<東京怪談ノベル(シングル)>


そして、一歩

 ――陽が、ゆっくりと西へと落ちてゆく。
 赤い光が、千獣の横顔を照らし出した。

 一歩、一歩。また、一歩。

 進む道、草を踏む感触を、土につく自分の足跡を心に強く留めながら。

 一歩、一歩。また、一歩。

 千獣は前へ進んでいく。

 両手を胸に当てて、鼓動に合わせて一歩。
 とくん、とくんと高鳴る音に合わせて一歩ずつ。
 ああ、草ってこんなに柔らかくて優しかったっけ。
 ああ、土ってこんなに弾力があって強かったっけ。
 ひとつひとつ感じるたびに、胸にしみわたっていく。体にしみわたっていく。

 とくん、とくん、とくん、

 この体の中に……
 数え切れないほどの魔と獣がいる。
 高鳴る鼓動に重なるのは、自分の体の中にいる獣たちのうなり声。
 ――今はそれさえも、愛おしく。

「たく、さん……殺し、あい、した、ね……」

 千獣は己の中にいる獣に囁きかける。
 ……そうしなければ、生きていけなかった。
 目の前に立ちふさがる敵がいれば、殺されないために自分が殺すしかなかった。
 そして自分の中に巣くうようになった魔物たち――

 獣たちも答えた。……そうしなければ生きていけなかったと。
 ならば。
 生きるために殺して食べるという行為に、人も獣も別はない。
 人だから許される。
 獣だから許されない。
 そんな不条理など、ありはしない。

「たく、さん、ぶつかり、あった、ね……」

 分かっていた。生きるために彼らを喰らったことを正しいと主張するならば、生きようと牙を剥く彼らの主張もまた正しい。
 ぶつかりあう主張。
 すれ違う主張。
 それでもたしかに存在したから、痛みを覚えた主張。

「苦し、かった……」

 分かっていたけれど……
 そこに怨嗟しかなかったとしても。何も知らないままでいたくなかった。

「共、存……」

 何度も聞いた。友人の言葉。
 千獣の胸にまるで刻印のように刻まれた言葉。
 どうすれば、
 どこまで行けば、
 そこに、たどりつけるのか。

「人と……魔の……共、存……」

 分からない。何も分からないままだけれど。
 何も知らないままだった、かつての自分とは少し変わった。
 ただ『生きて』いるだけだった自分とは、少し変わった。
 分からないままだけれど、

 諦めない。

 ――そんなそんな気持ちが、心の中に生まれた。

 千獣は立ち止まる。
 振り返って、自分がつけてきた足跡を見つめた。

 ――道は、自分で作るもの。

「立ち、どまっ、ちゃ、いけない」

 歩き続けることこそが、意義のあることだから。
 歩き続けることこそが、大切なことだと思うから。


 彼女の歩む道は『いのちの道』だと言った少年がいた。


 胸の奥でうめく獣たちも、ひょっとしたらまだ死んではいないのかもしれない。
 こうしてまだまだ、千獣に主張する。彼らは生きているのいかもしれない。
 『いのち』の不思議。
 歩き続けるうちに、見つかるだろうか? その言葉の意味を……

「………」

 千獣は前を向き、ひとつ深呼吸。

 道。一本道に見えても、その意味はたくさんある。
 魔物たちとの共存。それ以外にも……
 ――そう、前に行かなければ。
 ――そう、歩き続けなければ。
 怖くて、不安で、足踏みしたり、きびすを返そうとしたこともあったけれど、

 彼の元へ

 とくん、と切ない音で胸が鳴った。
 胸の中に、たったひとつの言葉がある。
 彼に言いたい言葉がある。聞いてほしい言葉がある。
「ねえ……応え、て、くれ、る……?」
 ――彼はなんと応えるだろう。

 それがどんな答えでも、彼の答えならば、すべて受け止めよう。
 すべてすべて受け止めよう。そのために、ずっと歩いてきたのだから。
 一歩。また一歩。そして一歩。
 すべてこの胸にあるたったひとつの言葉のために。
 すべてこの胸にいるたったひとりの青年のために。
 一歩。また一歩。そして一歩……
 自分が歩く、草を踏む感触、土を踏む感触、すべてをじっくりと受け止めながら。

「行ける……」

 千獣は両手を胸に当てながら、一歩一歩前に踏み出していく。
 ――自分は変わった。
 自分から見た彼も変わった。
 出会ったときにはこんなことになるとは思いもせずに、
 また……出会ったあの日からあらゆることが変化して、
 それでも。
 彼に惹かれて行く自分をとめることができなかったから。
 否、とめようと……しなかったから。

 この気持ちの正体を、彼女はまだ知らない。
 知らないままに、けれど狂おしいほど胸の中でうずまく言葉があるからこそ……

「聞いて……」

 私の抱えた想いのすべてを。
 どうか、聞いてください。
 受け止めてとまでは言わないから。

 あなたの答えを、必ず受け止めるから。

 さく、さくり……
 足元で草が鳴る。
 さり、かり……
 足元で、砂利が鳴る。

 確実に彼に近づいているこの感覚。
 切なく鳴る鼓動に、だんだん足が追いつかなくなって。

「でも……ゆっくり、ゆっくり、ね……」

 足音を聞きたいから。
 足で感じるすべてのものを感じたいから。
 自分で道を作っていく感覚を感じたいから。

 千獣は足を踏み出していく。
 一歩。また一歩。
 そして……一歩。