<東京怪談ノベル(シングル)>


夢の月光宮殿

 静けさが辺りを覆い尽くしていた。四角い大きな窓から差し込む青白く冷たい光だけが、長く暗い廊下に仄かに照らしている。
「‥‥またか」
 つぶやきながらももはや感慨も湧かない素振りで窓に近寄った。見上げると少しだけ欠けた白く美しい月が見える。冴え冴えと光り輝く月が、満天の星空とその空に抱かれた下界を静かに照らしている。

 けれど、その空を飾る宝石の様な星の配置が見慣れないものであることに、月に照らされた人影はもう気が付いていた。黒と、そしてアクセントの様に赤を身にまとった異邦人は足音もなく窓から離れた。どうという宛てはないが、少し歩いてみる気になったのは、天井の高い廊下に絵が描かれた見事な装飾や、壁を彩る豪奢な照明や、月明かりにもわかるほど見事な調度品の数々のせいであった。こういう品の目利きは考えるよりも先にわかってしまう。そして美術品を見ることは仕事であり、趣味でもあった。
「俺みたいな稼業の奴には目の毒だぜ。持って帰れるモンならマジで物色するところだがな……」
 異邦人は素っ気ない程感情のこもらない口調でつぶやいた。こういう状況はコレが初めてではない。だいたいの結末は同じで解っているが、これまで1度として『土産』を持って戻った事はない。だからそれは出来ないのだろうと思っていたので、視線には仕事の時に熱心さはなく、観賞するだけの気安さがあった。
「へぇ‥‥」
 壁に小さな額縁が飾られていた。その1つ1つに珍しい絵が描かれている。動物もあれば昆虫のような絵もあるが、どれも擬人化され宝珠を身につけて空を飛び回っている。その意匠には見覚えがあった。
「ビジョンか?」
 白く雄々しい虎の絵の前で異邦人は歩みを止めた。ここは異世界ではなかったのか。それとも繋がりがあるだけの別世界なのか。躍動感そのままに天空を飛翔する白虎に心を奪われすぎただろうか。

「誰?」
 声がするまで人の気配に気が付かなかった。眠そうなくぐもった声だ。ハッとして振り返ると、すぐ近くの暗がりに小さな人影があった。シュという衣擦れの音と、ぺたぺたと裸足の足が歩み寄る音が低く響いてくる。そして窓越しの月明かりがようやくその声の主を照らし出した。まだ若い‥‥それはほんとうに若い子供と少年の間の様な男の子だった。けれど、柔らかそうな金色の髪も、可愛らしく無垢な蒼い瞳も、高価そうな光沢を放つ柔らかい寝間着も、この男の子が高貴な身分の者だと語っている。何より、その声音は相手が返事をするのが当然だと思っていて、無視されたり無言だったりするとはまったく思っていない様子だった。徹底的に育ちが良いのだろう。
「通りすがりの異世界人さ」
 つい素直に答えられず、黒革の服をきた異邦人はそう返答してしまった。
「異世界人? 本当に? うわぁ、すごいね。ねね、どうやってきたの? どこから来たの? どんな異世界なの?」
 ぼんやりとしていた蒼い目が急にパッと見開かれ、キラキラしながら見つめてくる。
「お、おい‥‥」 
「あ、こんな場所じゃ話せないよね。じゃボクの部屋に行こう」
 男の子が手をぎゅっと握りしめてくる。その手の温かさに驚いた。驚いて手を振り解く。けれど男の子は少しもイヤな顔をしなかった。
「驚かせちゃった? ボクはラフィタ。ラフィタ・アセシナート。この国の公主だよ」
「アセシナート?!」
 思わず大きな声を出してしまった。その直後、失態だったと己の口を手で覆う。色々な事がその男の子の言葉で不意に腑に落ちた。
「そうか‥‥俺が興味を持ったから、だからここに‥‥」
「ボクの国の事、知ってるの? 他の世界から来たのに?」
 低くつぶやく異邦人にラフィタは小さく小首を傾げる。異邦人はニヤリと口もとを歪めて笑った。
「あぁ知ってるぜ。それが夢へ乗り込むためのカギかもしれねぇからな。おっと、俺はチェリオ・リューム。ティエラのビジョンコーラーだ」
 アセシナートの王宮に紛れ込んだ異世界人は、そう名乗ると差し出されたままであったラフィタの手をギュッと握り、もう一度不敵に笑った。


 小さな貴人、ラフィタはとてつもなく広い部屋にチェリオを案内した。どうやら自分の部屋らしい。そっと大きくて重い扉を閉めると、悪戯っぽい笑顔を向けた。
「ここはボクの勉強部屋だよ。昼間に学者の講義を聴く時ぐらいしか使わないから、こんな時間には誰もこないよ」
「‥‥そうか。に、してもでけぇ部屋だな」
「そうかな?」
 世間の事に疎いだろうラフィタは首を傾げるだけだ。比較する対象を知らなければ、この部屋が子供の勉強部屋として広いか狭いかなどわからないし、その様な疑問を感じる事もないだろう。
「それより、キミ、えっとチェリオさんだっけ? 他の世界から来たんだよね。ね、話してよ、ここじゃない別の世界の事を‥‥」
 ラフィタは年相応の子供らしい顔で、目を煌めかせながらチェリオを見つめている。もし、チェリオが嘘つきで異世界から来たのではなかったら、ラフィタに害をなす輩だったら‥‥なんて事は少しも考えていないらしい。その天真爛漫さ、無邪気さが少しだけチェリオには眩しかった。いぢわるしてやりたい気持ちと、望みを叶えてやりたい想いが瞬時に心の中で逆巻く。けれど自分が思っているほどチェリオは悪人ではなかったし、世間擦れしているわけでもなかった。
「そうだな。じゃ俺が今住んでいる世界‥‥カード世界ティエラの話をしてやるぜ」
「ティエラ‥‥ティエラ‥‥って綺麗な名前だね」
「そ、そうか? 俺はその中でもアクアシーズって海ばっかりで、太陽がジリジリ照りつけてくる暑いところにいるんだぜ」
「海? 海ってボクみたことないよ」
「なんだ、ラフィタは海を知らねぇのか。でっけぇぞ海ってのは。こう水がすっげえ沢山あって、波があって‥‥」
 どこか得意げにチェリオが説明を始める。どこまでも続く青く蒼い海。白く泡立つ美しい波。まばゆく激しく照りつける強い日差し。潮風、潮騒、白い砂、浜辺。竜の住む島と、そこに建つビジョンコーラー達の学校。普段意識してはいないけれど、そのどれもが遠く離れてみれば、愛おしく懐かしく、そして誇らしい。
「学校っていいなぁ。楽しそうだね」
 憧れをいっぱい瞳に湛えてラフィタがつぶやく。身振り手振りを交えてチェリオの語る世界はラフィタにとってはまさに夢の世界であった。この世界にあってはおそらく一生かかっても叶えることの出来ない夢の様な生活だ。
「いいなぁ。ボクもその島に行ってみたいなぁ。で、竜を見て学校で他の人達と勉強するんだ」
 叶わないと半ばわかっていながらラフィタは夢見るように視線を泳がせ、そっとつぶやいた。その表情は切なげで少し大人びている。
「行けばいいじゃねぇか?」
「え? 無理だよ。だって‥‥」
「無理かどうかなんて決めるなよ。この世界の奴だって、夢で他の世界に渡って行けるかも知れねぇぜ。諦めたら、そこでその夢は終わっちまうんだ」
「チェリオ‥‥さん」
「本当に叶えたい夢なら、俺は絶対に諦めねぇ」
 チェリオは青い瞳に強い光を湛える。意志の力がその目を通してラフィタにもかいま見える。
「うん! ボクも諦めないよ。今夜から寝るときは‥‥」

 その時、先ほど閉めた重い扉の向こうから野太い男の声が響いた。
「誰だ! そこに誰か居るのか?!」
 声に混じってカチャカチャと小さな金属音が響く。武具の触れあう音だとチェリオはすぐに悟る。
「わ、見つかっちゃった」
 ラフィタは困った様な顔をして扉に向かう。けれど、その間にも扉の向こうからは更に人の声が重なり合って響いていた。声はどれも大人の男の声で、カギだのくせ者だの言い合っている。

「そろそろ潮時だな」
 チェリオの声に扉へ向かっていたラフィタは振り返った。強い夜風が部屋の調度品やラフィタの寝間着の裾を揺らす。部屋の大きな窓が1つ開いていて、その端にチェリオがいる。
「待って! 待ってチェリオさん! ボクがなんとか上手く‥‥」
「夢から醒めるにはこれって相場が決まってるぜ。じゃあなラフィタ。また逢えたらその時は‥‥」
 指二本を伸ばし額の傍に掲げて敬礼し、チェリオは開け放った窓から真っ暗な外へと飛び出した。
「チェリオさん」
 ラフィタが窓に駆け寄る。その背後で扉が開き、揃いのお仕着せ姿をした兵達が部屋に飛び込んできた。窓に飛びつき、外をのぞき込んだラフィタを兵の1人が後ろから抱えあげる。じたばたと暴れるラフィタだが、兵の手からは逃れられない。
「落ちたらお怪我では済みませんよ。お危のうございます」
「‥‥チェリオ、さん。いない」
 ラフィタは急に力を抜き、そして窓の外へと小さく手を振った。


 照りつける灼熱の太陽が肌を焼く。ひりつくような痛みにチェリオは目を覚ました。真っ白な砂浜が目に飛び込んでくる。
「まぶしっ」
 午後の太陽に景色は白く霞んでみえる。早くも流れる汗がこめかみから頬へと伝った。
「戻ったか」
 つぶやくチェリオの頭に軽い振動が響く。ポフッと音がして空気でふくらませた鞠が当たって砂に落ちる。
「こらーチェリオ! 寝ぼけてないでこっちおいで!」
「そうそう。寝てる暇あったら遊ぶよ」
「負けたら罰ゲームなんだから、気合い入れてやるよ! ほら、早く!」
 学友達の声だった。皆、色鮮やかで動きやすく、露出過多な服を着ている。そして、チェリオも胸と腰まわりを覆っただけでごく簡素な服だ。海辺ではこういう服で過ごすのが最近のアクアシーズのはやりであった。
「よーし! 俺が入れば百人力だぜ!」
 鞠を手にチェリオは白い砂を蹴って走り出した。

 夢の欠片はもうどこにもいない。