<東京怪談ノベル(シングル)>


闇に浮かぶ花

 雨が降っていた。
糸に近いほど細く冷たく、大地や木々小さな動物たちの身体を等しく濡らしていく。恵みの雨、しかし街の人間たちは肌に雨粒が当たるのを厭い次々へ建物の中へ入って行った。
 晴れが続けば人は雨を乞い、天が水を降らせると今度は太陽が恋しいと嘆く。人とは本当に我侭なものだ。

 最初は頼りない雨足であったが、ロキが所用を済ませて城下町から帰る頃には地を打ち付けるほど強くなっていた。夕刻だというのに辺りは薄暗く、太陽の姿は暑い雲に覆われている。
「思ったより酷いな。急ぐか」
 ロキが普段暮らしている小屋はエルハザード城下町の外れにある。雨が降り始めてから急ぎ足で来たが、どうやら濡れずにというのは無理だったらしい。衣服がしっとりと濡れ、肌に張り付き不快感だけが増す。ロキは小さく舌打ちをすると、邪魔な前髪を指先で払い除け走り始めた。
「……ん?」
 小屋まであと少し、というところだった。
 前方に黒い影が見える。放置して行っても良かったが、妙に胸が騒いでそうすることはできなかった。近付いてみると人間だと分かる。しかも女。絹糸のような黒髪と白い肌、頬は血の気がなく蒼白に近い。湿った空気に混じる鉄の匂いに気付き抱き起こしてみると、ぬるりと手に触れるものがあった。間違いない、血だ。出血はほぼ止まっているようだが、このままでは外気に体温を奪われやがては死に至るだろう。少なくない戦いの経験が、ロキに死の気配を知らせている。

 パタン、と扉を軽く足で蹴り閉める。
 小屋は広くもなければ狭くも無い。人一人が生活するのに必要最低限のものが揃えられており、素朴を通り越して質素という言葉が良く似合いそうだ。ロキは両腕に女を抱え、常は自分が寝ているベッドにそっと細い身体を下ろす。
「猫にしては大きい、か……」
 水滴の滴る銀の髪を乾いたタオルで拭きながら、ロキはベッドに横たわる女を見た。さてどうしたものかと考えること数秒、小さく頷くと必要なものを取るべく戸棚を開けた。
 包帯、塗り薬、ゆったりとした服に布。取り出したものを次々とテーブルに乗せ、最後に沸かしておいた湯を置く。女を着替えさせ、傷に薬を塗り包帯を巻く。性別は違うが外見は自分と同じ人間のようだ。白い肢体には小さなものから大きく目立つものまで幾つも傷が残されている。しかも不思議なことに右側だけに。
 身軽な装備に数々の仕込まれた暗殺用の武器。けれど武器はどれも使い物にならないようだ。全て傷んだり欠けたりしている。
 忍。そんな言葉が頭に浮かんだ。
 寝顔はどんな人間でも穏やかなものだと決めつけていたが、どうやらこの女に限っては当て嵌まらないようだ。意識はまだ戻っていない。耳を近付いてみると微かな寝息が聞こえてくる。
「家の近くで死なれちゃ目覚めが悪い。ただ、……それだけのことだ」
 言い訳じみた言葉がつい口に乗る。やや乱暴に髪をかき乱すと、少し休もうとハンモックに手を掛けた。
 単調な雨の音が耳に入ってくる。単調でありながら、小屋の屋根を打つ音は一つ一つが重なり合い、やがて旋律を織り上げる。幼い頃に聞いたことがあるような、懐かしい子守唄。酷く安らかな気持ちに包まれながら、訪れる睡魔に意識を手放した。
 
 近く、布の擦れる音がした。極々小さな音であったが、自分以外の誰かが動いているという事実に意識が一気に浮上する。視線だけ動かしてベッドを見ると女の姿が見当たらない。嫌な予感がする。かちゃりという扉の音を聞くと同時、勢い良く跳ね起きた。
「……っ」
 
 雨は相変わらずだった。少しばかり弱くはなかったようだが、濡れることに変わりはない。傷も治らぬ内にどういう気かとロキは眉を寄せる。全力で走り出したはずだったが、女との距離はなかなか縮まらない。寝起きで身体能力が低下しているのだろうか。
「拾った犬だって尻尾くらい振るだろうが。……ったく」
 しかし相手は手負いだ。後ろから掴み掛かり何とか捕まえると、女の青い目と視線が合う。一瞬のことだ。しかしそれで十分だった。
「放せ……ッ!」
 短い悲鳴にも似た短い言葉が女の口から飛び出す。力では敵わないと悟ったか、女は苦い顔をする。己を殺すべく舌を噛み切ろろうとした寸前のところで、ロキは鳩尾に強力な一撃を叩き込み女の意識を奪った。

「俺はロキ。ロキ・アースだ。あんたも不本意とはいえ助けてもらったんなら、名前くらい名乗ったらどうだ」
「……斑咲」
 もう一度ベッドで目を覚ました女は斑咲といった。壁に寄り掛かりながら、ロキは天井を見上げる。斑咲は喋らない。
 沈黙の時間。窓硝子を雨粒が伝い、映し出すもの全てを歪ませている。
「私は忍だ」
 近付こうとするロキを鋭い声で制する。
「任務に失敗した以上、自害するしかない」
 懐から短刀を取り出し、斑咲は己の喉へと向けた。あと少し、あと少しで皮膚に刃が当たる。

「じゃあ問題ない。俺が殺してやるよ」

 抱いた感情がどんなものだったか、ロキはその名前を知らない。胸に溢れてくる霧のような感情に突き動かされていた。気付けば斑咲を床に引き摺り倒し、きらりと光るミストルテインの矢を振り翳す。祈る間も与えず、その矢を振り下ろした。
 トン、と何かに当たりのめり込む感触、固く目を瞑る斑咲。
 けれど矢が当たったのは、斑咲の身体ではなかった。顔のすぐ横の床へと、矢の先は食い込んでいた。
「何故、殺さない? 同情は不要だ。忍は元よりそういう定め。闇より生まれ、闇に死ぬ」
 淡々と抑揚のない声で斑咲は語った。青い瞳が水の膜に包まれ、目尻から透明な涙が零れる。もしかしたら感情を表に出したり、他人に伝えるのが不得手なのかもしれない。忍という生き方に縛られ、己とは何かを見失っているような、そんな感じさえする。笑ったらきっと幼く見えそうだ、などとロキは場違いにも思ってしまう。

「死ぬくらいだったらな、その前に一花咲かせてけ」
 矢先にきらりと虹色の光を纏ったミストルテインの矢を差し出す。一度は振り翳したものだが、殺そうという気はなかった。もしあったら、雨の中わざわざ助けたりしないだろう。
「私に、か?」
「他に誰がいる。此処で会ったのも何かの縁だろ、きっと。持って行けよ、邪魔にはならない」
 斑咲は矢を受け取り、しばし見つめた後しっかりと握り締めた。
「忍にゃ向いてないだろうが、頑丈だし剣代わりにはなるぞ」
 何か言おうとしたのか、斑咲の薄い唇が遠慮がちに開かれる。しかし結局は何事も発せられることもなく、ただ深い礼をして小屋を飛び出して行った。
 残されたのはロキ一人。扉の内側に立ち、姿が見えなくなるまで見送る。矢もなく手持ち無沙汰になった手を天に伸ばすと、落ちてきた冷たい水に触れた。灰色の雲、冷たい風。
 まだ雨は、止みそうにない。