<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>
【俄か猟師の狂騒詩】−うつろいの守護者−
気紛れな風精と共に駆け抜ける忙しなく鮮やかな狂騒の余韻が消えると、森は密やかに帷をおろした白い静謐の底で次なる季節への幽夢を紡ぎ始める。
刻の沈黙に濾過された上澄みのような大気を透して眺める森は、どこか手の届かない世界の風景画を見るように遠く希薄で。
はらはらと音もなく零れ落ちる紅のひとひらも。燃え立つ季節のいっそ衝撃的なまでの彩は失せ、深味を増した錆色も今はただ儚くもの悲しい。
少し出遅れてしまったようだ。
眠りについた大地を覆う紅葉色の褥に重ねられたばかりの新しい落ち葉を踏むやわらかく乾いた足音を聞くともなく耳に入れ、藤野羽月(1989)はぼんやりとそんなことを思う。
12月の初旬といえば、晩秋から孟冬へと変わる頃。――羽月の生まれたあちらの国では、壁のカレンダーが最後の1頁となって、世間が俄かに慌しくなる時期だ。その忙しい季節に少し纏まった時間を作る余裕ができたのは、やはりこちらがのんびりしているおかげだろう。
時間が出来たのは、偶然だった。
頼まれていた仕事が一段落して次の仕事に取り掛かるまでの空白を埋めるのに、ふらりと旅立つことを決めたのも突然だ。どちらかと言えば、居心地のよい家に篭って妻とふたり静かに過ごすことが多い羽月の、らしくない思いつきに周囲の者たちは少なからず驚いたかもしれない。――いつもなら片時も傍から離さない最愛の人を家に残して遠出を思い立つなんて。
いったい、どういう心境の変化だろう?
羽月を知る人々は皆して首を傾げたが、当人の胸中には周囲があれこれ思い巡らせたほどの思案はなかった。
紅葉の盛りを過ぎた森。そして、ひとりで此処を訪れたコトも。
今少し早く訪れていたなら、穏やかに息づく森が束の間見せる営みの彩を目にすることが出来ただろうと思う。彼女もきっと此処が気に入るだろう、とも。それでも、羽月はこうしてひとり冬枯れの色に染まり行く森の畔に立つ時間を惜しいとは思わなかった。
12月は、羽月にとって特別で。幼い頃は指を折って待ったその日も、今は特に意識せず、さほど強い思い入れを持っているワケでもない。――高揚というなら、陽だまりでふうわりと淡くほころんだ蕾のような愛しい人の生誕を祝った秋口の一日の方がよほど重大で慌しく、無軌道に想いを揺らした。
ただ、粛々と静謐に。心のどこかが刷新されて、背筋が伸びる。《終わり》ではなく《始まり》の、ある種、厳粛な儀式にも似た白亜の季節。それが、羽月にとっての12月だ。
……さく…
踏み出した靴の下。軽やかな音を響かせた枯葉へと何気なく視線を落とし、そこに残された幽かな徴に羽月は唇の端に笑みを湛える。
落ち葉の褥、苔生した古い切り株、霜の残る日陰の小石。そして、蒼穹に響く高らかな百舌鳥の口笛に乗せて。羽月でなければ気づかない……否、羽月の為に。羽月の心にだけ留まるよう残された、形無き誘い。
誰かが、彼を待っていた。
□■
雪が近い。
冷たく研ぎ澄まされた大気に融けた雪精の息吹に気づいたのは、その存在が羽月にとってごく身近なモノだったから。
悠久の中に取り残された石壁は、朽ちかけたその身に幽愁の紅に染め上げられた蔦を纏い。ふわりと風花の舞う高い空を背景に、黒く長い影を大地に落とす。――切り取られたきり、忘れ去られた。そんなどこか寂しい郷愁の色を湛えた場所で、《うつろい行く者》は羽月を待っていた。
月の祭壇――
森の奥にひっそりと立つ石造りの古い遺跡を、《Quelque-Part》の村人たちはそう呼んでいた。
たゆまず巡る刻の環を正しく導く番人たちはこの祭壇にて次なる季節の燈火を灯し、うつろう世界を静かに見守っているのだという。
夏至を間近に控えた満月の晩、森の奥からにぎやかに囃す声が聞こえるとか。大晦日の夜、木々の向こうに新年を迎える篝火の光が見えたとか。誰かが蒔いた噂の中に、人は季節の訪れを知る。――それは、白い鬚をたくわえた厳格そうな痩せた老人であったり、稚い子供であったり。陽気な農婦、鹿を追う狩人、梢を揺らす風の旋律にのせて歌う娘……。
森の中で出会ったその人は、何者だったのか――
足を止め、ひとつふたつ言葉を交わすだけの束の間の邂逅。僥倖を得た者の胸裡にて根を下ろし、真偽を確かめる術はどこにもない。
「おや。人に遇うとは珍しい」
崩れた柱の礎石に腰掛けて眠りについた森の姿を羊皮紙に写し取っていた男は、張り出した太い枝を潜りぬけるようにして遺跡に踏み込んだ羽月の姿にちらりと笑んだ。――羽月を見たのは、一瞬で。押し上げられ僅かに撓んだ枝の先からはらりと降った錆色のひとひらを帽子から払い落とした時にはもう、男の視線は手元の羊皮紙に戻されていた。
鋭く尖らせたペン先が羊皮紙を引掻くカリカリと乾いた単調な音が、森に満ちる静謐をいっそう強く気詰まりなもののように錯覚させる。
穏やかに時間を紡ぐその人を前に、羽月はほんの少し困惑した。
声を掛けるべきか、
あるいは、彼の作業が一段落するのを大人しく待っていた方がいいのか――
一心に何かに打ち込んでいる時には、集中を乱されたくないものだろうから。傀儡師である羽月にも、似たような経験があった。躊躇ってしまうのは、その機微を知っているせいかもしれない。――うっかり他人の領域に踏み込んでしまったようなバツの悪さが、マイペースであるはずの思考リズムを乱す。それに気づいて更に途方に暮れた。
「キノコを探すのに夢中になっていた風には見えないが…」
耳に飛び込んできた穏やかな響きに、羽月は瞬く。
それが自分に向けられた問いだと理解するのに、少し時間を要した。――羊皮紙に向かう男の視線は、ちらりとも羽月をかすめなかったから。
繊細で一本気な芸術家然とした男の声は、意外に深く暖かい。
「道に迷ったのかい?」
完全に迷ったワケではないのだけれど。
戻る方向は漠然と判っていたが、確固たる自信もなかったので黙っていると、彼はふと顔を上げて羽月へと視線を向ける。――深い眼窩の奥から静かに羽月の裡を見つめる眸は、深い鳶色をしていた。
「ここは、森の畔だよ。……村の者たちは《月の祭壇》と呼んでいるがね」
「……ほとり?」
男の言を諮りかね、羽月は僅かに双眸を細める。
葉を落とし、天を目指して伸べられた小枝のひとつまで露わに冬の装いへと変わり行く木々に囲まれたこの場所が、《畔》だとは思えない。
細められた視線の意味に気づいたのだろう、彼は唇の端にほのかな笑みを浮かべた。そして、ひょいと持ち上げたペンの先で森を示す。――葉を落とした広葉樹の木々の間にところどころ散らされた常緑の緑が蒼天の白光に淡く輪郭を歪め、羽月に見えざる壁を透かしているかのような錯覚を与えた。
「ここから先は、人知を超える。踏み込めば道を失い、こちらには戻れない」
海の底、空の上。そして、深い森の奥……
どう足掻いても、人の力の及ばない場所がある。額面どおりの《地の果て》ではなく、道があり、先も見えていた。――けれども、戻ることができないのなら、ないのと同じ。
昔。……と、言っても気の遠くなるような歳月ではない。
羽月は、ある人を探して旅をした。
生まれ育った家を飛び出し、住み慣れた土地を遠く離れて。心当たりを。風が伝える噂を頼りに方々を巡り歩いた。
探して、探して。追いかけて、尋ね歩いて。
地の果て、世界の尽きる所まで流されて……ようやく巡り会った時、羽月は故郷を喪失したことを知った。
自分でも気づかぬうちに、《畔》を潜り抜けてしまったのだろうか。
それを知らせてくれる者はいなかったから。あるいは、知らされて尚、踏み越えることを躊躇しなかったかもしれない。
唐突に生まれた望郷はたちまち膨れ上がって心より溢れ出し、羽月は気づかぬうちに下唇をかみ締める。
「――行ってみるかね?」
羽月の郷愁を見透かしたかのように。穏やかに問うてくる暖かな声に、秋は故郷を偲ぶ季節なのだと改めて知った。
決して良いことばかりではなかった其処が、こうして思い返すと堪らなく懐かしく。至上の楽園のようにさえ思えてしまうのだから、不思議なものだ。
「あちらに。――あるいは、たどり着けるかもしれない」
「…………」
彼が口にしているのは仮定だったが、きっと間違ってはいないだろう。でなければ、彼がこの《森の畔》で、羽月を待っている意味がない。
語るべき言葉を見つけられず、羽月は無言で男を見つめた。
羽月は、もともと《こちら》の者ではない。
渡り鳥が北へ帰っていくように。鮭が故郷の川を探し当てるように。――生れ落ちた地との間に結ばれた絆が、彼を在るべき場所へと導いてくれるだろう。
秋の陽射しを想わせる鳶色の眸は、どこまでも穏やかで。そこにあるのは誘いでも、期待でもなく。羽月の心に委ねる問いだった。
「……戻ったら…」
言いかけて、羽月は口を噤む。
潜り抜ければ、もう《こちら》には戻れない。――彼は、最初にそう言ったのではなかったか。
ふと落とした視線の先、どこか黄ばんで見える羊皮紙には、遺跡から眺めた森の姿が細い線画で描かれていた。彩色はなく、ただあるがまま写し取られた冬枯れの木々は、これから訪れるであろう白い季節の姿を想わせる。
艶やかな色を引き連れ立ち去ろうとする秋が、己の姿に重なった。
新しい出会いと共に、生まれた想い。身を焦がして燃え上がり、塞き止め切れずに奔走した心が流れ着いた場所。紡ぎ上げた思い出は、目眩く紅葉のひとひらよりも鮮やかな珠玉の輝きを持って羽月の記憶を飾る。――ひとりでは想い描くことも出来なかった幸せは、無論、羽月ひとりのものではなくて。
「……私は…戻ら、ない…」
戻れない、ではなく、戻らない。……否、羽月が戻るべき場所は、もう《あちら》ではなかった。
その消息を求めて翼を広げ、ようやく探し出した男。気の置けぬ友情を育んだ者。そして、誰よりも、何よりも愛しい伴侶。羽月が手放したくないと思うものは、すべて《こちら》で見つけたのだから。
恋しくないと言えば、嘘になるかもしれないけれど。
白々と透明な光を湛えた木立を見つめて、吐息をひとつ。羽月は礎石に腰掛けたままの男へと視線を転じた。
「危うく迷子になるところだった。――知らせてくれて、助かった」
感謝する。
微笑んだ羽月に、男はくしゃりと相好を崩した。落胆するでもなく、喜んでいる風にも見えない。謝辞に応えるだけの笑顔に、不思議と心が和む。
「それはよかった」
そう言って、男はくるりとペンを回すと、今度は羽月の後ろを示した。乾いた落ち葉の毛氈に、足跡は残っていなかったけれども。
それでも、きっと迷わずに村へ戻れるだろう。そんな気がした。
「じきに日も暮れる。――今夜のメインは牡鹿だよ。ああ見えて、ブランの料理は美味しいからね。急がないと喰いっぱぐれる」
「それは困るな」
は…と笑声を吐き出して、羽月は躊躇せず踵を返す。
思ったよりも遠いところまで歩いてきたのか、冗談ではなく強い空腹を感じた。足早に歩き出し、ふと気がついて振り返る。男はあいかわらず崩れた柱の礎石に腰掛けていた。
「……あんたは戻らないのか?」
足を止めようとする羽月に、男はあいかわらずのんびりとペンの先で道を促す。開いた口から紡がれた言葉は、折りしも駆け込んできた風精に攫われ、僅かに明度を落とした空へと消えた。
「待ち人が来なくてね」
そう聞こえたような気もしたが、特に詮索する気にもなれず、羽月はゆっくりと落ち葉を踏んで歩きはじめる。
北風が、雪を呼んでいた。
意を通わせる眷属の声を聞きながら、羽月は帰るべき家を想う。待っているであろう人と、彼女が愛する家族たちを。
―――晩秋の森に次なる季節が訪れたのは、翌日のことだった。
=了=
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