<東京怪談ノベル(シングル)>
Lonely Girl
日が落ち、空は鮮やかなオレンジから深い藍に染まりだす。いつもならそれは、神秘的な世界の一場面だと思うことができた、それなのに・・・。
「・・・・・・」
涙が零れる。ひとしずくが、抱きしめていたクッションに吸い込まれると、あとはもう止まらなかった。嗚咽もなく、大きな瞳からぽろぽろと零れていく涙。拭いもせず、ジュディはクッションをさらにきつく抱きしめた。頭に浮かぶ母の顔が自分を攻める。母が、美しい顔を歪めてしまう、その表情。なぜ自分は期待に応えられないのだろう・・・。
温かいティーポット、精密な装飾が施されたカップ、立ち込める香りは庭のハーブと同じにおいがする。本当は甘いベリーから作られた紅茶の方が好きだけれど、今はとてもそんなことを言えなかった。
「さぁジュディ、私と同じようにすればいいのよ」
すっとカップを引き寄せ、優雅に持ち上げる母。しなやかな指先に思わず見惚れて、ため息がこぼれそうになる。淑女はかくあるべし、というお手本を前にしてジュディはうっとりしつつも、自分の中でムクムクと不安が湧き上がってくるのを感じていた。
(む、無理だよぉ・・・!)
しかし今のジュディだって、傍から見れば立派な淑女だ。暴れまわるくせっ毛を丁寧に梳かし、結い上げてフリルのリボンが頭の上からちょこんと覗いている。体を包むのは、瞳にあわせたブルーのドレス。レースがふんだんに使われてはいるが、上品な生地使いでジュディを少しだけ大人っぽく見せてくれる。だが、それは見た目だけ。中身はいつものおてんばジュディなのだ。
ゴクリと喉を鳴らしてから、ジュディは手を伸ばした。カップを持つ指が震えて、そして・・・。
(あたしにお母様みたいなことが、できるわけないじゃない・・・!)
リボンも、ドレスも、部屋へ逃げ込んだときに投げ捨てた。自分が情けなくて悔しい。でも、努力はしているのだ。体を起こすと、鏡に映る自分の姿が目に入った。ようやく自由になれたのを喜んでいるように、あちこちに跳ねた金色の髪。他にも体のあちこちが痛い。ドレスは体を締め上げていたし、ヒールのある靴のせいで足の裏がじんじんする。イヤリングも、ネックレスも、ジュディにとってはただの重りでしかなかった。
―――ジュディ!
―――もういや!あたし、できないよぉ!
―――ジュディ、落ち着いて。貴方ならきっとできるわ、私は貴方を・・・。
―――お母様にはわからないわ!!
押し黙った、母の表情。
―――あたしだって・・・、頑張ってるもの・・・!だけど、だけど・・・!もう、いやだよ!
母が手を伸ばす。ぶたれる!そう思い、体を震わせてぎゅっと目を瞑ったが、いつまでたっても、どこにも痛みは訪れなかった。母の手はジュディの顔の前で止まっていたのだ。驚いて母を見上げると、あの表情がそこにあった。
こらえきれずに、ジュディは走り出していた。失望された・・・!それが彼女の心を打ち砕いて、逃げずにはいられなかった。美しく、優雅な母。ジュディは娘なのに、母のようになれない。悔しくて悲しくて、心が痛い。
「お嬢様?」
ドアの向こうから突然聞こえてきた声に、思わず体が跳ね上がった。
慌てて目をこすり、どうぞと入室を促す。一人の女中が、温かそうなティーセットを持っていた。
「・・・これ」
「私はこれを届けるようにと仰せつかっただけですので、これで失礼いたします。おやすみなさいませ、お嬢様」
テーブルに紅茶を置き、彼女はすぐに退出した。そのとき不思議だったのが、彼女がとても笑顔だったこと。しかしすぐに母を笑顔にしてあげられなかったことを思い出して、胸が痛む。ポットもカップも、今は見たくない。
でも、この香りは・・・。
ようやくベッドから這い出して、テーブルに近づく。
ポットを開けてみると、甘いベリーの香りが部屋中に広がった。
子どもの頃から、母がいれてくれた甘い紅茶が大好きだった。砂糖をたくさん入れて、ミルクも入れて、たまにこっそりとジャムまで放り込んだ。さすがに今は紅茶そのままを楽しむことを覚えたけれど、あの甘い味は、母との思い出でもある。
ふと気がつくと、添えられているのはたっぷりの砂糖にミルク。そして―――ジャム。
さっきこれを運んできた女中はなんて言っただろう?
これを届けるように言われたと・・・。
それは、誰から?
ジュディがとびきり甘くした紅茶を飲むと知っているのは、自分自身と、今は遠くにいる父、そして―――母。
また涙が零れた。
気がついて、しまった。
「・・・お母様・・・?」
持ち方を正すようにと、何度も叩かれた手。痛みはそのときだけで、カップを落としたとき、母は自分の手を守ってくれていてなかったか。
着飾ったジュディの姿を、素敵なレディだと褒めてくれたのは、
貴方ならできると、厳しい言葉で励ましてくれたのは・・・。
そしてあの時―――美しい顔を歪ませた、あの表情は――――。
「カード・・・?」
一枚のカードが、カップの傍においてある。クロッカスの花が描かれているだけで、文字はない。この可憐な花の花言葉は、確か“あなたを待っています”と・・・、そしてもう一つは“信頼”だったはずだ。
―――私は、貴方を信じているわ。
母は、失望したわけではない。自分を想ってくれている。だからこそ厳しく、たくさんのことを教えてくれたのだ。それに気がつけず、「できない」と母の想いをはねつけたのは、他ならぬジュディ自身。
(あたしはお母様を悲しませてたんだわ・・・)
ジュディの前で止まった手は、優しく差し伸べられていた手だったのだ。
「ごめんなさい・・・お母様・・・・・・!!」
ベリーティーはジュディの体も心もぽかぽかと温めた。
鏡を見つめなおすと、甘えていたジュディの姿はそこにはなく、大きな瞳に意志の強さが宿っていた。すっと、形のいいお尻に手を伸ばす。ぱちんと叩けば、痛かった。思わず目が潤んでいく。
(だけどお母様は、これ以上に胸を痛めていたんだわ)
覚悟を決め、ジュディは手を振り上げた。
明日、朝一番に母に謝る。
ごめんなさいと、心から謝るのだ。
母が自分を見捨てたなんてことは、もう考えなかった。だって、母はジュディを信じている。だからジュディも、母を信じる、信じている―――――。
「お母様!!」
翌日、ジュディのお尻は真っ赤に腫れ上がっていたけれど、きらきらした朝日の中、自分を待っていてくれた母を見たとき、そのとき母が、自分に向かって微笑んでくれたとき、お尻の痛みは、わだかまりとともに溶けて消えていった。
―――私は、貴方を信じているわ。
<End>
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