<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


【闇への誘い】蝋人形館へ

「ほう……。闇の気配に来てみれば、いつの間にこんなものができたんだろうね」
 深い森を抜け、どのくらい歩いただろう。
 傾いた太陽が地平線の彼方へ沈み、月がその姿を現す頃。シズ・レイフォードはある小さな館の前に立っていた。扉を開けて入ってみると、手入れや掃除がされている様子で埃一つ落ちていない。綺麗なものだ。
「恐ろしく哀しいところだ。森の平穏の為にもどうにかしたいが、私一人では……少し厳しいな」

 人の悪意や哀しみが時を経て具現化し、館の形となって生者を招く。旅人や動物が一旦飲み込まれてしまえば、取り込まれ同化し、最悪の場合闇に溶けてしまうかもしれない。
 力の源となる核が館のどこかに隠されているはずだ。壊すなり封じるなりすれば、きっとこの陰気も晴れることだろう。
「……残念だが、一旦引き返すしかないようだ」
 不気味な静寂を破るように鴉が鳴く。
 単独では難しいと判断し、シズは助力を求め館を後にした。

 そして後日、街に蝋人形館探索の依頼が貼り出される。



「やぁ、依頼を引き受けてくれたのは君だね。……ふむ、時間を守れる人は好感が持てるよ」
 此処は館があるという森の中、依頼人であるシズとは森の入り口辺りで待ち合わせをすることになっていた。約束の時間より少し前に到着したウルスラは、事前に渡された資料の中身を記憶から引き出し思い出す。森の奥深くに突如として現れた不気味な館。悪意や悲しみが具現化した存在だというから、軽い気持ちで入れば飲み込まれてしまう危険性もある。心を静め、自分という意思をしっかり持たなければならない。
「いや、私も今来たところだ」
 腰掛けていた岩から立ち上がり、軽い挨拶と自己紹介を交わした後で歩き始める。
 街から少し歩いたところにあるこの森は、動物や精霊が穏やかに暮らす場と聞いていた。辺りを見回してみると、時折視界を小動物が駆けては見え隠れする。興味津々といった様子で此方を見ているリスに、母親に連れられた小鹿、薄紅色をした花の間を飛び交う蝶々。時間がゆっくりと流れているような、そんな感じさえする。
「館のことは聞いているね。まったく、厄介なものが出来てしまったものだ。飲み込まれないよう、それだけ気をつけていれば後は……何とかなるだろうさ」
「あぁ。辿りつくには我々も誘われて奥へと入り込まねばならないだろう。私とて全ての誘惑と闇に打ち勝てるわけではない。もし私が囚われそうになったら」
 元より危険は承知していた。
 今回の依頼は一人ではない。もしも誘惑に負けそうになってしまったら、と傍らにいる相手を黒い瞳で見遣る。
「シズ。呼び戻してくれないか。逆もまた然りだ。互いに声をかけあい幻惑の中に沈まぬよう、助けあおう」
「君のような凛とした花に呼び戻されるのなら、一度くらい闇に沈むのも……悪くない気がするんだがね」
 本気とも冗談ともいれぬ声色でシズが笑うと、ウルスラは笑えぬ冗談だとばかりにすっと目を細める。しばらくそうやって歩いて行くと、程なくして館に辿り付いた。
「長く留まるのは危険だな」
 大きな館を見上げ、ウルスラは呟いた。濃い霧のような瘴気に包まれ、今此処に立っているだけで息苦しい。古い傷跡にそっと指先を這わされるような、何ともいえぬ不快感と嫌悪感。だがその一方で、禁忌を破る罪悪感に似た甘美な感覚も否定できない。
 ギィ、と誘うように木の扉が開かれる。招いているのだろうか。新しい犠牲者を、獲物を。
「館には入った者を一番誘い込みたい場所があるはずだ」
「そこに核がある、というわけだね。……少々危険だが、館に身を任せてみるとしようか。何、君がいれば大丈夫さ。お互い助け合う、とは先程言ったばかりだろう」
 シズが薄く笑い唇で何事か呪文を唱えると、掌に淡緑色の風を巻き起こした。
「私も術ならば多少は心得がある。足手纏いにはならぬつもりだよ」



 開かれた扉から一歩中に入ると、そこは闇が渦巻く場所だった。
 全てのモノは輪郭を失い、闇と融合を始めている。足の折れた椅子、壊れた硝子細工、引き裂かれたドレスが不規則に宙を舞う。遠くに人の姿が見え、ウルスラは目を見張る。生きているのなら、助けられるかもしれない。
「止めなさい。もう手遅れだ。……完全に心を食われてしまっている」
 走り出そうとしたところをシズに制止され、続く言葉に唇を噛む。美しい金髪をした少女は首の取れた人形を胸に抱え、涙を流しながら唄を歌う。すすり泣きにも似た声が頭に響き、直接注ぎ込まれるような苦痛に眉を寄せる。
 既に重力は失われていた。ふわりふわりと身体は浮き上がり、空気が水のような流れを持つ。どうやら、どこかへと誘導されているようだ。
「このまま、流れに乗っていくべきか」
「そうだね。私たちが闇に飲まれるのが早いが、核に辿りつくのが早いか……」
 それを最後にシズの声は聞こえなくなってしまった。
 何も見えない、何も聞こえない。どちらが上で、どちらが下だろう。入り口は、出口は。闇と自分の境界線が曖昧になる、とはこういうことだろうか。生まれる前、更に無へと還ってしまえるような、心地良い眠気。
「……っ」
 それこそが闇に飲まれるということだと、ウルスラは理解する。
 腰に携えていた剣を引き抜き、握る手に力を込めた。果たすべき任務がある、生きるべき世界がある。いつまでもこんなところにいるわけにはいかない。
 誰かが泣く声が聞こえた。世界には絶望だけが満ちていると、傷つけあうだけしか人はできないのだと。
「館へ誘われる者は弱いのかもしれない」
 己の意思が唇から言葉となって溢れ出る。
「しかしどんな存在も、弱きを強きへ、哀しみから立ち上がり前へ進む可能性を秘めている。――その可能性と希望を奪う館はあってはならない存在だ。少なくともこの森にあってはならない」
 構えた剣を闇の一点に向けると、漆黒の瞳に金色の光が広がっていく。誰かが残していった希望の残滓、暖かく柔らかな光を放ち闇の中輝いていた。その光に照らされ、館の核が目の前に姿を現す。

「――安らかに眠れ」

 迷いはなかった。
 剣を真っ直ぐに振り下ろし、瘴気の渦巻く球体を真っ二つに両断する。大した抵抗もなく、ただ後には女の甲高い悲鳴が響くだけだった。
 安堵したのも一瞬。次の瞬間には館ががらがらと崩れ始める。力を維持していた核を失い、館自体が真の闇に飲み込まれる時が来たのだ。留まっている暇はない。一刻も早く脱出しなければ。
(だが、一体どこに)
 右へ左へと視線を巡らせてみる。瞳と同じ色をした闇が広がっているだけで、シズの姿さえ見えない。さすがに焦りは隠せない。けれど胸にそっと手を当ててみる。希望はいつも、此処にある。諦めさえしなければ、必ず道は拓けるはずだ。 
「ウルスラ、此方だ……ッ」
 闇を一陣の風が吹き抜ける。淡い光と風と辿り差し出された手にしっかりと捕まる。意外に強い力で引き寄せられ、そこで意識は暗転する。



「危ないところだったね。……君が希望を失わずにいてくれたから、私の呼ぶ声も届いたのだろうよ」
 目覚め、はっと起き上がるウルスラにシズはそっと話しかけてきた。館はもう跡形もない。聞けば、あのあとすぐに崩れ落ちてしまったのだという。一応封印の術も掛けておいたと付け加えられた。
「君は知っているのだろう。この世界から悲しみや絶望が消える日はない。人は傷つきやすい生き物だからね」
「……、……あぁ」
 館が必然の存在として生み出されたこと、癒えぬ哀しみと絶望が世に満ちていることも、ウルスラはわかっていた。世界は温もりだけでできているのではない。
「……君に会えて良かった。人間もまだ捨てたものではないね。暗くなる前に街へ送って行こうか」
 ウルスラが落ち着くのを待って、シズは森の出口へと歩き始めた。瘴気の中にいたせいだろう、身体が少し重い気がしたが森の清浄な空気を吸い込んでいると、いつしか気分も良くなってきた。

「また会えるといいんだがね。今日の出来事を、そして希望を……どうか忘れないでくれ。それが君の力になる」
 そう言ってシズは別れの挨拶と代え、再会を願う握手に手を差し出した。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2491/ウルスラ・フラウロス/女/16歳(実年齢100歳)】
【NPC0746/シズ・レイフォード/男/32歳】


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■         ライター通信          ■
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ご参加ありがとうございました。
夏の夜の蝋人形館。
蒸し暑い夜に怪談ものをと思いましたが、お楽しみ頂けましたでしょうか。
それではまた、どこかでお会いできることを祈りつつ……。