<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>
アルバイト初心者訓練中
「あー、クルスさんだ」
ルディアは白山羊亭の扉を開けた青年を見て声をあげた。
緑と青の入り混じった髪。眼鏡をかけた長身の青年は、「どうも」とルディアに手をあげてみせる。
「お久しぶりですー」
ルディアはトレイを持ったままクルスのところまでやってきて、
「今日はお食事ですか、ご依頼ですか?」
ちょこんと首をかしげて訊いた。
「いやまあ……依頼、かな……」
青年、クルス・クロスエアは気まずそうに首筋をかく。
「承りますよー。どんなご依頼ですか? まさかまた森が……」
「いや、森は関係ない……いや関係あるのか? まあ全般的にすべてが関係あるというか」
「よく分かりませんー」
「……だね。ええと」
こほん、と咳払いをして、クルスは改めて言った。
「……僕に、アルバイト先を紹介してくれないかな」
「はい?」
「アルバイト先。……要するにお金が入用なんだ。というか、僕は冒険者に依頼をよくするわりには、報酬を出さないだろう?」
「はあ……」
「そろそろそれが心苦しくなってきてね。森にどんどん住人が増えてきたし、食費もいるし……」
「でも」
クルスさんって、とルディアは青年の顔を覗き込む。
「アルバイトとか、できる人ですか?」
「痛いところをつくね」
クルスは苦笑した。「分からないんだよ。僕は非力だし体力もない。できる仕事があるかどうか……」
「ふーむ。それなら……」
ルディアは眉を寄せて考えてから、
「どうせなら、紹介ついでに一緒にアルバイトしてくれる方がいいですね。そんな人を探してみましょう」
「それならすごく助かるな。ありがとう」
クルスはほっとしたように、ルディアに微笑みかけた。
+++ +++ +++ +++
精霊の森には、もう1人住人がいる。
長い黒髪に赤い瞳。そこらへんの大人より遥かな刻を生きているが、今でも尚あどけなさを残す、千獣である。
彼女は長身のクルスを見上げ、
「……クルス……お金、ない……?」
「よく知っているだろう?」
クルスは苦笑する。
千獣は彼の腕を抱いて、
「……だった、ら……私も、仕事、する……」
つぶやいた。「クルス、ばっかり……苦、労、させ、られ、ない、から……」
「ありがとう」
クルスは優しい目で千獣の頭をぽんぽん叩いた。
ルディアは『見てられない』という様子でそっぽを向いている。
そこへ――
白山羊亭に1人の少女が入ってきた。
長い灰銀色の髪、手放さないルーンアーム。アレスディア・ヴォルフリートである。
彼女は顔見知りの千獣とクルスを見て、丁寧に礼をした。
ルディアが彼女に事情を説明する。
「ふむ……クルス殿がアルバイトとは」
興味深そうにアレスディアは言った。
「それは継続して働くということなのだろうか? それとも、臨時で?」
あー、とクルスは後ろ首をかいた。
「短期、かな。長期間はやっている暇がない」
「……だろうな」
研究漬け、精霊の森の見張りなどなど、彼は本来森から出るのもはばかられる。
それを知っているアレスディアは深いことは言わず、
「臨時ならばちょうど依頼を抱えている。それを手伝っていただくというのは、どうだろう?」
「どん、な、お、仕事……?」
千獣が熱心に訊いた。彼女はクルスの役に立とうと必死だった。
「なに、そんな危険なことではない」
アレスディアは千獣に微笑みかけた。
「ある裕福な家の飼い猫が、迷子になってしまったらしい」
「それを見つけ出すのか?」
クルスが問うと、その通りとアレスディアは少しだけ困った顔で笑った。
「生命の危機などとは無縁だろうが、しかし、手がかりというものがまるでなくて困っていたところだ」
……迷いペット探しは、それほど珍しい依頼でもないのだが。
しかし一方で、困った依頼でもある。
「例えば、常日頃より外を出回っている猫であるなら、巡回ルートだとか行動を読むこともできるのだが、家猫であったらしい。どうにも手がかりがない」
「手がかり……」
クルスは腕を組んだ。
「報酬については、私とて生活がある。全額とはいかぬが、手伝っていただければ最高で折半までお渡ししよう」
「………」
「クルス殿はそのようなことないだろうが、どれだけ協力したと言い張っても何の働きもなければ報酬は渡せぬ故」
クルスは少し考えた後、
「……それは、僕が自分でやらなきゃならない手伝いかな」
「何を仰っている? アルバイト先を探しているのはクルス殿で――」
言いかけたアレスディアは、ふとクルスに引っ付いている千獣を見た。
千獣はちょこんと首をかしげた。
「猫……? 匂い、で、追える、よ……?」
「――と、言うわけなんだけども」
アレスディアは目をぱちくりさせて、
「千獣殿はクルス殿に自分の働き分全部ゆずるおつもりか?」
「だっ、て……私、森、に、住んで、る、から」
千獣は問われたのが不思議と言いたげに答えた。
「自分、が、欲しい、もの……森、に……ある、し……。お金、は、必要、ない……」
それが事実だと、アレスディアは知っていた。
苦笑して、
「……まあ、手に入れた報酬をどうされるかは千獣殿次第故」
というわけで、この仕事を請け負うのはクルスではなく千獣ということになった。
千獣の鼻は獣並だ。
家猫ということで、まず家にお邪魔して猫の匂いを嗅ぎ分けると、外に出た千獣はすぐに歩き出した。
「ふら、ふら、して、る……初めて、の、場所、だから……困っちゃった、のか、な」
その後ろをクルスとアレスディアが歩く。
千獣は順調に歩いていた。
――その足が、ある地点にきて止まった。
「……あ……」
「どうした? 千獣」
「匂い……途切れ、た……」
クルスとアレスディアが揃って険しい顔をした。
「途切れた……!? 一体何が起こったのだ……っ」
「ちょっと、待って、て、ね……」
千獣はすうと息を吸って――
全神経を嗅覚に集めた。
その集中を乱さないよう、あとの2人は息を呑んで見守る。
千獣は目を閉じていたが――やがて。
「こっ、ち」
東の方向へと、走り出した。
たどりついたのは、一軒の民家だった。
「ここ……ここに、同じ、匂い、する……」
「まさか……」
アレスディアが眉を寄せる。「拾って……しまったの、か?」
クルスがため息をついて、ドアをノックした。
中から女性が出てきた。――包帯ぐるぐる巻き、大きな槍持ち、白衣という変な取り合わせの3人組に驚いて、
「な、なんですかあなたたちは!」
怯えるように一歩退く。
――奥から、にゃあと鳴き声が聞こえた。
「やはり……か」
「突然お邪魔してすみません。こちらは猫を飼っていらっしゃいますか」
クルスは丁寧に尋ねる。
「猫?……今朝息子が連れ帰ってきたから、今日から飼おうかと話をしてますけど」
女性は不審そうに眉をひそめる。「何の御用ですか」
「恐縮ですがその猫を見せて頂けませんか」
「なぜ?」
「今探している家猫と同じ猫ではないかと思いまして」
「―――!」
婦人は慌てて奥に引っ込んだ。
そして、猫を抱えて戻ってきた。
「歳は2歳。金色の毛並みに、腹と右前脚だけが白い……間違いない」
アレスディアが言いようもなく苦しそうな顔をする。
本来彼女が言わなくてはいけない言葉を、クルスが代弁した。
「申し訳ありません。この子は飼い主がいます……お返し頂けますか」
「……息子が泣くわ」
婦人はそれだけ言った。
抵抗の様子はなかったけれど。
+++ +++ +++ +++
もう一度アルバイト探しのために、白山羊亭に戻ってきた千獣とクルス。
「あ、どうでしたぁ?」
ルディアは2人の姿を見て元気よく声をかけたが、クルスの落ち込んだような顔を見て口をつぐんだ。
「クルス……」
千獣が青年の顔を覗き込んで心配そうに言う。
「もっと、がんば、ろ……?」
「ああ――分かってる」
クルスは顔を上げた。そしてルディアに、「他に仕事ないかい」と訊いた。
「んー。今のところはぁ」
困った顔をしたルディアが思案している、ちょうどその時に。
「ルディアさーん! 白山羊亭へのお手紙届けにきたよー!」
はきはきとした、元気のいい少女の声が飛んできた。
その声の主はルディアを見て、
「って、ルディアさん、何か悩んでる?」
「あ、ウィノナちゃん。いつもお手紙ありがと」
ルディアは考えるのをやめて手紙を受け取る。
「何か悩んでた?」
長い黒髪に、黒水晶の瞳を持つウィノナ・ライプニッツ。郵便配達人である彼女は、ルディアの様子をしげしげと見る。
「悩んでいるっていうかね」
ルディアはクルスたちを示して、「こちらの方が、アルバイト先を探しているのよね。いいアルバイトないかなあと思って」
「……なるほど、この人のアルバイト先を探してるんだ」
ウィノナはうむうむとうなずく。そして早速手を挙げた。
「なら、ボクの郵便配達や仲間達の細工とか料理関係とかの仕事の手伝いはどうかな?」
クルスは不思議そうな顔をした。
千獣が、
「ゆう、びん、はい、たつ……」
意味もなくその単語を繰り返している。
「ボク、今ちょっとした事情で郵便の仕事手伝ってもらってて、仲間に迷惑かけているから、こっちとしても人手が欲しい所だったし」
ウィノナはくるっとクルスに向き直り、
「……どうですか?」
と下からうかがってきた。
「やり方が分からないといけないから、手伝うにしても始めるのに時間がかかるんだけど」
クルスはそう答える。
ウィノナは問題ない、とにっこり笑った。
「郵便ならボクが仕事ついでに教えられるし、他の仕事でも仲間達に迷惑かける分恩返しもしたいし、少しの間なら付き合いますよ?」
「それなら……」
お願いしようかな、とクルスは手を差し出した。
「よろしくお願いします」
教えを請う者としての礼儀の握手。
ウィノナはそれを握り返して、
「ボクはウィノナ。ウィノナ・ライプニッツ。よろしく」
「僕はクルス。こっちの子は千獣だ」
千獣は人見知りをするような様子でクルスの陰に入りながら、明るいウィノナの笑顔に、ほんの少しだけ微笑んで返した。
「郵便配達と言うと――」
ウィノナと共に外へ出て、「郵便物を、宛先に届ければいいんだな」
「はい。郵便受けがあるとこへはそこに入れればいいんですけど、小包とかだと直接相手にお渡ししなきゃ」
「ふむ」
歩きながら聞く話。やがて3人はウィノナのアジトへたどり着いた。
「……郵便受けに入れればいいタイプの郵便なら、何とかなると思う」
クルスはそう言って――
空に向かって、指笛を鳴らした。
ばさばさっと集まってきたのは白い鳩だ――
全部で10羽。クルスは鳩たちに向かって何かを言う。
そして振り向いて、
「小さい手紙類は、この子たちにくわえて配ってもらえるよ」
「……すごっ……」
ウィノナがぽかんとした。
「小包類は……そうだな」
ウィノナの仲間たちを前にして、その仕事に手先の器用さが必要と判断したクルスは、
「お仲間さんの細かい仕事を手伝うのは僕の方がよさそうだ。千獣。キミ、小包配達やるかい?」
「……うん、私に、できる、こと、なら……」
ウィノナは千獣を見て、うーんとうなる。
――全身包帯巻きの彼女が玄関先までやってきたら、客が驚くのではないだろうか。
「と、とりあえず試してみよう!」
ウィノナはエルザード全体の地図を持ち出して来て、千獣に覚えさせた。危険なルートなども教えようとすると、
「私……大抵の、敵、なら」
「返り討ちにできるだろうな」
後を継いで、クルスはウィノナの仲間たちの方へ行きながら言う。
「そ、そうなんだ」
ウィノナは目の前の2人に恐れをなしながら、あははと乾いた笑いを浮かべた。
鳩たちは、クルスであれウィノナであれ、話しかければ本当に手紙をくわえ、郵便配達を始めた。
その正確さを、念のためウィノナがいったんアジトを離れて確かめにいくと、郵便受けの中には間違いなくその家宛の手紙が入っている。
感心したウィノナは、アジトに戻ってくると、人間よりずっと回りが速い鳩たちに次々と手紙を渡していく。
その間に千獣は、眉をうーんと寄せて難しそうな顔で地図と宛先を交互に見ている。
こっちは時間がかかりそうだ――と思ったウィノナは助言をしようと千獣に近づいた。
千獣はウィノナが近づいてきたのに気づき、
「あ……。ごめん、ね、時間……かかって……」
「最初はそんなもんですよ。このエルザードの人々は寛容なうちに入るから、時間がかかることよりも正確さが大事で」
ウィノナは小包ひとつひとつの配達先を地図にばってんを打って教える。
千獣がじーっとそれを見て、
「……うん、大丈、夫……」
と言った。
「遅く、なった、分、は……飛んで、配達、して、間に、合わせ、る、から……」
「とん……飛んで?」
ウィノナは目を丸くする。
まず小さめの小包を数個と地図を抱えた千獣は、アジトの外に出ると、背中からばっと獣の翼を生やした。
ウィノナは唖然とする。そのまま千獣は地を蹴って、高いお空に飛んでいってしまった。
「………」
世の中には色んな人がいるもんだ。郵便配達なんて仕事をしていれば分かることだが、今日連れてきたお手伝いさんはその中でも特殊な部類に入りそうだ。
クルスは手先がたいそう器用で、仲間たちが賃仕事でやっている細工物などを軽く真似してみせた。
「……すごいですね」
ウィノナはついクルスの傍らに座って感嘆の声をあげる。
「………」
手を動かすのをやめないまま、クルスはふと言った。
「キミは……その膨大な魔力を扱いあぐねているのかな」
「………っ!」
「どこかで修業しているみたいだね。1人の人や1つの体系に従事していると魔力の形がそれに伴って変わってくる」
「わ、分かるんですか」
ウィノナは動揺を抑えながらクルスの横顔を見る。
「僕も一応魔術師だからね」
クルスは軽く笑った。「それも抑制系の。相手の魔力を見極められないと戦えないんだよ」
「抑制……系」
「自己流だけどね」
その間にも、彼の手先からは見事な細工品が出来上がっていく。
ウィノナの仲間たちからも拍手喝采が起きていた。
「他にやることあるかい?」
クルスは仲間たちの方へ訊く。
「……腹ペコ」
仲間たちの1人が言って、失笑が起きる。
「料理か……僕は野菜料理ぐらいしか作れないんだが、いいかな」
「ばっちぐーっすよ!」
少年が言った。
クルスは笑って、ウィノナに「野菜の買い置きとかあるかい?」と訊いた。
ぼんやりしていたウィノナははっと我に返り、
「あ、うん。野菜はいっぱい」
「厨房借りていいかな」
「……うん」
元々空き家であるこのアジトは、台所設備もそれなりにある。ただし料理上手――というか片付け上手――がいないのか、薄汚れていた。
「あれくらいなら何とかなるな」
クルスは微笑んで、立ち上がった。「野菜炒めくらいならすぐに出来る」
わあっと少年少女たちの歓声が上がった。
クルスは、ウィノナの頭を、帽子の上からぽふぽふと叩いた。
「キミが罪悪感を感じることはないさ。……魔力は放っておくと大変なことになるから、それについて学ぶのは当然だ。それに――」
もうすぐ食事が出来ると聞いて大急ぎでノルマをこなそうとしているウィノナの仲間たちを見やって、
「……キミのことを好きなやつらばかりだろう? 面倒くさがるわけもないし、怒りもしないと思うよ」
「………」
「さて、と」
クルスは腕まくりをして台所へ向かった。
――膝を腕で抱えてうずくまったウィノナの鼻に、野菜炒めの美味しそうな匂いが広がる――
千獣の小包配達も、それなりにうまく行ったようだ。やはり驚かれたようだし、千獣のしゃべりかたも聞き取るのに難しかったようだが。
千獣の熱心さとあどけない瞳が勝ったらしい。
そろそろ、とクルスと千獣は帰る準備を始めた。
「あ、謝礼……!」
「ああ、いい、いい」
クルスは苦笑して手を振った。「キミたちからは取れないよ」
皆薄汚い服を着た、おそらくかつてスラム街にでもいたのだろう少年少女たちを見て、クルスはそう結論を出した。
「―――」
ウィノナは何ともいえない表情をした。
千獣がくいくいとクルスの袖口を引っ張る。
「――ありがとう!」
ウィノナの精一杯の言葉に、彼女の仲間たちの拍手が重なった。
+++ +++ +++ +++
再び白山羊亭に戻ってくると、とても見覚えのある巨躯の男が待っていた。
短い金髪を適当に後ろに流し、葉巻きをくわえている。
「あ゛ー、ちょうどいいところに来やがった」
トゥルース・トゥースは、やけにがらがら声でクルスを手招いた。
「お前さん、仕事探してるんだってなぁ」
「そうだけど……何だいその声は」
「実はなぁ、昨日飲み過ぎちまってよ、喉が酒やけでがらがらなんだ」
「……その上に煙草かい。キミ危ないよ」
「ほっとけや。で、本題なんだが」
トゥルースは葉巻を灰皿に押し付け、
「俺の代わりにどうだ、街の教会で教えを説くってのは?」
「はあ?」
「こんな声と喉じゃあ、とてもじゃねぇが教えなんざ説いてられねぇ。どうしたもんかと思ってたところさ」
ぱん、と両膝を打つ。クルスが困った顔をする。
「なぁに、そんな大きい、厳格な教会でもねぇ。地元住民の寄り合いみたいなもんだ」
「しかし……」
「元々俺の場合、神の教えがどうってぇよりもざっくばらんに人としての道を説いてるだけだから、ちょっとやそっと間違えたって誰も文句は言わねぇ。慣れっこさ」
「………」
そんな伝道師もどうなんだろうとクルスはひそかに思う。
「俺がもらうはずの報酬もそっくりくれてやるから、どうだ、今日は一つ、伝道師様になってみねぇか?」
「……森から出ない僕が伝道師をやるっていうのも問題があると思うけどね」
まあ、いいか。クルスは傍らできょとんとしている千獣を見てつぶやいた。
エルザードの教会。
トゥルースの言う通り、とても静粛とは程遠い、まさに『寄り合い』だった。
トゥルースも一応様子を見にきていた。
「あ゛ー、お前さんら。今日は俺の代わりにこの細っこいのがしゃべるから静粛に聞けや」
それだけ言って、トゥルースも住民の最前列に座る。その隣に千獣がちょこんと座った。
クルスは住民たちを見て、少し首をひねっていたが、
「えーと……」
こほんと咳払いをして、話し始めた。
「僕は無神論者です」
いきなりそこから行くか。トゥルースはがくっとつんのめる。
「なぜなら、神よりもずっと素晴らしい存在を知っているからです。――それが人間だ、とは、このソーンでは言いませんが」
それからうーんとあごに手を当てて、
「……いや、このソーンだと神の種族もいますね。でも彼らはこの地上で、人間と、他の種族と一緒に生きている。僕が言う無神論は、天界にいて地上を見下ろしている云々の方々のことです。願いをかけたら叶うとか、いざというときは神が護ってくれるとか、そういう類の」
民衆がざわりとする。
「では神の加護はないというのか」
と怒り――ではなく不思議そうに、問うてきた人物もいた。
多分怒りの目で見られなかったのは、トゥルースの普段の教えのおかげだろうが……
「神の加護は、ありません」
クルスはきっぱり言った。「その証拠に悲惨な目に遭う人々もいる。罪もないのに虐げられたり、逆に悪さをしているのにのうのうと生きている者もいる」
「………」
「代わりに僕たちにあるのは、人とのつながりという加護です」
クルスは左手を上げ、右手を乗せてぎゅっと握り合うようにする。
「人のつながり。不思議なものです。種族を超えてそれはある。助け、助けられ、僕たちは生きていく。それはあいまいな神の加護よりもずっと確かなもの」
さあ――、とクルスは言った。
「今隣にいる方と手をつないでみてください。ぬくもりや脈動が伝わるでしょう。……目に見えない神の加護より遥かに確かだと思いませんか」
民衆たちは戸惑いながら、知り合いと、また知り合いではない者と、手を重ねあう。
千獣はトゥルースに手を差し出した。
トゥルースは呆気に取られながらも、千獣の手を取った。
千獣の冷たい手に、確かにとくんとくんと脈動を感じた
「我々のやるべきことは、窮地に陥ったら神頼みをすることではなく、つないだ手を離さないでいることです」
クルスは自分の手を解き、両腕を軽く広げた。
「そして裏切りとは、手をほどくこと。つなぐことは簡単ですが、離すこともまた簡単。それでは確かではないとおっしゃるでしょうが、人の道というものは、一度つないだ手を離さないことだと思うのです」
不思議と、つないだ手をほどこうとする民衆がいない。
離すタイミングを失っているということもあるだろうが――
「……僕はたくさんの人に助けられてきました」
クルスは穏やかに微笑む。「僕は自分から手を取ろうとはしなかった。けれど、皆はあちらから僕の手を取って引き上げてくれた」
だから、
「僕は生きて来られたんです――人とのつながりが、まだ切れていないから」
どうか、
「皆さんも、ぜひ自分から手を伸ばせる人になってほしい」
そして、
「――それだけで人を救うことができる。難しいことじゃないんです。ただそれだけ」
例え手を振り払われても。何度も振り払われても。
「心は、伝わりますから。――心を伝える。それが人として忘れてはいけないことだと思います」
青年は静かに頭を下げる。
「……ここまでご清聴、ありがとうございました」
拍手が巻き起こった。
「いいぞーにいちゃん!」
「素敵な演説だったわ!」
千獣が――多分意味はほとんど分かっていなかっただろうが――クルスが褒められたのが嬉しいのか、満面の笑顔になる。
「……ほう、なかなかのもんだったじゃねぇか」
トゥルースが、自分の元に戻ってきたクルスにつぶやいた。
「……ていうかだなぁ、お前、なんだその、俺より受けが良いってのは」
「は?」
「ちっくしょう、なんか腹が立ってきた。こうなりゃあ、やけ酒だ!」
「いやキミ、それ以上飲んだら酒やけが」
「うるせえ」
トゥルースとクルスと千獣は揃って外へ出る。
いい風が吹いていた。
まるで民衆たちの拍手が巻き起こした風のようだった。
+++ +++ +++ +++
白山羊亭に戻るなり、トゥルースは本当に酒を飲みだした。報酬の話はそっちのけだ。
ため息をついたクルスは、ふとルディアが1人の男性と話しているのを見つけた。
「あ、クルスさん千獣さんお帰りなさい!」
ルディアがこちらを見て手を振ってくる。
それと同時に、ルディアと話し込んでいた男性もこちらを向いた。
隻眼の大柄な男。鬼眼幻路である。
「お2方ともお元気か。話はルディア殿から聞いたでござるよ」
幻路がうーむとうなりながら、「森の守護者といえど、金銭は必要なのでござるなぁ」
「困ったことにね」
クルスが苦笑しながら肩をすくめる。
うんうんとうなずきながら、幻路は言った。
「何をするにしろ金がかかる世の中。あいわかった。拙者、心当たりがござる。紹介いたそう」
「なに、する、ところ……?」
千獣がちょこんと首をかしげる。
「拙者の知り合いに薬剤師の老人が居るのでござる」
白山羊亭のドアを開けて外に出ながら、幻路は歩きつつ説明した。
「その老人が調剤を手伝える助手を探しているのでござるが、何分にも専門的な知識を要する職。早々見つかるものでもないし、かといって半端な知識の者を雇って万一があってはいかん」
「ははあ……」
「誰かおらぬかと言われていたところでござる」
幻路の足はエルザード郊外に向かっていた。
そしてその先には、小屋が経っていた。何年も瓦葺していなさそうだが、それほど汚い小屋でもない。
「クルス殿は薬草、薬剤などに造詣が深いと聞く」
幻路は小屋の玄関の前に立って、クルスを振り返った。
「クルス殿であれば間違いはござらぬ」
クルスはぽりぽりと額をかく。
「また、ただの稼ぎ口だけではなく、その老人もその方面ではなかなかの腕。新しい発見、勉強ができるやもしれぬ」
「それはいいな」
クルスは微笑した。「薬は色々用途がある……」
「もちろん、クルス殿には森を守るという大切な役目がござる。毎日というわけにはいかぬでござろうが、折を見て手伝ってやっていただけぬかな?」
「まずは自己紹介をしてから決めるよ」
「そうでござるな」
幻路はとんとんと玄関の戸を叩いた。
「誰じゃ」
中からくぐもった声がする。
「拙者でござる薬師殿。お約束の薬師助手をお連れしたでござるよ」
「入れ」
言われて、幻路はがらっと横開きの扉を開けた。
中で、ごりごりと古めかしい薬草を砕く道具を使いながら、一心に薬を作っている老人がいた。やせ細っているが、眼光が鋭い。まだまだ現役、と言った感じだ。
「こちらの方でござる薬師殿」
幻路に促され、クルスは「クルス・クロスエアと申します」と頭を下げた。
「クロスエア……?」
老人が反応して、顔を上げた。
「まさか、精霊の森のか」
これにはクルスの方が仰天した。
「ご存知なのですか?」
「知らぬもなにも。わしは昔からファードによく樹液をもらっておった……」
それを聞いて、千獣がかっと怒りの表情を見せた。それをクルスは制した。
「……若い頃の話じゃ。ファードの薬によってわしの両親は重病から蘇りおってな。その時のクロスエアに、ファードがどれだけ苦痛を我慢していたかを聞かされた……」
老人は手を休め、遠い目をした。
「それ以来、薬師を目指すことにした。……ファードに頼らなくてもよい薬を作るためにの」
そしてクルスをまじまじと見て、
「そうか。クロスエアの後継者か」
「はい」
「……ならば当然薬作りの何たるかを心得ておるな」
「まだまだ境地には至っておりませんが」
クルスはまっすぐ老人を見て言った。「……二度とファードに苦しい思いをさせないためには、どのような苦労も受けて立つつもりです」
老人は目を細めた。柔和な笑顔にも見えた。
「……だが一応適正検査はさせてもらうぞ。まずは湿疹止めからだ」
クルスは思案して、
「入浴剤でもいいですか」
「構わんぞ」
「では薬草取りから行ってまいります」
クルスは手早く外に出ていった。
千獣が不安そうに見送る。
幻路が老人を見る。
「薬師殿……」
「……あの青年、わしの薬草棚にその薬草があることを分かっていて行きおった。……近くに生えていることを把握しておったんじゃな」
その通りで、クルスはものの5分としないうちに戻ってきた。
手にあるのは、黄色い花のついた植物――
「スイカズラか」
「はい」
「――それは調合する、とは言えんな。だがまあ、さすがに薬草の知識は持っておる」
摘み取られてきた薬草を見つめた千獣が、悲しそうな顔をする。
クルスはその訳を知っていた。ファードから聞かされていたのだ。植物にはなぜ防御手段がないのと、なぜ簡単に摘まれてしまうのと、千獣が悲しそうに言っていたと。
「千獣」
クルスは微笑んで見せた。「この花は、これから人の役に立つんだ」
「人の……役に……」
千獣はうつむいた。――前に、植物を摘み取りに行く依頼の時にも、薬作りに使うんだと言われたことを思い出して。
「その薬草はまだ生きてるんじゃよ、嬢ちゃん」
老人が言った。はっと千獣が顔を上げる。
薬師の老人はくしゃくしゃのしわだらけの顔で、にっと笑った。
「薬草を活かすも殺すもわしら薬師の仕事じゃ。嬢ちゃんが心配することではない」
「―――」
「植物は摘まれた瞬間にその生命を終わらせるとお思いかね?」
植物はな、しぶといんじゃよ。そう言って老人はかかかかと笑った。
千獣がふっと体の力を抜いた。
「……僕も植物を、活かせる薬師になれるようにがんばるよ」
少女の耳元で、クルスがそっと囁いた。
千獣がぎゅっと、クルスの手を握った。
幻路の言う通り、老人はとてもたくさんの技術を持っていた。
クルスはそれにとても興味を持ち、やがて彼のことを「師匠」と呼ぶようになった。
幻路は満足そうにうなずく。
「クルス、が、頑張る、なら……私、も、頑張る」
千獣がつぶやいた。
+++ +++ +++ +++
白山羊亭に戻ると、酔っ払ったトゥルースが、
「悪ぃ悪ぃ」
と礼金を渡してきた。
老人の元からもほんの少しの手伝い賃をもらってきている。
アレスディアからも、約束通り折半分を。
「ひとまずこれだけでいいかな」
クルスはうん、と背を伸ばした。
ルディアに礼を言い、
「よし、千獣。森に帰ろうか」
彼らは白山羊亭から出た。
すでに夕刻。夕陽がまぶしい。珍しく、紫の陽射しが見える。
歩く道すがら、千獣がつぶやいた。
「……ねぇ……森、で、の、暮らし、で……何か、ある、なら……私、にも、言って……?」
「ん?」
「何が、できる、とか、言え、ない、けど……私、だって……クルス、の、森、の、ために、なる、こと、したい、から……」
「………」
クルスは微笑んで、千獣の肩を抱いた。
「キミがいるだけで充分だよ」
紫色の夕焼けは明日の晴天の兆し。
明日は一体何があるだろうと、2人はまだ始まらない日を思う。
精霊の森が近づいてきた。
――彼らの帰る場所、が。
―FIN―
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2919/アレスディア・ヴォルフリート/女/18歳/ルーンアームナイト】
【3087/千獣/女/17歳(実年齢999歳)/獣使い】
【3255/トゥルース・トゥース/男/38歳(実年齢999歳)/伝道師兼闇狩人】
【3368/ウィノナ・ライプニッツ/女/14歳/郵便屋】
【3492/鬼眼・幻路/男/24歳/忍者】
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■ ライター通信 ■
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鬼眼幻路様
いつもありがとうございます、笠城夢斗です。
今回はとても興味深いところへのアルバイト斡旋ありがとうございました。
これでクルスもまた成長できると思います。
よろしければ、またお会いできますよう……
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