<東京怪談ノベル(シングル)>


『シラナイ×ワカラナイ』


 私は、知らない、よ?
 千獣は顎を引いて、そう呟いた。
 それから、言って、小さく顔を傾ける。
「どうして、死ななくっちゃいけなかったの?」
 その言葉にエスメラルダはうーんと頬を右の人差し指で掻く。
「厳密に言うと、死んではいないかな? 空気の娘たちと同じ場所に行ったんだから」
「空気の娘たちと、同じ場所………」
 ますますわからない、と千獣は今度は顔を左右に振った。
 それはまるでさっきまで皮を剥いていた玉ねぎの中身はどこに行ってしまったのだろう? と悩む幼い子どものそれと同じだとエスメラルダは微笑ましく思う。
 人魚姫。それが今、ふたりが話題にしている恋愛学の教材だった。
 先ほどまで黒山羊亭には楽師が居て、その物語を楽師がリュートを弾きつつ詠っていたのだが、千獣はその物語の切なさや、人魚姫の悲愴な決意、貫いた想い、後悔など微塵も無い守り通せた愛への幸せな想いを何一つ理解できなかったのだ。
 そもそもどうして人魚のままではいけなかったの? 発言………。
 エスメラルダはうーん、と苦笑いした後に、
「まあ、人間は同じ姿形をした者同士じゃないと倫理観とかそういうのでダメなのよ。それに下半身がお魚じゃ、穴に突っ込む事ができないでしょう? それが大問題なのよ、男にとってはね。女だって、男の下半身がお魚じゃ、ダメでしょう? 口や指だけじゃさ」
 ふふんと下品な笑みを浮かべるエスメラルダに、千獣は無垢とも言える表情で素で小首を傾けた。
「あっ」と、エスメラルダはそう言った。その千獣の表情を見て。
 ……………これは凄まじく大きなダメージをエスメラルダに与えた。
 はっきり言って痛恨の一撃。その仕草だけで致命傷を負わされた。
 この心の傷はなかなかに深い。
 エスメラルダはマジで耳まで赤くした。
 ざっくばらんに下世話なお話はこういう酒場で働く彼女にとっては日常茶飯事ですっかりと馴染みの物になっていたのだが、千獣の無知に改めて自分の大人さが直視させられて、正直、心に堪えた。
 こう、マニアックでハードな大人の行為の後で、コウノトリを信じる女の子の純真無垢な笑みつきの「赤ちゃんはコウノトリさんが運んできてくれるんだよ」、と言われた時の様な。
 とにかくこう、無知すぎる千獣に、何カマトトぶってるのよ! とキツク突っ込めない事が多大なフラストレーションになって、いつもよりもお酒のピッチが早い。
 でもだからといって、何も知らない千獣にこう、大人の男女の愛の営みについてレッスンするのも何だかこう、違うような………、
「って、何真剣にあたし悩んでるのよ!」
 エスメラルダはいっきにグラスの中身を飲み干して、机に突っ伏した。
「何か、悩んでいる?」
 机に突っ伏す自分の顔を覗き込んできた千獣にエスメラルダは無意味に良い笑みを浮かべた。
「とにかく!」
 料理や酒の染みがしみついたテーブルクロスが敷かれているテーブルから勢い良く身体を起こしたエスメラルダは千獣に力説する。
「人間、っていうのは同種族か、同じ姿形をした者じゃないとダメなのよ! 馬鹿な父親が化け犬とした約束のせいでそれのお嫁さんになったお姫様なんかは自分が何の行為もしていないのに身篭った時なんか、懐剣で自分の腹を掻っ捌いたんだから! それぐらい人間にとっては多種族との恋とか、行為は有りえないし、禁忌なの。禁・忌。わかる? やっちゃダメな事なのよ。そこんところを人魚姫もわかっていたし、それに何よりもこれは人間の物語だから、人魚姫は人間のご都合と、彼女の王子への悲愴な恋心を表すために声の代わりに足を得るわけね」
「声が…出ないと、王子様に好きだって言えない…」
「ん。でも、元来、女は待つ生き物だからねー♪」
「何を?」
「だ・か・ら、男からの告白」
「……………んー。私には、わからない………」
「わからないか。でも千獣は言える? 自分から好き、って」
「私はエスメラルダ好きだよ」
「ありがとう」
 ふたりでにこりと笑いあう。
「だけど、」
「ん?」
「王子様は…人魚姫の事、ちゃんと愛して…いなかった?」
「千獣。あなた、」
 エスメラルダは頭を振る。
 そう。この娘はこういう娘だった。まったく的外れの事を言っているかと思えば、こうやって事の本質をずばりと言い当てる。
 エスメラルダの言葉の続きを待っている千獣にエスメラルダはにこりと艶然に微笑みながらこくりと頷いた。
「そうね。王子様は人魚姫を確かに可愛がっていた。愛していた。王子の人魚姫への想いは充分に魔女が課した王子に愛されるという条件を満たしているように思えるわ。けど、結婚はしなかった。それじゃあ、ダメなのよ。人間の愛の終着駅は結婚。結婚は人生の終着駅、墓場、ってのは常套句だけど、やっぱり結婚してこそ愛は実った、って思われるのよね、人間は。すっかりと夫婦の愛情が醒めていても愛人よりも本妻の方が立場が上なのはそういう意味でよ。だから、王子と結婚できなかった人魚姫は王子に大事にされていても、それは魔女の課した課題をクリアできなかったとみなされた。だから人魚姫は王子への思いを抱き、泡となった。王子を愛しているからこそ、彼を殺せなかったのよ。彼が他の女の物になってもね」
「愛は、命よりも大事?」
 黒山羊亭の照明は低く押さえられている。
 だから薄暗い店内ではよく千獣の表情は見えない。
 しかしそう言った彼女の表情はどこか年端も行かぬ生娘の様に見えてエスメラルダはだから千獣を抱きしめてしまった。
「人魚姫にはそうだったのよ。そこまで思えるほどに彼女には王子が大事だったのよ」
「でも、生きる、というのは、大事な事。どんな、事をしてでも、生き残りたい…。私は、」
「私は?」
 腕の中の千獣を見ると、千獣はきゅっとエスメラルダの服を強く握った。
 震えている。エスメラルダは肌に伝わる千獣の震えを感じる。
「人魚姫は泡となって消えても、後悔はしてはいなかった。そして空気の娘と共に修行できる事になった彼女はいつか本物の魂を得て、そしたら、生まれ変わって、今度こそ王子様と一緒に幸せになれるわけよ。それこそが純愛の勝ち。いかにも人間らしいエゴイズム溢れる結末よね。でも、物語に限っては、そういうのも悪くないって、あたしは思っているわ」
「私は、知らない。………わからない」
「そうね。でも、生きる事が生物の本能なら、恋する事も生物の本能よ。とくに人間には他の生物には無い理性があって、そして女は男よりも情が深いんだから。千獣にも、いつかわかる。きっとわかる。知らないから、わからない。だけど知る日はいつか来るから、ね」
 千獣はエスメラルダを見て、こくりと頷いて、
 そしてふたりはグラスをぶつけて、琥珀色の液体を揺らした。
 それはまるで揺れ動く千獣の心のように。



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