<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
『地下水脈の流れの中で、人魚姫は愛しみの歌を歌う』
『哀しみホタルとある奇跡の舞い降りた村のお話』
昔々、ある村で奇跡が起こりました。
誰もが諦めていたたくさんの命、
人の、
動物の、
植物の、
それどころか聖獣の命でさえも、
たくさんの命が、奇跡によって、活力を再び得たのです。
その村からはあらゆる病気が消え去りました。
その村からは死が消えました。
寿命を迎えようとしていた人々たちでさえも元気になったのです。
その村には奇跡が舞い降り、そしてそのまま奇跡が常駐する村となりました。
たくさんの人たちがその噂を聞いて村に来て、
そしてその村の奇跡の恩恵によって病気を、怪我を完治させて、健康な命の光り溢れる身体を手に入れたのです。
その村には神がご降臨されているのだ、とある人は言いました。
その村は聖獣界ソーンのあらゆる奇跡の力の流れが集まる場所となり、そのためにあらゆる病気が、怪我が完治する奇跡の村となったのだ、とある人は言いました。
誰もがこの村を天国だと賞賛しました。
神に愛されし奇跡の場所なのだと誇りました。
そしてさらなる奇跡が起こるのです。
幼虫の段階までしか育たないはずの【哀しみホタル】が、だけどこの村で成虫にまで育って、村で乱れ飛んだのです。
だけどその次の日、村に居た人々は全員、死にました。
――――村に居た人々は全員、死にました。
奇跡の村の奇跡は、【哀しみホタル】によって村に居た人たちが全員殺されてしまった事に絶望したかのように、消えて、無くなってしまいました。
それから【哀しみホタル】はソーンの法律で、発見次第直ちに駆除される事になりました。
【おしまい】
『地下水脈の流れの中で、人魚姫は愛しみの歌を歌う』Open→
【T+a】
「いやだ。あたしもいく」
黒山羊亭に幼さを感じさせる舌足らずな声が響いた。
それはどこか悲愴な悲鳴のようでさえあった。
しかしながらその舌足らずな声で訴えられた主張を彼女に口にさせた張本人であるエスメラルダが悔いるとしたらそれは、
―――他の無関係な人間が居る場所でこの拡声器のような声を喚かせている娘のスイッチに触れるような話題をこの時間、この場所で自分が不覚にも口にしてしまった事をである。ため息を吐きつつエスメラルダはこちらを見ている他の客を見回して、愛想笑いを客と目が合うたびに浮かべた。
そう。エスメラルダにとってはこの拡声器娘―――騒がしく、他の客の迷惑この上無いミルカの大切な父親に、それを聞けば彼女がこうなるとわかった上で依頼をした事は悔いる事では無い。寧ろ合理的な思考力を持つエスメラルダがこの依頼をミルカの父親、ディークに持っていったのはディーク自身の戦闘力・経験値を計算し、彼にこの依頼を持って行くのが依頼完遂のために好ましいと想ったからだし、そうした答えを出す過程で演算された数式の中には確かに彼の娘であるミルカの魔法力やその経験値も含まれていたからである。ミルカがこの依頼にディークを介して関わるのは最初からエスメラルダにとっては計算の内であった。
エスメラルダとミルカの関係は友人関係であるが、しかしそこに温い感情が入る事はまったくもって無い。この依頼は命に関わる危険な依頼であるからミルカやその大切な父親であるディークには持ってはいけない、というような感情は確かに最初から微塵も存在はしなかったのだ。いや、だからといってエスメラルダがミルカやディークの命を軽視しているという訳ではない。この二人ならば確かに依頼完遂をできると想ったからである。だからこそ依頼したのだ。それは本当に簡単な計算である。
そしてその簡単な計算を出来て、その簡単な計算の答え通りに行動できる、それがエスメラルダ流のミルカやディークへの信頼の顕れであったし、友情であったのだ。
お互いを甘やかしあうような事はしない。そんなドライな友情の形はミルカとエスメラルダ、双方にとっての心情である。たとえ立場が逆であったとしても、その時はミルカもこうしていたはずだ。
だから自分もその依頼に連れて行け、と駄々をこねるミルカに対して他のお客さんの迷惑、という感情は抱きこそすれ、援護をしてやろうというそういう感情ももちろん抱きはしないし、
それにそもそもがエスメラルダはディークがこの依頼にミルカを連れて行くという前提の下で彼に依頼した訳だから、つまり、
「わかった。わかったから、静かにしろ、ミルカ。他のお客さんにも迷惑だ」
眉間に刻んだ深い皺に軽く握った右の拳を当てつつディークが深いため息を吐きつつそう言うのもエスメラルダにとっては目論み通り、だったという訳である。
得意げにミルカはエスメラルダにピースした。
幼く見える容姿や舌足らずな喋り方は自称『ヲトメ』たるミルカにとっては複雑な事もない事もないのであるが、しかしこういう駄々をこねる場合はそれが有効に活用できる事を意外と策略家であるミルカはよく知っている。そもそも純粋無垢だと言われる幼い子どもだって空気を読んで、大人を喜ばせたり、大人の同情を誘うために、笑ったり、はにかんだり、怒ったり、泣いたりするのだ。だからこそ天使の如き幼さを残した外見と喋り、そして17歳という年齢よりも旅人としての必要度から実年齢よりもしっかりとした気性と思考力を有するミルカはただ可愛い外見をしているという事以上に自分が厄介な存在であると自負する。高い計算力と演技によってそれをただ本能といってもいいぐらいの感覚で有効活用する幼い子ども以上に上手く有効活用するのだから。
そのやり取りを片方の目だけを少し細めて見ていたエスメラルダは自分も加害者であるくせにどこかディークに若干同情するかのような表情を浮かべた。その表情を見てミルカは片方の頬にえくぼを浮かべてふふんと笑った。
―――あとでわかった話しであるが、それはミルカにとっては扇情的な、ちょっと大人びたヲトメの笑みであるらしい。
【T+b】
窓から差し込む月明かりが優しい。
その明かりに照らされる娘の寝顔は起きている時の彼女が見せるどの表情よりもあどけなかった。17歳、という年齢よりもだ。
「おとん………これ、食べて」
シーツをかけなおそうとした瞬間にぴくりと動いた華奢な肢体。よもや娘を起こしてしまっただろうか、一瞬そんな罪悪感に襲われたが、単に夢を見ているだけらしい。夢の中の自分は娘が一生懸命作ってくれた手料理を残さずに食べれているだろうか?
そんな事を考えてディークはふっと笑った。
そんな事を考える自分がおかしかったのだ。
――――昔の、傭兵時代には毎日、血とオイル、鉄の臭いと味しかしない、色の無い世界でただ生き死にだけを賭けて日々を送っていた自分が、こんなただごく普通の当たり前な父娘の夜を過ごしているなんて…………、
当たり前?
ディークは考える。
当たり前とは、何なのか? と。
それが当たり前などではないのは当の本人であるディークが一番知っていた。傭兵時代、彼は嫌になるぐらいに見てきたのだから。このごく普通だと想っている当たり前な日々が簡単に壊れてしまう氷上の上に成り立つ現実である事を。
そう。昨日まで温かな食卓を囲んでいた平和な家族が、幸せな家がたくさん寄り集まった街が、夜が明けた時には火の海に沈んでいる光景を、ディークは数え切れぬほど見てきた。
そもそも最初に見たその光景は、他ならぬ自分の生まれ育った家、自分の家族であったではないか!!!
全てが焼けてしまった瓦礫の中で拾い上げた壊れた人形を、彼は実はこっそりと隠し持っている。それをどうしてもディークは捨てられなかった。
幸せなどは、簡単に、壊れてしまう。
ごく普通の当たり前が、実は本当に何にも変えられぬ尊いモノである事を彼は嫌というほどに知っている。
ミルカの眠るベッドの横に置いた椅子に座るディークの手はベッドの片隅に置かれていた。その手を優しい温かなぬくもりが包んでくれたのはディークが焼けた人形を思い出し、涙を零したその時だった。
雷に打たれたような衝撃がその時、彼の中を走った。
大きく目を開け広げ、そして次に彼は優しく微笑んだ。それは泣き笑いだった。
ああ、この娘は、いつもこうだ。こうして自分が絶望のどん底に沈んでしまいそうになる時はいつだってそんな自分の感情を感じ取っているように優しくぬくもりで包み込んでくれる。この13年間、それがどれほどに嬉しかっただろう? どれほどに救われただろう?
この娘の汚れ無き魂が、堕ちた自分の魂の救いだった。
切々と懺悔するようにミルカと出逢う前までの日々をディークは思い出す。裕福であった家庭で育っていた日々。しかしそれが壊れ、失われ、独りでさ迷い、神に助けを求め、叶えられぬ願いに絶望し、神を恨み、それへのあてつけの様に自分を堕としめ続けたあの日々。そんな中で出逢った娘。
13年前の自分と今の自分。果たしてどちらが強いのだろうか? そう問えば、それは間違いなくミルカと出逢う前の自分の方が今の自分よりも強いと言い切れる。なぜならばそれまでの生き方は言うなれば遠回りな自殺の様なモノだったからだ。別に死ぬなら死ぬで良かった。寧ろ誰かに自分は殺されたかったのかもしれない。そんなあの頃の自分に今の自分が敵う訳が無い。
…………今は一分一秒だって生きたい。生きながらえたい。土下座して、死神の靴を舐めてでも生き延びたい。娘と、ミルカと一緒に生きるために。
そう。13年前までの自分はカップの中の温くなったコーヒーに熱いコーヒーを注ぎ足してそれを飲めたけど、
今はもう、そうやって独りの寂しさを、埋める事はできない。
ミルカという優しいぬくもりと共に生きられる幸せな居心地を、
娘に愛され、娘を愛する父親の気持ちを知ってしまったから。
だから…………
「おとん、美味しかった?」寝返りを打った娘がふいに口にした言葉に、
「ああ。美味しかったよ、ミルカ。ありがとう。ご馳走様」父親は優しく答えた。
【T+c】
閉店後の黒山羊亭でエスメラルダはひとりグラスを傾けていた。
琥珀色の液体を揺らしながら頬杖をつく彼女は一つ、軽くため息を吐く。憂鬱げなため息。しかしそれがまたひどく彼女には似合っていた。憂鬱げな妙齢の美人。儚げなイメージは無いが、誘う物が確かにあった。大人の女性が持つ憂いの色香がかもしだされているのだ。
揺れる琥珀色の液体を眺めながらエスメラルダはまた一つ、ため息を吐く。
心配じゃない訳は無かった。
今回の依頼は命に関わる危険なモノだ。しかしだからこそそれを依頼するに足るのはディークであった。彼はミルカという大切な娘が居るからこそ何が何でも生き延びようとしてくれるに違いないと彼女は確信している。そしてそれこそがこの危険な依頼を完遂するために一番必要な物なのだ。生きようとする者は強い。
だから彼女はディークにそれを依頼した。
そしてディークが生き延びるために一番必要な手助けは彼が生き延びようとする理由となる娘の彼女、ミルカがしてくれる。
だから、大丈夫。
ディークはミルカのために何が何でも生き延びようとするし、
ミルカだってこの依頼に同行するための条件としてディークに約束させられた以上、ディークのバックアップに徹し、命に関わるような危険な行為はしないだろう。最悪、それでもディークを護るために暴走したとしても、その時はディークが最善の判断をするはずだ。彼は娘の安全を一番に考える。娘の心を大切にする。そして、娘を愛おしく想うからこそ自分の命も大切にする。だから、
「そう。あたしはディークとミルカは死なないからこの依頼を頼むに足る人物だと判断した。でも、この依頼に関わらせてしまったから心配している。矛盾しているなー」
だけど果たしてこの世に矛盾の存在しない想いなどがあるのだろうか?
この世の全てのもっともらしい理由のその全てに矛盾が存在してはいないだろうか? エスメラルダは仕事柄たくさんの人間と出会い、その人間それぞれの理由に触れてきたが、しかしそのどれもが矛盾を孕んでいた。そもそもが人が生きる事自体が矛盾だ。だけどそれでも生きていこうとするのなら、人はその生きる事の数々の矛盾を受領せねばならない。
信頼しているからこそディークとミルカに茨の道を歩かせて、
そしてふたりの帰還を茨の棘に突き刺されるような痛みを自分自身も抱きながら待ち続ける。
それが永遠に続くなんて、
ふたりが帰ってこない時の事なんて考えない。
エスメラルダはグラスの中の琥珀色の液体を揺らしながらため息を吐いた。
首から下げている翡翠は明度の低い間接照明の明かりに照らされながら優しく輝いていた。
【U+a】
「うわー。なにこれー? 本当にあたしたちがもらってもいいの? おとん」
金色の瞳を瞬かせてミルカは羽毛のように軽やかな動きで背後の父親を振り返った。同じく金色の瞳を目一杯に見開かせていたディークもその娘の視線を受けて、自分の隣に居たエスメラルダを見やった。
自分に集中する視線にエスメラルダは肩をわずかに竦めた。
「このカムイコタンはクライアントからの依頼料の前渡しよ。だからあなたたちの物」
言ってエスメラルダはウインクした。ミルカは両手をあげて万歳。それこそ幼い子どものようにその場で飛び跳ねる。
しかしディークの顔にあったのは緊張の深い色であった。そして彼は再び今回の依頼のクライアントから依頼料の前渡しとして進呈されたそれ、カムイコタンという種の巨大陸地亀を見やった。
巨大陸地亀。カムイコタン。それはごく一般的な人の生活スペースを許容する家をその甲羅の上に建てられるほどに巨大な亀であり、また性格も温厚で、よく動き、人の言葉を解する知性もあって、噂では大事に世話をし、信頼関係を築き上げれば喋り出すようにもなる、と言われている非常に稀な亀である。寿命も数千年単位であるらしい。
しかしそれが故にこの聖獣界ソーンでも非常に生存数が少なく、またカムイコタンの甲羅の上に家を建てる技術は非常に高度なモノを要求されるので、家付きのカムイコタンは信じられぬほどに高額な値段を付けられるのが世間では常識であった。
―――つまり、こんなモノを用意せねばならぬほどに今回の依頼のクライアントは窮しているという訳である。
「確かに命に関わる危険なモノだとは聞いてはいたがな」
ディークは独り言を言った。
「なんなら、今からでも辞める?」
耳聡いエスメラルダはしっかりとディークのその独り言を聞いていたらしい。横目で自分の顔を見据えつつ嫣然と微笑む妙齢の美女である彼女の顔をディークも横目で見据えつつ、しかし彼は苦笑した。肩を大きく竦めながら鼻を鳴らし、そして視線をいそいそとかムイコタンの顔の前に樽一杯に水を張った樽を細腕で運んでいる娘に浮かべて、顔の筋肉を優しく緩める。
「数々の依頼と冒険者を取り仕切るおまえにはぬるい事この上無いのだろうが、今更娘からあの亀を取り上げる事なんてできないよ」
ディークとしてはそれはカッコいい大人の男発言だった。普段口数の少ない人間が発する言葉はそれ故に発せられた時にはそれに重き言葉の力が宿るモノであるが、
しかし隣でぷっと吹き出したエスメラルダはそのまま薄い腹を両手で抱えて笑い続けた。ひどく楽しそうに。目尻に涙まで溜めて。威厳も糞も無かった。
それで彼女が吐いた台詞は、
「似合わない」歌うような声で彼女は皮肉を口にした。
「ええ。似合わない。だってそんな、ニヒルな口調と顔で親ばか発言。本当に似合わない」
薄い腹を両手で抱え続けて笑っている。
「ふん」ディークは腕を組んで、鼻を鳴らし、そして憮然とした表情を作りつつもしかし、
元来、感情を表情で表す事が苦手な彼はそれを思った以上に自分が上手くは作れてはいない事を悟っていて、だから諦めたようにため息を吐いた。
そしてそっぽを向く。拗ねたように。いや、拗ねているのだろうか?
エスメラルダはそんな彼の事を珍しく思い、そしてすぐに気付く。普段は口数が少なくって、自分の感情を言葉や表情に表す事は苦手なくせに、そのくせ他者の感情には敏い彼は、エスメラルダが抱く矛盾の茨の痛みに気付いているのだと。
それに気がついて、そしてだから彼女は口だけで微笑んだ。
「本当に似合わない」
――――不器用で、優しい人。ディーク。あなたは。
「どうせ俺は親ばかだ」
「あら、認めるのね?」気を利かせて目一杯がんばって喋ってくれているのだ。ならばそれに素直に甘えさせてもらおうとエスメラルダは話題を変えなかった。
――――それに、そう、それにちょびっとだけ普段無口なこの男がどれだけ頑張って喋れるのかも見てみたかったし。
そう思って、心の中だけでエスメラルダは舌を出した。
「ふん」
「開き直り?」
「大切な者を誇るのに、開き直りも何も無いだろうよ。その気も無いのに、あんな事を言って」
あんな事………
―――なんなら、今からでも辞める?
「あら、カッコいい事」そう言ってまたエスメラルダがくすくすと笑い出し、そしてそのしばらく続いた笑いは「あ、やばい。横隔膜が痛い」、というどっかで聞いた事があるような発言で止まった。
ぴたりと笑い止んで、薄い腹を苦しそうに押さえる彼女の横でディークは深いため息を吐いた。
「開き直り、というのなら、それはおまえだろう?」
「軽蔑する?」
そう呟いた彼女は、どこも見てはいなかった。
ディークもまた、気を遣ってエスメラルダに視線をやるような事はしない。
「あれは別にクライアントがあなたたちに対して行ったご機嫌伺じゃないわ。あれはクライアントができるうる限りのあなたたちの安全防護策なのよ。カムイコタンは確かにその利便性から旅人に重宝されるけど、でもその一番の理由は安全性よ。カムイコタン自体が持つ危機回避能力、危険を予知する能力。そして甲羅の上の家。その家の防護能力。そういうのが本当に危険と隣り合わせの旅では重宝される。知ってるでしょう?」
ディークはこくりと頷く。
今回の依頼では確かにカムイコタンが持つ危険を予知する能力は役に立つだろう。
そう。今回の依頼。それは広大な魔性の森の向こうにある村に薬を届ける事である。しかしそのために越えねばならない魔性の森には凶暴な化物が出るという。それの詳しい情報は知れなかった。何故ならその魔性の森より出てきた傭兵がただ一言死ぬ前に発した言葉が、「化物が出た」、という物であっただけなのだから………。
それ以降、幾度かその魔性の森に接する小国や街を治める辺境伯が化物討伐隊を出したがしかし、そのどれもが返っては来なかった。
辺境伯たちが統治する小国や街の財政では傭兵をそう幾度も雇う事はできないし、そしてその小国や街の平和を護るためには自軍の騎士たちを出す事もできないのである。よって聖都側の魔性の森に接する小国や街はまだしも、魔性の森を抜けねばならない向こう側の小国、街や村は、薬や食料、そして情報、もはやそれらの人間が生きるうえで欠かせない生命ラインを絶たれ、今現在、どのようになっているのかわからない状況になっているのだ。
このたびディークたちを雇ったクライアントはそんな魔性の森の向こう側の村出身の大臣であった。彼がその村に残してきた娘は重い病気にかかっており、その治療のための薬を月に一度運ばねばならぬのだがしかし、その魔性の森の情報が運送屋に知れ渡ってしまい、全ての運送屋にその薬の運送を断られてしまったのだ。故に大臣はエスメラルダに依頼した。また自身も王に討伐隊の編成を上申しているがしかし、その編成を組み、出発させるまでには今しばしの時間がかかるという。王国の騎士団は強き力を持つが故にまた近隣諸国への配慮も必要とされるのだ。そんな騎士たちが弱者を護るという当然の如き騎士道を真っ当できぬ矛盾は、しかしながら政治では常であった。他国とのパワーバランス。それは国にとって非常に軽視できぬ問題なのである。
「化物を倒す必要は無い。あなたたちにしてもらいたいのは薬を届ける事だけよ。それをあたしはあなたたちに依頼した。だからそれを完遂してもらわないと困るのよ」
エスメラルダは言う。しかしそれには頑なさは微塵も無かった。平然と口に出された声にあるのは信頼と覚悟だった。
だからディークはふっと微笑んだ。
「そうだ。露払いをしてもらえるのは物語の中の英雄たちだけだ。現実では露払いをしてくれる存在なんか誰も居ない。だから、血を被る覚悟の無い者は、何もできやしない。それでも、」
「それでも?」
小首を傾げ、ディークの言葉を繰り返したエスメラルダにあったのは果たして何であったのだろうか?
しかし歩き出したディークはそれに応えはしなかった。
ただ、
「帰ってきたらまた飲もう」
―――それでもその覚悟があるのなら、そいつは紛れも無く正義の味方だ。だから自分を誇れ。エスメラルダ。
ディークはその言葉を自分の胸の中だけで言い、出発した。
【V+a】
魔性の森はどれほど危険かという事はミルカも知っていた。旅の難易度で言えば魔性の森を抜ける旅は難易度SS級だ。
幾つもの討伐隊を退けた化物が出没する様になる前からこの森では盗賊や魔物が出没していた。まずこの森を越えるためには森に隣接する小国や街を統治する辺境伯や議会が商人や旅人のために雇った傭兵の警護を受けねばならなかったのだ。そうでなければ生きては越えられない。たとえ腕に覚えのある剣士や武道家、魔法使いや聖職者たちでさえも独りでは困難な道のりなのである。
当初、エスメラルダは自分の知り合いたちにパーティを編成させ、その上でこの依頼を受けさせるつもりであったらしい。しかし結局、ミルカとディークがこの依頼を受けてから三日待ったが、他の者たちは終ぞこの依頼を受けはしなかった。それほどまでに危険な依頼なのである。
だけどミルカは、
「おとんとお出かけ嬉しいなー♪」
陽気に歌を歌っていた。
もちろん、空元気などではない。彼女は信じて疑わないのだ。自分とおとん、このふたりならば絶対に薬を届けられるって。それどころかこの魔性の森に出没するようになった化物でさえも倒せると。
それはもはや太陽は東から昇るのだ、という事と変わらぬぐらいにミルカの中では絶対の事であった。
寧ろ余計な人間がついてこなくって良かったと思ってるほどだ。それほど彼女はこのふたりでの旅が嬉しかった。
重度の、ふぁざこん、なのだ。
魔性の森は薄ら寒い。
魔性の森は陰気。
魔性の森は死臭に満ちている。
魔性の森の外観は不気味。
魔性の森は奇怪な声で満ち満ちている。
しかしそんな物はなんのその。カムイコタンの甲羅の上の御者台(家の縁側に当たる部分)に座ってミルカはご機嫌で手綱を握っている。鼻唄まじりである。
まさしく幸せな家族の休日のドライブ、そんな風景だ。
ご機嫌なミルカの幸せオーラは人の魂の根幹を震えさせる魔性の森の方がかえって不憫になってしまうほどに完璧で、どこにも隙は無かった。
ミルカにとってみればおとん、ディークとふたりであるのであれば、もうそれだけでそこは安心して過ごせる嬉しい場所であったのだ。
しかもこのカムイコタン。これさえあればこれからも家付きでふたりでどこへでも旅が出来るのである。野宿とかは別にそんなに苦にはならないけど、でもやっぱりヲトメたる自分にとっては、カムイコタンの甲羅の上の家はありがたい。だからミルカは本当にハッピーだった。
夢も膨らむ。
「ねえ、おとん」
手綱を握りながらミルカは御者台の裏に居るディークに話しかける。
「ん?」
「ものすごく素敵な案があるの」
ミルカは本当に嬉しそうに歌うように言う。
「あのね、」舌足らずな口調でミルカは言う。
「この依頼が終わったら、また旅に出て、それで家のリフォームができる大工さんを探そうよ。すごーく素敵で可愛らしいお家にするの。ね、すごく素敵でしょう?」
手綱を握りつつミルカは言う。未来の家の事を。それは古い家をローンを組んで買った妻が、旦那を相手にして夢のリフォーム計画を語るようなそんな可愛らしい女特有の光景であった。
それをディークは微笑ましそうに聞いていた。
魔性の森、とは思えないようなそんな和やかな家族の団欒。幸せ。
ミルカは満面の笑みでこの旅を楽しんでいる。
魔性の森の空は生い茂る奇怪な植物の弦や木の枝、葉で覆い隠されている。空は望めない。太陽の位置で時間を知ることは出来なかった。
カムイコタンという種は何ヶ月も食べずに動き回る事が可能であった。睡眠もである。だから手綱で操作してやらなければそのまま延々と歩き続ける事も珍しくない。
それでも人と暮らすようになればそういった野生は失われ、家畜化が進む事もあり、こうして人を乗せるカムイコタンはその高い知性から人間の時間に合わせて動く事も覚えるはずであった。
が、このカムイコタンは身体の大きさ並びに甲羅の上の家の傷み具合からもう結構長い間、人と一緒に暮らしている痕跡が見られるのだが、そういったのは皆無であった。
実はミルカが手綱を握っているのもそれを見定めるためのディークの計らいであった。ミルカの拙い手綱さばきでこのカムイコタンの知性がいかほどにあるのかをディークは見ようとしたのだ。
そして出た結論は、随分とこのカムイコタンの知性は高い、というモノであった。おそらくは既に人語を操れるほどの知性は有しているはずなのである。
…………しかしこのカムイコタンはまったく喋らなかった。
そのくせ、ミルカの手綱に従わずに危険があれば、自らの判断で危険を回避する。
つまり、このカムイコタンは全く人を信用してはいない。
過去の経験からディークはそんなカムイコタンに親近感のような物を感じ、そしてまたどうやったらこのカムイコタンの心を開かせる事ができるのかを真剣に考えていた。
そんな自分に知らず知らずのうちに苦笑を浮かべ、
そしてその方法論は考えるまでも無く出ていて、
それはミルカに任せてみよう、というモノであった。
だからミルカが口にしたリフォーム計画も良いんじゃないのか、とディークは思っていた。
――――だが、この後、決定的にディークとカムイコタンとの間には亀裂が走る事になる。
【V+b】
夕飯の仕度はミルカの仕事であった。
ディークはずっとミルカが手綱を握っていたので「やるよ」、と言うのだが、だけど大好きなおとんに自分が腕によりをかけて作ったご飯を美味しく食べてもらえる方がミルカにとっては何倍も嬉しくって、何百倍も素敵で、何千倍も幸せなので、そのおとんの申し出を丁重に断って、
それで今、下火でゆっくりとコーンスープを優しく温めている。焦げ付かないように。味が均一になるように。灰汁を何度も取って、透明感が出て、金色に輝く最高のスープになるように。
ミルカは精魂を込めて作ったコーンスープの美しい透明度に満足して頷いた。火を止めて、それでスプーンで一口スープをすくって、口に運ぶ。
「うん。美味しい」
その一口で幸せになれるミルカのコーンスープ。最高のできであった。その金色の液体は完璧なまでの透明度を誇っているにもかかわらずしかし、その味わいは驚くほどに深く、濃密であったのだ。
うん。これならばおとんも喜んでくれるはずだ。
うん。がんばった甲斐がすごくあった♪
ミルカが嬉しそうに見やるのは一冊のノート。そのノートにはイラスト付きで料理の作り方が書き込まれていた。ミルカの愛の創作料理レシピ集である。必要な具材、それの切り方、適度な調味料の配分、焼き加減から煮加減まで詳細に書かれている。それはまさに精密な設計図であった。料理の設計図である。完璧なまでに計算され尽くした料理の、それを作るために必要な計算され尽くした数字が書き込まれているのだ。それは本当に見事であった。見事までの愛であった。レシピ集はミルカの料理への、そしてその料理を食べてくれる人への愛情に満ち満ちていた。
ただし、それは必ずや誰もが認めるであろう事実であるが、しかしだからといってそのレシピが必ずや認められるとは言い難いのである。残念ながら。哀しい事に。何故ならそのレシピ集には首を捻らざるを得ない具材や調味料の数々も書き込まれているからである。どう考えても………いや、その具や調味料はせっかく作った料理の味を壊すのでは? と言いたくなってしまいそうな物が多々書き込まれているのである。
きっとそれを書いた人は極度の味音痴である事を腕に誇りを持って料理をしている料理人ならば見抜くであろう。
だけど今夜の夕食も、そのミルカのせっせとおとんへの愛を込めて書き綴った愛のレシピ集通りに作られていくのである。
ああ、それはおとんへの愛。
おとんへの愛ゆえに娘は様々な料理を繰りかえし繰りかえし作り続け、その都度にレシピ集の味加減や焼き方、煮方を試し、模索して、書き直し、そして辿り着いた最高の調理法、味加減をこれ完璧♪ って、書き記したのである。ああ、それは本当におとんへの愛の証なのだ。
喜んでくれる顔が見たい。
美味しそうに食べてくれるおとんの顔を見たい。
もっと喜んで欲しい。
それだけであたしは幸せになれるから。
ただただそんなおとんへの想いゆえに、ヲトメのミルカは今夜も料理を作るのだ。
味を落ち着かせるためにコーンスープをひとまず置いて、
そしてミルカはメインの料理であるハンバーグ作りに勤しむ。
まずは玉ねぎふたつを微塵きり。トントントン、包丁が歌うように玉ねぎを切って、
そして切ったそれを熱したフライパンにミルカ特性のオリーブオイル(ミルカがオリーブから手製のオイルを作った。無論、ミルカの黄金の舌が美味しいと思った秘密の味付けもしてある愛の特注品である。)をしいて、いっきに飴色になるまで炒める。
火を止めて、
ミルカは流れるように次の作業に勤しむ。料理は愛情はもちろん、スポーツのような激しさ、そして流水の如き流れも必要なのだ。手際が大切なのである。
ニンジンを微塵切り。ピーマンも微塵切り。それらを炒めた玉ねぎと一緒にボールに入れて、ひき肉を入れて、卵を割って、パン粉を入れて、ナツメグ、塩、コショウ、ケチャップで種の味付け、そして、さらには秘密の味付けとしてパイナップルの果汁を入れて、他にも数々のミルカのオリジナリティー溢れる具材や調味料をボールに入れると、
「うん。あとはこの調味料でお終い♪」
そこでミルカは、綺麗に洗った両手の指の先をそっと唇にあてる。
しばし、そのまま、目を閉じて、ヲトメらしく頬を赤く染めた彼女は神に祈りを捧げるシスターのように静かに時を過ごすと、おもむろにカオスと化したハンバーグの種に向かって投げキッス♪
―――可愛らしく投げキッス♪
ハンバーグの種はその最後の究極のおとんへの愛情溢れる味付けを得て完成した。愛情という調味料を投げキッスによって注入して、完成させたのだ。うん。ミルカの笑顔は満足げだ。
そしてミルカはハンバーグの種を手にとって、それをハート型に形作る。後は焼くだけ。
熱したフライパンに今度はミルカ特製のバターをしいて、ハンバーグを焼く。両側にこんがりと焼き色を付けたらそれをオーブンに移動させて、
コンロにお鍋を乗せて、ミルカ特製のデミグラスソースを温めて、
あとはお皿に盛り付け。ハンバーグを乗せて、デミグラスソースをかける。横にはバターで炒めたスライスしたジャガイモとニンジン、パセリを添えて、
そのお皿の横にコーンスープ。
カットしたパン(ミルカの焼いたパンで、フランスパンと酷似している。)を入れたバスケットを置いて。
パスタサラダも。
ノリの利いた真っ白なテーブルクロスが敷かれたテーブル。テーブルの真ん中に置かれた美しい細工の施された硝子の壷。それに活けられた綺麗で可愛らしいお花。並べられた温かな料理。テーブルの上の間接照明に照らされたそれは理想的な夕食の風景だった。
「おとん。食べられるよ」
カムイコタンに餌と水をやっていたディークに駆け寄ったミルカは目を輝かせながら嬉しそうに言った。可愛らしく背伸びして言った。
ディークは優しく微笑みながら頷いて、家の中にミルカと一緒に入る。
家の中は美味しい料理の香りに包まれている。
美しくデコレーションされた料理の数々が並べられたテーブルにつくと、ディークは胸の前で両手を組み合わせた。ミルカもそれに倣う。
「神よ。今夜も私に暖かな料理をお与えくださった事を感謝いたします」
一度は喧嘩をし、その存在を真っ向から否定した神。今も心からそれを信じているのか? と問われればディークは否、と即座に答えるであろう。しかし彼はそれでも自分とミルカとを出逢わせてくれたその事には感謝しているし、願わくばミルカとこのままずっとふたりで生きていけたら良いと思っている。
だから、毎晩、神の教えに従い、生きる事の感謝の言葉を捧げるのは、ディークにとっては自分の今の生き方を神に示す行為であった。祈り、というよりもそれはディークと神との約束に近かった。自分はこれだけの事ができるから、するから、だからどうか、ミルカを自分から奪わないでくれ、と………。
ディークが神への感謝の祈りを捧げ終わると共にミルカは待っていました、と目を開けて、目には見えない尻尾をはちきれんばかりに振りながらディークを見つめた。
チューリップ型にした両手に顎を乗せる娘のキラキラと輝く瞳に見守られながらディークはナイフでハンバーグを切って、フォークでその切り分けた一欠けらをさすと、口に運ぶ。
温かなハンバーグのぬくもりが口に広がると共にデミグラスソースとハンバーグ自体に付けられた味が広がる。ものすごーく個性溢れる味にディークの頬を汗が流れた。口の中で味の永久徒競走が開かれている感じ。
ミルカは可愛らしくディークを眺めながら小さな顔を傾げる。美味しい、おとん? 目には見えない尻尾は今や本当にはちきれる寸前のように見えた。
だからディークは口の中に入れたハンバーグを飲み込むと共に、汗を止めた顔に笑みを浮かべて頷いた。
「ああ、えっと、すごく美味しいよ、ミルカ。デミグラスソースとハンバーグの種に付けられた味がすごいマッチしていて、この味のハーモニーがまた何とも言えない」
「まあ! 本当に? 嬉しい。あのね、おとん。今度のはすごい自信作だったんだけど、おとんにそう言ってもらえてすごく嬉しい! ねえ、おとん、今度はこっち! このコーンスープを飲んでみて!」
幸せな食卓。
可愛らしい娘の笑顔。
愛しい娘が自分の為に作ってくれた料理の数々。
差し出された透明度の高い金色のコーンスープ。
気付けば上半身を乗り出させているミルカ。
羽耳がぱたぱたと嬉しそうに動いている。
ディークは笑みを浮かべたままスプーンでコーンスープをひとすくいして、躊躇う事無く口の中に入れた。
「とても上品な、淑女のようなコーンスープだね、ミルカ」
「うん♪」
その娘の笑顔があるのなら、たとえ独創性溢れる味のコーンスープも、ディークにとっては最高級の三ツ星レストランのそれよりも美味しいコーンスープだった。
【V+b】
するすると服を脱いでいく。魔性の森に普通にフクロウが居て、それが鳴いている事にミルカは驚いたが、しかし旅の夜にはフクロウの鳴き声は実は欠かせぬ物であるとミルカは想っている。これで天上にあるはずの月の明かりが自分の下に零れていれば言う事は無いのだが、そこまでは我が侭は言えない。旅の夜を演出してくれるフクロウの鳴き声がある事だけでも感謝すべき事だろう。
甘やかな衣擦れの音を奏でて服を脱いで、それから周りを見回してから(ここは魔性の森であるのだから、自分たち以外の人が居る訳は無いのであるが、しかしそれでもヲトメであるゆえにミルカは周りを見回した。)、下着を外し、ショーツを脱いだ。
右腕と左腕で胸と下を隠しながらミルカは川に足を入れる。ここは魔性の森。故に美しい自然が壊されずに存在している。この川の水は美しかった。
危険は、無い、と思っている。だってあのカムイコタンがそれを報せないのだから。だから、ミルカはちょっとした冒険をした。大丈夫。水浴びをして、髪の毛の手入れを済ませたら、そしたらすぐに戻るから。
だから、ね。
美しい川や湖の水で髪を洗えばその髪はサラサラの美しい髪になる。それは旅のヲトメたちの間で語られる噂。実証は無いけど、でもミルカはそんな実証は必要無いと思う。だってその方が素敵じゃない。ロマンチックだよ。
夢見るヲトメ、ミルカは川の中に潜り、そして立ち上がると、顔に張り付いた髪を両手で掻きあげて、それから自分の腕を、胸を、薄い腹を、足を水に愛撫させた。
ぱしゃん、と、水の中に潜って、泳ぐ。暗いはずの水の中はしかしどうした事か明るかった。それは月色石のせいだ。空は見えないけど、月色石は、空に月があるとそれに呼応して輝くのだ。だから川の中は明るい。ミルカは口から小さな気泡を零しながら川の中を美しい虹色の魚たちと共に泳いだ。
それはなんだかまるで夢の中の出来事のような、そんな素敵な時間だった。
けど、――――ミルカの全身を凄まじい悪寒が襲った。
ミルカは立ち上がる。川はミルカの腰までしかない。濡れた髪を乱暴に掻きあげて、ミルカは鳥が飛びだった方を見た。
ああ、先ほどまでは凄まじい夜の恐怖がそこに帳を成していた。しかし今はそれでさえも消えている。魔性の森が、そこに住まうモノたちが息を押し殺している。全てはそこに居るそいつのせいだ。
この世の全ての恐怖で形作ったかのようなそいつが、そこに居た。
夜の暗闇の中でそいつの赤い眼が光っていた。
そしてそれをミルカが認めた瞬間に、夜が悲鳴をあげた。そいつがミルカに襲い掛かる。ミルカは迷わず川の中に潜った。泳ぐ。しかしそれが浅はかな思考であったのはすぐに思い知らされた。そいつは川の中に入ってきた。体力に自信のあったミルカよりも早かった。その奇怪な動き、俊敏性は凄まじい。
ミルカは肺の中の全ての空気を出してしまった。そしてそのせいで溺れる。体力には自信のあったミルカであるが、しかし予想のできぬ相手にわずかばかりの狼狽がまた致命的な状況へとミルカを押し流してしまったのだ。
数え切れぬほどの足を水の中で動かしながらそれが迫ってくる。水の中で奇怪に動くそいつの次なる行動は、牙を、ミルカに――――――
させるか!!!
深夜、こっそりと寝床を抜け出したミルカを探しに来ていたディークはいち早く異変に気付き、間に合った。川面からわずかばかりに出ているそいつの身体に向けてナイフを投げつけた。手ごたえはあった。ナイフがそれに突き刺さる。川の中から零れる明かりの中でそいつの身体から体液が飛び散る様がディークにも見えた。
夜を切り裂くような悲鳴が発せられる。巨大な百足は身体を捩らせながら川から飛び上がると共に器用にディークへと頭を向けて、そしてディークへと突っ込んできた。
ディークは振り返ると共に走り出す。逃げた。いや、川からそいつを離そうというのだ。そしてそれは上手く行った。
否、百足はそれを利用したに過ぎない。川から発せられる月色石の明かりが届かぬ場所に行くと、そいつは潜ったのだから。
そしてディークも足を止める。両手にナイフを持ち、全ての神経を研ぎ澄まさせた。肌で、全ての感覚で、土に潜った巨大百足を感じるために。
――――!!! ディークの目がカァッと開かれる。前方に向けて両手のナイフを投げつける。しかし、それは囮であった。あえて急所である頭部を見せた事でディークの隙を誘った。両手のナイフ全てを投擲したディークのその背後で、もう一匹の百足が現れ、百足は蛇に毒気を吐いて、蛇の脳眼を喰らうと言うが、ディークに向けて毒気を吐き出した。
――――――――。
【W+a】
ミルカは泣きながら手綱を握っていた。
あと少し。
あと少しなのだ。
あと少し行けば、村に着くはずなのだ。薬を届ける事になっていた村へと行き着けるはずだ。そしたらそこに医者が居るかもしれない。医者が居てくれたら、そしたらおとんが助かるかもしれない。
だからミルカは泣きじゃくりながらカムイコタンの手綱を握っていた。自称、ヲトメ。いつもおしゃまにお洒落に気を配って、目一杯に背伸びしていた女の子。だけど今のミルカは涙と鼻水で顔を汚していた。嗚咽を上げていた。何度もしゃくりをあげていた。
カムイコタンが実は自分を舐めているかのような態度をしていたのは知っていた。だけどそのカムイコタンが今はミルカの想いを組んでくれているかのように早足で動いてくれていた。駆けてくれていた。
がんばれ、おとん。
死なないで、おとん。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
勝手な行動をした事は謝るから。
謝るから。
もう絶対に我が侭を言わないから。
だから逝かないでおとん。
おとん。おとん。おとん。逝かないで。
あたしを独りにしないで!!!
―――――ああ、ミルカが泣いている。
その泣き声を聞いているだけでディークも泣きたい気分になった。
大切なミルカの泣き声はいつだってディークの胸をしめつけた。
哀しい気分にさせた。
だから愛しい愛しい娘のミルカの涙を拭ってやりたかった。
頬を流れる涙をそっと手で拭ってやって、笑わせてやりたかった。
前は人の命を奪う事しかできなかった自分の手だけど、
今だって本当は他人には見えなくっても血で汚れた手だけど、
それでも娘はそんな手でも両手で握ってくれるから。
心が痛くなるぐらいに握り締めてくれるから。
その手を必要としてくれるから。
だからああ、神様。神様。神様。どうかお願いします。できる事ならこの手でミルカの涙を拭わせてください。
もう一度この手で娘の頬に触れたい。
その温もりを感じたい。
ああ、俺の大切な娘。
ミルカ。笑っておくれ…………。
「着いたよ、おとん」
着いた。
着いたのだ。
なんとか間に合った。
ミルカは御者台から飛び降りて、泣き叫んだ。
「助けてください。助けてください。助けてください」
そのミルカのただならぬ声を聞いて、村の人たちが駆け寄ってきてくれた。
【W+b】
「もうこれで大丈夫だよ」
村の人たちが優しくミルカに言った。
しかしミルカには一体何が起こったのか理解できなかった。何故なら村の医者は水をディークに飲ませただけであったからだ。そしてただそれだけでディークの顔色は驚くほどに正常な物となった。
【W+c】
「やれやれ。一体何の因果かね、生涯で二度もこんな場面に行き合せるなんてさ。わたしはこの村の水なんか飲みはしないよ」
ついにカムイコタンが喋ったのはディークの身体を拭いてやるために桶に水を汲みに行こうとしてミルカが家から外に出てきたその時であった。しかしミルカが桶を足下に落としたのはそのせいではない。ミルカの目の前で子どもが転んで、しかし転んだ子どもの膝の怪我が一瞬で治ったのを目の当たりにしたからだ。
「どういう事?」
ミルカは呟いた。
この村の異常にはミルカだって気付いていた。
村人たちの中には病人は居なかった。薬を届けに来た娘は完全に回復していた。
子どもの怪我は一瞬で治った。
百足の毒に犯されていたおとんはこの村の水を飲んだだけで完治した。
こんな事が普通は起こる訳が無い。起こる訳が無い事が起こる事を人は異常と言うのだ。
ミルカは身体を震わせていた。
「言った通りの意味さ。この村の人間も、そしてあんたの父親ももう直に死ぬよ。この村の水を飲めばあんただって死んじまうのさ」
カムイコタンは、カムイコタンという種の亀は、喋った。
「どういう事?」
ミルカはカムイコタンの前に走り回った。涙の浮かんだ目でその顔を真正面から睨んだ。
「言って。あなたの知っている事、全部言って!!!」
【W+d】
「どうして話した? 水を飲みたくなければ飲まなければ良かっただけだ」
ディークはベッドから身体を起こした。確かに百足の毒からは回復してきているが、しかしだからといって体力が完全に回復した訳ではなかった。それでも彼は起き上がり、そして新しい服に着替えると、装備を装着し始めた。おぼつかぬ動きで。虚ろな眼をしながら。油汗を流しながら。
「もう直に哀しみホタルが舞うよ」
それは彼も聞いていた。
カムイコタンはミルカに言った。この村の地下水脈の水には哀しみホタルの卵が含まれていると。それを水ごと飲んだモノは、哀しみホタルの卵を体内に取り入れた事で驚異的な回復力を得る。不治の病ですらも、致命傷ですらも、完治する。全ては哀しみホタルの卵が持つ力で。しかしその代わりに哀しみホタルの卵を体内に取り入れた者は、飲まれていない哀しみホタルの卵とリンクして、それらに精を吸われる。哀しみホタルに全ての精を吸われた時、哀しみホタルは孵化する。一気に成虫となって、美しい燐光を発しながら世界を舞う。
成虫になるためのエネルギーを自分で得られなかった哀しみホタルが得た、成虫になるための方法。そうして哀しみホタルは成虫となる術を得たが、故に、人に駆除されるようになってしまった。
ミルカは井戸から地下水脈に降りて、そこに居るはずの哀しみホタルの女王を倒そうとしている。それを倒せば少なくともディークやこの村の人間の体内に取り入れられた哀しみホタルの卵や他の卵もソーンでも珍しい利己的遺伝子の本能に乗っ取って死に絶えるはずなのだ。
それをカムイコタンがミルカに話した。しかし、それがディークには理解できなかった。
「哀しみホタルに同情していたからだよ、わたしは。だけど、だからといってあんたやこの村の人間、そして何よりもあのお嬢ちゃんに罪は無い。だから、話したまで。どちらが正しい事かなんて、わたしにはわかりはしやしないさ」
「そうか」
ディークはミルカを追った。
【X+a】
地下水脈の作りし洞穴。そこでミルカは哀しみホタルの女王(大きさはディークほどだ。)と対峙するもしかしそこにはあの大百足二匹が存在していた。
ミルカの銀色の髪がふわりと動く。羽耳が動いたのだ。彼女は緊張していた。怒ってもいた。
そして―――――哀しんでもいた。
聖獣装具【誘惑歌琴・サイレンソング】を両腕で抱きながら、しかし涙を零していた。
大好きなおとん。知り合った人たち。おとんを助けてくれた村の人たち。その人たちを救いたい。だけどそのためには―――
物語の中の英雄とは違い、現実の英雄には露払いをしてくれる者なんかはいない。血を被る覚悟が無いのなら、正義の味方などできない。だけど、だけど、だけど、だけど、だけど、だからって!!!
ミルカは悲鳴のような声をあげた。それは慟哭だった。ミルカが大切な人たちを想う様にこの哀しみホタルの女王だって自分の子たちを想っているのだ。それが罪だというのであれば、それは、人は何か大切な物を捨てる事になるのではないのか?
それは理想論?
―――でも!!!
これは単なる生存競争?
―――だけどだからといったって!!!
あたしは、あたしは、あたしは、あたしは、あたしは、
「あたしはー」
ミルカにとっての理由が、しかしミルカを苦しめていた。
そして大百足がミルカに向かう。
一匹がミルカを喰らわんと!!!
「させるかァッ」
叫び声と共にナイフが飛来し、それがミルカに向かっていた大百足の目玉を潰した。
大百足は暴れ、洞穴の天井や壁にぶつかり、そして弱ったそれはもう一匹の大百足に喰らわれた。
ミルカはディークの胸にすがりついた。
「倒すぞ、ミルカ」
ディークが力強い声で言った。彼は覚悟しているのだ。血を被る事を。
そして彼は震える娘に微笑んだ。
「大丈夫だ。ミルカ、眼を瞑ってなさい」
―――怖い物は何も見なくて良い。おとんが全てをやるから。
だけどその言葉にミルカは目を大きく見開いて、そして大粒の涙を零した。顔を振った。
「いやだ。あたしは、あたしは、あたしは、目を逸らさない。おとんが大事なの」
―――おとんが本当は何時だって泣いているのを、あたしはちゃんと知っているの……………。
そう言った娘の表情にディークは驚いたように眼を見開き、そして頷いた。
駆け出すディークの背中に向けてミルカは歌を歌う。それは筋力強化の歌だった。そして猛る精神力を効果的に操るための歌だった。
ミルカの筋力と精神力強化のための歌という援護を受けて、ディークは大百足にナイフを投げる。それは正確に大百足の間接と間接の繋ぎ目、柔らかい部分を刺し貫き、ひどく高い場所にあったそれの頭部は下がった。そしてそれをディークは見逃さない。一気にそれに走り迫り、聖獣装具【銀狼刀・シルバーファング】を鞘から抜き払う。
それを逆手に持って、ジャンプ。銀狼刀・シルバーファングの切っ先にカムイコタンから教えられたとおりに唾をつけて、そして一気にそれを大百足の頭部に突き刺して、殺した。
【X+b】
大百足は断末魔の悲鳴をあげて、地下水脈の底に沈んだ。
哀しみホタルの女王は淡い燐光を放つ。地下水脈の中で卵から幼虫が孵化し、そしてそれは母親を護らんと、それの周りに集まった。
ああ、それを見てしまったら、再びミルカの胸に躊躇いが生まれる。
―――本当に殺すしかないの?
ミルカは泣きじゃくりながら頭を振った。しかし、その瞬間に優しい歌声が聴こえた。ミルカの羽耳はその声をもっとよく聴くために動く。それはこの世界、聖獣界ソーンに存在する全ての聖獣の歌声であった。
それが教えてくれた。ミルカの想いが、奇跡を起こしたのだ。
ミルカは地下水脈に飛び込んだ。聖獣と心を通わせた今の彼女はマーメイドへと変身している。
そして美しき人魚姫は、聖獣装具【誘惑歌琴・サイレンソング】を奏でて、歌を歌う。優しい歌を。愛しみの歌を歌う。
その歌がエネルギーとなる。膨大な魔法が込められた、ミルカの想いが込められた、それは、奇跡を起こす。他の生物の精を吸う事無く、幼虫から成虫への変化を促したのだ。それはまさに奇跡の光景であった。
数え切れぬほどの燐光が洞穴に飛び交い、眩しいほどの光が生まれた。
それをミルカは歌いながら眺めていた。とても綺麗な光景だと想った。
ディークもまたその光景に心を奪われていた。
光りの流れが、外へと向かって流れて行く。
が、その奇跡のような光景の中で、その惨劇が起こった。目を潰され、身体半分喰らわれたはずの大百足がしかしまだ動き、ホタルの美しき乱舞に、命の奇跡に心奪われていたミルカに襲い掛からんとした。が、しかしそれはミルカ自身が気付く前に聖獣と心を通わし、フェンリルの化身となったディークによって、引き裂かれ、今度こそ絶命した。
【ending】
たくさんのお土産を積んで、カムイコタンは聖都へと向けて歩いている。
手綱を握っているのはディークで、ミルカは台所で夕食の下準備をしていた。
何も変わらぬいつもの優しい父娘の風景がそこにある。
しかし今回は少しばかりそれが危なかった。その事をディークは忘れられない。だから手綱を握りつつカムイコタンに礼を言う。元はと言えばこの人間不信のカムイコタンが危険を報せなかったのがまず最初のその原因ではあったのだが、しかし理想的な結末を迎えられたのは間違いなくこの数千年は生きている巨大亀のおかげであったのだから。
礼は口にした。あれ以来、一言も喋らぬ亀であるが、耳まで聴こえなくなった訳でもあるまい。だからディークはそれで済ませる。
守られた日常の平和な音色、ミルカの歌声を聴きながら、ディークは幸せな父親の表情を浮かべた。
聖都はもうすぐそこだ。
→closed
|
|