<東京怪談ノベル(シングル)>


そこは安息の場所、何故か不思議な傍らの

 そこは不思議な世界。音があるのに静まり返り、静かなのににぎやかな。
 精霊の森とはそんな場所だ。
 ここに足を踏み入れるたびに、エル・クロークは森の木々を見上げて目を細める。
 ――彼女はどうして、この森に来たのだろう。

 森の中に唯一ある小屋までやってきたのがクロークだと知ると、いつも小屋の端のベッドの上でくるまっているという少女は喜んでベッドから降り立った。
 そしてこちらまで駆けて来る彼女を両手を広げて抱きとめて、クロークは言う。
「ねぇ、セレネー嬢。良かったら街に行かないかい?」
「まち?」
 ぬけるように白い肌、白い髪に赤いつぶらな瞳の、兎のような少女は目をぱちぱちさせてクロークを見上げる。
「この間行かなかった場所や、見ることの出来なかったものを案内するよ」
 クロークは黒い帽子をかぶりなおしながら微笑みかけた。
「まち……」
 少女――セレネーと名づけられた記憶喪失の少女は、外見こそ十代半ばだが、その知能はひどく遅れている。
 その代わりに、神秘的なことを起こすこともあったが。
「もしどこか行きたい場所や見たいものがあるのなら、それでもいい」
 セレネーの柔らかな髪を手で梳いてやりながら、クロークはかがんで背の低いセレネーに視線を合わせた。
「それでね、思ったことや、感じたことを聞かせて欲しいんだ」
 にっこり笑って。
 セレネーもつられたようににっこり笑って、
「まち、行く……よ?」
 と言った。

 セレネーの目下の保護者に許可を得て、2人はエルザード城下町へとやってきた。
 隣国との戦争問題も抱えているとは言え、当面は平和を保っているエルザード。そのせいか、空気がのんびりしている。
 セレネーはぎゅっとクロークの服をつかんだままくっついて離れないので、クロークはその状態で街を案内した。
 ――行っていなかったと言えば、まずエルザード城。
 ここはやけに一般人に優しく気軽に王にまで会うことができる。
 きらびやかな王城の飾りが目新しいのか、セレネーはしきりにきょろきょろした。
「セレネー、あれはシャンデリア。照明器具なんだよ」
「しょうめいきぐ……?」
「灯りを灯すための道具。分かるかい?」
「ろーそく……?」
 小首をかしげるセレネーに、クロークはあの森の小屋を思い出した。
 ……そう言えば暖炉の火以外には、燭台しかなかった気がする。
「うん、そうだね。ろうそくを……置く場所、かな」
 なんかちょっと違うなあと自分で思いながらも、クロークはそう説明した。
「あれは? あれは? きれい」
 とセレネーが腕を引っ張ってくる。
 何かとそちらを見やれば、そこは陽射しを通せばとても美しく輝く場所だった。
「ああ、あれはね……ステンドグラスって言うんだよ。綺麗な柄だね。天使様をかたどっているのかな」
「すてんどぐらす……? てんしさま?」
「色のついたガラスをはめこんであるんだよ。天使様は……うん、天からの遣いかな」
「てんしさま……。会える……?」
 クロークは苦笑した。
「……ひょっとしたら、ね」

 謁見の間を見学させてもらった。あいにく王はいなかったが、きらびやかな玉座があった。
「きれいな椅子さん……」
「あ、セレネー嬢、触ってはいけないよ」
「うん」
 セレネーは玉座の前で、ぺたんと座り込んだ。
「ねえ椅子さん。椅子さんはなんで椅子さんなの……?」
 何だか哲学めいたことを言っている。
「椅子さんは……椅子として作られたからだよ」
 クロークは言う。
 セレネーは振り返り、
「でも。椅子さんも生きてるよ……?」
「―――」
「だって暖炉さんも焚き火さんも風さんもお水さんも岩さんも森さんも生きてるよ?」
 ああ――
 あの精霊の森にいると、こうなるんだ。
 万物に、生を見出してしまうんだ。
 かく言う自分だって、時計の精霊なんだと彼女に告げたのだから。
 クロークは微笑んで、
「椅子さんが、皆に座ってもらうことを喜んでいたらいいね」
 セレネーはにっこりして、
「うん」
 とうなずいた。

 王城を少し西に行ったところに、王女の別荘がある。
 そこは王城ほどきらびやかではなくて、広いながらもしおらしいたたずまいだった。
 王女のメイドと少し話した。
 セレネーはメイドとの会話にはぼんやりとした反応しか返さなくて、ああ自分はなつかれたんだなと自覚する。
 なつかれた?
 何でだろう。
 ――精霊だから?
(そうかもしれないな)
 メイドとの会話をひとしきり終わらせて、クロークはメイドに礼を言い、セレネーの手を引いた。

 王女の別荘を出たとたん、ばさばさばさっと近くの木々から飛び立った鳥がいた。
「今の……鳥、さん……?」
「ああ、そうだね。ええと……カケスかな」
 珍しい鳥だ、とクロークは目を細める。
「きれいな色だった……」
 セレネーは見逃さなかったらしい、色鮮やかな羽毛を持つカケスをそう評した。

 歩いていけばやがて天使の広場に出る。
 セレネーはぼんやりと広場の様子を見ている。噴水。こんな時間に遊んでいる子供たち。ボール。空を飛ぶ鳥。変わらない青空。通り過ぎていく白い雲。
 その赤い瞳に、何を見ているのだろう。
 クロークは知りたくて仕方がなかった。
「ねえセレネー嬢。何を見ているの?」
「……いっぱい」
「何が好き?」
「……みんな好き……」
 セレネーにとって、『好き』とは何だろう。
 そもそも人は、『好き』という感情をどこから得るのだろう。
(精霊の僕が考えるのも変な話だけども)
「はい、セレネー嬢」
 クロークはスケッチブックを取り出した。
 きょとんとするセレネーに、
「これは絵を描くスケッチブック……絵を描いたことはある?」
 こくんとうなずくセレネーに、それじゃあ、とクロークはスケッチブックと色鉛筆を渡した。
「好きなものを描いていいよ。――あ、あそこの椅子が空いたね。座ろうか」
 広場の椅子に腰かけ、
「良かったらあげるよ。それに自分の好きなものを描き溜めていけばいい」
 クロークは優しく言った。
「全てのページが埋まる頃にはきっと、それは世界に一つだけの、素晴らしいものになっているだろう」
「ひとつだけの……」
「そう、セレネー嬢の心がいっぱいつまった素敵なもの」
「………」
 セレネーはそっと、色鉛筆を手に取った。
 緑。
 彼女はまず何を描くのだろう――と思ったら、すぐに分かった。
 森だ。
 一番に来るのも当然だろうと思ったが、それにしても。
「……セレネー嬢、絵が上手だね」
 心底感心した。
 心はまだ子供なのに、絵が風景画師に負けぬほどうまい。繊細な手が、こんなに美しい緑を描き分けるのか。
 静かで美しい森の絵を描き終え、1枚スケッチブックをめくった少女。
 次に描いたのは泉。――精霊の森にある泉だ。以前クロークも共に水をかけあって遊んだ。
 そして、そして、そして、
 ――森のものを一通り描いた後、ふいにセレネーは常に動いていた色鉛筆を持つ手を止めた。
 何かを考えるかのように虚空を見る。そのぼんやりとした赤い瞳がやがて焦点を合わせて、
 噴水を描き始めた。
 目の前にある、天使の広場の噴水――
 しかも周りで遊んでいる子供たちまで。
 天使の広場周りの民家や商店、木々や花。細部に渡るまで。
 クロークは驚いた。下書きもなしに、ものすごい速さで色鉛筆を取替えながら絵は完成していく。
 やがてセレネーは、ことんと色鉛筆を置き、絵をクロークに見せた。不安そうに。
「……できた……?」
「―――」
 “セレネー嬢が出来上がりと思ったら、それでいいんだよ”と。
 彼女が何を描こうとも、絵が描きかけでもそう言うつもりだったクロークの言葉は、完全に封じられていた。
 死んだ絵ではない。
 この絵は生きている。今にも噴水が水を流しそうだし、子供たちも走りだしそうだった。民家から人が出てきそうだったし、商店の人を呼び込む声が聞こえてきそうだった。
 こんな見事な絵を見せられて、何が言える?
「セ……レネー嬢……」
「だめ……?」
 白い髪が寂しそうに揺れる。
 クロークは何とか首を横に振った。湧き上がってくる何かをうまく表現できず、つっかえながら、
「……素晴らしいよ。セレネー嬢が……どれだけこの広場を好きになったかが……分かる」
 セレネーはにこっと笑った。
 そして1枚めくり、またさっさっと描き始めた。今度は――
 クロークはまたもや仰天する。それは今いる広場でさえない。多分セレネー自身一回しか行っていないはずの、そこは。
「黒山羊亭……?」
 そこは。
 クロークが初めて、セレネーと出会った場所。
 冒険者たちの、息抜きに来た街人の喧騒が聞こえてきそうな絵。
 ――あの時セレネーはまだ、ほとんどしゃべらない上に虚空を見ているばかりの少女だったはずなのに。
 覚えて、いたのだ。
 あの酒場の光景を。
「クロークと会った。ここ」
 セレネーが笑んだ。クロークははっと口元を押さえた。それさえも彼女は覚えている。
「たいせつな、ばしょ」
 描き終わった黒山羊亭の風景画を撫でるように指を走らせて。
「クローク、いる?」
 セレネーは言ってきた。
「あ……い、いや」
 クロークは慌てた。「その、スケッチブックは、セレネー嬢にあげた物、だから」
「………」
 セレネーはきょとんとして、クロークを見つめてくる。
 クロークはこほんと咳払いをして、気を取り直した。
「もっと描いていいからね。好きなこと、好きなもの……」
「ん」
 セレネーは1枚めくった。白いページが現れる。
 今度は何が描きだされるのか。
 緊張したクロークの前で、それは展開されていった。
 シャンデリア、天使をかたどったステンドグラス、玉座。
 きらびやかなそれらが、まるで本物のごとく再現された。
「しゃんでりあ、すてんどぐらす、てんしさま、椅子さん」
 自分で描いたものをひとつひとつ指差してセレネーはその名前を言う。
「……合ってる?」
 クロークに訊いてくる。
「もちろん……合っているよ」
 もはやクロークに言葉はない。
 にこっと笑ったセレネーは、また1枚めくるとさらさらとぼかすような線で何かを描いた。
「これ、飛び立つところ……」
 もう完全に脱帽せざるを得なかった。
 それはカケスが、まさしく木々の間から飛び立った瞬間。
 そう、その『瞬間』の木々のしなり、ブレ、翼の動きさえも再現された絵だったのだ。
「……あなたは、本当に」
 クロークは帽子を目深に被って、苦笑した。
「……クローク?」
 心配そうな声が聞こえる。慌てて顔を上げる。
 ――天才だと、一言で済ませたくなかった。
 その言葉はこの少女には似会わない気がして。

 セレネーはそこで一息ついた。
 描くものがなくなったのかな、とクロークは思った。
 気づくと時間がお昼ご飯の時間帯だったので、
「何か食べに行こうか」
 と彼女を誘ってみた。
 しかしセレネーは動かず。
 スケッチブックを1枚めくり、新しいページへ。
 ――今度は何だろうと思ったクロークは、セレネーが赤い色鉛筆を真っ先に取ったのを見てはっとした。
 今までとは違う。ゆっくりと、ゆっくりと。
 赤一色で描き出された絵は、ひどくぼやけていた。
「ふしちょう、さん……」
 つぶやいて、じっと自分が描いた絵を見下ろし――
 その赤い瞳に、じわっと涙があふれる。
 ――ああ、あなたはどうして。
 不死鳥を見ると泣くのだろう。
 クロークがハンカチを取り出し、涙を拭ってやる。
 セレネーはすんと鼻をすすった。
「……食べに行こうか」
 もう一度小さな声で言う。
 こくんと、少女はうなずいた。

 食事は店に入るのではなく食べ歩き。
 セレネーの運動音痴は深刻で、食べ物を持ったまま人々にぶつかりそうだったので、クロークは壁の役割を果たした。
 あまった分は、天使の広場の椅子まで持ってきてぱくぱくと。
 ウインナーやお好み焼きや。ジャンクフードやジュースや。
 セレネーはその細い体に似合わず大食いだ。1人前食べてもまだ足りなさそうだったので、
「もう少し買ってくるからね」
 クロークは1人立ち上がった。ここで待っていて――とセレネーに動かないようしっかり注意してから、彼は屋台街に戻った。
 そして、やきそばを持って帰って来た時――
 セレネーは足を揺らしながら、またスケッチブックに何かを描いていた。
 今度は料理の絵かな。そう思い笑いながら、
「ほら。これもセレネー嬢の好きなものの内に入っちゃうかな?」
 からかいつつセレネーの前にやきそばを出した。
 セレネーは嬉しそうに受け取った。その時、スケッチブックが少女の膝から滑り落ちそうになった。
 慌てて、クロークは受け止めて――
「あ……」
 セレネーがクロークからスケッチブックを奪うようにとった。
「だ……め。これ……まだ完成、してない……」
 クロークは呆然としていた。
 セレネーは描きかけの絵を隠し、やきそばを食べ始める。
「……セレネー嬢、それは……何を描こうとして……いたの」
「んー? んー」
 少女は小首をかしげ、
「分かんない……」
 と肩を縮めた。
「………」
 クロークは無言で、セレネーの隣に座る。
 やがてやきそばを食べ終わったセレネーが、スケッチブックを膝に置き直し、色鉛筆を走らせ始めた。
 使っている色は――主に黄色か。しかし白も混ぜて光沢が出ている。黒い部分もある。影の部分も。
 細かい細工部分もある。
 最後に鎖を描いて。
「完成……」
 セレネーはそういうと、迷わずそのページを破った。
「はい、クローク……」
 無邪気にその絵を差し出してくる。
「何故……僕に」
「うん。……クロークを見てたら、思い浮かんだ絵、だから……」
 クロークはそれを受け取り、眺める。

 そこに描かれていたのは懐中時計。
 ――精霊であるクロークの、本来の姿。まるで見たかのように、そのまま。

 何故だろう。
 何故この少女は。
 胸の奥が熱くなる。不思議で不思議でたまらない。
 いや――不思議を通り越して。

 何もかも見通しているのか?
 もしそうでも……
 クロークは顔を上げた。つぶらな赤い瞳がそこにある。穢れのない瞳が。
 ――彼女になら、いいか。
 クロークは悠然と生きているようでいて、隠し事も多い。例えばフルネームを名乗れない。
 うかつに言ってしまわないよう、実は気を張っていたりもするのだけれど。
 何故だろう。
 セレネーの傍はとても……居心地がいい。
 このまま彼女の肩にもたれて、眠ってしまいたいと思った。
 時計としての役目も全部忘れて……

「クローク、これ……なあに?」
 自分で描いた絵を指して、セレネーは問う。
「時計だよ……セレネー嬢」
「とけい? でも今まで見たのと違う」
「懐中時計って言ってね。懐に入れておくんだよ」
 セレネーはきょとんとしていた。
「この絵、僕にくれるのかい?」
「うん」
「……ありがとう。大切にするよ」
 そう言った。
 誓いにも近かった。

 お礼を渡したくて、路地裏の自分の店に連れて行った。
 クロークは調香師だ。色んな香りを生み出せる。
「セレネー嬢には……まずこれかな。シトラス」
「わあ……っ」
 小さな香水瓶に入った香水に、セレネーはくすぐったそうに笑った。

 あの絵は額に入れて飾っておこう。
 そう考えていたら、ふとセレネーが言った。
「てんしさま、会えるかな。てんしさま、こんないい匂いするのかな」
「ひょっとしたら、ね」
 クロークは微笑んだ。

 ひょっとしたら。
 あなた自身が天使かもしれないし、ね。


 <了>