<東京怪談ノベル(シングル)>


Satyr Heart


  さして寒さを感じることもない。
 聖獣の加護の元、聖都とはなんと住み心地のよいものか。
 しかし千獣にとって一般的な感覚など関係ない。
 その時その時、寝るにちょうどよい場所を見つければそのままそこで寝てしまう。
 本日の寝床は森の中の大きな古木。
 木の上はいい。
 攻めるにも守るにも有利だ。
 そして温かい。
 木の息吹をそのまま肌で感じる。
 幹の中を流れる水の音が、ささやかな子守唄。
 ちょっとやそっとでは聞こえないほど小さな、胎動のような水の流れは千獣を眠りへと誘う。
「(……ねむい…)」
 膝を抱え、うとうとしながら舟をこぎ始め、やがて現実から思考の狭間へと移行する。
 闇の中。
 安穏とした、意識の狭間。
 所々に点る灯火のような光の中には、これまで千獣が請け負った仕事の情景が映し出されていた。
 各地を流れ、聖都に落ち着くまでの間に何度か魔物から、盗賊から、身の内に宿る獣の力を使って助けを求めてきた人々にその力を貸した。
 しかし、千獣の絶大なる力の前には、魔物や盗賊のみならず、助けを求めてきた人々にまで畏怖の念を抱かせる。
 事を成して振り返れば、いつも怯えた目で千獣を見つめる。
 まるで先ほどまで彼らを襲っていた魔物を見るような目。
 人でなしの謗りを受けることもしばしばあった。
 目を見開いて、今にも噛みつかんといった、まるで獣のような剣幕で。
 怯えきった目。
 母親はきつく子供を抱きしめ、子供は恐怖に怯えているのかそのきつさに苦しがって泣いているのかもわからないほど。
 父親は手近な木切れや短剣を振りかざし、家族を守ろうと必死になってこちらに切っ先を向ける。
 助けて。
 近寄るな。
 化け物。
 お決まりの言葉を投げつけられるが、千獣にとってそれはいつものことでしかない。
 何度も何度も。
 連綿と繰り返される、感情と言葉の螺旋。
 助けを求めてきたのはそっちなのに。

 牙をむける者には容赦などしない千獣だが、こういう時は瞬時に興が殺がれる。
 必死で身を守ろうとする子羊たち。
 戯れに追い詰めて息の根を止めてしまう者もいるだろうが、千獣は違う。
 牙には牙を。
 挑む者には対抗する。
 ただそれだけ。

「………」
 咆哮にも似た拒絶の叫びが途切れ、今までのことが全て夢だったと把握するのに数分かかった。
 短くもあり、長くもある、そんな泡沫の夢路を彷徨うのにどれほど時間を費やしたのだろう。
 気がつけば、空が薄っすらと白み始めている。
「……」
 ため息一つ。
 それは諦めでも悲しみでもない。
 辟易にも似たため息。
 決してそれだと断定するわけでもなく、ただ、それに近いというだけ。
「体の中に獣を飼うのと、心の中に獣を飼うのと、どっちが“ひとでなし”なのかな」
 それは素朴な疑問だった。
 身の内に千の獣を宿す千獣と、心の内に獣を宿し罵声を浴びせてくる人々と。
 千獣は体を包む包帯を見つめる。
 常に身の内で暴れ、隙あらばこの肉体を乗っ取ろうとする千の獣たち。
 それを抑え込む為の呪符を織り込んだ包帯。
 自ら枷を纏って今を生きる千獣。
 そんな彼女に対し、抑えることなく心の内の獣を解放する人々。
 果たしてどちらが本当に人でなしなのだろうか。
 どちらが化け物なのだろうか。
 身の内で暴れ狂う千の獣が勝手に表に出ないよう、常にその精神力で抑えこんでいる彼女は、紛れもなく人間だ。
 獣に支配されない、強靭な心を持った一人の人間なのだ。

「…………ねむい…」
 柄にもなく、疑問を呟いてみてもその答えが出るわけでもない。
 誰が答えてくれるはずもない。
 目をこすりながら、千獣はまた再びうとうとし始める。
 夢の続きだろうか。
 それとも、また違う夢だろうか。
 見る夢に何を期待するでもなく、夢の為に眠りを拒むことなく。
 今はただ、体が求める欲求に素直に従うだけ。
 次に目覚めた時には日が高く上り、辺りを包み込んでいた闇は打ち消され、温かな日差しで目が覚めることだろう。


 今はただ、身の内の獣と共に眠れ。
 目覚めた時にはまた新たな出会いが、新たな戦いが待っているのだから…



―了―