<東京怪談ノベル(シングル)>


朝靄の森で

 森にはいつもと変わらぬ精気が満ち溢れていた。ひんやりとした朝靄が潤した大地は、しっとりと濡れて輝いている。風は無く、木々は黙りこくったままかさりとも音を立てなかったが、耳を澄ませば鳥のさえずりや動物達の足音があちこちから聞えてくる。その森の奥まった辺りに、彼、ロキ・アースは居た。漆黒の瞳が見据えるのは、的に見立てた枯れ木の幹だ。真中には既にいくつもの跡が残っている。ロキは森の気配を微塵も乱す事なくすっと息を吸い、矢を番えた。ほっそりとして見える彼だが、弓を引く腕にはしっかりとした筋肉がついている。ゆっくりと息を吐きながら狙いを定め、矢を放とうとしたロキは、絹を裂くような悲鳴を聞いて手を止めた。
「…人間か…?」
 弓を下ろして辺りを見回すと、谷に向かって緩やかに傾斜した茂みの奥が、がさがさと揺れている。続いてまた、今度ははっきりと、助けを求める声が聞えた。
「助けてぇ…」
女の声だ。こんな場所に何故、と思いつつも急いで声のした方に向かった。大怪我でもしているのだろうか。そっと茂みを覗きこむと、やはり女が倒れていた。小麦色の肌に銀の髪。座っているので背丈はわからないが、プロポーションも抜群に良いと言えるだろう。腰は細く胸は豊満、すんなりと伸びた、だが細すぎることのない手足。が、しかし。その片足は不思議なことに膝下からずっぽりと地面に埋まっている。見れば見るほど不可思議な光景だった。
「…何やってんだ?」
 やっとの思いでそれだけ聞くと、女がぱっと顔を上げた。金色の瞳がきっとロキを見上げる。豊かな銀の髪にきつそうな金色の瞳。充分に美女の部類に入る顔立ちだ。
「見てわかんないのっ?!」
 イライラした様子で女が叫ぶ。さっきまでのか細い声は気のせいだったのかと訝しく思いつつも、ロキはもう一度女の様子をじっと見てから首を振った。
「いや見ても分からん。とりあえずその穴は、獣用の罠じゃないかとは思うが…。俺の知る限り、人間がはまれるものじゃない」
「はまれるからはまってんのよっ!頭硬いわね、目の前の現実を見なさいっ!」
「…威張って言われるような事でもないと思うが…」
「とにかく、助けなさいよっ!」
 幸い、見た所罠は穴と網を組み合わせた単純なものだった。あくまでエラソウな女の態度に理不尽なものを感じつつも、ロキは女の足を掘り出して縄を切り、罠から解放してやった。
「ほら。立てるか?」
 手を貸して立ち上がらせてやると、女はよろよろと、だがすぐにしゃんと立ち上がった。痛がってはいたが、怪我はしていないらしい。ロキはほっとしたが、女の方はまだ怒りさめやらぬと言う様子だ。
「全くもうっ、酷い目にあったもんだわ。誰よこんなとこに罠なんてしかけたの!」
 罠をしかけたのは言うまでもなく狩人だろう。ついでに言うと、彼女の言う『こんな所』ははっきりきっちり獣道であって、谷へ降りる動物達を狙って罠をしかけるならば当然の場所なのだ。教えてやるべきかと一瞬思ったが、女はロキの言う事なぞ聞く様子も無く、さんざっぱら悪態を吐いた後、女はようやく形ばかりとは言え礼を言った。女の名はエイージャ・ぺリドリアス、旅の途中で、この森には昨日ついたばかりだと言う。
「俺はロキ・アース。…一応、賞金稼ぎだ」
「ふう〜ん、賞金稼ぎ…か。でも、この辺りじゃ見ない顔よね。こんな朝っぱらから、ここで何してたの?まさか賞金首が逃げ込んだとか言う訳じゃ…」
「無いな。残念ながら。弓の鍛練に来ただけだ」
 左手に持った弓を見せると、エイージャは、わあ、と身を乗り出した。
「楽しそ〜!ね、ね、ちょっとわたくしにもやらせてくれない?」
「おもちゃじゃないんだが…」
 予想外の反応に、躊躇いつつも弓を渡してやると、エイージャはうきうきとした足取りで的の前に立った。
「使い方、分かるのか?」
「分かるわよ、それくらい」
「手、逆だぞ」
「わ、分かってるわよっ、ちょっとどいてて!」
「分かってないだろ、右手は…」
 構えを直してやろうと手を伸ばした瞬間、エイージャが矢を放つ。だが構えがなっていない上、きちんと引き絞れていなかったせいだろう。矢はエイージャの右側に飛んで、へなへなと地面に落ちた。
「んもうっ!何よこれ。壊れてるんじゃない?」
「ちゃんと引けて無いからだろ」
「何よ、もっと引っ張るの?」
 文句を言いつつもエイージャは2射目の矢を番える。放った矢はさっきより少し遠くに飛んで落ち、3射目はまた少し遠く、今度は的から大きく左にそれて落ちた。見事なまでのへっぽこぶりだ。
「矢って、刺さるものよねえ…」
「普通は、な」
 溜息交じりに言ったのが、彼女の闘争心に火をつけてしまったらしい。金の瞳を吊り上げて4本目の矢を番えた姿は、それまでよりもぐっと姿勢が良くなっていて、そのせいか自然としっかり腕が引けていた。今日初めて弓に触ったらしいド素人にしては、中々の構えだった。
「へえ…」
 これならちゃんと飛ぶかも、と思った次の瞬間だった。急に大きく引きすぎたのか、エイージャの肩が僅かに傾いた。これでは…。
「わっ、待て!」
 慌てて止めようとしたが、間に合わなかった。エイージャが放った矢はひゅん、と勢い良く飛んで、的の右側の茂みに消えた。
「飛んだわっ!」
 と、エイージャ。
「あさっての方向にな…」
 と、ロキ。
「ぎゃあっ!!」
 最後の野太い悲鳴は、無論二人のものではない。顔を見合わせたロキとエイージャの前に、がさがさっと茂みを掻き分けて現れたのは、大柄な男だった。皮のベストを着、腰には刀、背には弓。見るからに狩人らしいなりをしたその男の腕には…見覚えのある矢が突き立っていた。
「お前かあっ!!!!」
 怒りの形相で叫んだ狩人の視線は、真っ直ぐにロキに向けられていた。
「全く、罠の様子見に来てみれば…このど下手くそが!!!」
「え、いや、俺では…」
 ない、と言おうとしたロキの頭を、エイージャがぐっと押さえつける。
「もう、ロキったら。危ないって言ったのにぃ…」
「ちょっと待て」
 射たのは自分だろ、と言おうとしたロキは、何時の間にか弓が自分の手に戻されているのに気づいて絶句した。
「エイージャ、いつの間に…」
「あーら、何の事ぉ?」
「何だお前、女のせいにしようたぁ、男じゃねえな」
 むっとしつつも言い返す言葉は見つからない。何しろ弓はロキが持っているのだ。狩人の誤解を解くのは難しいだろうし、弓を渡した責任もある。ここは致し方ないと観念したロキは、がば、と頭を下げた。
「…すまん」
「それで謝ってるつもりかっ!」
「…つもりなんだが」
「そうよ、つもりよ」
「つもりで済むかっ!」
「だから『つもり』じゃなくて」
「そうそう」
「エイージャ、頼むから黙っててくれ」
「また女のせいに…」
「そうじゃなくて!」
 平身低頭謝りまくること数時間。狩人がようやく怒りを静めてくれた頃には、陽もかなり高くなっていた。今度から気をつけろよ、とお決まりの台詞を残して男が立ち去るのを見て、二人は同時に溜息を吐いた。
「まーったく、お陰で酷い目にあっちゃったわよ」
「言葉の使い方が違うぞ。俺が、あんたのお陰で酷い目にあったんだ」
「何よ、心狭いわねえ。女は守るものでしょ?」
 知らん顔はしていたが、一応、守られたという自覚はあるらしい。ロキは溜息をついて踵を返した。
「ちょっと、どこ行くのよ」
「退散するんだよ。あんたも長居はしない方がいいぞ。あいつ、罠の様子見に来たって言っただろ?」
「そう言えば、あの罠…」
 エイージャのはまった罠は、ロキが壊してしまった。獲物もおらず明らかに人の手で破壊された罠を見たら、狩人はどう考えるか。事実をどう説明しても、すんなり納得してくれるとは思えない。あんな場所に仕掛けられた罠に人間がはまるなぞ、実際見なければ信じられるものではないだろう。案の定、再び森に響いた狩人の、泥棒!という怒号を背に、2人は一目散に森を逃げ出した。しっとりとした静寂に支配された、朝靄の森。もう二度と来る事は無いだろう。こうして、ロキはお気に入りの鍛錬場所を一つ失い、代わりに妙な腐れ縁を一つ手に入れた…いや、手に入れてしまった。エイージャ・ぺリドリアス。この金の瞳をした風変わりな美女とロキとは、以後、好むと好まざるとにかかわらず、何故かあちこちで顔を合わせることになるのだ。

<おわり>