<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


思いのかたち


 巡るこの世界のなかで、変化を繰り返し、繰り返し、根底でずっと変わらぬ思いの、結びを。

 ***

 ――冷ゆる季には。
『 ナンテン(南天) ―Nandina domestica ―目木科 ―常緑低木・初夏に花・冬に実
  ……昨日、羽月さんがいったとおり、深夜からの雪で、お庭はまっ白。/小さなお山がいくつもできていたのはかわいいけれど、庭の隅の南天に被った雪だけは払っておきました。/鳥さんは今日も来てくれるでしょうか 』
 ただ一面を白く残しただけの一頁。次には赤の点を散らして、遠い空にも散らすのは、鳥影、横様に一羽が、赤を目指して飛来する。それに釣られての羽音があるかは、書を洩れての話のうちに。

 ***

 パン屋の店主に指摘されて、リラ・サファトはそっと自分の眉間に手をやった。なんでもないんです、と微笑んでから店を後にして――ほう、と溜息をつく。
 腕に抱えた紙袋からは香ばしくよい香りがして、それにふと眼差しは和らいだのだが、すぐに元の表情に戻ってしまう。軽く眉を寄せた思案顔。ここ数日ずっと悩んでいたせいで、もしかしたら、さっきパン屋さんにいわれたとおりに痕ができているかもしれない。帰ったら鏡を見てマッサージでもしてみようかと、なかば本気で考えて、次の買い物へと街中をふたたび歩きだす。

 悩み事は、年の瀬も近いとある、大切な日のこと。
 12月13日。
 その日は、最愛の夫の誕生日なのだ。

 もちろん彼の好きな料理をたくさん作って、甘さ控えめのケーキを焼いて、飾り立てたテーブルでお祝いするつもりではある。
 問題は贈り物だ。冬のことだからと、そろそろ本格的に寒さをます風に、まっ先に浮かぶのは防寒具の類だった。けれど毛糸ものは既にあげたことがあるし、着るものばかりというのもどうだろう。かといってアクセサリーを好んで身に着けるタイプでもない。
(私が贈ったものなら、喜んで着けてくれるかな)
 思ってみたが、そんなところで僅かでも要らぬ気遣いをさせたくはなかった。
 まずは料理。
(あとは……残るものが、いいよね)
 身のまわりの小物やら、彼が普段使う道具やら、足りないものや、増えても困らないものをあれこれと挙げては消してゆく。
 それがちょうど二十を超えたあたりで、街路の外れに出た。考え事が度を過ぎて、種々のお店を素通りしてしまったらしい。いけない、と肩を竦めて、民家の庭先に白く零れる柊の花を見ながら方向転換する。
 街路の端は小さな本屋だ。新しく刷られたものなのか、店頭に幾冊か厚い本が積まれている。横を通る際、何気なくその本の表紙を眺めて、ふと足が止まった。タイトルとともに様々な色形の石が描かれている。鉱石に関する図鑑のようだ。
 リラは図鑑を見るのも好きだった。普段目にする花や木や鳥たち、雲の名前でさえ、それには記されている。あの花、が特定の素敵な名を持つことを知ったり、開花の時期や、花に纏わるエピソードなども添えられていると、とてもわくわくする。
 思わず手に取ってぱらぱらとめくっているうちに、先ほどまでずっと悩んでいたのが嘘のように、その考えに至った。
 オリジナルの図鑑を贈るのは、どうだろう?

 ***

 ――草木の芽があおあおと張りゆく季には。
『 ヒシャクボシ ―柄杓星 ―北斗 ―七つ星
  ……羽月さんと一緒に、ひとつ、ふたつ、みつぼしと、数えるうちにずいぶんと夜更かししてしまいました。/次の日に咳をしていたので生姜湯を作ってみます。/でもまた、夜には新しい星の名前のお話を聴いています 』
 春の星座は猛き獣が天を目指す。それもリラの優しい絵筆は、動物たちの戯れ合いにも見せて、暗い背景に青や赤、白の点が置かれた絵は、あとから細い線で辿られるだろう。

 ***

 最近、妻の様子がおかしい。
 藤野羽月は庭いじりを終えて縁に腰を落ち着かせると、ちらと視線を座敷の奥にやった。こちらに背を向けてなにやら書き物をしているらしい妻の肩で、やわらかな髪がその熱心さを示すよう揺れている。
「リラさん」
 作業の邪魔をするつもりはないが、朝食も早々に切り上げて、そのうえ昼食もまだ取ってはいないはずだ。それはもう一週間近くつづいていて、最初は心配になにをしているのかと訊ねたものだが、頑なに首を振られてしまってはそれ以上強く質せるわけもない。ただ懸命に手を動かすその横顔に浮かぶ笑みで、楽しんでいるのなら良いか、と自分を宥めるだけである。
「リラさん」
「は、はいっ」
 四度目の呼びかけでようやく振り向いたリラは、慌てて手許と羽月の顔を交互に見た。その仕種に内心苦笑しながら、羽月はなにも気づかぬ風を装って立ち上がる。
「そろそろ昼食にしようか」
「あ、そうですね……もうそんな時間でしたか」
「……作業の切りの良いところで構わない。私もそう、腹が空いているわけではないからな」
 言い添えると、ぱっと笑顔になったリラの返事を聞いて、羽月は庭をまわって玄関を目指した。ほんとうは、もうおやつの時間といってもいい刻限で、羽月の腹の虫も騒ぎ始めているのだが。
(もう少しの辛抱だ……おそらく)
 遅い昼食と、それにこの忍耐の期間もそう間を置かず終わるだろう。
(それにしても)
 妻にあまり相手をされなくて、少しだけ、寂しかったりするのだった。

 ***

 ――熱き季には。
『 スイフヨウ(酔芙蓉) ―Hibiscus mutabilis cv. Versicolor ―葵科 ―落葉低木・夏から秋に花
  ……夕暮れが近づくと花が気になって何度もお庭を眺めます。/朝は白く、だんだん赤みを帯びていく花の色が酔ったようだからと名前になったそうです 』
 蝉時雨の向こうに手を伸ばし、陽の色を吸った花色は、遅い日暮れの朱に少しでも近づこうと身を染める。
 二段に分けて描かれた花は、上は薄衣の折りをつけた白色、下段は伏した皺の薄紅に淡く色を乗せられて。他にも大輪の日車や朝顔で盛夏の庭の賑々しさを伝えている。

 ***

 机に広げた何枚もの画用紙を前に、リラは筆を走らせては止め、首を傾げて、日記帳を開き、また筆を執り、と少しずつ作業を進めていった。
 まっさらな紙に記されるのは、草木や夜空――星の絵と、それに添えた短い文章。
 毎日付けている日記を見返しては、庭で季節ごと千変万化する樹木、二人出掛けた先で目に付いた花、羽月に教えられた星の名前と伝承を掬い、描き、残してゆく。
 図鑑の頁を繰るたびに、星は廻り、草花は次々と咲いては枯れて、実を成し落ちて、また生まれる。本の世界は冬から生じて、また終わる予定だ。表紙をめくった最初の頁の季節は詳しくもう決めてあった。
 それは、去年の12月13日から、始まっている。

 ***

 ――紅衣を見る季には。
『 ヤライボシ ―遣らい星 ―矢来星
  ……七つ星が、北の子の星を食べようとするのを、遣らい星が防いでいる、という伝承があるそうです。/だから、七つ星は鬼星ともいうのです。/秋はもっとも星が見えにくい季節。/高台で夜空を眺めました 』
 紅葉の次に広がる紺地の面。明るい光を繋ぐ線は、春の柄杓を小さくしたもうひとつにも見える。まだ幼い熊の絵が、横に重なるように据えられた。

 ***

 そうして、また、冬。
 師走も折り返しを前に、月よりは年の重みを感じさせるその日。リラは陽も昇りきらぬうちから台所で忙しく動きまわっている。無論それは羽月も知っていたのだが、メインとなるのは陽が落ちてからだと心得ていたから、やはりなにもいわずに蒲団のなか、遠くも近しくもない炊事の音にいつもより遅い起床となった。
 表向きは普段の穏やかな一日が流れ、昼食を終えて、この日は羽月だけが散歩に出た。どこか二人の浮ついた気分を察したのか、飼い猫たちはしきりに足許で顔を見合わせては主を不思議そうに眺めている。ただ、嬉しいことがありそうだ、とは、台所から漂ってくる匂いで解したのかもしれない。リラの傍をうろついては、危ないからだめ、と何度も窘められた。
「おかえりなさい、羽月さん」
 帰宅した夫を出迎えて、リラは芝居掛かった動作で家の奥へと招く。
 普段の食卓は様変わりして、新しいクロスの上をいくつもの皿が彩っている。羽月の好物ばかりが、愛らしい盛り付けで主役を待っていた。
 そして料理に目を奪われる羽月の後ろで、リラは改めて名を呼ぶ。贈り物を渡す瞬間というのは、きっと渡す側の方がどきどきするに違いない。自然に零れた笑みのままに、リラは後ろ手に持っていたそれを、羽月が振り向くと同時に差し出した。

「お誕生日、おめでとうございます」

「――ありがとう」
 めずらしく、返事は一拍遅れて。
 眼の前の一冊を前に、驚きと嬉しさで、言葉が詰まった。
 リラが言祝ぎとともに羽月に手渡したのは、なんとか完成に漕ぎつけた世界で唯一の図鑑だ。萌黄色した和紙の表紙は蒼い紐に綴じられて、中央に空白の題簽が貼られている。いとおしむ手つきでそれをひと撫でして、羽月は顔を上げた。
「ここ半月ほど、没頭していた作業はこれだったのか」
「はい」羽月の隣に移動して、促すように図鑑を見つめる。「思い出を……この一年を、かたちとして表せるものにしようって、思ったんです」
 そっと表紙をめくれば、リラの手による絵に解説、その時々の思いや出来事が、一頁一頁、丁寧に描かれている。
「これは……近所の家の、窓辺に咲いていたな」
 羽月が一枚を示せば、
「ノースポール、ですね。今年も綺麗です」
 頷いたリラが応じて、それがいつ、どこで一緒に見たものなのか、すぐに記憶の浅いところへ引き出される。春の野辺を歩いて一輪だけ咲いていた小さな花、夏の海に出掛けて砂浜で迎えた夜の空、遠く望んだ山の秋景色。あのとき、あなたはこうでした。そのときも、あなたはああだった。同じ体験も、振り返ってみれば当然視点の違いと互いの様子がよく知れて。夢中になって頁を送っていたが、それもあと一頁の思い出巡りというところ、
 にゃ――と、すぐ傍にべつの声が唐突に割り込んで、二人はやっと本から目を離した。
 見れば猫たちがつぶらな瞳でじっと視線を注いでいる。
「どうしました?」
 首を傾けるリラに対して、羽月はすぐに察したようだった。
「リラさん、料理が冷める。先に食べてしまおう」
「あ……」
 にゃあ、と呼応するように不満の声をあげた猫は、ひと足先にテーブルの下で尻尾を揺らめかしている。
「えっと……温めなおした方がいいもの、ありますか?」
「大丈夫だろう。まだ十分温かい。――リラさん、あの最後の頁は」
 慌てて食卓に戻ると、羽月は図鑑の最後に挟まれたその頁を訊ねた。隣の部屋で、畳の上に開かれた頁は……隅に一文が書かれただけの、空欄なのだ。
「あれはですね、今日の――」
 言いかけたリラの言葉に重なって、カラン、と小さな陶器の触れ合う音がした。不思議に思って視線を向けた先には、
「茶虎ッ」
 羽月の鋭い声にも悠々とした猫は、器用に畳に着地するとそのまま食卓へやって来る。彼女の尾と一本の脚にはぺったりと色が付着している。机の上に広げたままにした絵の具の皿を、引っくり返したものらしい。
「待て、そのまま歩くな」
 いかな賢き猫とはいえ、人間の言葉を正しく理解するわけもない。
 畳の上に等間隔に点ができることとなった。
 とりあえず茶虎を捕獲しに立ち上がる羽月と、畳を拭こうと手近な布を取り出すリラと。
「あ、本の上にも――」
 今年の誕生日は、少々賑やかなことになりそうだ。

 図鑑の最後の頁には、今日の日付けとともに、猫の足跡が捺されている。
 それはこれから来るだろう雪の下に待ち侘びて、やがて枝先と地一面に溢れ出ず、鮮やかな緑の色彩だった。


 <了>