<東京怪談ノベル(シングル)>


vanitas




 運ばれていくのは、名前どころか、ろくに顔さえも憶えていない男の残骸だ。
 否、辛うじて未だ命をこの世に繋ぎとめている――繋ぎとめられているという点を深慮するならば、『まだ』骸と呼ぶには相応しくない。
 しかし、いかな療法をくわえようとも、もはや男の命をこの世に留めおこうとするのは難しいだろうと思われる。
 右腕がごっそりと吹き飛び、削られていた。血なのかどうかも明らかでないものが止め処なく溢れ零れようとしているが、それは魔術器具によってどうにかおさめられている。
 左腕は、削げ落ちてこそいないものの、肘から下があらぬ方角を向いている。白々とした骨が突出し、首から上は酷い火傷を負い、炭化しかけていた。
 地を這う虫の羽音にも似た呻き声を、しかし男の喉は未だに立ち昇らせている。
 ――とてもではないが、あれでは到底助からないだろう。
 サクラ・アルオレはぼうやりと考えながら、ヒーラーたちの手によって運ばれていく冒険者の行く末を見送った。

 王都エルザードを遠く離れた山岳の麓、エルザードのそれには随分と見劣りしてしまうような、小さな病院があった。
 流行っているとは言い難いような病院だが、そのじつ、この病院のヒーラーは日々慌しい時間を強いられている。
 山岳には数多の洞穴があり、それらは旧くから伝わる伝承が存在していた。すなわち、その洞穴の奥には異界より降り立った叡智たる存在が隠し置いた宝が在るのだという。しかし、賢者はそれを求め来る冒険者たちに数多くのトラップをも隠し置いたのだというのだ。
 噂の真偽はさておき、それは冒険者たちの心をくすぐるには充分たるものだ。そも、ソーンには溢れかえるほどの冒険者たちが名を連ねている。高名な者もあれば、無名のまま人知れず地に伏して獣どもに漁られる者も多勢存在しているのだ。
 サクラが今回パーティを一緒に組んだ者の中に、明らかに経験不足なのが見てとれるような、若い男が含まれていた。
 酒場の案内を目にとめて、たまたまふらりと組んだだけの他人。今回の冒険限りの仲間だった。
 そうして、それはあっさりと起きたのだ。
 経験不足があからさまに露呈した一瞬。
 洞穴の奥、見出したいくつかの宝箱。その内のひとつを、男は不用意に開けてしまったのだ。――それがトラップをはらんだものであるのに気がつく事もなく。
 トラップの発動。
 爆ぜた炎の柱が男の身体を木っ端の如くに吹き飛ばし、男の身体は屑のように岩肌に叩きつけられた。
 数人が巻き添えに遭い、その場で命を落としていった。
 辛うじて(身体に負った惨状を見るに、それが果たして運良くといえるものなのかどうかはさておき)一命を取り留めた男は、しかし、息も絶え絶えに、およそ効果を得られるとは思えぬ治療を施されている。
 誰の目にも明らかな、死の影。
 男を捕食するため、死が病院を包囲している。
 風が窓を叩く音がやけに大きく響き渡る。
 陽はとうに沈んでいた。外界には闇色のただひとつきりが押し広がり、唾を飲みこんでいる。
 サクラは、知らず、両耳を塞ぎ身を縮めていた。
 男の低い呻きばかりが、死の影を確実に手招いていた。


 夜の闇にさえも交わらず、マリスの白い肌は黒の只中にあって異質たるものだった。
 闇色の鳥が両翼を広げ、夜を引き裂いて音もなく啼いた。かれが裂いていった場所は、余す事なく一層の闇へと変容していく。
 柳眉ひとつ揺らさずに、マリスは離れた場所に見える小さな病院――否、それは病院と呼ぶよりも、ヒーラーが個人で開いている治療場と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。ともかくもその家の一室をのみ眺めている。
 闇の中、ただ一箇所だけ煌々と灯る人間の気配。あれは人間が用いる明かりだ。
 がらんとした、広い、しかしひどく殺風景な一室。様々な医療器具や魔法器具が並べられている。そのいずれもが、見込みのない治療を施した痕跡を抱いていた。
 最早人間とも呼べないであろう肉塊が、それでも人間らしい呻き声をのぼらせて、懸命に――あるいは無様に、消え往く己の生命にしがみついている。
 疲弊しきったヒーラーたちの顔。彼らは、治療に光があたらないのを悟ったようだ。昏い眼光でかぶりを振り、おそらくは肉塊の仲間であるのであろう少女の元へと歩み寄っていく。
 闇色の鳥が再び声なき声で啼いた。
 両翼が一陣の夜風を招き、マリスの髪を震わせる。
 マリスの両腕を縛めている楔が冷ややかな歌をうたい、マリスはようやくわずかばかりの動きを見せた。
 夜を穿つ赤い双眸が楔を検める。が、そこには不快があるわけでもなく、哀憫があるわけでもない。文字通り、ただ意味もなく視線を手元に落とした、それだけの事。
 風が死の気配をたぶんに含み、マリスの楔を揺らした。それを合図としたかのように、マリスは闇を蹴り上げる。
 次の瞬間、マリスは治療場のすぐ傍らに佇んでいた。
 闇が顎門を押し広げ、鳥はゲタゲタと不穏な嗤い声をのぼらせている。
 マリスの双眸は、なにものをも映してはいない。
 そこには、虚無ばかりが映されているのだ。

 集中治療を施すための一室からヒーラーが姿を見せたのは、治療を始めてからゆうに数時間が経った後の事だった。
 治療室から寝台にのせられて出てきた若き冒険者は、今や喘ぐような小さく短い呼気を繰り返しているばかり。骨折や裂傷といった怪我はある程度の修復が見られるが、削ぎとられた身体や炭化した火傷痕まではどうしようもなかったらしい。
 保ってもあと半時ほどだろうと告げ終えて、ヒーラーは泥のように疲弊した身体を引き摺るようにして去っていく。
 そうして、その場にはサクラと男だけが残された。
 
 寝台に添えられた面会者用の椅子のひとつに腰掛けて、サクラは黙したままで男を見据える。
 ヒーラーの手にさえ負えなかった症状を、もとよりサクラには成す術もない。
 幽かな喘息と、窓を叩く夜風の声。
 死が窓を叩いている。
 サクラは怯えたように外を見遣り、――そうしてその夜の中に、形をもった死の影を見出したのだ。
 
 冥府よりの使者は女の器をなしていた。
 一目でこの世のものではないと判じる事が出来るほどに整った美貌。白い肌が闇に浮かび、それを縛める楔のあるのが知れる。
 死者を焼く劫火を思わせる赤い眼差しは、しかし、サクラの姿になどまるで関心を寄せてはいない。
 うろんな眼光を確めて、サクラは思わず身を震わせた。
 女は、ほんの僅か、眼差しを垂直に動かす。と、まるでそれを待ち構えていたかのように、閉ざされていた窓が音もなく開かれたのだ。
 男が喉を突いて吐き出していた呼気が一層の喘息を帯びる。
 
 サクラは、悟った。
 眼前の女は、まさに死の具現たる存在なのだと。

 開かれた窓が夜風を呼び込み、部屋の中は瞬く間に射るような冷気で満たされた。
 女は、気付けば男のすぐ枕元に佇んでいて、白く細い指先で男の口許を撫でていた。
 
「……連れて、いくの?」

 問い掛けた言葉はそれだけだ。否、形をなしたものはただそれひとつきりだったのだ。
 女はサクラの声に僅かほどの反応をも示さない。おそらくは耳にすら届いていないのだと、サクラは口を閉ざす。
 男は、末期、一度だけ大きく咳こんで、そうして敢え無く死の前に伏した。
 女の眼光が、その時初めて幽かな動きを見せたのは、しかし、サクラの目には届かなかった。

「……死んだのだもの」
 女の声がぽつりと落とす。
 夜が、啼いた。
 
 ヒーラーがドアを叩く音で、サクラはようやく目をしばたかせる。
 窓は閉ざされていた。
 夜の闇で満たされていた室内には、かけらほどにも死の気配は遺されてはいなかった。
 ランプが落とすあたたかな光明と、ヒーラーが運び持ってきた紅茶の穏やかな香り。
 
 男は生命の楔を離れ、もはや冥府の住人となっていた。今や遺された身体は抜け殻にしか過ぎない。
 
 ヒーラーに声をかけられて、サクラはようやく安堵の息を吐いた。同時に溢れ出した涙が頬を伝って膝に落ちる。
 ――男の死が悲しいのではない。
 サクラは、ただ、怖ろしかったのだ。
 死は誰にも平等に訪れる。
 死があれほどまでに温度をもたないものならば、――そこにあるのは、果たしてなんなのだろう。安堵なのか、あるいは尽きる事を知らない責苦なのか。


 闇を裂いて飛ぶ鳥の羽音に耳を寄せて、マリスは小さく息を吐く。
 ――そう、死は誰にも訪れる。
 肩越しに振り向いて、遠く離れた治療場の窓を目にとめた。
 先ほど言葉をかけてきたあの少女が、泣き腫らした眼差しでこちらを(むろん、少女の目がマリスを映しているとは思えないのだが)見つめている。

「……では、逝きましょう」
 
 今しがた連れてきた魂魄を引きながら、マリスは闇へと言葉を落とす。
 応える者は誰もいない。
 
 マリスは虚ろなばかりの双眸をただ一度だけ瞬かせ、そうして闇の中へと溶け、消えていった。




Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.

January 15, 2007
MR