<東京怪談ノベル(シングル)>


〜 Eleuthera 〜

 夜半過ぎ。
 黒山羊亭が静かに、そして賑やかになる時間帯。
 ある席では恋人たちが手を握り合い、ある席では仕事仲間が打ち上げをしていたり。
 そんな中でディーザ・カプリオーレは――
 カウンター席で、1人ぼんやりウイスキーを飲んでいた。
 コロン、と、グラスの中で氷が揺れる。
「記憶、か」
 ディーザの明るい金髪が、黄金の液体に映って交じり合う。
「――どうしたの?」
 黒山羊亭の踊り子エスメラルダが、何気なくディーザのウイスキーを注ぎ足しながら尋ねて来た。「元気がないわね」
「元気なさそうに見える?」
 ディーザは苦笑した。
 いい酔い具合だった。
「どうしたの?」
 エスメラルダは再度、くすくす笑いながら問うてくる。
「うん? いや、知り合いの子にね、昔の記憶を見てもらったんだ」
「昔の記憶……?」
「その子、人の記憶が見れるらしくてね」
「ああ」
 エスメラルダはうなずいた。「知ってるわ。街外れの倉庫に住んでいる子でしょう」
「うん」
 ディーザはウイスキーをあおぐ。
 ――氷が、少し足りなくなった。ぬるい。
「私は見てもらったけれど――」
 ディーザは氷の減ったグラスを見下ろしながら、頬杖をついた。
「もし、知らないうちに見られていたとしたら? 気分は全然、違うだろうね」
 氷、と一言言うと、カウンターのバーテンがすぐ氷を足してくれた。
 今度はアルコールが薄くなる。仕方ないかと、ディーザは思う。
「知らないうちに記憶を見られていたら、ねえ……」
 エスメラルダは頬に手を当てて、
「どうかしら。……想像もつかないわ」
「私も想像つかないよ。何しろ私は自ら見せちゃった方だから、もう一生涯『勝手に見られる』方の気持ちが分からないわけで」
 とんとん。指先でグラスの端を叩いてみると、氷が少し動いた。
「……あの子だって別に生まれたときから倉庫暮らしなわけじゃなかった……」
 思い出す、少年の黒い瞳。この黄金の液体とは対照的な、しかしどこか通じるような気がするのは――その憂いを帯びた輝きからだろうか。
「……人から離れなくちゃいけなくなったきっかけがあったはずだった」
 自分は彼と、彼の友人に、何を言った?
「足枷がどうのって、迂闊だったかな……」
 エスメラルダは、彼女には意味の通じないだろう話も静かに聞いてくれている。
 ――過去と現在はつながっている。
 でもそれは、足枷っていう意味じゃない。
 ……かの少年とその友に、そう言ったのは、自分だ。
「でも」
 ディーザは大きく両手を広げて、うんと伸びをした。
「倉庫の天井じゃなくて、青空を望む気持ちが今もあるなら」
 ――空に憧れている、そう言ったあの少年。
「その気持ちが、過去や持って生まれた能力によって閉ざされているっていうなら」
 ――実際に外へ出て、しばらく空だけを眺めていたあの少年。
「……何とかしたいと思うんだよね」
 うつろに天井を見た。
 その天井の向こうに、空はある。空はいつだってある。消えない。消えるはずがないものなのに。
 見たくても空が見られない存在はいる。
 再びウイスキーのグラスを手にし、あおいだ。――ほどよく冷たく、ディーザの中に染み渡った。
「……何とかしてあげたくても、できなかった?」
 エスメラルダが、静かに訊いてくる。
 ディーザは前髪をかきあげる。
「わかってんだけどさー……世の中、どうにもならないことがあるぐらい」
 苦い顔をしてみたら、エスメラルダはふふっと微笑した。
 エスメラルダならよく分かるだろう。何人も、何人も、人間を見てきた踊り子だから。
 いくつもいくつも、人生を見てきた人だから。
「望めば、努力すれば叶うなんて口にできるほど呑気でも、強くもない。ああ、仕方ないよねって諦めていくしかないこともある。わかってんだけどー……」
 ディーザはぶつぶつとつぶやいた。
 エスメラルダがディーザのグラスにまた注ぎ足す。ディーザはそれを一気にあおぐ。
 強い酒だった。一瞬、目の前がふらっと揺れた。
 幻影が見えた。
 外を当たり前のように歩き回っている自分の幻。隣にはかの少年がいて。
 かの少年の黒い瞳に、太陽の光が映っていて。太陽の光は、黒水晶のようだったあの少年の瞳をますます美しくさせて。
 幻。
 すべて、幻影。
「わかってんだけどー……」
 ディーザは、片腕をカウンターにつけた。
 エスメラルダを見て、微苦笑を見せ。
「わかってても、わかりきれないことってのも、あるよね」
「そうね」
 エスメラルダは微笑んだ。
 今自分はどんな顔をしているだろうか? きっと情けない顔をしているだろう。ああほら、ウイスキーは私の表情を映してる。
 しょうがないと諦めている自分を映してる。
 それでも負けたくない自分を映してる。
 くるくると考えがまとまらない。アルコールのせい、きっとそう、いや、そうじゃない――
 カウンターの下で、子供のように足をぱたつかせてみた。
 エスメラルダが、
「確かにそういうことの方が、世の中には多いでしょうね」
 とカウンターの中を整理しながら言った。
 ディーザはウイスキーから顔を上げる。
 妖艶なエスメラルダのイブニングドレスは、なぜかいつだって彼女の美しさと強さを壊しはしない。
「それでも、そう思ってくれるあなたがいるだけで、きっとその子も救われるのじゃないかしら」
「そーかなー……」
 ディーザはカウンターに突っ伏した。
「あの子はなー……全部、分かっていそうだからなー……」
「何を?」
「……分かんない」
「だったらその子も、きっと分かってはいないのよ」
 美しき踊り子は、唇に人差し指を立てた。
「もう倉庫暮らしが長いのなら、諦めてしまっているのかもしれない。それを引き出すことができるのは他人だけよ。……何も本人に、自分で目覚めなさいと厳しく言う必要もないでしょう」
「………」
「道はあるかもしれないわ」
 エスメラルダはバーテンに何かを注文する。
 カウンターの中で、バーテンがカクテルを作り始めた。
 それをぼんやり見つめるディーザは、エスメラルダの言葉を心の中で反芻してみる。
 ――道はあるかもしれない。
 あるのかもしれない。
 本当に?
 努力すれば叶うなんて、世の中甘くはないのに?
 それでも。

 ――道はあると、信じてみたかった。

「はい、これは特別におごりよ」
 エスメラルダの声とともに、バーテンがディーザの前にカクテルをすっと出す。
 ほんのり黄色の、ほんのりにごったカクテルだった。
「なに、これ」
 ディーザは体を起こす。
「エルーセラよ。意味は『自由』」
 エスメラルダの言葉に、はっとディーザは顔を上げた。
「――自由の翼を、あげたいんでしょう?」
「―――」
 エスメラルダのにっこりとした笑み。
 エルーセラという名のカクテル。
 にごっていて、まるであの少年の瞳の面影はない。けれど。
 そのにごりの中に、その未知数の中にこそ、『自由』はあるのかもしれないと、思った。
「………」
 ディーザはカクテルを手元に引き寄せて、じっと見つめる。
「……わかってても、わかりきれないことってのも、あるよね」
「そうね」
「でも、わかりきらなくていいことってのも、あるよね」
「そうね」
 カクテルを持ち上げ、一気に飲み干した。
 自由の。
 欠片でも。
 与えられるのならば。
 自分はきっと、力を惜しまない。
 飲み干した後、ディーザは笑った。
「これ、アルコール弱いねー。もっと強くなんないかな」
「歳頃のお嬢さんが飲みすぎで朝方まで酔っ払って眠ってるなんて、行儀悪いわよ」
「いーのいーの。で、度数低いよねこれ。私にはちょっと物足りない」
「わがままねえ」
「だからもう1杯。いや、2、3杯」
「はいはい。おごりは最初の1杯だけよ」
 エスメラルダは笑った。

 分かりきらなくていい。もう、いい。
 分かりきらないまま、歩いていってもいいじゃないか。
 誰も、道を遮ったりはしない。

「……もう少し、粘ってみようかな」
 自然とそんな言葉がこぼれた。
 もう1杯とねだったにごったカクテルの奥に、開けた空が見えたような気が、した。


 ―了―