<東京怪談ノベル(シングル)>


僕の薬屋さん

 夜になると、子供は黒山羊亭に入れてもらえない。裏通りにあるその店は酒臭い常連たちが集い、未成年には毒になる話ばかりが交わされている。ただ、代わりに、昼間に訪ねれば女主人のエスメラルダが微笑みと甘いジュースをくれる。
「こんにちは」
ある日のファン・ゾーモンセンが、黒山羊亭の少し重い扉を押し開けた。薄暗い店内であったが、昼には窓から少しだけ陽が差し込み、一つ二つのテーブルを照らしている。そこにエスメラルダを見つけ、さらに大きな目を動かし正面の椅子に見慣れない女性をさらに認める。
「こんにちは」
習慣的に飛び出した挨拶にエスメラルダは微笑み、しかし女性は深くかぶっていた帽子を軽く持ち上げ、横目ファンをちらりと見ると
「・・・で、エスメラルダ。さっきのことだけど」
無関心という風でエスメラルダに向き直り話の続きに戻った。どうやら、難しい商談をしているところらしい。邪魔かなあ、とファンは親指を口へ持っていく。
「あいた」
そのまま爪を噛むつもりだったのが、うっかり自分の指先まで歯を立ててしまった。柔らかな白い皮が破れ、少しだけ血も染みている。
「どうしたの?」
「指が痛いの」
半べそをかきながらファンが傷口を見せると、エスメラルダは大したことないわよと笑った。実際、数分も立てば血も止まりかさぶたになって、ファンくらいの年頃なら明日にはすっかり消えてなくなるほどの切り傷である。
 が、エスメラルダの正面に座っていた女性は持っていた鞄から薬草を取り出し、軽く揉んで柔らかくするとファンの傷口に巻きつけた。その上からさらに、薄く光る白い布を重ねていく。
「回復魔法のかかった包帯よ。これですぐ痛くなくなるから」
「・・・ほんとだ」
女性の言うとおり、薬草と包帯のおかげでかすかにあった痛みが消えてしまった。
「ありがとう、お姉ちゃん」
お礼を言ってファンが微笑むと女性は一瞬頬を染め、また怒ったように顔を背けてしまう。どうやらそれは女性の照れ隠しらしい。
 様子を察したエスメラルダが、ファンをカウンターの方へ連れ出した。

「実は今、彼女と薬の取引をしているところなのよ」
「お薬?」
ファンのためジュースを用意する振りをしながら、エスメラルダはファンに囁きかける。一方が声を潜めていればこちらも同じようにするのが常識というものだが、幼いファンの声はいくら努力しても甲高く響く。静かにとエスメラルダから口に人差し指をたてられ、ファンは慌てて自分の口を抑え、大きく頷いた。
「彼女は魔女で、いろんな薬を作るのが得意なの。二日酔いの薬を交渉しているんだけど、うまくいかなくて」
あなた、手伝ってくれない?妙齢の蠱惑的な眼差しがファンに注がれる。が、文字通り十年早いファンにはその魅力が今ひとつ伝わらない。今のファンにとっては色気よりも食い気が第一である。
「もしもあなたが彼女から薬をもらってくれたら、ジュースにケーキもつけてあげる」
「やる!」
両手に塞がれたままファンの口が大きく動き、頭が何度も縦に振られた。契約成立ねとエスメラルダはほくそ笑む、もしファンが一般的な金銭感覚を持ち、薬の相場を知っていたなら割に合わない仕事と断ったはずだろう。そのくらいエスメラルダにとってはうまい話だった。
 なにしろ薬は、それ一粒で黒山羊亭のケーキが十個は食べられる値段だった。

「お姉ちゃん」
黒山羊亭の絶品ケーキの味がすでに口内へ広がりつつあったファンは、普段より三割り増しの笑顔で魔女に近づいていった。そしてその笑顔のままなにを思ったか突然、
「あのね、痛いの」
脈絡もない、笑顔とは正反対の言葉を投げた。
 しかし魔女はファンの笑顔はしっかり見ているくせにころりとだまされ、幼い少年は無垢ゆえに決して嘘をつかないものと信じているのだ、再び鞄に手をかける。
「どこが痛いの?」
「えっと・・・」
どこだっけ、とファンはエスメラルダの言葉を思い出す。なんの薬が欲しいとエスメラルダは言っていただろうか。
「お腹」
お腹は今、ケーキ食べたさにくるくると鳴っている。腹痛ね、と丸薬の詰まった青い瓶を取り出す魔女だが
「じゃなくて、頭」
飲み薬の苦手なファンは急いで前言をひるがえす。しかし次に出てきた瓶にもやはり丸薬、体の痛みは大抵飲み薬で治すものだと気づいて再び言葉を曲げた。
「違った、眠れないの」
「それならこれがいいわ」
次に出てきた瓶は、きつく封印が施されていた。どんな魔物だって三日三晩眠り続けるのだという強力な眠り薬に、当然ファンは怖気づく。
「そうじゃなくて、あの・・・」
「魔物対策なら痺れ薬もあるのよ。食べ物に混ぜて、罠を仕掛けるの。無味無臭だから、絶対にひっかかるわ」
これも持っておくといいわこれもよと、魔女は次から次へと薬を取り出してはファンの前に並べ立てる。
瓶にはラベルが貼られていないので、ファンにはどれがなんの薬かさっぱりだった。どれが人間を犬に変える薬で、どれが涙を止まらなくさせる薬なのだろう。ただ一つわかっているのは、どの薬もエスメラルダの言っていたものとは違っていること。
「この薬は?これは体から不思議な・・・あらやだ、違った」
体から不思議ななにが起きるのだろうか、魔女は気になるところで言葉を区切る。
「これ、二日酔いの薬だったわ」
「それ!」
やっと出てきた、ファンは魔女の持っている薬を指さす。お腹と頭が痛く、毎晩眠れない夜を過ごしているにしては溌剌とした声だった。

「そのお薬が欲しいの、僕」
「でもこれ、お酒を飲みすぎたときの薬よ?君はまだ飲める年じゃないでしょう」
魔女は正論を吐く。しかし頼まれたのはその薬なのだと、どう言えば納得してもらえるだろう。冒険者の礼儀として依頼主の名前は出してはいけないことになっているから、うまい理由を考えなければならなかった。
「うんと、えっと、僕、その、そう、大人になったら飲むの。だから、大きくなるときのために、その薬が欲しいの」
実に苦しい言い訳だった。
「駄目よ」
魔女は断るに決まっている。だが、理由に彼女の本音が出てしまった。
「君は大きくならなくてもいいの」
小さいままのほうが可愛いわよ、とそこまではさすがに言わなかったが言ったも同じである。いや、言ったほうがよかっただろうか。
「・・・僕・・・ずっと子供じゃなきゃいけないの?」
これまで様々な冒険に加わり、頼もしい冒険者たちの姿に憧れ続け、自分もいつかああなるのだと夢見ていたファンは目の前から幕を下ろされた気持ちだった。おまけにこの魔女なら、本当に自分を永遠に小さいままにだってできるような気がした。あれだけ薬があれば一つくらい、成長を止める薬だって混じっているだろう。
「僕、大きくなれないんだ」
緑の瞳が潤み、ファンは顔を真っ赤にして泣きだした。今更魔女が、さっきのは自分の願望だと言い訳しても通用しないだろう。涙はとめどなく溢れてくる。
「あらあら、泣かせちゃった」
慰謝料は高いわよとエスメラルダが今更カウンターからやってきた。
「どうしてほしい?」
「・・・・・・」
魔女はファンからエスメラルダ、机の上に並んだ薬、そして再びファンに視線を戻し唇を噛んだ。ようやくエスメラルダの仕掛けた罠に気づいたのだ。しかしもう遅かった。
「わかったわよ」
低く唸るように、これはエスメラルダに向かってだ、観念すると魔女は二日酔いの薬を置いた。
「ねえ君、泣かないで。ここにある薬はみんなあげるから、ね?それだけじゃなくて君が大きくなるまでずっと、欲しい薬があればなんだって分けてあげるから」
「・・・ほんと?」
うさぎのような目で、ファンは首を傾げてみせた。さっきの爪を噛んでいる姿より数倍も可愛らしい。ずっと見ていたくて、魔女は何度も頷いた。
「ありがと」
少しだけファンが笑った。思わず魔女の鞄からさらに一つ、薬が加わった。
「お姉ちゃん、ありがと」
お礼を言うたびに、薬は増えた。
この魔女が作った薬はどれも高価で、市場に流せば屋敷が建つほどの金になる。だが世間知らずのファンはもちろんそんなことはやらないし、二日酔いの薬をエスメラルダに渡してケーキを食べさせてもらうだけで充分だった。
 かくして最強の薬屋を味方につけたファンは、世にも貴重な魔法薬を子供の無邪気さで無駄使いしてゆくのであった。