<東京怪談ノベル(シングル)>
同じ空の下
空が、広い。
けれど今、ティナが立つ世界は、とても、狭かった。
以前見世物にされていた場所から逃げ出していくらもたたないうちに、ティナはまた別の人間に捕まった。望まず来てしまった人間の世界は広く、けれど同時に、狭かった。
走っても走っても続く同じような街並み。それなのにどこに行っても人の姿は必ずある。人間たちは走り抜けるティナの姿にぎょっとして、そのまま知らないフリをして通り過ぎるか――もしくは、捕まえようとするか。
街を知らないティナと、街を知り尽くしている人間と。勝負がつくのは早かった。
そうしてティナはここに、居る。
目の前に広がるのは丸い壁に囲まれた平らな地面。
整えられた地面は、野山の自然に慣れたティナにはかえって動きにくかった。その周囲を丸く囲んだ壁は高く、ティナの身体能力をもってしても、とても届くものではない。
それでも本当なら、石でも木でもない、土の地面はティナにとっては少しは落ち着くもののはず。けれど今は、そこに出たくはなかった。
あそこに出るくらいなら、このまま、檻の中にいる方がまだマシだと思えた。
けれど彼らは容赦なく、ティナをあそこへ引きずり出そうとする。
「ほら、出番だぞ」
大嫌いな人間の男が言うと共に、ガチャリと重い音を立てて檻の扉が開かれた。
「……」
けれどティナは動かない。あそこに出るのはいやだった。
高い壁の向こう側、高い場所から見下ろすたくさんの人間たち。ティナの心を案じようともしない冷たい瞳に見つめられると、ゾッと背筋が凍りつきそうになる。
「さっさと出るんだよ!」
地面を叩く高い音。唸る鞭に、かつて受けた傷の痛みを思い出して体がすくんだ。
その瞬間、ぐいと首輪に繋がる鎖を強く引かれて、留まろうとする間もなく引っ張り出される。
「いやっ!」
叫んだとて、誰も聞いてはくれない。檻の扉は無情にも閉じられ、ティナはこの空間――闘技場と人間たちが呼ぶこの場所に、取り残された。
顔を上げれば、空が見える。
野山で見たのと同じ色の空。けれどティナを囲む環境はあの頃とあまりに違う。
獣の唸る声に、ティナは正面を見据えた。この闘技場に扉はふたつ。ティナが出てきた檻の扉から見て真正面にもうひとつ、同じような檻の扉があるのだ。
何度目、だろう。
あの向こうから出てくるのは、飢えた猛獣だ。何日も餌を与えてもらえず、肉に飢えた獣。
……本当は、戦いたくなどなかった。
彼らもまたティナと同じ、人に捕らわれ弄ばれた被害者にすぎないのだから。
けれど戦わなければ殺される。死にたくは、ない。
警戒と殺気をまとい、ティナもまた、低い唸り声を発した。
扉が、開く。
そこには立派な毛並みと鬣を持つ四足の獣がいた。獣は扉が開ききる前に、ティナを見つけて駆けてくる。
けれどティナとて、その本質は野生の獣だ。見た目こそ人のようにも見えるけれど、身体能力は人よりもずっと高い。
まずは一直線に向かってくる獣を横に飛んで避け、背後から襲う。爪も牙も、人間の作る武器にも負けない鋭さを持っているのだ。
獣の動きは予想以上に早く、振るった腕はかろうじて獣の背中を掠っただけだ。獣も自分の攻撃が避けられたのを知るとすぐに足を止めて振り返ってくる。
どこか虚ろな、その瞳。空腹に正常な判断を失っているのかもしれない。
情けは禁物。わかっていても、真正面からその様を見てしまうと心が揺らぐ。
「――っ!」
その一瞬。ほんの少しの迷いが、判断を遅らせた。
獣の牙がティナの腕に食い込み血を流す。
「く……うっ……」
かろうじて叫び出すことは堪えたものの、獣は顔を歪めるティナなどお構いなしに、そのまま大きく首を横に振った。
強い力に振り回されて、地面から手足が離れる。
グチュリ、と。鈍い音。飛び散る血の音。そして――。
「ああああぁぁっ!!」
堪えきれぬ痛みに、喉が掠れるほどの悲鳴が落ちた。
見れば噛み付かれた腕がぽっかりと抉れている。幸いにも骨が見えるほどには深くなかったが、それでも、流れる血の隙間からは鮮やかな筋肉のピンク色が見えていた。
ズキン、ズキン。
腕が、痛い。痛みが熱さを伴い、ティナを襲う。酷い痛みは思考までもを鈍らせて、視界が白く霞んで見えた。
それでも、立たなければ。地面に手をつき、獣の動きに備える。
獣は久しぶりの肉をゆっくりと噛み喰らっているところであった。
長引かせることはできない。一撃で、終わらせなければ。
ズキン、ズキン。
緊張と共に心臓の鼓動が早くなる。同時に、痛みの周期も短くなった。
落ちそうになる瞼を必死に見開き、獣を待つ。彼はまだまだ、空腹のはず。この程度で終わりはしない。
一滴、二滴。獣の口元からティナの血が零れ落ちた地が、地面を濡らす。
そして――獣は、駆け出した。疾走する四足。振り上げられた前足の隙を縫って、懐にもぐりこむ。
獣の真下から、上へ。
怪我のない腕を、真直ぐに突き上げた。
鋭い爪が肉を貫き、ポタ、と。ティナの腕を伝って血が流れる。
それでもしばらく動いていた獣は、次第に力を失い地に崩れていく。
「……」
生気を失っていく体を、ティナはなんともいえぬ想いで見つめていた。
生きるためには、戦うしかない。けれど、そこに自らの意思は介在しない。
こんな哀しい戦いを何度繰り返さなければいけないのだろう。
つ――と、頬を落ちる透明な涙。
自らが泣いている事に気付かぬまま、ティナもまたその場で意識を失った。
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