<東京怪談ノベル(シングル)>


暗転したここから



 堕とされた――

 アース族のいる世界から。問答無用と言うかのように、反抗さえ許されず、強制的に。
 俺は、何もしていない。何もせずとも堕とされた。この、どことも知れない世界へと。


 頭が、痛い。
 ズキズキと脳を蝕む声とざわめき。頭を絶えず駆け巡って離れない。
 世界の全てが一つの名前をいつも口をそろえていた。

 先代ロキ。
 それはみなに敬愛され、崇拝されていた素晴らしい神。誰からも褒め称えられ畏敬する神々しさ。
 そんな先代ロキの名をロキ・アースは貰ったのだ。
 俺をロキと名付けたのは、アース族のみんなだ。
 だが――
 俺が先代ロキを追い越せもしない、追いつけもしない奴だと分かると、豹変した。雷が落ちたかのごとく、一瞬で。ただ力さえあれば良かったのだ。



 最後の声。堕とされる直前に聞こえた声は、……何だった?

 じっと”恥さらし者”と言外に告げる瞳で。
 はっきりと声高々に宣言されたそれ。

『ぬしの存在自体がロキの名を穢すわ』

 ピシッと何かが割れた気がした。
 どろりと心に重くのしかかる。俺を全否定する圧力。あまりにも冷淡で残酷。
 氷の中に全身を投げ込まれたかのように、ひどく冷気を含んでいた。底のない海に嵌って動けない俺を何度も嘲笑う。
 一片の疑問すら許さず打ち砕くその一言で、全てが決まった。
 冷え冷えとする体が凍え、息をするのさえ苦しい。

 つめたい……
 ああ、これは――



(これは、雨の冷たさか)

 どんよりと暗く陰気な雲。そこから落ちる雨脚にロキは体を置いていた。闇の化身に変貌した雲はまるでロキだけを狙っているかのように、その雫を片時も止めようとしない。しかも、鮮やかな緑を失った草原は死を迎えているようだった。巻き上げられた風も鋭く棘のように肌を刺して通り過ぎていく。
 体温を奪うだけの雨は過剰に体を鈍らせて。その勢いは痛みから、じりじりと何も感じなくなっていく。ロキの心に灯す光さえも削れるだけ削り取ってしまう。
 仮にも神族だったのだ。あの世界でみなが変わるまでは、気づくまでは……幸せだった。
 今はこうして雨の中、泥まみれになって四つんばいになって。
 ロキの手の中にあったものは消えていった。何もかも、失われてしまった。


 雫が泥土とぶつかりあって一定にこだます音の中。
 僅かに動かした指先に何かがコツンと当たる。
 それは。

 先代ロキの矢……。
 いや、違う。


 白い吐息を吐き出して。すっと気管を凛とした空気が満たした。
 全身の鳥肌を抑え上半身をゆっくり起こしながら、矢を手に取る。
 一層、風の的になって冷気を浴びた。艶やかに濡れた銀髪を伝う水が泥まみれの足に、じわりと染み込んでいく。

 この弓矢は、ミストルテイン。
 先代ロキの矢を模したもの――。
 羽根が虹色に煌く、世界でただ一つ。

 大切な弓矢は、まだ手元にある。ミストルテインはここにある。
 体一つだけと思っていた、そばにミストルテイン。

 それはただ一つの希望とつながり。


 矢を弓の弦につがえて、空へと向ける。
 おびただしくそそぐ闇の雫が目に入るのも構わず、風がなびくのも置き去りに。そのどこまでも黒い瞳は一直線に天を見据えた。
 そこにあるのは曇天。まさにロキの胸中を表していた。渦巻き乱れ、今にも張り裂けそうだ。

 向こうには懐かしき故郷がある。何年も暮らし住み慣れた故郷が。人も街も、今でも好きだ。
 先代ロキを憎んでるわけじゃない。会ったこともない俺はむしろ、先代の話を上機嫌で聞いていた。何よりも自分自身が先代に及ばなかったことが悔しい。苦痛しかない。

 水滴が白い頬を伝う。それは涙のように。
 もう二度と帰れないのだと、もう二度と出逢えないのだと。
 決別と憤りの意味を込めて。
 矢をぐっと引き、背中を反る。険しい瞳が狙いを定め、息を止めた。
 まぶたを閉じると生まれ育った故郷が脳裏にかすめた。再び、黒の瞳を覗かせ――


 ――矢を放った。

 渾身の力をぶち込んで。
 虹色の光を帯びて真っ直ぐ橋をかけていく。そのまま闇色の空へ導かれるように吸い込まれていった。

 そのとたん。
 さあっと嘘のように雲が晴れていき、雨は止む。身を切る風さえもその動きを静めた。差し込む日の光は、冬にしては珍しく穏やかに、優しくロキを包み込む。
 荒天はロキの全てを奪い取っていたのではなかった。ロキの怒りと悲愴に呼応していたのだ。
 いつの間にか、頭の痛みも纏わりつく声も彼方へ遠のいていた。


 ふっと息をつく。
 もう一度、雲一つない青天を見上げた。

 いつも戦争一歩手前だった故郷。風光明媚な大地が広がり、太陽の光が間近にあったが暑くはなかった。
 夜になれば、その暗闇の中をものともせずに輝き主張する綺麗な花。それを眺めながらの散歩は肌に心地よく、疲れさえも吹き飛ぶ気持ちよさがあった。

 少し滑稽に微笑んで。
「さよなら……」
 一度、瞳を瞬く。
「俺の愛した故郷」
 そっと呟かれた瞳には決意が強く刻まれた。
 立ち上がり、踵を返す。
 光の波に僅かに暖められた風がふわりと踊った。銀の髪がさらりと流れる。



 今はこの広原のように緑がなくても、また取り戻せるだろうか。生み出せるだろうか。この世界で。

 地平線の向こうで、何かが待っている。
 そして、俺を導くものがあるはずだ。いや、意地でも切り開く。
 果てしなき旅路へ、と。

 このミストルテインがある限り――
 この魂がある限り――

 それは、ただ一つの希望と夢。


 *了*