獣に渡した。千獣は蓋を開け、瓶の中に少しだけ
鼻を入れて匂いを嗅いだ。彼女は瓶から鼻を出すと神妙な顔つきをして、まるで物を咀嚼
するみたいに鼻を動かして何かを考えるように遠くを見るような目をした。そして思い出
したようにまたインクの匂いを嗅いだ。それを何度か繰り返し、やがて彼女は満足げに頷
いた。そのとき鼻の先にインクが付いていたが、生きたインクは人見知りの犬が小屋に戻
るみたいにすっと瓶の中に入っていった。千獣は蓋を閉めて瓶を男に返した。
「捕まえた文字はその原稿用紙に貼付けてきてくれ」と男は言った。
「……分かった」千獣は小さく頷いて応えた。それから彼女は鼻をひくひくさせながら辺
りを見回し始めた。その姿はまるで犬のようで、男は少し驚いたように、他の客は興味深
げに彼女を見ていた。彼女はその場で一周匂いを嗅ぎ終わると、何かを確かめるようにカ
ウンターの方に向かって頻繁に鼻を動かし、やがてカウンター席で紅茶をすすりながら文
庫本を読んでいる若い女性の側まで歩いて行った。女性が不審の目で見ているのも気にせ
ず彼女は本の表紙のタイトルの下に張り付いている一文をテープを剥がすように爪で挟ん
で引張り取ると、それを白紙の原稿用紙に貼付けた。黒色の文字は最初からそこに書かれ
ていたように自然と紙に馴染んだ。彼女は男のもとに戻った。
「こういう、ふうに、……集め、れば、いい……?」千獣が男に原稿用紙を差し出すと、
文字がふわっと浮き上がった。彼女は慌てて原稿用紙を引き戻して手で文字を押さえた。
「嫌がって、る……みたい」千獣は呟いた。男は表情を硬くして、冷や汗をかいていた。
「いつも、は……文字、逃げない、のに……今日、は、逃げた、んだよね……? 何か、
が、いつもと、違った、の、かな……文字、集めて、くる、間に……心、当たり、ないか、
考えて、おいて……」
男はどことなく悲痛な表情を浮かべて力なく頷いた。千獣は観察するようにしばらく彼を
眺めていたが、やがて原稿用紙を持って白山羊亭から出て行った。
 千獣は微かに香る生きたインクの匂いを辿りながらアルマ通りを歩いていた。通りは看
板をはじめ、新聞、雑誌、びら、商品の値札など多くの文字で溢れ、男の助言はあまり当
てにならなかった。ただ匂いの情報は正確で、アルマ通りを出るとすぐに匂いが消えたこ
とから少なくとも文字がアルマ通りのどこかに潜んでいることが分かった。
 微かに匂いが強くなったのを感じて千獣は本屋の前で足を止めた。目の前の飾り窓を見
ると、そこには有名作家の新作の本が陳列されていた。帯に[待望の白山羊亭のサンドイ
ッチついに登場! 感動で涙が止まらない]と書かれていた。千獣は首を傾げながら、注
意深く帯の文字を読み直した。すると[白山羊亭のサンドイッチ]の下に別の文字が隠れ
ていることが分かった。それは本の作者の名前と[最新作]という単語だった。千獣は本
屋に入り、飾り窓の空間に手を伸ばして帯の[白山羊亭のサンドイッチ]を引張り剥がし
て原稿用紙に貼付けた。そして何事もなかったかのように本屋から立ち去った。
 本屋から離れていくらもしないうちに、千獣はまた同じ匂いの変化を感じた。そこはシ
ェリルの店の前だった。壁に掛けられている店の看板には宣伝文句にしてはいささか長過
ぎる文章が書かれていた。それは[早朝のやわらかな日差しが窓からテーブルに伸び]と
いう言葉から始まり、まだ人の少ない白山羊亭でのんびりとコーヒーを飲む心地良いひと
時が描かれていた。千獣は文章を剥がして原稿用紙に貼付けると、まだ残っているインク
の匂いを追って店に入って行った。
 店内はひっそりとしていた。扉を開けたときに取り付けられていたベルが可愛らしい音
色を鳴らしたが、誰かがやってくる気配はなかった。千獣が匂いを辿って商品棚の間を歩
いていると、店の奥でシェリルの姿を見かけたが、彼女は物置部屋に半身を入れて何やら
懸命に作業していたのでこちらの存在に気づくことはなかった。
 千獣は急に強くなったインクの匂いに気圧されて思わず足を止めた。彼女が注意深く周
りの商品棚を調べると、近くの棚に販売されている生きたインクがあった。それは記者の
男が持っていたのと同じものだった。インクの瓶の前には[説明書]と記された小冊子が
あり、表紙に昼の白山羊亭の賑やかな様子が生き生きと描かれた文章が模様のように張り
付いていた。千獣は慣れた手つきで文章を剥がして原稿用紙に貼付けた。それから彼女は
瞳に微かな好奇心の色を滲ませて小冊子を手に取り、読み始めた。
 説明書には記者の男が言っていたように、使う人の素質に応じて文章が豊なものに補正
されるということが主に書いてあった。また注意事項として、インクは使う人の精神状態
に影響されるとあった。たとえば明るい気持ちで使えば文章が生き生きとし、暗い気持ち
で使えば面白味のないものになるといった具合で、特に暗い気持ちが酷いときには文字は
持ち主に愛想を尽かして逃げてしまうという。千獣は店の窓から差し込む陽光が鋭くなっ
てきたことに気づいて小冊子を戻して店を後にした。
 原稿用紙の白紙はほとんど埋まっていたが、まだ数カ所虫食い穴のような空白があった。
アルマ通りからインクの匂いは消え去り、千獣は天使の広場やベルファ通りも歩いてみた
が、成果はなかった。彼女がアルマ通りに戻ってきたとき空は赤くなり始めていた。辺り
は昼よりも人が少なく、行き交う人々の顔には微かに疲れの色があった。千獣の鼻は少し
赤くなっていた。時計屋の屋根に設置された巨大なからくり時計が午後三時を知らせ、小
人をかたどった人形たちが時計から鳴り響く陽気なメロディーに合わせて踊っていた。千
獣は花屋のこぢんまりとした庭園を囲う縁石に腰掛けて、踊る人形たちを眺めながら短い
休憩をとった。そのとき千獣はからくり時計に違和感を感じた。最初のうちそれが何なの
か分からなかったが、メロディーが終わり、人形たちが踊りを止めて時計の中に退散して
行ったときに違和感の正体が分かった。それは文字盤に張り付いた文章だった。文は文字
盤の数字と同じように円形に張り付き、[1調理場から芳ばしい香りが漂ってきて2ウェイ
トレスが踊るように店内を巡って注文を受けている]と家訓のようになっていた。おそら
く微弱であるインクの匂いは高い位置にあったせいで通りまで届かなかったのだろう。千
獣は時計屋の側まで行くと屋根の縁に手を掛け、足で壁を蹴って上にのぼった。通りを行
き交う人々は怪訝な表情で彼女を見ていたが、咎める者はいなかった。千獣は文字盤に規
則的に張り付いた十二個の文章を剥がして原稿用紙に貼付けた。すると文字たちは彼女が
置いた位置とは違った場所にそれぞれ動きだし、やがて本来の文章が形成された。
 千獣は記事を読んではっとした。男の記事は白山羊亭の様子を的確に描き出し、窓の外
に広がるアルマ通りの風景や店内で雑談を交わす人々の姿、ルディアが明るく接客に応じ
ているさまを目の前で起きていることのように鮮明に思い浮かべることができた。彼の記
事はある種の輝きを帯びて、新たな生命のように豊かな表情を浮かべていた。記事を読み
終えた千獣は感動で目を輝かせながら、屋根を下りて白山羊亭に向けて駆け出した。
 記者の男は通りに出て、白山羊亭の壁に寄り掛かってぼうとしていた。彼は千獣の姿を
見ると、疲れたような微笑みを浮かべて彼女に手を振った。
「文字……全部、集め、た……」そう言って千獣は文字で埋められた原稿用紙を男に示し
てから、また文字が逃げないようそれを背後に隠した。「いつも、と……違う、こと、分か
った……?」
男は頷いた。「怒らないでもらいたいんだが」彼は表情を曇らせた。「俺は最初からこうな
ることが分かっていたんだ」千獣は黙って彼を見つめ、彼は物思いに耽るようにしばらく
黙っていたが、やがて口を開いた。「俺は文章を通じて人を楽しませることが子供の頃から
の夢だった」と彼は静かに言った。「今まで俺は満足のいく仕事をやっていると思ってた。
だがいつまで経っても回ってくるのは小さな仕事ばかりで、そのうち人を楽しませる文章
を書くっていう目標が間違っているような気がしてきたんだ。本当はとにかく金になるよ
うな内容を書くことが正しいんじゃないかってな。でも俺はそんな文章は書きたくなかっ
た。そしてそう考えているうちに、だんだん仕事が嫌になってきたんだ。生きたインクは
使う人間の気持ちに影響される。今回文字が逃げたのは、俺が中途半端な気持ちで文章を
書いていたからだと思うんだ。……俺にはもう文章を書く資格はないのかもな」彼は俯い
た。千獣は男の頭をぽんと叩いて、首を横に振った。顔を上げた男は目をぱちくりさせた。
「今、は……目に、見えない、かも、しれない、けど……あなた、が、信じて、いるもの、
は……きっと、ある、よ……あなたの、記事、輝いて、た……生き、生き、して、た……
だから、文章、書いて、る、ときは……あなた、の、気持ちも、輝いてる、と、思う……」
千獣は優しい微笑みを浮かべて、原稿用紙を男に差し出した。
「自分、の……夢、と、仕事、に……誇りを、持って」
男は繊細なガラス細工を扱うように優しく丁寧に原稿用紙を手に取った。文字は眠るよう
にその場にとどまっていた。彼は微笑み返して、千獣の手を強く握った。
「ありがとう」
そして彼は自分の目指すべき場所に向かって走り出した。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

整理番号:3087
PC名:千獣
性別:女性
年齢:17歳(実年齢999歳)
職業:獣使い


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■         ライター通信          ■
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ご注文どうもありがとうございました。
楽しんで頂けたら幸いです。
また機会があればお会いしましょう。