<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


Chocolate della Rosa.


 あたたかな光が窓の隙間から差し込んでくる。
 扉を開けると、まるでそれを待っていたかのように、まだ冷たさの残る風がディークを追い越して部屋に飛び込んだ。
 背中越しに聞こえるのは、通りを駆ける子ども達の笑う声。
 自分はもう、無邪気に外を駆け回るような年ではないが、それはとても心地良い。
 強くあれと、そう願う。
 こういう日には、春を待つ歌が良く似合う。そう思ったのは、耳が歌声を拾い上げたからだろうか。
 おそらくはキッチンの方から漂ってくる、柔らかな歌声と甘い匂い。
 彼女の声と言葉で紡がれるその歌は、寝物語の代わりに聴かせたことのある子守唄だった。

 帰宅したその足でキッチンを覗き込むと案の定、ボウルを抱えて泡立て器を握り締める──白いフリルの可愛らしいエプロンを身につけた娘の姿が見えた。
 テーブルの上に並んでいるのは、小麦粉、卵、砂糖、生クリーム、そしてチョコレート。
 歌声の主たる少女──ミルカは、やや覚束ない手つきでがしゃがしゃと卵を泡立てながら、さもご機嫌な様子で料理本を覗き込んだりしている。
 チョコレートのケーキか。ディークはテーブルに並ぶケーキの材料と思しき物を見つめながら考えた。その光景だけを見ていれば、とても平和な日常の一場面と微笑むことも出来るだろう。

 ──だが、決して拭い去れない違和感が、その場に色濃く影のような何かを落としていた。
『それ』は本当にそれとなくさりげなく置かれていたので、ディークもすぐに『それ』がそうだと気づかなかったのだが──

 小麦粉、卵、砂糖、生クリーム、チョコレート。これらは紛れもなくケーキの材料だ。
 しかし、なぜ、それらに混ざってリンゴやキウイやバナナやオレンジや名前もわからない紫色の草や──
 ……マグロやイカやタコが見事な包丁捌きと思わざるを得ない角度で鮮やかに切られて、トレイの上に鎮座しているのだろう。

 ディークは目を擦った。だが、それは見間違いでも幻でもなく、どうやらマグロがマグロであることに変わりはないようだった。イカやタコについても然りだ。形が変わるわけもなければ消える様子もない。
「ミルカ、その……それは何だ」
 たまらずディークは声をかけていた。ここで声をかけなければきっと後悔するとなぜかとても強く思いながら。
「あっ、おとん、おかえりなさい」
 白い羽耳をぴくりと動かして、ミルカが振り返る。金色の瞳がきらきらと輝いて、待ってましたと言わんばかりにディークの姿を映し出した。
「これ? えっとねえ、これは全部ケーキに入れ──」
 ──案の定、その瞳の輝きに迷いや躊躇いのような物はひとかけらもない。
 考えずとも明白だ。彼女は疑問にさえ思っていない。
「……俺が作る」
 ミルカ、果物はともかく魚は普通のケーキには入れない。ディークはそんな呟きを胸の内に押し込める代わりに、いつにも増して厳しい表情でミルカの手からボウルと泡立て器を取り上げようとした。ミルカは耳をぱたぱた動かしながら声を上げる。
「ええーっ! 駄目ようおとん、それじゃあバレンタインじゃなくなっちゃう!」
 開いたページに書かれているのは『ガトーショコラ』の作り方だった。
 なるほど、バレンタインならば頷ける。込められる気持ちの大きさも優しさも、とてもよく伝わってくる。嬉しいと思うのを、否定することもしない。
 だが、全てはそれ以前の問題だった。ガトーショコラなら果物も入れないだろう──どう説明をするべきか悩むように、ディークはたっぷりと黙り込む。
「……おとん?」
 ディークは苦渋の決断を強いられたような顔で、ミルカを見つめた。どうにかして説得を成功させなければ、ほんのりと海の匂いがするガトーショコラになってしまう。
「いいか、ミルカ。他国では、こういう品は男性から贈るものなんだ」
「……ほんとー?」
 訝しげに首を傾げるミルカ。バレンタインは女性が男性に思いを込めた贈り物をする日なのだから無理もない。
「ああ、本当だ。だからここは俺が作る。……頼む、俺に任せてくれ」
 真顔で頷くディークに、ミルカは小さく頬を膨らませながらも、しぶしぶといった様子でボウルから手を放した。
「じゃあ、おとん、あたしは何をすればいいのかしら?」
 内心とても大きく安堵の息をついたディークに、どうやらミルカは気づかなかったようだ。
「テーブルの用意を。宴の日に相応しい、豪華な感じでな」





 それから、数時間後。
「出来たぞ、ミルカ」
 親鳥の後をついて回る雛鳥のようにちょくちょく覗きに来るミルカに、ディークはとっておきの言葉のようにそれを告げた。
「──すっごーい!」
 曰く『宴の日に相応しい、豪華な感じのテーブル』の用意を終え、キッチンに顔を覗かせたミルカは、ディークの手元にある見事なケーキの姿に瞳を輝かせるばかりだった。
 ちょうど粉砂糖が振られ、完成したそれは──どこからどう見ても完璧な、ハート型のガトーショコラである。
 表面はさくさくで、中はしっとり。絶妙な焼き加減に、甘さは控え目という、ディークにしてみれば、例えば白山羊亭の客に胸を張って出せると思えるほどの自信作だが、そんな注釈はそもそも不要だ。
 ミルカが美味しいと言ってくれれば、それで十分だからである。
「早く食べましょう? おとんが作ってくれたものは、何だってほっぺたがとろけちゃうくらい美味しいのよう!」
 そう、何よりも嬉しいのはこの一言なのだ。一瞬緩んだ頬をわざとらしい咳払いで隠して、ディークは頷いた。
 出来上がったそれを、食卓へと運び、早速食べるかとナイフで切り分けようとして──
「あっ、おとん、半分にしちゃ駄目よう!」
 すかさずミルカの制止の手が入る。
「……ん、どうしてだ?」
「ハートを半分こにしたら縁起が悪いでしょう?」
 言われてみれば確かにそうかもしれない。
「だが、それなら……どうやって食べるんだ?」
 当然と言えば当然の問いに、にっこりと笑うミルカ。ちょうど二人の真ん中に置かれるケーキの皿。
 そうして一つの皿に載ったケーキを、二人で仲良く突付き合うことになったのだった。


「……あのね、おとん。もう一つ、プレゼントしたかったものがあるの」
 あたたかな湯気の立ち上る紅茶を一口飲んだところで、ミルカが立ち上がった。言うが早いか踵を返しぱたぱたと駆けて行くその背中を見送って、ディークは首を傾げる。
 紅茶を飲んでいる間に、己の竪琴を抱えて戻ってくるミルカ。ディークは一目で彼女の言う『プレゼント』の内容を理解し、目を細めた。
 ミルカは椅子に座りきちんと居住まいを正してから、どこかくすぐったそうに笑って竪琴の音を確かめる。

 やがて彼女の指が奏で始めたのは、ディークの知らない旋律。けれど、彼女の歌だとよくわかる穏やかで優しい音色だった。

 ミルカのやわらかな歌声が、部屋中に満ちていく。
 それは、春を待ついのちの歌だった。
 冬を追いかけて来た春風が、雪の下で眠っている花や獣に目覚めの時を告げる──そんな歌だった。

 去り行く冬に手向ける子守唄。間もなく訪れる春を迎える歓びの歌。
 余韻は空気に溶けるように。ただ一人の観客であるディークの心からの大きな拍手に、ミルカはとても嬉しそうに笑った。
 彼女の歌が終われば、次は自分の番だ。呼吸のようなやり取り。ディークも己の笛を取りに席を立つ。

 ──やがて、ミルカが爪弾く竪琴の音色に、ディークが奏でる笛の音が重なった。
 縦に横に、あらゆる方向に手を伸ばし織り込まれて行く布地のように、行く先も宛てもない、それは旅に似ている即興の歌。
 こうやって流れてゆく時間こそが何よりの贈り物だと思いながら、ディークは笛を吹き鳴らした。



Fin.