<東京怪談ノベル(シングル)>


『赤朽ち葉の谷のミルカ』


 ―――やくそくは、絶対に守るからね。



 ミルカは首からさげた翡翠石のペンダントをぎゅっと両手で握り締めた。
 そうでもしないと息も出来なくなりそうな哀しみに負けてしまいそうだったから。
 あれから苦労してこの街までやってきた。
 何人もの人に道を尋ねて、そして辿り着いたのだ。
 黒山羊亭。ここに彼女は居るはず。
 ささやかな胸をミルカは両手で押さえつけた。
 心臓がすごいくらいのスピードで脈打っている。
 だけど問題はここからなんだ。
 語らなくっちゃ、色んな事。たくさんの事。
「あたしが見た事を」
 そう呟くミルカの声は湿っていた。
 下唇をきゅっと噛み締めて彼女は右足を前に出そうとする。
 しかし右足は鉛の様に重く、まるで夢の中で、もがいているようだとミルカは思った。夢の中ではいつも軽やかに動く彼女の足は重くって動かないから。
 だけどこれは現実だった。
 現実にはいつだって明確な理由がつき物だ。
 だからこのミルカの現状にだって明確な理由がちゃんと実在する。
 そしてその答えは明らかだった。
 ミルカは、
「あたしはあのお店に居るエスメラルダさんに会いたくないんだ」



 会いたくない。
 ――――会えば、話さなくっちゃいけないから…………。


 話すためにここまで来たというのに、
 しかしその理由がまた、ミルカを苦しめる。
 ささやかな胸が痛む。
 心が、痛いと悲鳴をあげている。
 泣いている。
 だけど、
「       」
 ミルカは誰にも聞き取れない声で呟いた。
 おそらくは彼女自身にすらも聞えてはいなかったはずだ。
 しかしそれで良かった。
 それは弱音でも、自身への叱咤でも無い、言葉だったから。
 ミルカは足を前に出した。
 俯いたまま。
 風が吹いた。
 強い風はミルカの髪を遊ばせた。
 強く、強く、激しく虚空に踊る髪にミルカもさすがに顔を上げて、髪を押さえる。顔にかかる髪を無造作に掻きあげて、
 そして少女は目を見開いた。
 地下にある黒山羊亭への店内へと続く階段から姿を現した妙齢の女性が、エスメラルダその人である事に気がついたのだから。
 ああ、思えばあの風は、彼の起こしたものだったのかもしれない。


 ―――へっ。お嬢ちゃん、どうした? 俺からの伝言をちゃんとあいつに伝えてくれてやってくれるんじゃなかったのかよ?
 落ち込んでちゃ、幸運の女神様は逃げちまうぜ?
 第一、


「あなたが、『らしくもない』とかって言わないでよ」
 そっと耳元で鳴った風鳴り。それはあの赤朽ち葉の谷で聞いていた皮肉混じりの彼の声の様に聞えて、ミルカは口元だけで微笑んで、そう呟いて、途端に目から涙が零れ出る。
 目の前に居る女性、エスメラルダはおもむろに涙を零し始めたミルカにぎょっとしたような顔になったが、しかし優しい表情を浮かべてくれた。気遣ってくれたのだ。
 そしてミルカはエスメラルダに向かって、歩き出した。



 ―――――赤朽ち葉の谷のミルカ OPEN→



「とうぞく?」
 盗賊、ではなく、とうぞく、と相手の脳内で変換されるように発音したのはもちろん計算でだ。
 思ったとおりに相手の盗賊はミルカを舐めてくれた。
 自分の養子が幼く見られがちなのは自称『ヲトメ』たるミルカには色々と複雑に思う事もあるのだが、この場ではそれすらも利用する抜け目の無さは長く続けてきた旅生活で学んだ生きるためのスキルで、それはとても大切であるという事を充分に理解しているので、躊躇いは無い。
 ミルカの両手を縛り付けるロープの縛りは緩い。これなら縄抜けはできるはずだ。うん。心の中で頷きながら、その後の作戦立てにも余念は無い。
 だけど―――
「おいこらテメエ、そのお嬢ちゃんの手首のロープ、甘めえんじゃねーのか」
 いひひひと耳障りな笑いを含んだどこか人間的ないやらしさを感じさせる声にミルカは思わず表情を変えそうになった。
 しかしそこでもミルカは余念が無かった。
 本来変えそうになった表情ではない表情をそのさらさらの銀色の髪に縁取られた幼さの残る美貌に浮かべる。
 つまり、男がそそるような表情だ。身をよじり、しなを作る。媚びたり嘘泣きしたりする事が得意なミルカにとってはお手の物。
「ロープがいたいよう。これ以上強くロープで縛られたら、」
 言いながらもロープから手を抜こうとしなかったのはここで手を抜く事が時期早々だと判断したからなのだがしかし、
「ほれみろ、テメエ、甘ぁ甘ぁじゃねーか!」
 ミルカの両手の手首を縛り付けていたロープはいやらしい声音の男にあっさりと縛り直された。しかも今度は本当に肌にきつく食い込んで、痛い。
 それを訴えると、
「まあ、俺様たちを出し抜こうって考えた報いだと思って諦めな」
 そしてそこで男はふふん、と笑ってみせる。
「しかしまあなんだな。俺たち盗賊家業のささやかな楽しみといえば戦利品の女を縛り付けるところから始まるんだが、ほんとお嬢ちゃんのお子様サイズな胸はそそられねーな」
 思わず言った後に男が視線を変えた先にあった豊満な女性の胸、身体を縛るロープによってさらに大きさが強調されているそれを見て、ミルカは様々な意味で顔を赤くした。



 要するにそれはまんまとその男の策略にはまってしまった事だった、という事は盗賊たちのアジトに到着した事でミルカは気付かされた。
 ミルカとしてはその耳と、方向感覚である程度、アジトへの道を覚えられると思っていたのだが、あの男の失礼千万のセクハラ発言で怒り心頭だったためにそこまで気がまわらなかったのである。
 や、だって、女の子に対して面と向かっておまえは洗濯板胸だな、とか、Aカップだな、とか、ブラジャーいらねーよな、とかってマジでセクハラで、失礼で、凄まじく頭にくる言葉じゃない?
「いや、俺様はそこまでひでー事は言ってねーだろうよ。そりゃあ、あれだ、お嬢ちゃんの被害妄想つーもんだ」
 身体をロープで縛られた状態で荷物の様に馬に乗せられたミルカはそのままの状態で自分の前に立った男から顔を逸らした。
 あなたの顔なんか見たくないわ。
 男はいひひひと例の耳障りな声で笑った。
「やれやれ。すっかりと怒らせちまったみてーだな。こっちとしては何かを策略しているお嬢ちゃんの浅はかな思考をせめてもの皮肉で心を乱して邪魔してやろうと思ってただけなんだがよ」そこまで言って、この男は何の天啓を受けたのか、おもむろに手をぱちんと鳴らした。しかもそれは凄まじく悪寒がするぐらいに妙に嬉しそうな音だった。
「よし。お詫びにこの俺様直々にお嬢ちゃんの洗濯板胸を直に揉んで、大きくしてやろう!」
 ―――なんですと!!!
 凄まじく不穏当な申し出にミルカは耳まで赤くして顔を上げた。そしてそこにあった物に悲鳴をあげる。
「牛乳!」
 叫んだミルカの顔を覗き込んだ胸の主は男だった。それに立て続け様に驚いたミルカに今度は馬が驚いて、
 ミルカは馬から落ちてしまう。
 盗賊の男たちはそんな憐れなミルカにしかし同情する者は誰一人おらず笑い声をあげた。
「ああ、やべえ。横隔膜が痛てぇ!」
 いやらしい笑い声の男のその言葉にミルカは両手を身体の後ろで縛られ、しかも足まで縛られているというのに、器用にぴょん、と飛び起きた。まさしく怒り心頭の状態だからこそできたぎょうこうだ。
 またどっと笑い声が起こる。許せないのはわざわざ丸めた布切れを胸元から取り出して、それをこちらに向かって差し出してくる男だ。
 うら若きヲトメを自称するミルカとしてはここで笑うなー、と怒りの説教モードで何かこう皮肉のきいた言葉で何かを言ってやりたかったが、しかしそれを目の前の男が望んでいる事はその悪戯好きの子どものような顔で一目瞭然だったので、あえて背中を見せて、ぴょこぴょことそいつらを置き去りにしてやった。
 っていうか、ミルカ、逃亡!!!
「って、行くかよ」
 逃亡を図ったミルカの襟首をひょいっと猫をつまみあげるように持ち上げられて、ミルカは口惜しんだ。
「まあ、悪かったなお嬢ちゃんよ。おめえさんがあまりにもいちいち良い反応を返してくれたからつい嬉しくなってな」
「お礼ならいらないんだからね」
「はん。俺様は盗賊だぜ? おめえさんから奪いこそすれおめえさんに渡すものなんざ何一つだってあるもんかよ。まあ、胸をでかくする協力なら、何の感触も無くてつまらなさそうだが、してやってもいいがな」
 ここにきてまたセクハラ発言。
 でもまたここで顔を赤くして反応したら笑われるのは目に見えているので、ミルカは淑女のように上品に返した。「間に合っていますわ」
「なるほど。彼氏に揉まれまくりか! かぁー、幼い顔をしてやってる事はやってるんだな」
 結局、ミルカの撃沈に終わった。



 本当になんて下品でいやらしいセクハラ集団なんだろう?
 ミルカはぷりぷりと怒りながら与えられたシチューとパンを交互に口に運んでいた。(身体を縛っていたロープは逃げない事を条件に解かれている。)
 そんなミルカの右隣の男は切なそうに盗賊たちがぶどう酒を楽しそうに飲み交わす風景を見ている。
「あ〜、あんなにも上等ぶどう酒を水を飲むように飲みおって」
 とうとう男は顔を両手で覆って泣き出した。
 なんでも今年はぶどうが豊作の年だったので、ぶどう酒は都では随分と高値で取り引きされているそうだ。男はそこに一攫千金を夢見て、ぶどう酒を独自のルートで仕入れて、それを都に売りに来たのだが…………
 綺麗に与えられた食事を食べ終えて、ミルカは泣いている男の背中をその小さな手でさすった。
「おじさん、大丈夫? ほんとに酷いですよね? 街道を任せられている公爵はなにをしているのかしら?」
 ミルカは言って、大きくため息を吐いた。
 そして彼女は頭上に広がる秋の星空を見上げながらもう一度ため息を吐く。
 そもそもミルカや、ミルカを旅の余興の歌姫として雇ってくれた商人の一団が盗賊に襲われたのは、ここら一帯を治める公爵のお膝元である大きな街(地方の主都と言ってもいい。)をもう目前にした場所であった。
 街道という場所は地方の都市にとっては貴重な食料や物資を運ぶための大動脈と言っても良く、そこを整備し、警備し、街道を行き来する者たちの命と財産をその街道の恩恵を受ける国の騎士たちが守るのはそのまま自らの国の存亡をかけていると言っても良く、つまりが今回のこの有り得ない状況は間違いなくすぐそこにあった街を治める公爵の怠慢と言っても良かった。
 それを思うとまた怒りがこみ上げてくる。
 ミルカはもう何度目かの大きなため息を零した。
 するとミルカの左隣に居た太った商人がころころと笑った。
「お嬢さん、あんまりため息ばかり吐いていると幸せがたくさん逃げてしまいますよ」
「でも、もう逃げるような幸せなんか無いですよ」
 不貞腐れた感じにならないように、皮肉にならないように気をつけながらミルカは言った。
 その試みは上手く行ったらしく男はさして気分を害した様子も無く、ミルカに訊いてきた。
「お嬢さんは歳はいくつだね?」
「いやだ、おじさん。女の子に歳を訊くのはダメですよ。あたし、ヲトメなんですから」
 可愛らしく言ったミルカのその言葉に男はまたころころと笑う。
「これは失礼な事をしたね」そう言って男はミルカに頭を下げた後に、咳払いをして、それから丁寧で穏やかな、しかしどこか子どもを諭す教師のような声音でこう続けて言った。「しかしお嬢さん、お嬢さんは今生きておられるだろう? そんなにもありがたい幸せ以上の幸せが果たして一体どこにあるだろうか?」
 その言葉にミルカは大きく目を見開いた。
 そうだ。あたしは今ちゃんと生きている。
 それがどれほどの幸運であり、そして限りない無数の未来への道へと続く道を歩くための何よりもの条件である事をミルカは知っていたではないか。
 だからこそミルカは与えられた食事は全て食べたのだ。それに毒が仕込まれているかどうか入念にチェックしてまで。
「そう。それは生きるためだよ」
 ミルカはもう一度自分で確認するようにそう口にして、太った男を見た。彼はミルカに優しく頷いた。
「確かに今回は積荷の半分を命と引き換えに持っていかれた。それは私たち商人にとっては大きな損害だが、しかし生きていれば商いは続けられる。そして腐らずにコツコツと努力をして誠実な商いを続ければ、今日の損失は必ずや返せる日は来るじゃろうて。だから、生きている事が何よりもの幸福なんだ」
「うん」
 そしてミルカはだから右隣の男にも食べる事を促した。
 元気の無い男の為にミルカは優しく歌を歌う。
 それはそっと秋の香り溢れる空気から冬の冷たさを感じさせる空気へと変質しつつあるその空気に優しく浸透する歌声で、
 いつのまにか周りの木々や花はミルカの歌にうっとりとため息を零すような感じに耳を澄ませていた。
 そしてそれはあの下卑た盗賊たちも一緒だった。
 中には泣いている盗賊の男も居て、
 また、自分の妻や子どもを抱き寄せる盗賊の男もいた。
 その光景にミルカは小さく口を開けた。
 吸い込んだ空気に含まれるのは料理とぶどう酒の匂いと味、自然の匂いに味だった。
 だけどそれは決してミルカにとっては嫌なものではなかった。それは昨日まで商人の一団を相手にして歌っていたあの夜と、
 今日まで迎えてきた日々の夜と、
 一体どこが違うだろうか?
 そしてそこでミルカのささやかな胸がとくん、と優しく脈打った。
 鳥肌が浮かんだ。
 どうして今まで気付かなかったのだろうか?
 そこに広がる優しい家庭の匂いに。味に。
 優しい空気に。
「そうか。ここに居る人たち全員、生きているんだ」
 そう呟いたミルカの前に、粗末な服を着た小さな子どもたちが集まってきて、もっと歌を歌って欲しいと強請ってきた。
 あの、男、いやらしい笑い声をあげる男、聴くところによると、この盗賊の頭である男を見ると、彼はおどけたように大きく肩を竦めた。
 初めてミルカはその男の仕草を見て彼の事が好きになれるかもと思った。もちろん彼のセクハラ発言はまったくもって許せるモノでは無いけど。
 ミルカは自分を囲む子どもたちに微笑んで、順々に平等にその子達の頭を撫でてあげた後に、歌を歌った。
 バラッドである。
 悠久の旅人の民たちを謳う詩である。
 それは優しくもあり、そしてまた血肉沸き踊る詩でもあった。
 いつのまにか騒いでいた盗賊たちも、うなだれていた商人たちもミルカの歌声に耳を澄ましていた。



 夜も更ける時間、ミルカはただ独り、盗賊の頭が寝床とする場所に呼ばれていた。
 自分の身を、肌を護るための短剣など何も無い。ミルカはいざとなったら舌を噛み切る覚悟で(もちろん、自分のではなく、相手のだ。)、そこにいた。
「そうしゃちほこばるなよ。俺様はお子ちゃまには興味ねーよ。バン、キュゥ、ボーンのメリハリのあるボディーの女が良いからな。立たねーよ。ぺちゃんこには」
 おまえなんかまったくもって俺様の興味じゃない。そう言われて、ミルカはこれはこれでムカつくという自分の感想に何だか複雑な想いだった。
「何? あたしを呼び出して」
「いや、何。あんな綺麗なバラッドを聴かせてくれたお礼に、てめえには特別に俺様の寝床を進呈してやろうと思ってな」
「あら? それって先ほどとは言ってる事が違いません事?」
 思いっきり皮肉をこめて言ってやった。言ってファイティングポーズを取ったのはてっきりまた何か厭味を返してくると思ったからだが、男はニヤニヤと笑っているだけで何も返してこない。それはそれで消化不良な感じで、気に入らない。
 ミルカは全部含めてアヒル口になった。
「あなたはどこで寝るの?」
「もちろんおまえと一緒に寝るのさ」ミルカの思わず半目となった表情を楽しんでから男は肩を竦め、そして皮肉るような表情を作った。
「ふん。先代公爵とは持ちつ持たれつだったんだがな。この俺様の名前は盗賊家業の中ではちぃっとは知れた名前でよ、故にこの俺様の縄張りに踏み込んでこようなんて命知らずの馬鹿な輩はこれまではいなかったのよ。わかるか? 要するにこの俺様が公爵の街の命綱となる街道を縄張りにしてやってるから街道を行き来する商人の命は保証されていた」
 それをふん、盗賊のエゴイスティックな世迷言ね、とミルカが斬り捨てなかったのは、確かに商人団の全員がそれを認めていたからだ。あの太った商人はもう何度もこの盗賊たちに襲われていたが、それでもこの街道に入るなり雇った自警団との契約を終了した理由も偏にそこに至るのだ。(傭兵ギルドに依頼して、A級ランクの傭兵を雇っていた。だからその傭兵をそのまま雇っていたら、ひょっとしたら事態はもっと違った物になっていたかもしれないのにだ。)
「あの商人団もそれがわかっているから敢えて俺様たちと無益な戦いはしようとはしねー。今回俺様たちが奪い取った積荷の半分は言うなればボディーガード料と一緒だ。そして先代公爵もそれがわかっていたからこそ形ばかりの討伐隊しかこれまで送り込んではこなかった」
 あ、とミルカの口が声とも空気ともつかぬものを出した。
 先ほどからこの男は先代公爵と言っているではないか。それはつまり、
 ミルカが頭領を見ると、彼はへっと鼻で笑った。
「やっぱりお嬢ちゃん、頭が良いな。そうよ。公爵は代替わりした。そして新たに公爵に就いた奴は、あろう事かこの俺様を討伐しようと言うのさ」



 ―――皮肉った笑みを浮かべて彼がそう言い終えるかどうかのタイミングだった、




 強く大地が揺れて、
 夜が震える轟音がしたのは…………



 戦力の差は圧倒的だった。
 このアジトはすり鉢上の場所の底に作られていたのだ。敵の目を誤魔化すために利用した地形が、しかし、
「ちぃ。裏目に出たな」
 頭領はこんな時までへっと鼻で笑った。
 それを横で見ているミルカはもどかしい。
 すり鉢上の地形は猫の子一匹通れぬほどの兵士に囲まれていた。
 彼らは魔法使いと弓兵の混合隊で、そしてその頭上を世闇に紛れて飛んでいるのは竜と、それに乗った騎士たちであった。
 後で聞いた話によれば、この部隊は聖都エルザードより遣わされた騎士たちであり、そしてその隊を指揮するのは名目上では公爵であるが、実質的には聖都エルザードの王宮騎士団の巨人騎士であった。故にその騎士たちは歴戦の猛者を指揮者にする最強の部隊であったのだ。
 だから、
 公爵の提案に乗り、
 尚且つ自らの矜持を守り通した盗賊の頭領の勇姿は後にミルカが歌う詩の主人公を飾る勇者としては充分であった。
 公爵はこう提案してきたのだ。



 盗賊たちよ、素直に降参し、投降せよ。と。
 大人しく投降すれば盗賊たちのこれまでの罪は不問に処す。と。
 我が民として迎え、平等に他の民と同じ権利を与える。と。
 住居も提供する。と。
 


「故に、投降せよ。そちらに考える猶予を与えよう」



 盗賊の男たちはほとんどが戦おうと主張した。
 しかし女たちは投降しよう。そしてまともな民の生活を皆で送ろうと主張した。子どもたちのためにも。
 残りの男たちもその女たちの意見に言い難そうに賛同の意を述べた。
 子どもたちは終始、泣いていた。
 そして結論は、頭領に一任された。
 皆の視線を一身に集めて、彼はやはりはっと鼻で笑いながら頭を掻いた。
「投降しよう」
 ミルカは見逃さなかった。盗賊の誰もが、どこかほっとしたような表情を浮かべたのを。



「だけど意外。盗賊たちを民に迎えるなんて。日和ったのかしら?」
 ミルカは首を傾げたが、これにはあの太った商人が答えてくれた。
「盗賊たちはどこをどう攻めれば良いか知っている。それはつまりどこをどう護れば良いかそれを知っている、という事だ。盗賊として街道を護らせるよりも、兵士として街道を、街を護らせようという公爵様のご意志なのだろう。しかしこれでこの街道の平和は失われたのかもしれぬな」
 太った商人のその沈んだ声にミルカは思わず盗賊の頭領を振り返ってしまった。



 盗賊たちは投降すると、全員、女と子どもを除いてロープで縛られた。しかしその扱いはミルカの目から見ても紳士的だと思えた。
 しかし、そこで事件が起こった。
「はん。公爵よ。頭同士で殺し合いを始めようぜ。一対一の真剣勝負よ。俺が勝てばテメエの甘ちゃんな言葉に乗せられて俺様を裏切った奴ら全員、女、子どもを含めて全部殺させてもらうぜぇー」
 それは全てを嘲笑う残虐非道な響きを持った声であった。
 ロープで縛られた盗賊たちからは彼の名前を呼ぶ声があがる。そのどれもが涙に湿っていた。
 そして公爵は、
「その申し出、受けよう。投降したからには彼らは私の大切な民。民は護らねばならぬ。もっとも尊ぶべき貴族の血が、戦場では一番最初に流れるのだから」
 


 公爵と頭領の戦いは始まった。
 金属と金属の打ち合わせられる音はしかし泣いているようであった。
 血が猛るような戦場の歌は終ぞ流れなかった。
 頭領はわざと負けたのだ。
 そして血を吹き上げてその場に崩れ倒れる彼の姿を見て、
 ミルカは歌を歌った。




「へっ。お嬢ちゃん、俺様の事が嫌いだったんじゃねーのかよ?」
「ええ。あなたの事なんか大嫌いです。スケベでデリカシーの欠片も無いんですから。それでも、盗賊の皆を守り通した頭領としてのあなたの姿は立派だった」
「ふん。洗濯板の胸のお嬢ちゃんに褒められてもな。ご褒美に胸の谷間で気持ちよくしてもらえないからな」
 頭領はミルカの顔を見て、けたけたと笑った。
 そう。彼はそうやって笑っていると思っているはずだ。
 全てをちゃんと口で言えていると思っているはずだ。
 しかしその実、彼は何も言えていなかった。ひゅーひゅーと口から空気の掠れた音を出していただけだ。表情も引き攣った表情を浮かべているだけであった。
 公爵の一撃は見事で、それは即死ではなかったというだけで、致命傷であった。
 ミルカは魔法の歌声で彼を連れて逃げ出したが(見逃してもらったが。)、しかし彼女の魔法の歌声では彼を救う事はできなかった。
「ごめん。ごめんね。ごめんなさい」
 ミルカは泣きながら彼に謝り、
 彼は泣いているミルカの頬を濡らす涙をその手で拭おうとしたが、自分の手が血に汚れているから、その手を宙で止めた。
 ミルカはその手を自分の手で握り、頬に触れさせる。肌や髪が彼の血で汚れてしまう事もかまわずに。
 彼は驚いた表情をはっきりと浮かべ、そして、それからとても優しく笑った。無垢な子どもみたいに。
 その笑みにミルカはずるい、と思った。
 そして彼は、ミルカに言った。




「これが彼からあなたへのプレゼント。エスメラルダさん」
 ミルカはエスメラルダに自分が首からかけていた翡翠石のペンダントを渡した。
 エスメラルダは泣きながら微笑んでいた。懸命に微笑もうとしていた。
 エスメラルダと彼は幼馴染で、恋人同士であったが、しかしエスメラルダの夢の為にふたりは別れた。
 だけど今もまだふたりはこんなにも想いあっていたのだ。
「あいつの最後、教えてくれる?」
 そう言ったエスメラルダに、ミルカは頭領として彼が部下の為に全ての泥を被った事を、公爵も自ら盗賊たちが謂れの無い中傷を受けぬようにするために頭領のその想いに応えた事を、その一連の事を伝えた。
 伝え終わった時、エスメラルダは泣き崩れ、ミルカも泣きながらエスメラルダを抱き絞めて、ふたりでそうやっていつまでも抱きあいながら彼の為に泣いた。



 そして現在。
 ミルカは今も何かあれば黒山羊亭に通っている。
 エスメラルダの事は彼から託されたから。
 ふたりは大人の女として、ドライにクールに、お互いの領域、距離感を護りつつ、仲良く友人関係を続けている。
 ひとりの男。憎たらしいぐらいに皮肉屋で、そしてちょっぴりカッコ良かった、とミルカが認める男が繋げてくれたその縁を、ミルカとエスメラルダは大切にしているのだ。あいつからのふたりへのプレゼントのようにも思えたから。その縁が。
 今宵も黒山羊亭には『赤朽ち葉の谷の盗賊』と名づけられたバラッドを歌うミルカの歌声が優しく響いていた。
 客の為に、エスメラルダの為に、そしてあの頭領の為に歌う詩が。
 ――――余談であるが、その後、あの街道には一匹の狼が出没するようになり、その狼が街道の平和を今も守り通していると言われている。まるでその街道の先にある街に住む者を護るように。



 →closed