<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


【俄か猟師の狂騒詩】−木の実のなる頃−

 天地に光が満ちていた。
 うっすらと白く薄雲を拭き流した蒼穹より溢れ落ちた光の雫は、色鮮やかに大地を染める恵みに触れてより深くその穏やかな色味を暖める。
 円熟を想わせる暖かな光に照らされて金色に輝く世界の中心で、リラ・サファト(1879))は鮮やかに最後の装いを凝らす木々の姿に感嘆の声を上げた。

 茜に鬱金、蘇芳、梔子、黄櫨染――

 季節毎、スクリーンに投影されるだけの立体映像とは違う。いっそ衝撃的なまでの迫力と臨場感は、実際に立ち会わなければ体感できない。――リラにとっては聊か旧い時代の人間である藤野羽月や馨が、季節の風にそわそわと誘われる理由が判った気がした。
 風にそよぐ光の加減、濃淡を織り交ぜて誇らしげに競い合うかの如く照り映える秋の姿は、大地の慈しみを寿ぐ声無き賛歌にも思われて。今、此処に立ち、巡りゆく季節が見せる一瞬の彩光を眺める機会を得られた僥倖に心を満たして、リラはふわりと微笑みを紡ぐ。

 この世に、生を受けた奇蹟、
 儚く散り消えるはずだった生命を繋ぎ、永らえることを許された奇蹟、
 時空を飛び越し、次元をも隔てて生まれた運命の伴侶と巡り会い結ばれた奇蹟……

 その上で、尚――

 もし、本当に《神様》が存在するのだとしたら。――なんて、優しい方なのだろう。
 積もった落ち葉の上を冬備えの糧を集めて走り回る小さな生き物たちの愛らしさに眸を細め、リラはゆっくりと腰を屈めて伸ばした手で大地に触れた。
 ひそやかに息づく枯葉と土は、ほっこりと暖かい。やわらかで肌当たりの良いぬくもりは、聖獣界の片隅でリラの帰りを待っている小さな家の空気と何処か似ている。湿った土と乾いた落ち葉が紡ぎ出す土の匂い。生きている実感と、揺ぎない安堵をもたらすこの匂いが好きだ。
 馨のように地脈と通じる特別な力を持っていなくても、そこに慈しみに満ちていることはリラにも判った。
 ふと目に触れた落ち葉に手を伸ばし、指先で摘み上げる。
 移り気な芸術家の手で染め上げられたひとひらは、緋色と黄金が混じりあった不思議な色味をしていた。陽光に翳して見ると、グラデーションで描かれた濃淡が光を孕み、いっそう複雑な色を紡ぎ出す。――同じように見えるのに、どれひとつとっても同じものは見つからない。
 感嘆の吐息を落とし、リラは拾い上げたそれを小籠にいれた。
 森番が渡してくれた小さな籠は、そうやって拾い上げた秋の落し物が何枚も。ひとつひとつがうっとりするほど素晴らしく、甲乙つけられずについ拾ってしまう。

 読みかけの本の栞にしよう、
 花屋の店頭に飾る季節のリースも、そろそろ秋らしいものに変えなければと思っていたところだ。
 骨董市で見つけたあの白い陶器に散らせば、きっと映えるに違いない。
 ごく淡い色の便箋に添えて、久しく逢わないあの人に秋の便りを届けてみようか……

 使い途をあれこれ楽しい考えを巡らせるだけで、想いが膨らむ。 芸術の秋―とは、よく言ったものだ。なんだか可笑しくなって、リラはくすくすと小さな笑声を転がした。木の実を齧っていた灰色のリスが驚いた風にぴょんと飛び跳ね、期せずしてその原因を作ってしまった娘の頬をまた和ませる。
 ゆったりとうつろう刻に身を委ねる贅沢な休暇を心の底から愉しんでいたリラは、つと立ち上がった友人に、目の前の小さな生き物と同じ仕草で小首をかたむけた。

「――馨?」
「大丈夫、すぐ戻ります」

 ほのかに笑んで森の中へと入っていく友人の姿勢の良い背中を見送って、リラはまた視線を鮮やかに彩られた大地へ戻した。
 今日は、リラにもちゃんと目的がある。
 森に入る前、《あなぐま亭》の女将ジョーヌと約束したのだ。――自慢のカルテにもう一品添えてもらえるよう、食べられそうな木の実を探してくる…と。
 実りの季節に村を訪れた泊客の酔狂な申し出だと。ジョーヌはあまり本気にしていなかったかもしれないが、リラはこっそり張り切っていた。ふうわりとやわらかな雰囲気と実際の年齢より若くして加齢を止めた外見から被保護者と扱われがちなリラにとって、誰かの役に立てることを実感するのは無条件に嬉しい。
 どうやって見つけ出してくるのか、太ったドングリを抱えたリスの姿にちらりと笑みを零して、リラはポケットから丁寧に折りたたんだ紙を取り出す。
 の生き物たちが食べているからといって、すべてが美味しいわけではないことは、リラだって知っていた。美味しくないだけではなく、中には有毒なものだってある。
 そんなつまらない失敗をしないよう、先刻、馨と一緒に森番の小屋を訪れた時、ちゃんと聞いておいたのだ。

「イチイの実は甘くて美味しいけれど、種に毒があるからね。飲み込んでしまわないよう、注意しなさい」

 きっと摘んでいる最中に、ひとつ、ふたつ味見をしたくなるだろうけど。悪戯っぽい光を浮かべた森番の眸に、リラもつられて頬を緩める。
 リラのいた《あちら》の世界。その某大国で1年に発生する植物中毒事件のベスト3に挙げられているのを読んだ記憶があった。――その時は、そんなものを食べる人がいることに驚いたものだけれども。
 鋭い棘のついたイガにくるまれた栗の実と、大きくて硬い殻に入った胡桃の実。
 あの独特の匂いはやっぱり好きになれなかったけれども、銀杏も秋の食卓には欠かせない。

「ガマズミの木は分かるかね?」
「ええ」

 リラの花屋にも、この季節になれば入荷する。
 広卵形の葉の上に小さな楕円形の赤い実が線香花火のようにたくさんついた……観賞用の赤い実が、甘くて美味しいと知っている人は以外に少ない。葉が色づいて落ち始める頃、よく熟した実が白く粉をふくことから、《霜降》と呼ばれるのだと聞いた。それは、リラが生まれた時代にはもう使われなくなった古い月の名前でもある。

「小鳥たちが大騒ぎしているから、すぐに見つかるだろう」

 木の実がなる頃、
 リラの宝物である小さな庭は朝からとても賑やかだ。――殊に果樹園の旬には目敏くて、気をつけていても先を越される。
 手作りのジャムも、マーマレードも、プリザーブも。春に想い描いたより、ずっと少量になってしまうのは理由があった。
 いつも、持っていかれてしまうから……
 たまには彼らのご馳走を横から失敬してみるのも悪くない。
 日頃の溜飲も下がるというものだ。
 なんだかとても楽しい名案のように思え、リラはにっこりする。――ただひとりの目撃者となった馨には、気味悪がられてしまったけれど。

■□

 のんびりと微睡むような木洩れ日の中に、ほのかに甘い芳香が揺れている。
 丁度、リラの目の高さに伸ばした枝に小さな黒い実をたわわにつけた椋の木は、ちょっとした喧騒の中にあった。
 ムクドリ、ヒヨドリ、ブルー・ジェイ……
 森中の鳥たちが集まってきたかのような大騒ぎに、リラは呆れた風に苦笑を零す。
 賑やかなんて可愛らしい表現では間に合わない。――ある種、戦いにも似たけたたましさだ。

 ここは遠慮した方が良いのだろうか。

 ちらりと脳裏を横切った消極的な提案を、リラはふるふると頭を振って思考から追い出した。
 ここで弱気になってはいけない。
 それに、せっかく見つけた秋の恵みを諦めるのも惜しい気がする。
 ギャア、ギャアと口うるさく。時には、頭すれすれを掠め飛んで牽制する小鳥たちに負けるまいと、リラも手近な枝に手を伸ばした。

「―――美味しい…」

 甘さの中にほんのり口当たりの良い酸味もあって……
 思っていたよりもずっと美味しく香りの良い食感に、リラはあらためて山葡萄ほどの小さな黒い実を眺めやる。
 話のタネに。…なんて、消極的な思惑ではなく、もっと積極的に。意識して手を伸ばしたくなるくらいには美味しい。
 新しい発見に、少し嬉しくなった。王都エルザードに戻ったら、すぐに羽月にも教えてあげたいと思う。彼は、この感動を共有してくれるだろうか。
 やかましく騒ぎ立てる小鳥たちの非難にも臆することなく手を伸ばす。――もちろん、全部を独り占めするつもりはないけれど。
 リラが摘んで帰った森の恵みを、ブランはどんな風に料理してくれるだろう。
 わくわくしながら踏み出した足の下で、落ち葉が軽やかな音を立てた。リラの紡ぐリズムに合わせて楽しげに…。
 次の枝を訪ねて太い古樹の後ろへと回り込み――

「………あ…!」

 視界に飛び込んできた黒い影に、リラは思わず息を呑む。
 大きく瞳を開いたリラの前で、それもぽかんと呆気にとられてリラを見た。――お互いに目を合わせたまま、張り詰めた空気が帳を下ろす。

 探し当てた宝物に夢中になって、存在に気づかなかったのはどちらだろう?

 後足で立ち上がり、黒い毛皮に包まれた前足で熟した甘い椋の実を口に押し込んでいたクマもまた、立ちすくんだリラと同様、困惑したようにリラを見つめる。

 絵本や玩具では、お馴染みの――

 でも、
 こんなに近くで、それも隔てるものの何もない森の中で出会って良い相手ではなかったような。
 視線を逸らせることさえ出来ず。息をするのも気づかれぬよう、じっとクマの眸を見つめたまま、リラはおそるおそる記憶を手繰る。

 死んだふり?
 大声で叫んでみるとか?
 籠を放り出して逃げた方がいいのかも…

 目の回るような緊張と、うるさいくらいに響く心臓の音。――ただ備わっているだけの飾りではない鼓動に、命の形を見つけた気がした。
 永遠に続くかと思われた邂逅の刹那、

 先に目を逸らしたのは、クマの方だった。
 怯えたように顔をそむけたクマは、さっと前足を地に下ろすと慌てて森の奥へと駆け込んでいく。その姿を見送って、リラもずっと溜めていた息を吐き出した。
 ゆっくりと戻ってきた時の流れに、足元から震えが這い登ってくる。――腰が砕けて、ぺたりとその場に座り込んだリラを落ち葉の褥がやわらかく受け止めた。

「……うそ…みた、い…」

 見上げた空は、どこまでも青く透明で。
 駆け足で通り過ぎる風精がうっすらと白く、薄い雲を吹き流していく。
 解き放たれた緊張が、けぶるような木洩れ陽の下で心地のよい疲労を急速に拡大し、ゆっくりと意識を溶かして浅い微睡の岸へとリラを誘った。
 ぽかぽかと暖かい陽溜りは、乾いた草とお日様の混じったいい匂いがする。そんなことを考えながら、眸を閉じる直前、誰かの歌を聞いた気がした。
 明るく澄んだ声が、リラを呼ぶ。

 高く、低く、
 誘うように、歌うように――

 華やかな高音と、よく響く低音を織り交ぜて繰り返される単調な旋律は、どこかで聞いた記憶があるような。
 それは、リラもよく知っている。
 いつ覚えたのかさえ定かではない識域下の遥かな深み……無垢な魂の記憶刻み込まれた歓喜の唄は、一筋の衝動となってリラの琴線を震わせた。衝かれるまま開いた喉の奥から滑り出した旋律は、碧空に満ちるいくつもの声と混じり、縒り合わされてひとつの歌に紡がれて世界を言寿ぐ。
 どこまでも無限に広がる蒼穹の下で、リラは一羽の小鳥になった。

 天の恵み、
 大地の慈愛、
 ありのままを享受して溢れる全ての生命に――

 豊饒を歓ぶ命の歌は風を生み、
 天を震わせる旋律に共鳴した風精、木霊が身を揺らし、水底からふつふつと湧きあがる小さな気泡にも似た高揚が紅葉の森を揺らした。――天が、地が、歌い始める。

■□

 大地の褥に背中を預け、リラは空を見上げていた。
 傾きかけた太陽は、西の空から薄い茜色の紗を投げかけている。――東の空は既に彩を失い、色褪せた蒼地に白月の輪郭を覗かせていた。
 空っぽになってしまったような倦怠とやり遂げた後の心地の良い疲労に、リラは静かに瞼を落とし、そして、ゆっくりと眸を開く。

 このまま……
 今なら、目覚めることのない眠りについてもきっと……

 ふと、そんな想いが胸に浮かんだ。
 淡く微笑み、吸い込まれるような眠りに身を委ねようとして、リラはふと気がついて視線を上げる。
 蔓を編んだ小さな木の籠。
 中には、リラが1日を掛けて集めた秋の恵み……食べられる木の実と、綺麗な落ち葉……あの甘い芳香が蘇った気がした。
 唐突に存在を顕にした感覚が、ちらりとリラを満たす幸福感を翳める。

「……お腹すいた…かも…」

 気づいた途端、
 無視できぬほど大きく膨れ上がった空腹に、笑みが零れた。
 くすくすと密やかな笑声が黄昏の静謐に包まれた森をくすぐる。――ささやかな望みには、果てがない。

 ゆっくりと身体を起こし、リラは小さな籠に手を伸ばした。
 ざっくりと編んだ粗い目の籠は、森に入る前よりいくらか重い。時間を掛けて、選りすぐった秋の恵みは、どんな風に夕餉の皿を彩るのだろう。
 そこに居合わせる僥倖を想い、リラはそっと胸の裡で感謝の言葉を紡いだ。

 誰よりも満たされた運命と、
 その環を廻す、見えざる手の持ち主に――

=了=