<東京怪談ノベル(シングル)>
Tante cose buone a tutti,Buon Anno.
日めくりのカレンダーも、残りあと一枚。
今年最後の一日が、もうすぐ終わろうとしている。
──新しい一年が、もうすぐ始まろうとしていた。
どんな言葉で飾ろうともその境界線の位置は同じで、一歩踏み出せば容易く越えられそうなのに、『時』はそれを決して許さず、常と変わらぬ速さで近づいてきている。
焦っても良いことなどないと、伝えようとしているのか。過ぎ去っていくのもあっという間で、片鱗を掴むことすら叶わないのに。
人込みの中で、ミルカはふと空を見上げた。
風に混ざる白い色。手を伸ばさずともわかる、空から舞い降りる淡い粉雪。
天上に広がる夜のカンバスに、いつもなら散らされている星の瞬きが今はない。月の輝きもまた然りだ。
ただ灰色の雲がベールのように天を覆っていて、それは夜空の濃い青色と黒と混ざり合っていて、言ってしまえばただの曇り空でしかないのだけれど、それでも何か、違うような気がしてならなかった。
例えば、神様が転んだ弾みにばら撒いてしまった雪の種を、一生懸命集めている最中なのかもしれない、とか。
だとすれば、今、空から降っている雪は、さながらその両手の隙間からはらはらと零れ落ちている花の欠片──
「……おいしーい!」
そんなささやかな遊び心をあっという間に吹き飛ばす、甘酸っぱいシロップの味と焼き立てのパイの熱さ。
口の中にじわりと広がっていくそれを、ミルカは幸せのハンカチを広げたような顔で噛み締めた。
喜びがそのまま伝わりでもしたのか、真白い羽の耳がふわふわと揺れる。
「それにしても、本当に、どこに行っちゃったのかしら。はぐれちゃだめって、あんなに言ったのに」
呟いて辺りを見回しても、行き交う人の中に探している顔はない。つい先程まですぐ側にいたはずのその人は、気づいた時にはまるで神隠しにでも遭ったかのように忽然と消えていた。
甘い匂いにつられたミルカがここで足を止めたことに気づかずに、そのまま行ってしまったに違いない。
遠目に見ても目立つ姿なのだが、今日はそれ以上に目立つ格好をした人がたくさんいる。どれが誰だかわからないほどの人の群れと言っても過言ではなかった。
この場での再会は、少し難しいかもしれない。
「でも、もう子どもじゃないんだし、大丈夫よね」
例えこのお祭り騒ぎで浮かれても、帰り道を忘れたりはしないだろう。ミルカの心の切り替えは早かった。
今なすべきは、この瞬間を大いに楽しむことだ。
過ぎ行く年と新年を祝う人々の声が、街中に満ちていた。
時計塔のある広場は、その瞬間を今か今かと待ち侘びる人々でごった返していた。
あたたかいスープやコーヒーなどの飲み物、軽食を提供する屋台があちらこちらに並び、美味しそうな匂いの共演が繰り広げられている。
もちろん、美味しいのは匂いだけではない。ミルカもそれを心底実感した一人だ。
いつもならとうに寝ている時間だけれど、今夜ばかりは特別だった。
今年の食べ納めを心ゆくまで堪能しなければ、とても新しい年は迎えられない。
「色々なことが、あったなあ」
終わりが近づくにつれて、改めて実感する。
長いようで短い、過ぎ去ってしまえばあっという間の一年。ひとつひとつ思い返しながら、ミルカはそっと目を伏せた。
出逢い、別れた人々。歩いた道。越えてきた街。美味しかった料理。紡いだ歌。空の色。風の匂い。星の輝き。
何気なく過ぎていく日々、その中で得たものも失ったものも同様に。
それはきっといつだって変わらない、けれど二度とやってこない繰り返し。
「来年もまた、良い年になりますように」
両手を組み合わせて、静かに祈る。もうひとつの大事な願い事は、心の中で呟いた。
──来年もまた、美味しい物がたくさん食べられますように。
「──あと1分!」
どこからともなく声が響いて、『その時』の一分前を告げる軽やかな花火の音が、重なる。
人々の目が一斉に時計へと向けられて、辺りは音という音、声という声を封じ込まれてしまったかのように静まり返った。
それも、一瞬だけ。
「あと30秒!」
再び広がった人々の声がさざなみのように寄せては返し、他の人の声をも飲み込んで、段々とひとつになっていく。
「10、9、8──……」
広場を埋め尽くさんばかりの、カウントダウンの大合唱。
その大きさにびっくりして目を覚ました幼い子ども。まだ蓋が閉まっているシャンパンの瓶を掲げ構える青年。手にした花火に火をつけようとしている若者。肩を寄せ合い見つめ合う恋人達。この瞬間だけは手を休めて、時計を見上げる屋台の店主達。
同じ時間を共有する、たくさんの、たくさんの人々。
「3、2、1──……」
そして──
様々な地から様々な人々が集まっているこの地で入り混じる、祝福の声。そして、割れるどころでは済みそうにない、拍手。
終わりと始まりを同時に告げる午前0時の鐘の音は、一際高く、彼方まで。
一斉に打ち上げられた花火が、歓声を巻き込んで夜空に光の花を咲かせる。ミルカもまた、一生懸命手を打ち鳴らした。
「おめでとう! 可愛らしい小鳥さん!」
「ありがとう、今年いちばんにあたしの心をつかんでしまった妖精さん!」
花売りの少女から小さな花束を受け取って、頬へのキスをお礼に代える。
今年も素敵な一年になりそうだと、そんな予感を確信に──ミルカはそっと花の匂いを嗅いで、目を細め、歩き出した。
祝いの声はどこまでも続く。
空の向こうの神様も、落とした雪の種を全部拾い終わったらしい。
いつの間にか雪は止んで雲もどこかに去っていて、すっきりと晴れ渡った空から差し込む月や星の灯りが、新たな年を迎えた世界に祝福の光を注いでいた。
Fin.
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