<東京怪談ノベル(シングル)>


 【円月手前の森の中】

 空は夜の色で木々の合い間から月明かりが糸となって地面に落ちる。
 木々も草木も眠れば、足音も気配も全てを消し去って獣が森を無尽に駆け回る時間だと言うのに、今夜は何時までたっても森が眠らない。
 静かな夜なのに、ざわりざわりと草木が騒いでいた。
「……なにか、あるの?」
 ずっとずっと自然の中で暮し続けてきた千獣は眠らぬ草木のざわめきに敏感だった。
 獣たちでさえ息を潜めてしまう。そんな夜は珍しい。
 胸騒ぎと言う、そんな言葉に近しいものを抱いた千獣は夜の森を歩く。。
 騒ぐ草木達に導かれる様に千獣は歩き、とうとうざわめきの中心へとたどり着いた。
 そこは森の小さな小さな草地。競うようにして天へと伸びる木がそこだけぽっかりと身を引いて、開けた草地になっている場所だ。
 さっと視界が開ければ、限りなく真円に近い月の光が目に眩しかった。
 綺麗な月の晩なのに、この場所からは不思議な程にざわめきが耐えない。草木の怯えが此処から波紋の様に広がっていて、千獣の足元で揺れる草もまるで萎縮していた。
 闇色を歩いてきた千獣は小さな草地に歩み出ると真紅の瞳をすと細める。耳を研ぎ澄ますと、掠り鳴くような女の声がした。
 声を聞く千獣はまた歩き出す。怖いとは思わない。ただ、そこで誰かが泣いているのだと思って声に近づいた。
「…っ、どうして、どうっして…わたし…っ」
 草原の中腹あたりに長い白髪に真っ白いドレスの女が座り込んで泣いていた。
 千獣が近づいても女は気付かない。細い手で顔を隠し、しきりに肩を揺らし泣いている様だ。
 手を伸ばせば女に届きそうな場所で、暫く瞬きなどをして千獣は佇む。
 なぜこの女性(ヒト)は泣いているのだろう。どうして草木がこんなに騒いでいるのだろう。
 湧き上がる千獣の疑問は、拙い様で事の核心を真っ直ぐ捕らえる。
 少しの間佇んだ千獣は、そっと一歩を踏み出した。
「なぜ…、泣いている…の?」
「…ぇ…?」
 更に近づいた千獣は女に声をかけた。
 大げさなぐらい大きく肩をびくつかせた女は、千獣の言葉に俯いていた顔を持ち上げた。
 持ち上げられた女の瞳は満月の様に綺麗な金色だった。
「森、が…眠れない。あなたが此処で、泣いている、から」
 座り込む女を見下ろす千獣は、森が騒いでいる事を女に伝える。
 決して彼女を責める様な告げ方ではなかっただろうが、女は悲しそうな表情を作って瞳を伏せていた。
「……ごめんなさい。森を…怯えさせに来たわけじゃないの…」
 息を整え女は静かに喋り出す。
「でも、他に場所がなかったの。もう、私…街には、あの人の側には、居られないっ…」
 落ち着いたかに見られた女が苦しみを吐き出す様に叫ぶと、どんっと千獣に衝撃が走っている。
 そして千獣の内側に眠る千の獣達もが森の草木と共にざわめき始めた。
「……」
 驚くのは千獣だった。
 小さな衝撃だったが後ろによろけた千獣は、そのまま草地に小さな音と共に座り込んでいる。
 騒ぐ内側の獣達を知ったが暴走をしようと言う様子は無い。胸に手を当てて獣達の様子を伺った後、結局千獣は立ち上がらず、脚を組んで女の前に再び座り込んだ。
「街、…いられないのは。その、腕のせい…?」
 ドレスの白を強く握る女の手。
 泣いていた時はただ白いだけの女の手だったが、今のその手はびっしりと白い鱗で覆われていた。むき出しの肩までもが爬虫(ハチュウ)の鱗を纏い月明かりに照らし出されていた。
「っ…。そうよ…全部は私の、この醜い身体が悪いの…。あの月が…私を、こんな姿に変えて…!!」
 再び女はわっと泣き出していた。
「………」
 千獣はゆっくり首を傾げて、真円に程近い月を見上げた。それと共に千獣の黒髪と呪符帯が夜風に靡く。
 夜色の天空に浮かぶあの金色は、時に獣達を大自然を狂わせてしまう。
 この女は、月に狂う何かを身体の中に住まわせているのだろうか…。
「彼は…私がこんな姿だと知ったら、私を嫌うわ…」
「…? どう、して? 嫌だって…言われた、の?」
 月を見上げていた千獣は女の言葉に赤い瞳をゆっくりと戻した。
 何故、彼女がそんな事を“嫌われる”などと言うのか。千獣は首をまたかしげた。
 そもそも、千獣には女がこうして泣いている理由もまた解らない。街にいるその彼という者に拒絶されたのならば、なんとなく千獣にも女が泣いている理由は分かる事も出来たかもしれない。しかし、女の話しはそうではなかった。
 拒絶されたのか、と問われた女は弱く首を横へと振っていた。
「けれども解りきっているわ…。こんな姿を見たら、人間じゃないなんて知れたら…嫌われるわ」
「なんで…わかる、の? それ、…は…、聞かなきゃ、わからない事だって…、思う」
 不思議でたまらない。どうして、聞いても居ないのにそんな風に言い切れてしまうのかが。
 人の心が読み取れてしまうというなら話しは違うのだろうけれども。
 千獣はそればかりが不思議でまた首を傾げていた。何も確かめないで、こうやって泣いているのでは分かるものも分からない。
「でも…伝えて、みないと…何も、変わ、らない。言わなきゃ…相手、にだって何も、解らない」
 真実を伝えるそれも、伝えて拒絶されてしまう事も。全てを女が恐れているのだと、そこまでを千獣は理解しつくしては居なかった。しかし、千獣が言ったその言葉はまるでそれを理解しているかの様な言葉だった。
「それ、に…。怖がる、人…ばっかりじゃない。どんな姿、でも…アナタは、アナタ」
 たとえどんなに醜い姿であっても。自分が信じている限り、信じて受け止めてくれる者は真っ直ぐに受け止めてくれるのだ。千獣はそれを知っていた。
 そうして千獣に告げられた女は泣きはらした瞳を大きく大きく開いて千獣を見詰めていた。
「……そうね。そうよね」
 女は千獣の言葉の中に何かを見ていたのだろう。
 自分が恐れるばかりで、街にいる彼と言う者を信じる事をいつの間にか忘れてしまっていた事を。
 短く呟いて女は涙を拭った。未だにその手は白い鱗で覆われていて、人の手とは呼び辛かった。
「戻るわ。そうして、彼に全部伝えるわ」
 ゆっくりと女は立ち上がり、そう言った。
 千獣も立ち上がり、この女性(ヒト)がもう泣かなければいいな、と心の中で思って頷いた。


 女は、もし駄目だったらまた戻ってくるかもしれない。とそんな言葉を告げていた。
 しかし、あれから森はいつもの静かさの中眠りについては朝を迎えている。
 きっとあの女は全てを伝え、再び自分の居場所に戻る事が出来たのだろう。
 今夜も夜色の空には金色の月。
 今夜の月は優しく愛し合う者達を見守っているのだろうか。



 end.