<東京怪談ノベル(シングル)>


想いの欠片

 白い雲、青い空。
 心地良い風が千獣の頬を撫で通り過ぎて行く。良く晴れたある日の午後、千獣は軽い昼食をすませると一人、街を出た。焼き菓子の美味な店、花篭を抱える少女、子犬を連れた子供の横を通り過ぎ、しばらく歩いて行く。
 辿り付いた先は街外れの森だ。静寂の森と呼ばれるこの場所は、名前が示す通り音の少ないひっそりとした雰囲気に包まれている。薬草を摘みに時折街から人がやって来ることがあるが、逆にいえば訪れる人間はそれくらいのもので、大きな獣や魔の類の姿もなく穏やかなところだ。
「……あ」
 風に乗って千獣の鼻先を擽ったのは、焼き立ての菓子や茶の匂い。森に喫茶店があるわけもなく、千獣は不思議そうにして辺りを見回した。既に大分森の深くまで分け入っており、人間の気配さえない「自然」の森が此処にはある。
「シズ」
 小さく名前を呼ぶと、紫色の髪が揺れ振り返る。間違いない。千獣が探していた人物の姿がそこにはあった。

「やぁ、いらっしゃい。また会えるとは嬉しいよ、千獣。元気そうで何よりだ」
 気安い様子で声を掛けてくるシズに、千獣もゆるりと礼をして再会の挨拶を口にした。
「今日はどうしたんだい。こんなところまで。道に迷ってしまったのなら、街まで送って行こうか?」
「……この、前」
 ん?とシズが首を傾ぐ。
「助けて、くれて、ありがとう……」
 その一言で数日前にあった出来事を思い出したのだろう。シズは少し驚いたように目を瞬かせ、そうしてゆるゆると首を振った。
「そんなことか。いや、私こそ危ない事に巻き込んですまなかった。気にはなっていたんだが、女性を一人探して街を歩くというのも、なかなか気恥ずかしいものでね。私の方こそ改めて礼を言わせてもらうよ。……ありがとう」
「あの、家……あれは、もう、なく、なった、の……?」
 森の奥に突如として現れた館。黒い瘴気に包まれ不気味に人を誘い飲み込む。恐ろしく哀しい存在を、シズと千獣は力を合わせて打ち破った。元となる核は粉々に破壊してしまったから、もう二度と蘇ることもないだろう。千獣の問いに、シズは小さく、けれどしっかりと頷いた。
「少し座らないか。今日は天気も良いから、外で食べようと思って持って来たのだよ。菓子も飲み物も多めに持ってきたから、良ければ君も」
 話の重みを空気で悟ったのか、シズはバスケットを掲げて見せた。



 ひらりとバスケットの布を取ってみると、中に入っていたのは幾つかの菓子と茶があった。泉の傍、敷物の上に腰を下ろすと、シズが陶器のカップを差し出してきた。
「どうぞ。森の若い葉を使った茶だ。薬草も入っているから身体には良いはずだよ。口に合うといいんだがね」
 新芽の色をした茶からは薬草というだけあって、不思議な香りがした。一口飲んでみると、身体にじんわりと染み渡り内側から暖めてくれる感じがする。茶請けは、砂糖漬けした果実を練り込んだ焼き菓子だ。初めて食べるのに、何故か懐かしい味がする。

「あの、人、たち……消えて、いった、けど……もし……あの、まま……嫌な、こと……辛い、こと、しか、知らない、まま……消えて、いったの、だったら……」
 陶器のカップを包み込むようにして両手に持ち、千獣は口を開いた。ずっと気になっていたことで、胸の中でずっと淀んでいた想いだった。自分には無限の未来があって、光があって、生きる時間が辛いことばかりではないと知っている。けれどもし、館の「核」に飲まれてしまった人々が辛く苦しいばかりであったなら、そう思ってしまう。
「……私は……あの人、たちに……酷い、こと、しちゃった、な……あの、ままじゃ、いけない、と、思う、けど……最後、まで、「力」、で、消した、から……」
 シズは目を閉じ、千獣の話を聞いていた。横をちらと見ていると、薄らと目を開き、かけるべき言葉を探しているようにも見えた。
 酷いことをしたのではないかと思う。森の平穏を取り戻すためとはいえ、力で破壊することで終わらせてしまった。そんな後悔にも似た想いが、まだ消化できずに泥のように残っている。千獣は俯き、唇を閉じた。
 
 どれくらい時間が過ぎただろう。
 二人唇を閉じて、何の言葉を発せず呼吸を繰り返す時間。午後に吹く風が木々の葉を揺らし、さらさらと小さな音を立てる。並んだ身体は動かぬまま、静かな呼吸だけが繰り返されていく。
「……君は」
 穏やかな沈黙を破ったのはシズの方だった。飲みかけのカップを片手に持ち、前を向いて言葉を紡ぐ。
「優しい心を持っているのだね。異形を滅した後も、飲み込まれ消えていった人の想いを案じている。傍にいると、とても心地良いよ。……心配することはない。君がしたことは単なる破壊ではなく解放だ。もう二度と悪夢を見ないで、あのモノたちがゆっくり眠れるように」
 ふわりと浮かべた笑みを見て、千獣も表情を緩める。
「……ゆっくり、眠れる……?」
「あぁ。囚われていた人々も、これでやっと静かにあるべき場所へ行けるんだ。今は楽しい夢でも見ているだろうよ」
 シズはカップに残っていた茶をぐい、と飲み干し、バスケットの中に仕舞った。
 街を出た時は午後、陽の高い刻であったのに、気がつけばもう太陽は西へ傾いている。泉の水だけが相変わらず、湧き出る度に小さな音を立てていた。
「鎮魂と君との再会に、一つ唄を。私も生きていた頃は、一人でいろいろな所を巡ったものだ。……やはり私は、この世界が好きだよ。此処に息づく人の想いも」
 記憶を辿るように少しばかり遠い目をしたシズだったが、茶で潤した喉で一つの唄を歌い始めた。緩やかな旋律に乗せて、言葉の欠片を紡いでいく。最初は欠片だった言葉が、やがて繋がり想いを織り上げる。魂の安らぎと人と人との繋がりを唄で描き、遠く願う。歌い終えると少々気恥ずかしそうに笑って、そろそろ送ろうとシズは言った。



「……ねぇ……人の、心……意思……そういう、もの……って……死んだ、あと、にも……残せる、の、かな……?」
 土産にと渡された焼き菓子を片手に、シズと千獣は歩き始めた。まだ夜の暗闇は遠いが、女性の一人歩きは危ないからとシズは街まで添い歩くことを申し出た。千獣にも拒む理由はない。ぽつりぽつりと声を交わしながら、夕闇の迫る道を踏み進んだ。
 唐突な問いにシズはちらと千獣を見遣る。今度はあまり考える間もなく、肯定を示し頷きを返した。
「人が本当に死ぬのは身体が朽ちた時じゃない。忘れ去られた時だ。……強く想うことがあるなら、きっと」
「嫌な、辛い、悲しい、気持ち、は……残し、て、行きたく、ない、けど……もし、残せる、なら……」
 残したい想いが千獣にはあった。生まれ生きてきたこの時間、星の数ほども感情の色を知り、世界を見た。今はまだ死ぬ時でなくても、生きている以上死は避けられない。身体に宿すこの獣が暴走しない保障もないし、そうでなくとも戦いで命を落とすかもしれない。けれど最後に眼を閉じる瞬間に一つだけ何かを残すのが許されるとしたら、それは。
「一つ、だけ……ありがとう……って、残し、たい、な……」
 千獣は小さくそう言って、胸の前で手を握り締める。
「大丈夫さ。君がそう願うなら、叶わないはずがない。……たまには遊びにおいで。いつでも歓迎するよ。今度は私の秘密の場所へ案内しようか」
 悪戯っぽく笑ったシズに、千獣もまた微かに笑む。街の入り口まであと少し。夕食の買い物帰り、母親について笑う子供の声が聞こえてきた。