<東京怪談ノベル(シングル)>
胸に広がるこの想い
悔しかった。
去っていく麻里の背中を見て、余裕の態度で哂っていた声が。
悔しかった。
敵にそんな態度を取られたことではなく、弱い自分が。
悔しかった。
何が、ソーンで一番、だ。
――時は数十分ほど前まで遡る。
偶然に立ち寄った村の人々が酷く落ち込んでいる様子を見て、麻里は適当な村人を捕まえて話を聞いた。
結果、村が山賊の脅威に晒されており、供物を差し出さねば皆殺しにすると脅されていること。農作物だけでなく、人――女性までもがその餌食になっていること。けれど戦う術など知らない村人は、屈強な男たちの集団に、手も足も出ずに従うままになっていることを聞いた。
「ならばわたくしがその無法者どもを退治してくるわ!」
そう宣言して、心配する村人から半ば無理やりに山賊どものアジトを聞き出して出かけたのが、一時間ほど前のこと。
山賊たちは村からさほど離れていない山の中にその本拠を構えていた。だいたい、群れて悪事を働いているような輩にロクな者はいないのだ。強さも、根性も。
だから。
油断していなかったと言えば、嘘になる。
事実、勝負を仕掛けた麻里に対して、山賊たちは無力と言っても良いほど弱かった。
あらかた山賊たちを片付けて、捕まっていた女性たちも解放して。自分も戻ろうとしたところで……そいつが、戻ってきた。
「なかなか乱暴なお嬢さんだな」
どういう事情でか別行動していたらしい。まだかろうじて意識があった他の山賊たちの態度から、そいつがここのリーダーであるらしいことが知れた。
ならば。
「貴方を倒せば、彼らの悪事も止まるわけね」
「そうだな」
麻里の指摘に男はくくっと喉で笑う。
「こいつらはたいした根性も持ち合わせてねえし。俺がいなけりゃ尻尾巻いて解散するしかねえだろう」
「なら」
言うが早いか麻里は動いた。先手必勝。一瞬で間合いをつめて、男の鳩尾に体重を乗せた蹴りを叩き込む。
が、男はその直前に自ら背後に飛ぶことで勢いを殺いだ。ソーンで一番の強さを目指している麻里の実力は、客観的に見ても高い。麻里と互角以上に戦える相手と出会う機会なんて、それほど多くはないのだ。
「くっ……」
下がった男を追いかけ、回し蹴り。しかしこれも男は身体を半回転させるだけであっさりと避け、まだ下ろされていなかった麻里の足へと拳を叩き込む。
手の中になにか仕込んでいたらしい――素手ではありえない強い衝撃に麻里は思わずその場にしゃがみ込む。手ならばまだ、使わずに戦うという選択肢も取れた。しかし足を痛めては足技を得意とする麻里には不利になるし、スピードにも影響する。
それでも最初は麻里は、こんなところで負けられないと思ったのだ。
ずきんずきんと痛む足を叱咤して、向かっていく。だが、そもそも互角に近かった相手と手負いの麻里では、麻里が劣勢kになるのは当然のこと。
何度目かの打ち合いの末、麻里は地面へと背中を叩きつけられた。
「勝負、あったな」
顔を上げる間もなく首筋に短剣の切っ先が当てられていた。
これまで何度も、戦ってきた。
そのたびに、相手を打ち倒してきた。
怪我を負うことはあったが、こんなふうに敗北したことはなかった。
なにより。
命の危険をこんなにも間近に感じたことはなかった。
「あ……」
耳の奥で、血の気の引く音がはっきりと聞こえた。
きっと滑稽なくらいに顔色は青く変わっているだろう。
でも。
突きつけられた短剣が。
すぐ隣に在る死神が。
恐怖を呼んで、麻里の思考を狂わせる。
「いや……。いやあぁっ! 助けてっ!!」
恐怖に溺れてめちゃくちゃに手足を動かした。普通のかよわい女の子の抵抗ならば気にも留められなかっただろうが、幸いというべきか――麻里は、武術を心得ていて。咄嗟のそれでも充分に相手を制することはできた。
そしてまた、麻里自身。混乱しながらも頭の隅には、冷静な、武術家としての自分が居て。一瞬の隙を逃さず、駆け出した。
足の痛みが強くなっている。地に足を下ろすたびに、ズキン、と強く痛む足。
だけれど、そんなものを気にしてはいられなかった。
ただ、怖くて。
ただ、逃げた。
背中から聞こえる、面白そうな、楽しそうな、からかうような哂い声。
そうして逃げてきた麻里は、山賊たちが追ってこないことを確認してから、地面へと腰を下ろした。
荒い息をはきながら、怪我の様子を確認する。幸いにもただの打ち身程度で、骨折もなにもしていない。
足の手当てをしながら少しずつ、冷静になる。
「……わたくし……」
手が、震えた。
恐怖よりも情けなさに、涙が滲む。
敵を前に逃げ出してきたのだ。ちょっとピンチになったからって、恐慌に陥って。冷静に対処すれば、あの状況からでも優勢に戻すことはできたかもしれないのに。
それなのに。
零したくないと思っていた涙は、けれど、止められなくて。
膝に顔を埋めて泣き伏した。
……どれくらい、そうしていただろう。
夕暮れの山に、塒に帰るのだろう鳥の鳴き声が響いて、麻里はハッと顔を上げた。
自分はそもそも、村を襲っている山賊を退治しに行ったのだ。
こんな。
こんな中途半端で終わらせたら、村に迷惑がかかる。村を助けるどころか、逆に窮地に陥らせてしまう。
「……そんなことは、許さないわ」
震える身体を抱きしめて、言い聞かせるように呟いた。
怖かった。
初めて実感した死の恐怖。
けれど武術家としての麻里は言う。あの男は、決して、自分の敵わない相手ではない。
地の利は男にあるかもしれない。どれだけ卑怯な手を隠し持っているかもわからない。
けれど単純に武術としての腕は――麻里と、それほど変わらない。
先ほど戦ったときは村人を襲う山賊への怒りもあって、少々頭に血が上っていたとも、自覚している。
最初に戦った山賊たちがあまりにも弱かったから、そのリーダーもたいしたことはないだろうと甘く見ていたことも、確かだ。
相手を過小評価せず冷静に対処すれば、勝てない相手ではない。いや、きっと勝てる。
「大丈夫」
恐怖に押し潰されていた正義感に火が灯り、胸に勇気が満ちていく。
立ち上がった足は、まだ痛む。
けれど、山賊たちをこのまま放置してはおけない。
手当てした分、ずいぶんと痛みは和らいでいる。
大丈夫、大丈夫。きっと、できる。
強く、勝利を確信した瞳で。
麻里は、さきほど逃げ出してきた山道を戻った。
|
|