<東京怪談ノベル(シングル)>


I love you.

 彼女の心に『辞書』というものはない。
 ただ、起こった出来事を受け止めるだけだ。

 千獣はここ一年ほど、『精霊の森』という場所を家のように使っていた。
 静かな森だ。遠くでさらさらと水音がし、ある場所では焚き火が焚かれ、時折吹くいたずらな風が森のこずえをゆらしていく。
 『精霊の森』という名の由来はそのまま、精霊が棲んでいるのである。
 たとえば泉や川には水の精霊が、焚き火には焚き火の精霊が、風には風の精霊が、
 樹には樹の精霊が――
 この森を司る樹の精霊が、千獣は大好きだった。
 だから、その樹に登ったり、その樹にもたれかかってぼんやりするのが好きだった。
 否。ぼんやりじゃない――
 千獣は樹の足元に座り込み、むぅっと難しい顔をしていた。時折、小さくため息。
 そして、ぽろりと小さく言葉をこぼす。
「愛……」
 その言葉こそが、千獣を悩ませるたったひとつの言葉だった。

 愛って、なんだろう?

 思えばなぜこんなことを考えるようになったのか――
 一生懸命考えた。友達に訊いてみたりもした。それでも、答えが見つからない。
 ――ぶしゅううと、今にも千獣の頭から煙が出そうで。熱くて熱くて。
 もう、頭はショート寸前……
 千獣はふらりと立ち上がった。
 そして、道をふらふらと歩き出した。

「ああ千獣。いい葉をもらったんだ、お茶にするかい――って」
 言いかけた青年は、千獣のむうっと膨れた表情に驚いた。
「なんだ? 何か怒っているのか?」
 彼は千獣が来る前までは、この森にひとりきりで住んでいた人間――
 クルス・クロスエア。緑と青の入り混じった髪に、森のように深い緑色の瞳。銀縁眼鏡に白衣。
「………」
 千獣は彼の前でむううっと顔を膨らましていた。まるで顔が固まったかのように。
「………?」
 クルスはそっと千獣と視線の高さを合わせ、右手を彼女の頬に寄せる。
 ぴくりと、千獣は体を震わせた。
「千獣?」
 クルスが呼びかけてくる。
 千獣はつぶやいた。
「……意味、を、まだ、分かっ、て、ない……って、言われ、た、から」
「………」
「だから、だから、いっぱい、考え、て……」
 クルスには何のことかすぐに分かった。彼女にそう言ったのは他ならぬ彼だ。
 そのまま視線を合わせていると、千獣はさらにぽつりぽつりと言葉をこぼす。
「まだ……『意味』は……分から、ない……」
 知っているのは――
 誰かに言われた時と、自分が言った時の熱の違い。
「ねえ……何で、こんな、に、違う、の……?」
 例えば大好きな樹の精霊。彼女に言われた時は、暖かい。彼女に言う時は、暖かい。
 そして目の前の青年――
 クルスに言う時には。言われた時には。
 暖かいを通り越して熱い。苦しい、痛いほどのつらさ。それほどに熱くて熱くて熱くて――
 ……手放したほうが、逃げ出したほうが、きっと楽なんだろう。
 それなのに、どうしても手放せない。……逃げ出せない。

 だって、大切な存在だから。

 痛みも苦しみも、大切な存在だから来るもの。抱えてしまうもの。
 この胸が痛いのは、苦しいのは、同じ胸の中に大切な大切なものがあるから。
「手放せ、ない……苦しく、ても、痛く、ても……この、胸、の、中、……大切なもの、が、あるから……」
 ぶわっと風が吹いて、千獣の長い髪とクルスの白衣を巻き上げた。
 クルスは視線をそらして、「風の精霊たちが怒ってるなあ……」と言った。
 千獣は視線が合わなくなって心細くなった。
「――ああ、彼女をこれ以上いじめるなって?」
 虚空に向かってクルスは苦笑する。
 誰と話しているんだろう。こっちは苦しくて痛い胸を抱えて話しているのに、そんな途中に他の誰と何を話しているんだろう。
 しばらくして、クルスはようやく視線をおろした。
 こつん、と千獣の額に自分の額をあてて。
「……言ってごらん。最後まで。君の考えた最後まで」
 ふっと、肩から力が抜けた。
 同時に、ぼっと心が火を噴いた。
 噴火した火山のように、なぜかそれらは流れて流れてやまなくて。
「手放して、しまえる、存在――なら、こんな、苦しみ、も、痛み、も、抱かない……!」
 クルスがぐっと千獣の両手をそれそぞれ握る。
 それを知らないうちに、強く強く握り返して。
「この、キモチ……『好き』で、足り、ない……だから」

 だから、このキモチに『愛』と名づけよう。

 そこまで告げた瞬間に、千獣は限界ショートした。ぽふ……と目の前の青年の胸元へ身を預ける。
 クルスはうまく抱き止め、強く抱きしめた。
「よく……考えたね」
 優しいその声に、ふわっと心が浮ついた。
 やわらかいやわらかい雲に抱かれるような。
 でも、と千獣は思う。
 雲より、彼の腕の中のほうがいいな。
 彼のぬくもりを感じられるほうがいいな。
 そう思ったら自然と自分の腕が、彼の背に回って。それが恥ずかしいことだなんてまったく思わなくて。とくとくとくとくと、聞こえてくる青年の鼓動が嬉しくて。
 そうしたら、青年は再び訊いてきた――かつて、千獣をこの考えの奥に沈ませた問いに。
「俺に、その言葉を言ってほしい?」
 その時、千獣は不思議な気持ちを味わった。
 あれ? あれ? あれ……?
「私……」
 それは不思議な『心変わり』だった。
 なぜだろう――
「い、われ、なく……ても、いい……」
 言うのなら。この心がはじけるほどに言いたい。
 けれど言われることは……
 ――なぜだろう? 言われなくてもいいと思ったのは。
「俺に言われなくても、大丈夫?」
 彼は、すぐに答えをくれた。
 この腕の中。聞こえる鼓動、伝わるぬくもり。
「大、丈、夫……」
 不思議な不思議な心変わり。
 言われたくて仕方なかった言葉だったはずなのに。
 そうだ、この言葉の本当の意味は。
「愛してる、愛してる、愛してる……!」
 青年に思い切り抱きついて、千獣は狂おしいほどに声を上げた。
「愛してる! 愛して、る……!」
 言いたい。言いたい。告げたい。
 彼に、知ってほしい。
 そう、だって。
 苦しくて痛いほどの熱さを伴った、とてもとても大切な言葉だから。
 そして彼からの言葉はいらない――
 だってもう、この体を抱く腕から充分に伝わってきているから。

 ――急に、頭のもやがぱっと開けた。

 『意味』。『意味』だったのかどうかは分からないけれど。
 友人が言ったように、『愛』にはたくさんあるのだろうけれど。
 少なくとも彼には、彼とは、こういう関係でありたい。

 愛は言葉なくとも伝わるもの。
 けれどどうしてもどうしてももっと強く伝えたくて、その手段のひとつが言葉なんだ。
 愛とは言葉なくとも伝わるもの。
 抱きしめられれば、それだけで伝わってくるものなんだ。
 千獣はクルスの胸から顔をあげた。
 クルスは微笑んで、口付けを落とした。そして、

「愛してる、千獣」

 胸が爆発しそうに高鳴った。
 言われなくてもいい、そう思った言葉だけれど、言われたらやっぱり強くて強くて強くて。
 ――彼もそうなのだろうか?
 だったらこっちからもたくさん言ってやろうか。これまでいっぱい意地悪されてきたお返しに。

 愛してる。愛してる。愛してる――……

 何度も唇を交わしながら、何度も吐息を交換しながら、その言葉ばかりが頭をめぐる。
 彼のことしか考えられない。もう頭の中が彼色に染まったみたいで。

 愛してる。愛してる……

「……さ、ティータイムにしようか」
 ある瞬間に、彼はぽんと千獣の肩を叩いて言った。
 物足りなくて彼の服のすそを引っ張ったけど、彼は笑うだけだった。
「不老不死同士、この先もずっと一緒だろう?」
 この先も一緒。この先もずーっと一緒。
「ほんと、だよ、ね? 一緒、に、いら、れる、よね?」
「ああ、本当だ」
 千獣はぽっと頬を朱に染めた。
 少女を不老不死にしたのは体の中にいる魔獣たち。今ほど彼らをありがたく思ったことはなかった。
 千獣を『人間』ではなく、魔獣たちを含めて『ここにいていい存在』だと認めてくれたたったひとりの人と、ふたりきり歩く……
 でも、思う。ひょっとしたら。
 ひょっとしたら、クルスも『愛』の本当の意味を知らないのかもしれない。
 そうだとしたら、いっぱい考えた自分のほうがちょっぴり先生だ。なんて思って千獣はぺろっと心の中で舌を出した。

 青年は千獣の右耳に触れる。そこにずっと大切にされている耳飾り。
「――……君をかつて愛したひとに誓って」
 ちゃら、と鳴る音を、千獣は黙って聞いていた。
 彼が彼のことを想うのは、とても不思議なことに思えた。
 でも……
「左、耳、に、何か、ほしい、な」
 千獣は子供のような笑顔で。「クルス、と、おそろい……」
 クルスは驚いたように目を見開いてから、微笑んだ。
「そうだな。何か作ろうか――」
 何を作ろうか。そんなことを談笑しながらふたりは暖かい小屋の中へと足を踏み入れる。
 小屋の中では暖炉の精霊が、仕方がねえなと言いたげに優しい炎をふたりにプレゼントしてくれた。


 ―FIN―