<東京怪談ノベル(シングル)>


pieta




■■


あの軍人から、一人の少女へ、某日報せが来た。

【あの女が逃げた、気をつける事だ。】

…他に、もし女を見かけたなら、此方へ連絡するようにとも聞かされた。
あの時、彼女は人間に戻ったと思ったのに。
木陰に揺らめく木漏れ日の暖かさに、目を閉じたい所だったが、どうも気が落ち着かない。ふらりふらりと森を巡ってみるが、時間が経つにつれて落ち着かない気持ちはさらに強くなった。

「………違…ったの、かな…」

長い黒髪が強風に煽られ、地に落ちていた木の葉が空に舞った。ぽそりと、少女は呟きを漏らす。…至る所に巻かれた包帯が、びゅうびゅうと啼いて喚く風邪に遊ばれていた。彼女、…千獣は遠い空へと、彼の人を思い出していた。

先日、連続殺人犯が捕まった。人々は安堵し、歓声をあげ、その犯人が処刑されるのを今か今かと待ちわびた。執行当日には処刑場に長蛇の列ができたと言う。…だが、いつの間にか、それこそ、煙のように、殺人犯は消え去っていた。残されていたのは、一人の看守の死体と【お世話になりました】との、流暢な血文字。再び、街は恐怖に慄き、暫くは夜の出歩きに戒厳令が施されたほどだった。



世は彼女を極悪人、悪鬼などと呼んでいるが…千獣は少し不思議そうに首を傾いでいた。最後に、会った彼女は、…人間に戻ったと思っていた。悪鬼のままであれば、あれほど自分の言葉に動揺するものだろうか。

「どうして…なんだ…ろう」

千獣は考えた、彼女が刃を振るう理由。それが全く解らない。怨恨でもないし、やはり愉快犯なのだろうか、しかし…

どこか違う。

どうしても不可解さが残る。彼女、一体何故…。
幾ら考えようと、千獣は彼女の古い友人でもなければ、親族でもないし、彼女自身だって違う。解るはずがなかった。しかし、彼女だけを罰する、人間の考えもまた解らなかった。どうして、元を断とうとしないのか。元を絶つ事ができなければ、きっと、その根は増やされ、彼女と同じ人間が生まれてしまうのではないだろうか。

「……ここ、わかる…かな」

彼女は、恐らく相当聡い。きっと、ここに来るつもりならば、すぐに辿り着けるはず。
…もう一度話をしたい。まだまだ、解らない事が多くある。もし、別の人間へと其の刃が向かってしまったら…。そうなる前に、自分の元へと来てくれる事を願う他無い。

優しく木漏れ日が照らす、千獣は吐息を深く吐いて枝の上へと昇り座り込んだ。




■■


時は経ち、数日後の夜の事だ。
森がざわめく、獣が逃げ啼いた。夜目の効かない鳥ですら飛び立つ始末。
…森がおかしい、誰か、入ってきた?
むくりと起き上がり、とん、と軽い音を立てて千獣は地へと着地した。森のざわめきが大きくなる。
………近い!
ざぶんと、茂みの中に飛び込む。獣の俊敏さで森を駆けた、近い、近い、そろそろだ、視界が開けてくる……………


「…あなた…は」

「……会いたかったわ、お嬢さん」

見えたのは、一人の女性の後姿。紅いドレスに黒髪のボブ。少し振り向き、見えた唇は真赤な口紅が塗られていた。…彼女だ。

「……ねえ、教え…て、くれなかった…よね」

「………」

自分に会いに来た、のだろう。彼女の言葉から考えるに。
ならば、千獣は聞きたい事があった。

「どうし、て…どうして、殺…すの?」

食べるわけでも、ない。

「同じ…仲間、なん…でしょ?」

襲われたわけでも、ない。

「どう、して?」

理由がわからない。



「言ったはずだわ…貴方に、関係は無いでしょう?」

婦人の口調は淡々と、…いつの間にか、口元から笑みが消えている。冷やりとした空気が二人の間を遮った。ただ、それは通り過ぎただけで、なんの隔たりも残しては行かなかった。

「じゃ、あ…なんで、会いに来た…の」

その理由も、千獣にはわからない。

「貴方を殺すため、と言ったら?」

また婦人の口元に笑みが戻った。
刃が閃き千獣の首元へと宛がわれる。
…千獣は動きもせずに、自ら間合いを詰めた婦人の眼差しを見た。黒い。

「……言った、はず……あなた、に、私は…殺せない」

静かな声音で千獣は、二度目となる言葉を婦人へ告げた。婦人の刃は、千獣の首筋にひやりとした硬い感触を与えるだけで、そのまま突き動かされる事は無い。

「どうして?どうしてなの」

「……あなた、は…人間…だから」

そうとしか言えない、彼女の質問に千獣は静かに、簡潔に答えを述べた。

「私が、人間であるはずが無いの!!」

「………誰か、に…そう、言われた…の?」

婦人の黒い眼差しが揺らいだ。
千獣の言葉に反応を示しだす。

「誰、に…言われた、の…?」

「っ…あ、貴方に関係は…」

婦人が動揺を隠しきれず、震えた声を出した。


「…無い。だけど…、聞きたい」

「………」

婦人の顔が歪んだ、ぐっと何か噛み締めるように、奥歯を噛んでいるのが判るほど。
千獣は首を刃に乗せるように傾いで見せた。

「……誰?」

暫くの沈黙が流れた後に、婦人は千獣の首元から刃を下ろした。

「………父。父よ」

婦人が言った答え。その声は諦めにも似た雰囲気を持ち、力なく答えられた。
……やっと、根が見えて来た。

「…おとう、さん……何故…?」

「父は…魔物よ。父は…、私に色んな事、教えてくれたわ…。新しい、名前も付けてくれたのよ」


婦人は少し笑って、答えた。千獣は、何時もの婦人の笑い方と違う、彼女の微笑に瞬きをしている。彼女の父、それが、恐らくは根。

「…本当の…名前は、ないの…?」

「……どちらが、本当か…私には判らないわ。ただ、父が教えてくれた事、父がくれたこの短剣、父が付けた名前だけが私の全て。だからこそ…」

だからこそ?…そう、千獣が続けようとした時だ、オレンジの厳しい光が千獣の前を駆けた。

「だからこそ!そう、殺めるのは私の義務!絶対悪が私の生きる意味!!」

千獣の首筋に生温い液体が這う感触がした。マントや襟首が段々と、その感触に侵食されて行く。…千獣は首筋を押さえ、軽く足がよろめいたが…やはり目線は確りと保っている。死の気配など、微塵もしない。

「……そう、おとう、さん…が、言ったから…そう、思って…」

「そうよ、父は私にとって絶対。人を殺めるたびに、父は褒めてくれたわ…いい子ってね」

「おとうさん…の、ために…?」

「そうよ」

悪びれもなく、答えを出して行く。その理由ではまるで、子供ではないか。
…この人、いつから、時が止まってしまったのか。褒めるその言葉を貰うためだけに、人を殺したのか。その【父】は、一体彼女に何をさせたいのか。

「判らない……」

「何?言ったでしょう、答えは、全部」

「あなたの、おとうさんは……あなた、に…何を…させたいの」

「……知らないわ」

「何故…人を、殺すと…褒め…て、くれるの…?」

「……知らないわ」

「何故……」

千獣が続けようと口を開いて直ぐに、千獣の横を鋭い切っ先が横切った。キィンと高い音を立てて、銀の短剣が木に突き刺さっている。

「いい加減にして!!何が言いたいの、父を…父の事を悪く言わないで!!」

…やはり子供のような事を言う婦人に、千獣はいつかの様に真直ぐ、彼女を見つめている。風も吹かない、いつのまにか、空にも紺と灰色の天蓋が掛かっている。星も、月も見えない。

「……あなたの、本当の…名前、は?」

「…覚えていないわ、母と一緒に、それは消したの」

腹の底が冷える様な声で、婦人は言った。
本当に?
そう、千獣が聞き返そうとしたときだった。



■■


獣が動く、木々がざわめく、月が何だと顔を出したほどにまたも森は揺れた。
…大勢が押し寄せてくる。

「いたぞ!!」

「大丈夫か、君!」

「こっちだ!早く!!」

様々な声が右往左往、木霊する。婦人は動かない。少し屈めていた背を正した、凛とした表情を作って、来るべき時を待ち構えるように。

「逃亡犯め、ようやっと見つけたぞ…おい!その子に手当てを」

現れたのは、銀のボルトを月光に輝かせた黒兎。部下に手を振り、千獣への手当てを促す。…千獣はそれをやんわりと断りながら、首を押さえた。…いやなぬめりけが服を伝っている。

「…お久しぶりですわね」

「いい加減、貴様の顔は見たくも無いがな」

軍人とにこやかに会話をする婦人はあっという間に、拘束具をはめられ身動きの出来ない状態へとされた。それでも、婦人は笑っている。

「本当に、手当ては良いのかね?」

千獣は…大丈夫、と、声を出そうとしたが、掠れて上手く出せなかったので、こくんと小さく頷くだけに留まった。大勢の人間が、婦人を取り囲み警戒している。婦人は何とも言わず、ただ静かにしているだけだ。…先日捕まった時もそうだったためか、ひたすら人間たちは緊迫している。

「行くぞ、覚悟は出来ているだろうな」

「…ええ。…其の前に、お嬢さん」

お嬢さん、と言う言葉に相応しいのはただ一人。

千獣は瞳を瞬かせて婦人を見た。
婦人はふわりと笑って

「あなたのお名前は?」

と、訊ねた。千獣は、こんこんと何度か咳をしてから

「千…獣」

「…そう」

そこまで、会話が進んだところで、兵士達の罵声が婦人へと浴びせかけられた。ぐいと、拘束された手首を引っ張られ、少し婦人の体勢が揺れる。それでも、彼女は千獣のほうへと顔を向けたままで、何かを言って…にこりと笑う。千獣は、またも瞬きをしてしまった。そのまま、婦人は多くの兵士達に連行されて行く。一人の軍人は千獣へと近寄り、耳を彼女へと寄せた。

「…何を言ったのだ?」

「………またね、って…言って……、―――に」

掠れた声で、千獣は兎へと告げれば、ふらりと風のように森の闇へと姿を溶かす。残された軍人は、暫くぽかんとしていたが…その意味を知るのは其の直ぐ後の事。千獣は誰も知り得なかった、彼女の名前を得ていた。


『私の名前は、―――よ』

囁いた言葉は、風に乗ってどこかへと静かに消え去り、残ったのは木々のざわめきだけだ。




後日、号外が町中に配られた。
大量殺人犯が遂に公開処刑に処せられた事。
遺族たちが、処刑場で涙を流した事。
見出しはこうだった。

【大量殺人犯、絞首刑に絶つ】





今宵は森に気持ちの良い風が吹いた。どこぞで咲いているのだろう、金木犀の香りが風を甘くする。甘い風に吹かれ、枝にしな垂れかかる一人の少女はすうすうと、安らかな寝息を立てていた。