<東京怪談ノベル(シングル)>


いつからか始まる彼女の真実

 ……いつからだったっけ?

 それは確か、呪符を織り込んだ包帯なんかとは、縁遠かった時のこと……

 ……いつからだったっけ?

 それは確か、まだまだ……自分が今の外見よりも少しだけ、若かった時のこと……

 ……いつからだったっけ?

 それは確か、自分にこの名前がつくよりずっと前の、こと……

     ++ +++ ++

 森の守護者の青年が、獣化について調べてくれると言った。
 キミが獣化する理由、それについて調べてみるよ、と。

 今日も彼の森の、大好きな樹の精霊の枝に寝転んで、千獣は物思いに沈んだ。

「いつ、から、だった、っけ……獣、に、なれる、ように、なったの……」

 がさっと枝が鳴る。聞きなれた音が耳に心地よかった。この音に包まれて、いつもいつも平和なことを考える。
 でも今日は、いつもと違うことを考えようとしている。
 目を閉じると、何かを感じる。
 何かを思い出す。私も……その瞬間を覚えている?

     ++ +++ ++

 あの頃は1人、1人きり、必死で生きて生き抜いて。
 たくさんの獣を狩ってきた。
 独り、独りきり、脇目も振らず生きることだけを考えて。
 たくさんの血を……自分の足跡に残してきた。

 獣は場合によっては、群れで生活するかもしれないことを知っている。
 しかし自分には、育ててくれた獣が死んで以来、群れを作る仲間を知らない。
 群れを追いかけまわして、逃げ遅れた獣を前脚で踏みつけるとき、その頃は何の感慨もなかった。
 逃げ遅れるのはそっちの愚だ。そうとだけ思って。

 あるいはそれは、群れを成すものたちへの羨望の裏返しだったかもしれない。

 狩って狩って狩りまくった。
 獲物を追って、駆けて駆けて駆けて。
 後ろ脚の膝小僧がこすれて血が出た時も気にしない。
 軽く舐めておけばいい。軽く水につけておけばいい。

 前脚や後ろ脚が血染めになりすぎた時も、近くの水場で洗って。
 流れていく赤い色――。そんなものがふと不思議に思えたりもした。
 けれど、自分の体から血を流すことは厭わなかった。それは日常茶飯事で、大したことではないと思っていたから。
 怪我をしたら、やっぱり舐めるか水につけておくかで。
 やっぱり怖いことじゃなくて。

 その時から自分は、並外れて狩猟がうまいということを、彼女は知らなかった。
 知っているはずがなかったのだ。
 それは本当はニンゲンという種族だからなのか。
 物心ついた頃から、獣の親の見よう見まねで覚えたことだったからなのか。
 それとも――天性だったのか。
 それは誰にも分からないけれど。


 彼女の育ったその森が、何と言う場所か彼女は知らなかった。
 それが人間たちにとって、『魔性の森』と呼ばれる場所でも、彼女には関係なかった。
 ――何が獲物でもよかった。食べられるものなら。
 1人、独りきり、必死で生きてきた自分だったから。

 もう何日間も、獲物にありついてなかった。
 その1匹をようやくつかまえて、引き裂いて、食べられる状態にして。
 ほっと息をついた。これでしばらく飢え死にすることはない――
 飢え死に、という言葉を知っていたわけじゃないけれど、長く食べないでいることは怖いことだと、本能的に知っていたから。

 久しぶりの食事にありついた自分は嬉しくて。
 気づいていなかった。血の匂いが充満していることに。
 久しぶりの食事はおいしそうで。
 気づいていなかった。自分の気が、緩んでいることに。

 気づいた時には遅かった。
 横から見たこともない獣の一撃。腹がえぐれて血が飛びはね、彼女は激しく体を震わせた。がくがくと、意味もない震えが体を支配した。
 なに……これは、なに。
 痛みの根源、腹に手を当ててみる。そしてその手を見たら真っ赤に染まっていた。
 指から掌に流れるほどに、血が。血が。血が。
 あんなに怖くも何ともなかった血が、今。
 まるで自分の中から『何か』が流れ出すかのように、血が。血が。血が。
 まるで生き物のように、とろとろ、とろとろと。

 ――『何が』流れ出す? 何が、そんなに怖かった?
 頭の中がぐるぐるする。思い出すのは自分が狩ってきた獣ばかりで。
 自分は獣たちから、何を奪ってきた?
 獣たちが血を流すとき、それは何が流れ出ている時だった?

 それは、『生命』。

 ――『生命』が流れ出す。そうだ、それがこんなにも怖くて。
 『生命』とは何か、知っていたわけじゃないけれど、それが流れ出てしまった時、怖いことになると悟ってしまった。
 長く食べないでいることと同じように怖いことだと、そう、本能的に知っていた。
 そしてそれは今、目の前に突きつけられていること。

 怖いこと。それは。

 死。

 ――『死にたくない!』

 死ぬということがどういうことか知っていたわけじゃない。けれど多分、今まで自分が屠ってきた獣たちのようになるのだろうと体が心が判断した。

 ――『死にたくない!』

 あんな風に、なりたくない!

 そう、念じたのは、確かに自分だったはずなのに。
 重なる。自分の内から何重もの声。

 『死にたくない』
 『死にたくない』
 『死にたくない』

 地面に転がっていたままの千獣に、とどめとばかりに獣が前脚をふりかざす。

 『死にたくない』
 『死にたくない』
 『死にたくな……い!』

 それは最後には叫びに変わって。


 脳裏が朱に染まって。


 気がついたら、地面に血まみれになって転がっていたのは獣の方で。
 立っていたのは、返り血に染まった自分の方で。
 いつもより重く感じた自分の腕。何気なく二の腕から徐々に下に見下ろしてみると、

 いつだったか腹におさめた獣と
 とよく似た獣毛に覆われた右手が
 自分の物ではないようにうごめいていた

「………」

 まるで人の手でも見ているような気分でそれを見下ろしていると、それはやがて自らおさまって、
 何事もなかったかのように自分の白い腕が戻ってくる。
 腹にあった怪我も、そう、消え去って。

 ……何事もなかったかのように?
 まさか。自分は笑い出した。
 ではこの、血の匂いはなんだ?
 自分の体にこびりついた血はなんだ?
 獲物を捕らえる時には大抵つく色、けれど今回は違う色。
 この、目の前に伏している獣を引き裂いて、血染めにしたのは一体誰?

 私なのか。
 ――違う自分の中の誰か
 私なんだ。
 ――違う自分の中の獣

 自分と心を共にする何か。
 自分の中に誰かいる。
 そう、自覚したその日――

     ++ +++ ++

「あれ、が、始まり、だった、んだっけ……」
 揺れる精霊の木の枝の上、千獣はつぶやく。
 この木の枝は本当に落ち着く。まるで自分自身も一体化して、樹の一部になったような気がして。
 でも……
「私、は、私……」
 ――この、体の中さえ血染めになってしまった自分を、精霊に重ねたくなくて。
 否。重ねて消してもらいたくて。
 否否。やっぱり離れた方がいい気がして。
 否否否。やっぱり傍にいてほしい気がして。

 もしも自分に獣化なんて能力がなかったら、もっとこの精霊の森で笑えていた?
 樹の精霊は、私に笑いかけてくれた? 守護者の青年は、私に笑いかけてくれた?

 ――違うだろう。彼の声がする。

 そう、違うのだろう。獣化することなんて、彼らは気にしていない。
 獣化しようとも、しなくとも。自分が笑ってさえいれば、彼らは本当に喜んでくれるのだろう。
 それでも、思いを馳せずにはいられなかった。あれはそう――

 自分が、本当の自分になった、瞬間だったから。


(了)