<東京怪談ノベル(シングル)>


言の葉、かけらの行く末は

 ――月が、ぼんやりと輪郭を揺らめかせている。
 今宵は朧月夜だ。

 千獣はいつもの森の樹の枝に登り、膝を抱えてしゃがみこんでいた。
 心の中が熱い。その熱は、たったひとつの言葉で起こるともしび。

『あいする』

 樹の精霊に。
 ――そして森の彼に言われた言葉。
 初めて、言われた言葉。
 それは不思議な不思議な言葉。なぜくれた人によって温度が違うのだろう? 『同じように大切な』人に言われた、『同じ』言葉なのに。
 なぜ、違うのだろう?

 朧月夜はぼんやりと、千獣を見下ろしている。
 今夜の心はともしびのように明るく熱く、そして朧月夜のようにあやふやだ。

『あいする』

 その言葉の意味を……
 誰かに、訊いてみようか。
 それとも……

 言って、みようか。

 誰に?

 急に朧月がはっきりと見えた気がした。
 ともしびが、炎に変わった気がした。
 自然と浮かび上がってきた人の面差しに、心が揺れる。揺れる。大きく揺れる。
 あのとき……
 好きと、答えられなかったときのようで。
 否、そのとき以上のようで。

 今、目の前にいるわけでもない。
 ましてや口にしたわけでもない。
 それなのにこんなに揺れて。揺れて揺れて、大きく揺れて。

 こんなにあやふやなままでちゃんと、本当に言えるのだろうか。

 朧月が再びぼんやりと輪郭を揺らした。
 ともしびはちりちりと、胸の奥をくすぐっている。

 ……でも。
 もし彼を前にして、ちゃんと言えたら。
 そのとき、彼はどうするだろう。

 不安はいつだってある。不安だらけの心の中。
 その不安をともしびが照らし出す。心の中に、たしかにあるそれら。

 けれど、もう。
 不安だからと、逃げ出すほどでは、なくなった。
 もう逃げ出せない。
 もう逃げ出さない。
 不安以上に心を照らし出す何かが、たしかに自分を包み込む。
 朧月夜のようにやんわりと。はっきりとしない、けれど優しいそのぬくもり。
 不安に勝るたしかなものが、この胸の内にあるから。

 だから、ちゃんと彼の前に立って、彼の目を見て、そして――……

 彼はどうするのだろう?
 初めて会ったときには、こんなことになるとは露ほどにも思わなかった。
 ――いつから始まったのだっけ。そんなことを考えてみる。
 そうだ、あのとき。あのとき彼が自分の耳飾りに触れた、あの瞬間から。
 ――彼の唇が耳元に触れた、あの瞬間から。

 怖くなった日々があった。彼に己の本当の姿を見られるのが。
 知られたくないことが多くなった。なぜだか、彼の目が怖くなった日々もあった。
 あんなに心地よかった森の色の瞳が――
 けれど同時に、心が彼から離れられなくなった日々もあった。今、まさに。
 知らなかった言葉をたくさんくれた彼。
 知らなかった心をたくさんくれた彼。

 一番大切だった、自分を『人間』にしてくれた彼と老子さえもかすませて。
 彼ら以上に色々な『人間』である証明をくれて。

 揺れて揺れて、月明かりに照らされ揺れて、とまらなくなったふりこ。
 火種は心の中に永遠と。
 大好きな森と同じ色をした、彼の瞳を。受け止めるたびに高鳴った鼓動。
 見上げる天上。月はいつでも、自分の心と同じで。

 今宵は朧月夜――

 やんわりと光る月。穏やかで優しくて。切なげで儚くて。
 触れたら消えてしまいそうで、また触れたらくっついて離れなくなりそうで、
 私を困らせる。困らせる……

 考えたらくすっと笑いがこぼれた。
 そう、あの月のように。彼は私を困らせて。
 そしてあの月のように、決して消えることはない。

 彼はいる。いつものあの場所に。
 彼はいる。私を前にしても逃げることなく。
 だから、ちゃんと彼の前に立って、彼の目を見て、そして――……

 あい、する。
 その言の葉のかけらを、この胸に抱きしめて、ぎゅっと。
 きっと自分はあの人の前に立てる。
 あの人の瞳をまっすぐ見て、
 この胸に宿るふりことともしびを、彼に見せよう。
 自分がどれだけこれらを大切に思っているかを教えよう。
 そして、大切な大切な言の葉を。

 それを解放したときに、自分はきっと幸福になれる。
 森の色の瞳を思い出せば、なぜか自然とそう思えた。
 早く解放してしまいたい。早く解放して、そして彼の腕の中へ――

 ……でも、その前に。
 千獣は視線をおろし、呪符に巻かれた腕を見る。
「みんな……」
 体の中には無数の獣。
 うなり声をあげている。うなり声をあげている。
 千獣が『人間』に近づくたびに、反発して苦しくなる。
 この子たちを、決して暴れさせてはならない。
 外に出すことはあっても、決して暴れさせてはならない。
 うなり声が聞こえる。千獣に反発するうなり声が聞こえる。
 これ以上『人間』になるなと、訴えているような。

 ――本当の自分の姿を決めるのは、千獣自身だと彼は言った。
 私の本当の姿は――どれ?

 月を見上げると、そのときだけなぜか雲がかかって見えなかった。
 朧月夜の消えた夜。

 呪符に巻かれた腕。
 体の中には無数の――獣。