<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


【闇への誘い】蝋人形館へ

「ほう……。闇の気配に来てみれば、いつの間にこんなものができたんだろうね」
 深い森を抜け、どのくらい歩いただろう。
 傾いた太陽が地平線の彼方へ沈み、月がその姿を現す頃。シズ・レイフォードはある小さな館の前に立っていた。扉を開けて入ってみると、手入れや掃除がされている様子で埃一つ落ちていない。綺麗なものだ。
「恐ろしく哀しいところだ。森の平穏の為にもどうにかしたいが、私一人では……少し厳しいな」

 人の悪意や哀しみが時を経て具現化し、館の形となって生者を招く。旅人や動物が一旦飲み込まれてしまえば、取り込まれ同化し、最悪の場合闇に溶けてしまうかもしれない。
 力の源となる核が館のどこかに隠されているはずだ。壊すなり封じるなりすれば、きっとこの陰気も晴れることだろう。
「……残念だが、一旦引き返すしかないようだ」
 不気味な静寂を破るように鴉が鳴く。
 単独では難しいと判断し、シズは助力を求め館を後にした。

 そして後日、街に蝋人形館探索の依頼が貼り出される。



「どんな人が来てくれると思ったら、君のような可愛い子とは」
 街の酒場で合流した二人は、深い森の中を歩いて行く。出発したのが昼過ぎ、どんなにゆっくり歩いたとしても夕刻前には館に到着するだろう。
 涼しげな水の溢れる泉、青草を食む小鹿、爽やかな夏の風。森の入り口辺りはまだ良い。薬草や木の実を採りに街の者も訪れる危険のない場所だ。だが奥へ進む程に何か邪悪な気配がする。木々は枯れ、焦げたような匂いが風に乗って流れ、赤く熟れ過ぎた果実が地面に落ちる。
「……この、館……何か……いっぱい、集まって、る、ね」
 強い邪気を己の生気で払い進むと、開けた場所に出る。黒い霧に包まれ、その館は存在していた。
「……ここの、中の、何か、を……探せば、いい、の……?」
 千獣が振り向くと、シズは重々しく頷いた。
「邪気を集めている核がどこかに隠されているはずだ。それさえ何とかすれば、……此処もただの廃屋になってしまうだろうさ。手入れさえすれば、迷い込んだ旅人が身体を休める場所になるかもしれない」
「……そうだね……この、ままじゃ……良く、ない……よね……私も、手伝う」
 不意に強い風が吹く。不吉を思わせる風に艶やかな黒髪を靡かせながら、千獣は館へと足を踏み入れた。



 館の中は酷く静かで、そして騒がしい。
 千獣は身の内に封じた獣たちが蠢き暴れ出しそうになるのを意思の力で抑える。常ならばそんな風に、制御を外れて暴れることはないはず。恐らくは館の邪気に反応しているのだろう。密やかに息を吸って吐き出し、気を落ち着けようとしていると傍らのシズが声をかけてきた。
「大丈夫かい。あまり空気の良い所ではないから、少し辛いかもしれない。無理はしないでくれ。……あぁ、これを渡しておこうか」
 シズは懐から紙の束を取り出し差し出す。
「白虎の加護を受けた護符だ。きっと君を守ってくれる」
 千獣が符を受け取ると、身体のまわりを囲むようにふわりと浮かぶ。不規則な動きで簡単な防護壁を張っているようだ。少しだけ気分が落ち着く。暴れるなと命じ抑えていた内の獣たちも幾らか大人しくなる。大丈夫、これならば館の探索を続けられるはずだ。少なくとも半日ほどは平気だろう。
「ふむ……、何処から調べようか。何か気配を感じるかい?」
「……あっちのほう、から。強い気を、……感じる」
 目を閉じ耳を塞ぎ、場の空気に意識を同調させる。簡単なことだ。異質な気配を感じ取りそれを追ってみると、二階に続いている。千獣は二階へ続く階段を指差した。
「まるで化け物屋敷だ。……もう少し驚くものかと思っていたが、君はこういう事態に慣れているようだね」
 ギシ、と一段上がる度に木の階段が軋む。
 先程から怪しい火の玉が幾度か襲ってきたが、その度に白虎の護符に阻まれ直接的な攻撃を受けることはなかった。淡く灰色の光を放ち、邪気を払う。だがその力も無限ではないようで、少しずつ弱くなっていくのに気付く。
「確かに……外、とは違うけれど。……館の状態は、依頼書で見ていた、……から」
 こく、と頷く。壁に掛けられた絵画から飛び出す歪んだ女性の怪、壁に絡まる蔦が生き物のように動く不気味な光景。羽の生えた蟲がシズに襲いかかってもきたが、口の中で不可思議な呪文を唱えると一陣の風が巻き起こり異形を切り裂いた。互いに自分の身を守るだけの力は持ち合わせているようだった。
「しかし助かったよ。散歩は好きだが探索はどうも苦手でね。…特に今回は時間がない。邪気が大きくなる前に、力強い助けを得られて良かった」
 寄って来る蟲を風で追い払い、場に似合わぬのんびりとした口調でシズが言った。



「……」
「……」
 一階を酷い有様だと表するならば、二階は凄まじい瘴気の溜まり場だった。渦を巻いた邪気が肉眼でもはっきりと見える。遠く、狂気色に染まった女の甲高い笑い声が聞こえる。誰だろう。
 館自体が笑っているのか。飲み込まれる前に尻尾を巻いて逃げろと。
「力が強くなっている。……きっとあの部屋だね」
 逃げるわけにはいかない、放ってはおけない。
「……じゃ。開ける、ね……」
 千獣は扉のノブに手を掛け、ゆっくりと押し開いた。

 そこは広くもなければ狭くもない部屋だった。
 天井には灯りが一つ。奥の壁には美しい細工が施された鏡が置かれている。所々邪気に侵され、空間の境界線が曖昧になっているようだ。何処に繋がっているのかもわからない、異空間と融合しかかっている。
「……ッ」
 侵入者に気付いたか、鏡の中から異形が顔を覗かせる。
 醜い女の顔を持つ大蜘蛛だ。赤黒い体躯、口から飛び出した牙と長い舌。白い糸を吐き出しながら、しゅるりと不気味な音をさせながら近付いて来る。
 千獣の身体を守っていた最後の護符が邪気に打ち消されてしまった。これで後は自分の力で身を守らなければならない。
「攻撃は……君の方が得意なようだね。すまないが頼む。あの鏡を壊せば鎮められるはずだ」
 ぴんと張り詰めた空気の中、シズがはっきりとした声で言う。千獣はシズと鏡を見比べて頷いた。

「……嫌な、こと……悲しい、こと、とか……世界、には……いっぱい、ある、よね……」
 生まれたこの世界、いつもいつも楽しいことばかりではない。時には傷つき、時には涙を流し、生きていく為に獣を殺し取り込む幼き日。身体に纏うこの呪符さえなければ、いつ暴走してしまうともわからない「力」。化け物と呼ばれたこともあった。生きる為に殺す日々。身体に心に、傷を負ったこともあった。
 僅かに顔を俯かせ、千獣は尚も言葉を紡ぐ。
「……でもだからって……ここ、に、留まって、いても……駄目、だよ」
 世界は移り変わっていく。今この瞬間でさえ、世界は動くことを止めない。
 千獣自身もまた、幼き頃より随分変わった。人と交わり言葉を話すことを覚え、世界の優しさ暖かさを知るまでとなった。立ち止まっていては何も変わらない。傷つくことがない代わりに、成長も存在しないのだ。
 大蜘蛛が吐き出した白い糸が腕に巻きつく。振り払おうとするが意外と力は強く、僅かに眉を寄せる。
 構わない。強引に腕へ獣の力を乗せ、低く構えを取る。

「大丈夫……世界は、嫌な、こと、悲しい、こと、だけじゃ、ない、から……」
 全身の力を腕に込め、蜘蛛の身体ごと鏡を貫く。 
 勢いがついた千獣の「力」は強大。何かが割れる派手な音、吹き抜ける風、女の悲鳴。音の洪水の中、千獣の意識は急速に闇へ落ちていった。



 千獣が次に目を覚ましたのは、街にある宿屋のベッドの上だった。
 既に太陽は地平線の彼方へ沈もうとしている。千獣が開化へ降りていくと、宿の主人が慌てた様子で駆け寄ってきた。聞けば運び込まれてから三日三晩ずっと眠っていたのだという。館の邪気に長く接していたせいかもしれない。
 枕元には丁寧に礼を綴った手紙が置かれていた。
 身体はもう十分に回復している。真っ赤な夕陽の光を頬に受けながら、千獣は宿を出た。新しい道、新しい日。それは風の分岐。明日はどんな日になるのだろう。目の前には無限の可能性が広がっている。これから選び取っていくのは千獣自身だ。
 千獣は自分の掌をじっと見つめ、そうして次の一歩を踏み出した。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3087/千獣/女/17歳(実年齢999歳)/異界職】
【NPC0746/シズ・レイフォード/男/32歳/具象心霊】

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■         ライター通信          ■
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ご参加ありがとうございました。
如何でしたでしょうか。またのご縁を祈りつつ、失礼致します。