<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


母の尽力、娘の努力

 涙が出るのは痛いからではない。恥かしいのでもない。芯から負けず嫌いのジュディ・マクドガルにとってその罰は悔しすぎるのだった。
 粗相を見逃す母、クレア・マクドガルではなかった。親しい友人を招いての茶会でクレアは試みとして、ジュディに主人の役割一切を任せてみたのだが、そこで娘はささやかな粗相を犯した。
途中までは完璧だった。初秋に入った季節の昼下がり、激しく照りつける陽射しは去ったので茶会のテーブルを外へ持ち出したのは悪くなかった。選んだ茶葉も、ケーキも、客の好みと時期とにふさわしかった。勿論テーブルマナーも。数ヶ月前のじゃじゃ馬を思えば雲泥の差であった。
しかしまずかったのは茶会が終わりかけて、メイドが客のカップを引き始めたときである。ジュディはなにを思ったか、自分のカップを下げに来たのが心安い同じ年のメイドであったことが災いしたのか。
「これ、お願いしますわ」
気取った口調で自らカップを取り上げ、メイドの奉げているトレイに載せようとした。ほんのわずかではあるが受け皿の中でカップが傾き、銀のスプーンが音を立てて跳ね落ちた。真っ白いテーブルクロスの上にスプーンからこぼれた紅茶が一滴、染みを作った。
「ジュディ」
今まで沈黙していたクレアが口紅に縁取られた美しい形の唇をはじめて開いた。二言目に飛び出した言葉とは。
「お尻を出しなさい」
和やかであった茶会の雰囲気が一変、沈黙する。招かれた客たちは皆マクドガル家の躾の厳しさを知っていたから、無粋なことをと止めに入ることもできなかった。
「一、ニ、三……」
重そうなドレスをまくりあげ下着を下ろしたジュディを膝にのせ、クレアの手の平が容赦なく小さなお尻へ罰を下す。五十の声が聞こえるまで気遣いのつもりだろうか、庭の花に目を逸らしている客もいたがジュディにはそれすら屈辱であった。客人の前で、視線を逸らさなければならないようなことをしてしまった自分に悔し涙がこぼれた。
「二十五、二十六」
罰はまだ半分。一度叩かれるだけでも悲鳴が出てしまいそうなくらい痛いのに、クレアの手は二度、三度と寸分違わぬ場所を打つのだった。手形の形で綺麗に腫れ上がる。
 大体、ジュディは余計なことをやりすぎる。本人は気遣いのつもりだろうが、それがうまくいった試しはないのだ。クレアから繰り返し口をすっぱくされているのに、未だ身につかない。これはもう、努力の問題とは違っている。
「四十九、五十」
仕上げだとばかりにお尻をぎゅっとつねられる。丁寧に磨き上げられた爪が刺さり、痛くて喉元まで悲鳴が競りあがったがジュディはぐっと飲み込んだ。
「いつになったら懲りるのです」
ジュディの顔がさっと赤くなった。受けた罰が辛かったのではない。クレアの口調に諦めが混じっており、見放された心地がしたのである。
 母に会わす顔がなく、ドレスの裾を掴み上げてその場を駆け去ろうとするジュディ、だがクレアは許さなかった。
「立っていなさい」
一体どこまで母は残酷なのか。逃げ出すことも、許してはくれないのだった。茶会の残った時間を地獄のように感じながら、ジュディは項垂れていた。

 どんなに母が力を尽くしてくれようとも自分には効果がないのだ、と思うとジュディは絶望する。自分の努力が無駄になっていることよりも、クレアの尽力を犠牲にしていることのほうが胸に辛かった。
 だが逆に言えば自分よりも他人を気遣えるほどに、いつの間にかジュディは成長していたのだが、自分自身では気づいていなかった。
「お母さま」
夜中、ジュディは罰ではなく母親の部屋の前に立ち尽くしていた。室内のクレアは気配に気づいていたが、黙ってランプに照らされた羊皮紙の手紙を目で追いかけていた。
 手紙は茶会の客人が残したものだった。椅子の上に載っていたとメイドが持ってきた、封筒の宛名はクレアになってはいたけれども中を読んでみるとジュディへ宛てた手紙だと知れた。
「お嬢さん」
そんな書き出しの手紙を送られる時期はとうに過ぎていた。
 金の縁の眼鏡をかけて、クレアは手紙を二度三度と読み返した。何度繰り返しても飽きない簡潔な、それでいて愛情のこもった文章であった。これほどの文章を書ける人間をクレアは一人しか知らない、いや二人だろうか。
「あなた」
便りのない夫をクレアは思った。旅立つ前、まるきり子供であったジュディしか知らないあの人が今戻ってきたらどんな顔をするだろう。一緒に紅茶を飲もうと誘ってみても、照れくさがるのではないだろうか。
 手紙を開いたままテーブルの上に置く。封筒だけ取り上げて、小箪笥の引出しに仕舞う。届いた手紙はすべてその中だ。半分ほどは形式的な社交場への招待状であったが残りの半分は友人からの大切な手紙であり、また夫からの近況報告でもあり。
早く帰っていらっしゃいとクレアは手紙に呟いた。早くしなくては少女が大人に育つ可憐な時期を見逃してしまう。蛹は蝶になってしまうと、二度と幼虫であった頃には戻れないのだから。

「ジュディ」
翌朝、朝食の席でクレアは昨日の罰の続きをジュディへ与えた。といってもそのショートパンツを下ろしなさいとは言わない。
「食事が終わったら私の部屋を掃除しなさい」
ちょうどそのときジュディはパンを千切り小さなかけらを膝の上に落としたところであったが、掃除という言葉を聞いて床に払い落とそうとしたそのパンくずをつまみあげ皿の上へと戻した。
「はい、お母さま」
こういうときのジュディには淑女の慎ましさと少女の朗らかさが同居する。すなわち罰を素直に受け容れようという覚悟と、常に整理整頓が行き届いている母の部屋なら掃除も簡単だという目論見と。
「わかりましたね」
「は、はい!」
念を押されたのは多分、心根を見透かされたのだろう。首をすくめてジュディは、姿勢が悪いとクレアから厳しい鞭が飛んだが、慌てて残りの朝食を口へと運んだ。
 クレアの部屋には全面厚い絨毯が敷き詰められているので拭き掃除の必要はない。はたきと布巾だけ持ってジュディは母の部屋に入った。レースのカーテン越しに差し込む朝日の眩しさに目を細める。眩しいくらいに整然とした部屋である。
「どこを掃除しろっていうんだろ、ほんと」
思わず普段の口調がついて出る。極力控えるようになった言葉遣いであったが、今でも油断すると元に戻ってしまう。
「とりあえず置物の埃を払って…」
掃除の手順も一通り教わっている。が、それすら許さない母の部屋の几帳面さ。うっかり手を出すとかえって汚してしまいそうにさえ感じる。
「うーん…」
迷ったジュディは室内の様子に目を走らせた。手を出すところがまるきりないでは困る。せめて一ヶ所でも、掃除の前と後とで変わっている場所が欲しい。
「ん?」
そしてジュディはテーブルの上の手紙を見つける。無造作に放置された一枚の羊皮紙に、好奇心の疼かないほうがどうかしている。いけないとは思いつつもついつい、目がそこに落ちる。

お嬢さん。
あなたは走ることがお好きなのですね。
少し立ち止まってごらんなさい。
あなたが同じ場所と思って走っている世界が、どれほど変化したか気づくでしょう。
耳を澄ましてごらんなさい。
あなたをレディと呼ぶ私の声が聞こえるはずです。
振り返ってごらんなさい。
あなたを見守っている人がいるはずです。

「……」
差出人の名前はなかった。ジュディは振り返ってみた。クレアがそこに立っていた。
「お母さま、これ…」
「昨日いらっしゃった方にいただいたお手紙です」
あなたのものですよ、とクレア。そう、この手紙のすべての言葉はジュディに奉げられていた。誰からかはわからないけれど、母の字ではない。
「嘘ではなくて?」
「私の友人に嘘をつく方などおりません」
ぴしゃりとクレアは否定した。だがそれはジュディにとってなにより嬉しい否定でもあった。この手紙の言葉はジュディをレディと呼んだ、真実なのだ。
 手紙を抱きしめて、ジュディは深く息を吸い込む。インクの匂いが肌から染み込んでくる、言葉までもが溶け合う気になる。ほころぶような笑みが、自ずと浮かぶ。
「お母さま、お母さま。私」
喉から湧き上がってくる言葉が止められない。
「もっと頑張るわ。今日からもっと、明日も、明後日も」
「レディは思ったことを軽々しく口に出すものではありません」
冷静にたしなめつつ、たしなめながらもクレアはジュディをぎゅっと抱きしめる。
「頑張りなさい」
「…お母さまだって」
自分の思ったことを口に出しているわとジュディは笑った。残念ながら柔らかな胸に顔を埋めていたせいで、母の微笑む顔は見えなかった。