<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


王家の封印 〜 flame blazes 〜



 昔々あるところに、民からの信頼が厚い王家がありました。
 王様は思慮深く民思いで、お妃様は慈悲深く、お姫様は目を見張るほどに美しく、2人の王子様は剣の腕が一流でした。
 貧しい者には食べ物を与え、困っている人がいれば話を聞き、国の発展に努めていました。
 争いを好まない王様は他国との仲も良好で、王国は繁栄の一途を辿っておりました。
 しかし、その繁栄を快く思わない人がいました。
 隣国の王様は、栄え行く王国に嫉妬の念を抱いていました。
 争い好きで贅沢好き、民から絞れるだけ税をとる王様は信頼も低く、戦争のたびに負け、国の財政は貧窮していました。
 ある日隣国の王様は1人の魔術師を呼ぶと、王家を滅亡させる手はないかと尋ねました。
 魔術師は暫し考えた後で、ある魔術をかければ王家のみならず、王国も滅びましょうと言いました。
 その魔術はお妃様、お姫様、2人の王子様を東西南北それぞれの塔に封じ、城の真ん中にある広間に王様を封じると言うものでした。
 5つの封印の力で悪しき者が目覚め、王国は死者の国になりましょう。魔術師のその言葉に、隣国の王様はすぐにその魔術をかけるようにと命令しました。
 まずは四方の塔にお妃様、お姫様、2人の王子様を封じ、広間に王様を封じました。
 すると何処からともなく不気味な声が聞こえ、王国中の墓から死者が蘇りました。
 死者は生者を喰らい、仲間にし、ついに王国は滅びてしまいました。



 エスメラルダはどこまでも深く見える闇色の瞳を細めながら、後頭部で1つに結んだ長い茶色の髪を背に払った。人が疎らな黒山羊亭の中、喋り続けていた彼女はいささか疲れたのか、小さく溜息をつくと琥珀色の液体の入ったグラスを傾けた。
「噂では、お城は今や荒れ放題、骸骨と化した死者が闊歩し、人の生き血を吸う吸血虫が生息しているらしいわ」
 死者は倒しても倒しても蘇り、たとえ散り散りに破壊しようとも無駄なのだと言う。
 吸血虫は城のいたるところに卵を産み、生者の体温や音に反応して孵化し、ある一定の時間がたつと巨大な蛾になって生者を襲うのだと言う。
「吸血虫は孵化する前に卵を壊せば良いのだけれど‥‥結局、巣を壊さないと次から次へ産まれてしまうわ」
 エスメラルダの細く整った眉が顰められ、むき出しの腕に鳥肌が立つ。自分で言っていて、その光景を想像してしまったのだろう。
「死者を倒すためには、東西南北各塔にある封印球を壊して、最後に広間にある封印球を壊せば良いのだけれど、封印球は硬いし、封印球を守る者がいるの」
 北の塔には動きは遅いながらも力が強い1人の王子
 南の塔には力は弱いながらも動きの早い1人の姫
 東の塔には素早くそして力も強い1人の王子
 西の塔には素早く狡猾な1人の妃
 広間には王がいるが、4つの封印球を全て壊してここを訪れた者はまだおらず、力の程は不明
「封印球を守っている者は、封印球が壊れれば消えるわ。最後は広間の封印球を壊せば良いのだけれど‥‥」
 エスメラルダが困ったように言葉を濁し、薄く口紅をひいた唇を噛む。
「各塔に散っていた死者は広間に集まるでしょうし、王だって手強いはず。死者と吸血虫、王の攻撃をかわしながら封印球を壊すとなると、かなりキツイ戦いになると思うわ」
 上目遣いでこちらをチラリと見ては、手元のグラスに視線を落とす。再びチラリとこちらを見ては、潤んだ瞳を懇願するように細め、またグラスに落とす。
「‥‥とても危険が伴うけれど、その分報酬は良いわ。どうかしら、引き受けてもらえないかな?」



* * * flame blazes * * *



 窓から差し込む光が黒山羊亭の中に斜めに差し込み、誰かが動くたびに小さな埃が舞い上がり、キラキラと幻想的に輝く。夜にはお酒と踊り、歌に酔いしれるこの場所は現在、重苦しい沈黙に支配されていた。
 この場にいる者は皆、美味しい食事を求めて、または一時の仄かな酔いを求めて、あるいはほんの少しの予感を胸に、昨晩ベルファ通りにあるここ、黒山羊亭へと足を運んで来た。



 店内には低くクラシックがかかり、そこかしこで楽しげな、それでいて十分に押さえた声量の話し声が花開いていた。舞台の上に踊り子の姿はなく、本来そこで人々を魅了する踊りを舞っていなければならないはずのエスメラルダはカウンターの奥でボンヤリとした顔でカクテルを作っていた。
 深く思い詰めているような横顔は寂しげで、虎王丸はなるべく音を立てないようにそっと彼女の前に腰を下ろした。
「あぁ、虎王丸君‥‥‥」
「おう、久しぶりだな!何か考え事か?」
「えぇ、ちょっとね‥‥‥」
「何か依頼が入ってないかと思ってな‥‥‥」
「良いタイミングね。丁度依頼が入っているんだけれど‥‥‥その前に、何か食べない?」
 コクリと頷いた事を確認し、私が勝手に決めて良い?ときくエスメラルダに再び頷く。
 直ぐに用意できるからと言われ、虎王丸は椅子に深く腰掛けた。
 エスメラルダが手早くコーヒーを出し、虎王丸の前に置く。黒い液体はゆらりと波打っており、照明がかなり落とされたこの場所で見ると、全く別の飲み物のようにさえ見えた。
 店内にかかっているクラシックは物悲しく今にも壊れそうな旋律で、美しく儚気だ。
 一度どこかで―――多分、天使の広場で―――聞いた事があった気がしたが、なんと言う曲名なのかは知らなかった。
 目を閉じ、曲に集中する。微かな雑音を排除し、揺れる旋律のみに意識を集中させる。
 ―――なんて曲だ‥‥‥?
「お待たせ。‥‥‥どうしたの?何か考え事?」
 エスメラルダの凛と耳障りの良い声に目を開ける。目の前には熱々のオムレツとハーブの入ったパンが置かれている。オムレツの上にはホワイトソースがたっぷりかけられており、彩りに緑色の葉っぱが乗せられている。
「あぁ。つっても、考えたからって分かるわけじゃねぇんだけどな‥‥‥」
 スプーンを手に取り、元気良くいただきますと声をかけてからオムレツを崩しにかかる。
 トロリと半熟の卵とホワイトソースが絡み合い、食欲を誘う良い香りが鼻腔をくすぐる。虎王丸は熱々のそれを口の中に入れると、あまりの熱さに慌てた。ヒリヒリと痺れる舌の上で冷ましてから咀嚼する。
「どうかしら?」
「美味い!」
 素直な感想を述べる虎王丸。するすると食道を通り、胃に落ちていくオムレツは、冷え切った彼の身体を中から温めてくれる。
 オムレツとパンに舌鼓を打っているうちに、いつの間にか店内にかかっている曲は明るいものに変り、ふと気づけば黒山羊亭の中は人が疎らになっていた。
「そう言えばさっき、考え事をしているって言っていたけれど、どんな事を考えていたの?」
「‥‥‥なんて曲だったかなと思ってな」
「何て曲だったか‥‥?」
 エスメラルダの細い眉が顰められる。主語が抜け落ちた虎王丸の言葉は、彼女を当惑させた。
「ほら、さっきかかってた‥‥‥」
「あぁ、あれは“高き南の空に住まいし麗しき姫のための鎮魂歌”って歌よ」
「高き南の空に住まいし麗しき姫のための鎮魂歌、か‥‥‥」
 既にオムライスは食べ終わり、ハーブ入りのパンをお皿に残ったソースにつけて食べる。
「歌いだしはね♪栄える王国 美しき姫 王は賢く 民を愛し」
 透き通ったエスメラルダの歌声が、優しく空気を揺るがす。
「♪妃は慈悲深く 王子は強い 栄える王国 今どこに」
 ――― やっぱ、どっかで聞いた事があるな‥‥‥
 確かあれは、暖かい日だった。爽やかな風―――そう、風の匂いは甘かった。
 ‥‥‥春‥‥‥?
「♪姫を呪いし 憎き魔道師 美しき姫 その御心は 今どこに」
 エスメラルダの美しい歌声に、黒山羊亭にまだ残っていた数人のお客がこちらを振り向く。
「‥‥‥ねぇ、凪君。こんな話を聞いた事はないかしら?」
 唐突に歌う事をやめたエスメラルダは、虎王丸の前に腰を下ろすと、長い昔話を語って聞かせた。スラスラと紡がれるそれは、彼女がその話を今日初めてしたものではないと言う事を如実に語っていた。
 ―――きっと、俺が来る前にもこうやって誰かに話してきかせたんだろうな‥‥。
「丁度依頼が入ってるって、このことだったのか?」
「えぇ、そうよ。でもね、断ってくれても構わないの」
 話に聞くだけでも難しそうな依頼だ。無傷では帰って来れないだろう。
 エスメラルダが捨てられた子犬のような瞳で虎王丸を見つめ―――
「良いぜ。凪と一緒に受けるぜ、その依頼」
 あっさりとした返答に、エスメラルダの美しい顔に陰りが見える。
「受けてくれるのは嬉しいんだけれど‥‥‥とても危険な依頼よ」
「今さらだろ‥‥‥」
「そうだけれど‥‥‥一晩‥‥‥一晩よく考えて、やっぱり受けてくれるって言うのなら、明日の昼にここに来て?」
「分かった」
 エスメラルダはふわりと柔らかく微笑むと、空になった虎王丸のカップに熱々のコーヒーを注いだ。
「今日のお代はいらないわ」
「‥‥‥え‥‥?」
「今日はね、気分が良いの。だから‥‥幸せのおすそ分け」
 にっこりと華やかな笑みを浮かべるエスメラルダは、艶っぽい蛍光灯の光りに照らされて、思わず目を奪われるほどに美しかった。
 明るく弾むような曲がかかり、エスメラルダが小さな声で歌を歌い始める。
 それは、どこかの国のお姫様の美しさや無垢さを賛美したもので、細く神経質そうな旋律は今にも壊れてしまいそうだった。

 ―――そう‥‥‥繊細な美しさは、あっけなく崩れてしまう、壊れやすいモノ。
 繊細な美しさはまるで‥‥‥幸せのよう‥‥‥ほんの少しのコトで狂わされてしまう、壊れやすいモノ―――。

 虎王丸はエスメラルダの歌声を聴きながら、悲しい王国の話に思いを馳せていた‥‥‥。



「お話を伺った限り、決して赦されることではありませんっ!一刻も早く封印から王国を解放して、その封印を施したという隣国の王と魔術師に裁きの鉄槌を行わなければっ!」
 メイの力強い声に、虎王丸は顔を上げた。昨晩の記憶を回想していた彼の前に、いつの間に出されたのか温かなコーヒーが置かれていた。膝の上で握り締めたまま固まっていた手を解き、真っ白なカップの側面を掴むと口元に運ぶ。
「第一、死者を玩ぶ所業も赦せることではありません。安楽の死を乱して、生者の営みを壊すなど、言語道断です!」
 雪のように白い肌が火照り、ピンク色に染まる。普段ならば伏せ目がちに控えめな輝きを発する紫銀の瞳は、今は力強い光を纏っている。怒りのためにか、肩が小刻みに震え、膝の上で握り締めた手には血管が浮かび上がっている。
「死者を還す事も我が使命のひとつ。ぜひ参加したいと思います」
 きっぱりと言い放った口調は、メイの決心の強さを如実に語っていた。
「炎帝白虎には自然の秩序を守る使命がある。俺も参加するぜ」
 ニヤリと笑いながら、名乗りを上げる。隣で黙り込んだままの凪を肘でつつき、お前もだろ?と視線だけで問いかける。
「俺には‥‥上の立場に立つ者が王国を滅ぼそうと考える事が理解できない。民なくして、王族の繁栄はありえないのだから」
「利口な王はそこに気づくだろうな。でもよ、この広い世界、民を顧みない王だっている。そんな暴君はいつだって自己中心的、目先の事しか考えられねぇんだよ」
 皮肉気な口調でそう言うと、リルド・ラーケンはともすれば冷たく見える青色の目を細めた。透き通った白い肌に整った顔立ち、美青年と言う部類に入れてもおかしくない容姿をしているリルドだったが、全身から発せられる鋭い雰囲気はそれを拒むかのようだった。
「確かに、そう言う王もいるわね。悲しいことだわ‥‥」
 エスメラルダがしみじみと呟き、琥珀色の液体の入ったグラスを傾ける。
「全員で1つ1つ塔を当たるよりも、2手に分かれた方が効率が良いと思うの。7人で動くとなると大変だし、4つも回っていたら夜になってしまうわ。塔からはお城に通じる通路もあるし‥‥どうかしら?」
「そうですね、それが良いと思います。細い通路などで戦闘になった時、危険ですし。そのことも踏まえて、皆様の能力や戦闘スタイルを知っておきたいと思うのですが、どうでしょう?お話に聞くだけでも難しい依頼ですし‥‥皆様との連携が上手くとれない限り成功の見込みはないと、あたしは思います」
「メイの言うとおりだな。俺は白焔を使おうと思ってる。アンデッドには有効だからな。戦闘スタイルは‥‥」
「単純馬鹿で猪突猛進、誰かがブレーキをかけないと危ない‥‥ってところか?」
「なーぎーっ!!」
 だって本当の事だろう?と、いたってクールな視線を向けられる。必死で否定の言葉を怒鳴るが、凪は虎王丸の訴えなど何処吹く風、懐から赤茶色の文字が書かれた薄い紙を数枚取り出すとテーブルの上に置いた。
「俺は呪符を使おうと思ってる。最初から銃を使って、遠距離攻撃が可能な事を相手に知らせたくはない」
「その呪符はどんな力があるんですか?」
「虎王丸の白焔を篭めようと思っている」
「篭めるってことは、今のその紙には何の力もないってことですよね?」
「あぁ、そう言う事になるな。虎王丸、頼む」
 分かったと呟き、右手を符に乗せる。ポワリと白銀の光が符を包み、符の中心に焔の記号が浮かぶ。幻想的な光は空気へと溶け、虎王丸は符を凪に差し出すとまだ何も篭められていない符を取り、再び先ほどと同じ手順で符に力を篭めた。
「それって、何か特別なことをしないと篭められねぇのか?」
 リルドの質問に首を振る。手を乗せれば勝手に符が魔力に共鳴し、その力をコピーして封じ篭めるのではないかと、虎王丸は持論を語った。特に符に力を篭めたからといって、自身の能力が落ちる事もない。
「なら、俺の能力も篭めてやるよ。使えるか使えねぇかは分かんねぇけどな」
 符が白銀の光に包まれ、雷の記号が浮かぶ。次に現れたのは水の記号で、次の符には風の記号が浮かんだ。どうやらリルドは幾つかの魔力を保持しているらしい。頼もしさに安心しつつ、凪がメイに向き直った。
「メイはどうなんだ?」
 凪の質問に、メイは胸元のペンダントを弄りながら答えた。
「あたしは、普段と同じスタイルで、大鎌で‥‥」
 メイの言葉が不意に鈍くなり、口篭る。何かを考えているらしい横顔に、誰もが彼女の答えを待つように口を閉ざす。
「もし‥‥使用許可が下りれば、ですけれども‥‥切り札を用意しておこうと思うんです」
 相手は多数の上に凶悪ですから、おそらく下りるとは思うのですが‥‥と言って悩むメイ。何か気になる事があるらしいが、気持ちを切り替えるように大きく深呼吸をすると、リルドに視線を向けた。
「俺はコレだな」
 脇に下げた剣の柄に触れ、他には清水をどこからか調達してきて使おうと思っていると付け加えた。
「ケヴィン様は‥‥」
 無言で傍らに置いた剣を指差すケヴィン・フォレスト。無表情な顔は怒っているようにも見えるが、特にそう言うわけではない。全身をやる気のないオーラが包んでいるようにも見えるが、決してそう言うわけではない。もしやる気がないのならば、この場にいないはずなのだから。
「‥‥‥手伝って、もらう、から‥‥‥」
 たどたどしい口調でそう言うと、千獣は自身の腕に巻かれた包帯を撫ぜた。呪符の織り込まれたそれは、彼女の白く美しい肌のほとんどを覆いつくしている。ルビーを思い出させる透き通った色をした赤い瞳は、どこか寂しそうでもあり、それでいて慈しむようでもあった。
 ミルカ以外の全員が自身の能力と戦闘スタイルを雄弁に、またはほんの少しだけ語り終わり、エスメラルダを含めた12の瞳が一斉に残りの1人に注がれる。ちなみに7人いるのに12の瞳とあるのは、リルドは右目を眼帯で覆っているため、千獣は長い艶やかな黒髪と包帯によって左目がほとんど隠れてしまっているためだ。
「あたしって‥‥あなた達からはどうゆう風に見えている?」
 無言の質問を質問で打ち返すミルカだったが、特に答えを欲して言っているわけではなさそうだ。
「どこからどう見たって、細くてか弱いヲトメだわ」
 予想外の返しに、流石の虎王丸もポカンと間の抜けた顔をしてしまう。
 キッ!と、鋭いミルカの視線が、同じようにポカンとした顔をしている数名を睨みつけたような気がしたが、それは一瞬の事で、脳が勝手に作り上げた映像だったかもしれない。
「戦いって柄じゃないし、自分でも“この依頼は向いてないなあ”って思うの。行くのは危ないんじゃないかしら、って」
 寂しそうに伏せられた瞳。
 ―――心配してくれる人がいるんだな‥‥‥
 緩く三つ編に結ばれた白銀色の髪、透き通るような色白の肌に、大きく潤む金色の瞳。ミルカは、どこからどう見ても可愛らしい女の子だった。身に纏った淡いピンク色のドレスも、彼女に良く似合っている。
 チラリと横目で凪を見ると、虎王丸は目を伏せた。
「‥‥そのお話を聞いた時ね、なんとも言えない気分になったの。幸せだったのに、それが壊されて‥‥悲しかったんじゃないか、って、そんな風に思えて‥‥」
 もし自分の上にそんな不幸が降りかかったならば―――?
 幸せが壊され、大切な人達を傷付けられ、自分の意思すらも砕かれ、なす術もなく守人として悪しき封印球を守らねばならない。
 ―――許せねぇよな‥‥‥
 購うことも許されなくて、抜け出ることは不可能で、ただ己の無力さだけを突きつけられる日々。
 考えただけでも、胸が痛む。ギュっと唇を噛み、閉じていた目を開けると強く拳を握る。
 まだ見ぬ王家の人々も、今まさにこんな思いをしているのだろうか?‥‥‥今だけじゃなく、ずっとずっと‥‥‥王国が滅亡したその日から、気の遠くなるような歳月をこんな気持ちのまま過ごしたのだろうか?
「あたしの歌で、少しでも彼らの心を慰められたらいい。そう思ったの」
 彼らの痛みを、苦しみを、代わってあげることは出来ない。けれど、心を解り、慰めることなら出来るのではないか。
 自分に今出来る、精一杯のことは何だろうか?―――それは王家の封印を解き、彼らを救い出すこと―――
「だから、出来たらでいいの。足手纏いになっちゃうかもしれないけれど‥‥あたしも一緒に、連れて行って」
 ミルカが瞳を潤ませる。今にも泣きそうな顔が、すぐに引き締まる。感情を押し殺しているのだろう、唇を強く噛んでいるのが見ていて痛々しかった。
「‥‥ミルカ様は、戦闘になった場合、どんな事が出来ますか?」
 優しく労わるようなメイの声に、視線をそちらに向ける。青銀色の長い髪を白いリボンで緩く結んだ戦天使見習いは、慈悲深い瞳を細めると、胸の前で両手を組み合わせた。
「戦うだけが全てではありません」
「その心意気があれば、力強い味方になるしな」
 視線を逸らしながらポツリと呟いたリルドが、頬を掻くと俯く。照れているらしい横顔は、思わず言ってしまった本心を後悔しているようでもあった。
「あたしに出来ることは‥‥歌を歌うこと。聴く人の身体能力を向上させたり、強化したり、治癒効果も期待できるかしらあ。でも、直接的な攻撃はできないわ」
「何だよ、そんだけ出来れば十分じゃねぇか。な、凪?」
「あぁ。ぜひ一緒に来て欲しい。ミルカの力は、必要だ」
「‥‥‥私、も‥‥‥そう、思う‥‥‥。ミルカ‥‥‥足、手、纏い、なんか、じゃ、ない‥‥‥」
「ありがとう‥‥みんな‥‥」
 ふわりと可愛らしい笑顔を浮かべて胸の前で手を組んだミルカの顔が、一瞬にして変化する。金色の瞳は強さをたたえ、キュっと引き結ばれた口は意志の強さをあらわしている。
 ―――ミルカは強いな‥‥‥
 心の中でそう呟き、ふっと微笑む。
「分け方はどうする?」
「俺とミルカは分かれた方が良い。俺も一応、治癒が出来るから」
「じゃぁ、凪とミルカは別々にするとして‥‥」
「俺と凪、一緒じゃダメか?ちょっと考えがあるんだ」
「別に良いんじゃねぇか?ってことは、凪と虎王丸が一緒で‥‥」
「‥‥私、が‥‥‥一緒、に、行く‥‥」
「3人と4人で分けなくちゃなんねーけど、どうする?」
「俺と凪と千獣で、後は4人で良いんじゃねぇのか?」
「3人で良いのか?」
 リルドの確認に、虎王丸と凪が頷く。1歩遅れて頷いた千獣は、悩んでいたと言うよりはただ単に反応が遅れただけだろう。
「あたしもそれで良いと思います。こちらは、リルド様、ケヴィン様、あたしと攻撃型ですし、ミルカ様が危なくなった時でも、3人もいれば安心です」
 危なくなったら必ず守りますからねと、メイが力強く言ってミルカの手を握る。本来ならば人見知りをする恥ずかしがりやさんのメイだったが、使命に燃えている熱血メイちゃんはそんな呑気な事は言ってられない。物怖じせずに手だって握るし、顔だって近づけてしまう。
「んじゃぁ、パーティも決まった事で‥‥いったんバラけて最終準備を整えようぜ。昨日のうちに準備はしてあるけど、苦戦する事は目に見えてる。念には念を入れてってな」
「虎王丸にしては賢明な意見だ‥‥」
 凪が少々驚いたような顔で呟く。思わず何かを言い返しそうに鳴るが、自らの精神衛生上のため、ここで不毛な言い争いに発展して仲間から冷たい目で見られないため、ぐっと堪えた。大人な反応だと、思わず自画自賛する。
「‥‥‥準備、ない‥‥‥どう、すれば、いい‥‥‥?」
「それなら、ココに行って足を用意してきてくれないかしら。歩いて行くには遠い場所だから」
 エスメラルダがカウンターに行き、メモ帳を持ってくると簡単に地図を書く。さらさらと簡略化された道は分かりやすく、千獣は「‥‥わかった‥‥」と呟きコクリと頷くとメモを握り締めた。
「そうだわ、皆も一旦ここに来てもらうより、向こうに行った方が早いわね」
 千獣に渡した物と同じ地図を描くと、エスメラルダはその場にいる全員に手渡した。黒山羊亭からは少々離れた目的には“喫茶店・ティクルア”と書かれてあった。
「‥‥ティクルアに行くのか!?」
 驚きの声を上げ、隣を見れば凪も驚いたような表情をしている。
「あら、虎王丸君、知ってるの?」
「知ってるも何も‥‥なぁ、凪?」
「以前お世話になった事があって‥‥」
「千獣、リタに弁当作ってもらうように言ってくれ!美味いんだぜ、リタの料理!」
「虎王丸!」
 凪がキっと睨みつけるが、虎王丸は視線を逸らしてその攻撃をかわす。
「‥‥‥わかった‥‥‥リタ、お弁当‥‥‥作って、もらう‥‥‥」
 千獣が虎王丸のお願いを受け入れ、やった!と声を上げる。相変わらず冷たい凪の視線が痛いが、あまり気にしないことにする。
「千獣ちゃん、リタちゃんに会ったら“竜樹の鳥を貸して下さい”って言うのよ“エスメラルダの知り合いの者です”ってちゃんと付け加えてね」
 コクリ、千獣が頷き、ブツブツと口の中で復唱する。
「それでは1時間後、喫茶店ティクルアで会いましょう」
「気をつけて‥‥」
 メイが爽やかに言い、7人はエスメラルダの心配そうな、それでいて祈るような瞳に見送られながら黒山羊亭を後にしたのだった。



* * *



 高く透き通った空には雲一つなく、柔らかな陽光が冷たい風を温めている。
 凪と虎王丸は天使の広場を通り、そこで何時も美しい歌声を響かせているカレン・ヴイオルドに会釈をするとすると、そのまま当てもなく歩き始めた。特に行くところもなく、用意すべきものも見つからない。
 何か準備をと言い出したのは良いのだが、特に用意するべきものはない―――何となく時間の無駄な気がするが、他の仲間は準備をしているのかもしれない。
 ブラブラと当てもなく歩いていた時、ふと虎王丸の視界の端に見慣れた姿が映った。
「おい、凪‥‥‥あれ‥‥‥」
 凪の服を引っ張り、前方を指差す。
 茶色い髪に、青色のスカート、メイドのペティがゴミ箱の蓋を取ると熱心に中を覗き込んでいる。
「‥‥‥なにしてんだ?」
 凪が首を傾げた時、ペティがこちらを向き、スタスタと歩いてきた。
 その緑色の瞳には妙な光りが宿っており、厄介ごとのにおいがする。
 どうしようかと視線を合わせてみるものの、逃げると言う選択はない。時間のかからない厄介ごとならば良いが―――
「あなたたち、エルファリア様を見ませんでした?」
「いや、見なかったけど‥‥‥」
 言葉に詰まる。
 見なかったは見なかったのだが―――ペティはエルファリアを探しているのだろうか‥‥‥?
 それなら何故先ほどゴミ箱の中を覗いていたのだろうか―――?
 そんなところに王女様がいると思っていたのだろうか‥‥‥?
 色々なハテナが頭上に浮かぶが、ペティはそんなことはお構いなしに話を続ける。
「困りましたね‥‥‥」
「どうして王女様がいなくなったんです?」
 凪の質問に、ペティが上を向く。その先に何かあるのかと視線を追ってみるものの、綺麗な空があるだけで何も見えない。
「お城の中にいると、外の空気が恋しくなるじゃないですか?エルファリア様もそうで‥‥‥ちょっと外にお連れしたんです」
「で、どうしていなくなっちまったんだ?」
「雲がとても白くて綺麗ね‥‥‥とおっしゃって、ふらふらと雲が風に流されるまま‥‥‥」
 エルファリアらしいと言えばエルファリアらしいが、そこはペティがきちんと見ていれば良いはずでは?
 そんな思いを感じ取ったのか、ペティが唇を尖らせた。
「しょうがないじゃないですか!段差には悪魔がすんでるんですから!」
 ―――ポカンと、口をあけて顔を見合わせる凪と虎王丸。彼女が言いたい事が、少しも伝わってこない。
 主張するように指差された足元に視線を落とす。
 綺麗なスカートは泥に汚れており、見れば膝はすりむいており、血が滲んでいる。
「つまり‥‥‥転んでるうちにいなくなったと、そう言うことなのか?」
「そう!」
 そんな胸を張って言われても―――
「あぁ、どこに行ってしまったんでしょう‥‥‥」
 聞かれても、こっちだって答えられない。
 雲を追ってどこかに行ってしまったと言うことは、雲が流された方向が分かれば良いのだが―――上を見ても、どこまでも澄んだ青い空があるだけで、雲は一欠けらも見当たらない。
「とりあえず、城に戻ってみたらどうだ?もしかしたら、戻ってるかも知れないし‥‥‥」
「そうですね。誰かが見つけて届けてくれてるかもしれませんし‥‥‥」
 虎王丸の提案に、嬉しそうな表情でそう返すペティだったが―――落し物じゃないんだからと、突っ込みたくなるような言い回しだ。
 きっと戻ってますよねと淡い期待を抱きながらお城に戻るペティに、何となく付き合わされる虎王丸と凪。
 ―――ちなみに、まったりと雲を追いかけて草原へと行き着いてしまったエルファリアから事情を聞いてお城まで“届け”ようとしていたメイとケヴィンと出会うのは、これからほんの少し後のことだった―――



* * *



 まるで御伽噺の中から抜け出してきたような丸太小屋の喫茶店・ティクルアで落ち合うと、一行は竜樹の鳥と呼ばれる巨大な鳥の背中に乗り、呪われた王国目指して空に飛び立った。
 空の旅は意外と快適で、寒いと思ったのは最初の浮遊時のみで、それからは太陽に熱せられた風が優しかった。
「うーん、美味い!さすがリタだ!」
「‥‥‥リタ‥‥‥すごいスピードで、作ってた‥‥‥」
 むしゃむしゃとお弁当を食べる虎王丸と、あまり表情は変らないながらも何か見てはならない物を見てしまったような、遠い目をしながらサンドイッチを口に運ぶ千獣。
「皆も食べたらどうだ?腹が減ってちゃ力も出ねぇだろ?」
「‥‥そうだな、せっかく沢山あるんだし、食うか」
 虎王丸の脇に積み重なっていたお弁当を取り、リルドが箸を割った。ミルカとメイが千獣からサンドイッチのお弁当を受け取り、食べ始める。
 しっかりと味のついた煮物に、キノコが沢山入った混ぜご飯。だし撒き卵はふわりと甘く、から揚げは柔らかい。
「美味いな‥‥‥」
「だろ!?」
 ポツリと呟いた言葉を聞き取り、思わず虎王丸が胸を張る。
 ―――きっと、リタが聞いたら喜ぶんだろうな‥‥‥
 そんな事を思いながら、幸せそうにお弁当をつつく仲間達を見渡す。
「しっかし、デカイ鳥だよなぁ。これ、いつもは何処にいるんだ?」
 リルドの素朴な疑問に、凪と虎王丸は顔を見合わせると首を振った。言われて見れば、こんな大きな鳥がそこらを飛んでいれば、モンスターだと思われて攻撃されそうなものだが‥‥。眼下に見える地上には、民家らしき物は見えず、延々草地と森が続いている。
 暫くその緑色の絨毯を眺めていると、不意にメイが立ち上がった。
「死臭がします‥‥‥近いですよ!」
 相変わらず温かな風の中に、メイの言う死臭が感じられたのはそれから直ぐの事だった。
 ねっとりと絡みつくような空気は悪意を含んでおり、激しい負の感情に寒気が走る。
 リルドが右目の眼帯を押さえ、ゆっくりと立ち上がり、よろけそうになる。虎王丸が慌てて手を出すが、リルドは何とか踏ん張ると体勢を立て直した。
「大丈夫か?」
「あぁ‥‥‥」
 風圧が強いのだろうか‥‥‥?虎王丸は注意しながらゆっくりと立ち上がった。
 立ち上がった事によって空が近付いたように感じるが、魅力的な青に手を浸すことは出来ない。思わず手を伸ばしそうになるが、伸ばせば強い風圧を受けるだろう。虎王丸は深く息を吸い込むと、皆が眺めている方角へ視線を滑らせた。
 白亜の城は未だにその威厳を失っておらず、四方に伸びる塔も美しさは少しも損なっていない。事前知識もなく、負の雰囲気に鈍感な者が見たならば、呪われた城などとは夢にも思わないであろう。
「意外と綺麗だな‥‥‥」
「えぇ。でも、城下町を見てください」
 城門を隔てた外、城下町には無数の家々が軒を並べているが、倒壊している物がちらほら見える。東側の地域では大規模な火事でもあったのか、一角全てが黒い炭となり崩れかけている。炭とならずに済んだものも、壁が黒く煤けており、見るからに痛々しい。
 竜樹の鳥が呪われた王国の上を旋回しながら徐々に高度を下げて行く。
「やっぱ、アンデッドがかなりいやがるな‥‥」
 思わず舌打ちをし、腰に下げた刀に手をかける。
 城門の中にも城下町にも、白い骸骨がノロノロと歩いているのが見える。ボロボロの、かつては服であったものを引きずりながら歩く死者達は、数ブロック歩いては戻り、また踵を返しては歩きを繰り返している。
 竜樹の鳥がさらに高度を下げ、塔の先端すれすれの所を旋回する。城下町を歩く死者の手に思い思いの武器が握られているのが見て取れる。それはナイフであったり鍬であったり、おそらくはその人が生きていた頃に使用していた物なのだろう。
「この鳥じゃぁ、城の前に下りることは出来ねぇ。草原に下りて城下町を突っ切るか、もしくは城の上に来たときに飛び降りるか‥‥」
「あたしはどちらでも大丈夫ですが‥‥城下町を突っ切る方が良いと思います」
「そうだな、一歩間違えれば飛び乗り損ねて地上まで一直線になるかも知れねぇし‥‥‥。んじゃぁ、そう言うことで草原に下りてくれ」
 リルドの言葉に答えるように、竜樹の鳥が一声鳴いて城下町の上空を通り過ぎ、王国をグルリと囲む塀の外、広大な草原の上に着地する。
「この鳥が人の言葉分かって助かるよな」
「そうですね。とても知能が高いんでしょうね‥‥」
 メイが虎王丸に賛同し、そっと背中を撫ぜる。
 膝を折り、低姿勢になって降りやすいように配慮してくれる竜樹の鳥だったが、それでもまだ高い。メイが純白の羽根を広げ、ふわりと着地する。虎王丸とリルドが飛び降り、凪とケヴィンもそれに続く。
 ―――そう言えば、ミルカはどうやって下りるんだ‥‥‥?
 心配になって見上げた先、千獣がミルカを抱き上げた。華奢な細い腕はいつの間にか硬い毛で覆われており、青紫のマントからは夜色の蝙蝠のような羽が伸びている。
 トンと軽く跳躍し、バサリと羽を羽ばたかせる。空中浮遊は直ぐに終わり、ミルカが地面に足をつけると千獣に丁寧にお礼を言う。その時には既に羽はなくなり、左手は元の華奢な腕に戻っていた。
「大きな門ですが‥‥これ、開くんでしょうか‥‥」
 ケヴィンが竜樹の鳥の顔をそっと撫ぜる。言葉ではない何かを感じ取った竜樹の鳥が立ち上がり、羽を広げると上下に動かす。風と立ち上る砂埃に目を閉じた時、甲高い鳴き声とともに竜樹の鳥が空へと舞い上がった。
「つーか、帰りはどうするんだ?」
「虎王丸、帰りの心配は封印球を壊してからするんだな」
「んだよ凪。まさか、帰れないかもなんて暗いこと考えてんじゃねぇだろーな」
「‥‥そうならないように力を振り絞るだけ、だな」
 虎王丸と凪がそんな会話を交わしている最中、メイが門に手を触れる。巨大な鉄製の門は彼女の小さな手が触れるか触れないかの内に、微かに軋みながら内側へと開いて行った。
 ‥‥‥誘ってる―――虎王丸はそう感じた。
 ―――これが誰の誘いなのかは分からねぇけどな‥‥‥
「上空から見た限りでは、大通りを直進するのが最短です。でも‥‥‥」
「死者が沢山いる、ってか。ンなん気にしてたらいつになったって辿り着けやしねぇ。この人数だ、細道の方が危ねぇと思うぜ?」
「リルドの言うとおりだ。突っ切ろうぜ!」
「先陣は俺と虎王丸が斬る」
 リルドの言葉に頷くと刀を構える。リルドも剣に手をかけ、鞘から一気に引き抜くと構えた。
「あたしと凪様でミルカ様を左右から守りましょう」
「あぁ、分かった」
「千獣様とケヴィン様は、後方をお願い出来ますか?」
「‥‥わかった‥‥‥」
 メイが胸元のペンダントを外し、両手で包み込む。淡い光を放ちながらペンダントが巨大化し、両手持ちの大鎌・イノセントグレイスへと変る。その隣ではケヴィンが剣を抜き、相変わらずのやる気のない雰囲気を漂わせながら黙っている――― もっとも、彼の顔をよく見れば深い黒の瞳は真剣な輝きを宿しているのだが―――
 千獣の眼光が鋭くなり、凪がミルカに右手を差し出す。右手に持っていたはずの銃は腰元に下げられているのが見える。
「はぐれたら大変だろ?」
「もうっ!一本道なんだからはぐれないわよう」
 ぷぅっと頬を膨らませながらも、凪の手を取る。
 ―――凪がいるなら、安心ですか‥‥‥
 頑張れよと、目で合図を出す。凪が硬い表情でコクリと頷くのが見える。
「‥‥‥行くぞ!」
 虎王丸が静かながらも力強い声で言い、門を潜り抜ける。リルドがそれに続き、凪とメイに両側を守られながらミルカが走る。
 左右に並ぶ建物は、何かのお店屋さんが多いようだが、下がっている木の看板はほとんどが朽ちかけており、文字は判別不能だ。
 壊れた扉から覗く店内は荒れており、床には大穴が開き、陳列棚と思わしき所はボロボロに崩れ落ちている。
 足元はサラサラの砂で、走るたびに細かい砂埃が舞い上がる。
 上を向けば高い空が見えるが、この王国の上空にだけは薄く暗い雲が広がっている。
「来やがったぜ!」
「無理に全員を倒すことはありません!」
 前方からは5体の死者が重なるようにして走って来ている。ボロボロのスカートを穿いた死者は大きな包丁を持っており、その右側にいる少し大きめの死者は硬そうな棒を持っている。他の3体は身体に全く合っていない錆びた鎧を着ており、ガチャガチャと耳障りな音を響かせながら剣を構えている。
「虎王丸、無茶しすぎるなよ」
「わかってるって!」
 虎王丸が地を蹴り、剣を持った死者に斬りかかる。間一髪のところで攻撃は防がれ、後方に押し返される。
「〜♪良いね、この空気。完全にヤりにきてやがる」
 リルドが嬉しそうにそう言い、ニヤリと不敵な笑みを浮かべると一気に間合いを詰める。迫り来る包丁をギリギリで避け、足を払う。後方から伸びてきた刃を剣で弾き飛ばし、よろめいた死者の首をはねる。兜を被った頭がグラリと揺れ、後方に転がって行く。
 骨だけの死者は、肉片はおろか血も出ない。刃が鈍ることはない‥‥‥それは嬉しかった。リルドが首のない肢体を蹴り飛ばし、走り出す。
 地面に這い蹲って棒を握り締める骸骨は虎王丸によって足を斬られ、立とうとしては倒れこむを繰り返している。地に突っ伏したままだった包丁を持った死者の頭をメイの大鎌が砕く。
「どうやら頭に深手を負うと動きが止まるみたいだな」
 凪が冷静に分析し、虎王丸が手を斬った死者の頭を銃のグリップで殴る。グラリと地に突っ伏した死者は、後ろから走って来た千獣の鋭い爪によって頭を砕かれ、更には身体を二つに裂かれた。
 千獣はそれほど悲惨な状況にしようとは思っていなかったのだが、走って来た際のスピードと長い爪により、勢い余ってそうなってしまったのだ。だからと言って、美しく戦おうなどと言う気は毛頭ないため、死者はそのまま捨て置かれた。
 7人は砂埃を上げながら大通りを疾走した。細道にいた死者が顔を上げ、こちらに向かって来るのが見える。
 背後から追って来るのは分かっていたが、いちいち立ち止まって相手をしていてはキリがない。この城下町に巣食う死者全てを相手にしていたら、塔に行き着く前に倒れてしまうだろう。
 大通りの中央、天使の広場を髣髴とさせる噴水が置かれている広間を過ぎる。とっくの昔に水は枯れ、瓶を持った天使の像は所々ひび割れており、風雨にさらされた頬には涙の跡と見紛うばかりの黒い筋がついている。雨と埃が混じって出来たものだろうが、もしかしたら王国の末路を嘆いて天使像が流した本物の涙かもしれない。きっとこの天使像は、栄えていた時代の王国を静かに見守っていたのだろうから‥‥。
 前方から死者の軍団がこちらに向かって来るのが見える。リルドと虎王丸が一気に間合いを詰めようと駆け出し―――ザンと、足元に何かが突き刺さった。細い木の枝のようなものは、虎王丸の勘が正しければ‥‥‥
 ふっと立ち止まると上空を仰ぎ見る。木造2階建てのお洒落な家の窓から、弓で狙いをつけている死者が見える。その矛先は後方のミルカに定められている。
「危ねぇっ!!」
 虎王丸の怒声が響く。後ろを振り返った虎王丸の背に死者が斬りかかろうとするが、何とかそれを避けると刀で弾き飛ばす。
 ミルカが顔を上げ、宙に視線を向けようとした瞬間、千獣が彼女を背後から抱きかかえるとふわりと宙に浮かび上がった。
 風がミルカの淡い桜色のスカートを靡かせる。レースが波のように揺れ、華奢な足に纏わりつく。茶色いブーツの直ぐ下を、何かが凄まじい勢いで空を切り裂きながら地面に突き刺さった。
 ―――危なかった‥‥‥
 あともう少し千獣の判断が遅れたら、ミルカの華奢な脚に矢が突き刺さっていたかも知れない。
 ほっと安堵したのも束の間、先ほどの死者がこちらに弓で狙いをつけているのが視界の端に映る。迫り来る死者を相手にしているため、自分が狙われているのかリルドが狙われているのかは分からない。
 千獣がそちらへ向かおうと羽を羽ばたかせた時、後方から何かが飛んで来た。
 死者の額に深々と突き刺さった物は、自身が持っているものと同じ木の細い棒。チラリと目だけを後ろへ向ければ、ケヴィンが弓矢を手にして立っているのが見えた。
 ケヴィンは倒した事を確認すると、後方から迫ってきた死者を肘鉄で振り払った。鞘に収めていた剣を抜き、大振りで横に払う。一気に数体が地面に倒れこみ、彼らを踏みにじりながら死者が迫って来る。
 前方からも後方からも、死者が道を塞いでいる。虎王丸とリルドが刀と剣で行く手を阻む者を蹴散らし、2人が討ちもらした者をメイと凪が大鎌と銃で止めを刺して行く。後方から迫る死者はケヴィンが倒し―――数の多さに圧倒され、後退る。ケヴィンの劣勢を見て取った凪が援護するが、そちらに気を取られているうちにメイの方が手一杯になる。
 相手の剣を弾き飛ばし、よろめいた身体を蹴り飛ばす。右手方向から振り下ろされた鎌を避け、剣を大きく一振りする。次から次へと襲い掛かる死者の攻撃に、1歩後退る。
 虎王丸と凪の背中が合わさる。それほどまでに、間合いが詰められているのだ。ケヴィンが討ち損ねた死者がメイに襲い掛かり、間一髪のところでリルドが剣を延ばし、首をはねる。背後に気を取られたリルドの背を守るべく虎王丸が刀を大振りに払い、隙の大きい振りをカバーするように凪が正確な射撃で敵を倒す。
 ―――くそっ、このままじゃ‥‥‥‥
 数の多さで圧倒され、劣勢に立たされた虎王丸の額に冷や汗が浮かんだ時、上空から温かく優しい旋律が降り注いできた。
「♪When vous andare a letto a quiet se coucher, Ich sing this chanson」
 心に染み入るような柔らかい音色は、歌姫の歌声を優しく包み込み、戦いの上に甘いヴェールをかける。
 何を言っているのか分からないながらも、虎王丸は直感的に子守唄だと感じた。お母さんが子供を寝かしつける時に耳元でそっと囁く、そんな温かな光景さえ瞼の裏に描いた。
「♪I pregare so that sind have a bonheur traum」
 高く澄んだ声は王国の上空にかかる雲すらも圧倒するほどの美しさで―――
「♪Please have a bonne sogno」
 ♪貴方が安らかに眠れるよう、私はこの歌を歌います
 ♪貴方が幸せな夢を見られるように、私は祈ります
 ♪楽しい夢を見てください
 ♪貴方が明日も笑顔でいられるよう、私は歌います
「♪Je sing so that lei can lachen demain」
 死者の動きが鈍くなる。ふらふらと視線が宙を彷徨い、何処かへと歩き出す者もいる。ある者は武器を捨て、空へ手を伸ばし、何かを掴もうと必死になって掌を開いたり閉じたりしている。
 ミルカの足が地面につき、待っていた凪が手を引っ張る。千獣が羽をたたみ、ケヴィンと併走するように走り出す。
「これ、持ってどのくらいだ!?」
 幻影に惑わされた死者を掻き分けながら、リルドが鋭い声を飛ばす。
「それほど持たないわ!」
 歌い続けていれば効果は続くが、歌を止めればどれほど続くのかは分からないと急いで付け足される。
 ミルカの歌と言う魔法をかけられた空気は、徐々に徐々に風によって吹き流され、かき消されている。
「この状態で戻られたら洒落になんねーぜ!」
 虎王丸が刀で前方にいた死者2体を弾き飛ばす。幻が消え始めたのか、死者が不思議そうに両手を見つめて首を傾げている。
 あともう少し‥‥‥もう少しで―――
 死者の海を抜けた先、巨大な木の門がぴったりと閉じられている。威圧感のある門が頑なに口を閉ざしている様を見て、虎王丸の脳裏に一瞬嫌な予感が走る。もし、この門が開かなかったなら‥‥‥?
 しかしそんな心配をしていても前には進めない。いち早く門にたどり着いた虎王丸が躊躇せずに扉に手をかけた瞬間、ゆっくりと内側に開いた。軋みもなくスムーズに開く扉は、未だに油を差し、使用されているかのようだった。
「走れっ!!」
 扉の内側に虎王丸とリルドが身体を滑り込ませる。既に死者は我に返り、逃げた侵入者を追って来ている。
 凪が手を離し、ミルカだけを中に入れる。それに続いてメイが入り、ケヴィンの服の裾を掴んでいる死者を千獣の爪が切り裂く。
 2丁の銃が火を噴き、千獣に襲い掛かろうとしていた死者を撃ち抜く。千獣が先に中に入り、ケヴィンが剣を大きく振り、迫っていた数体を斬ると凪とともに門の中に身体を滑り込ませた。
 リルドとメイ、虎王丸とミルカが力いっぱい扉を押し、迫り来る死者のパワーに四苦八苦する。千獣と凪も手伝い、あと数センチで閉まるというところで死者の手が突き出した。ケヴィンが腰にささっていた小振りのナイフを取り出し、手を落とす。渾身の力を振り絞って扉を閉め、千獣が足元に落ちていた木の板を掴むと扉の中央に差し込む。
 幅の広い板は鍵の役割を果たし、向こう側から死者が叩こうとも揺れるだけで開く気配はない。
「ふー、危ないところだったな」
「あぁ、でも、この門もどれだけ持つか分からない」
 ガクガクと揺れる扉は不気味だった。この向こうには、何十・何百と言う死者が集まり、叩いているのだ。
「とっとと封印球をぶっ壊して帰ろうぜ」
「あぁ、そうだな。帰りはティクルアにでも寄って、美味い飯を食おうぜ」
 リルドと虎王丸が拳をぶつける。
 言葉にしなくとも、合わさった拳から言葉以上の感情が伝わってくる。
「凪様、千獣様、虎王丸様、どうかお気をつけて‥‥‥」
「‥‥‥メイ、たち、も‥‥‥きを、つけ、て‥‥‥」
「そうだわ、忘れるところだったわあ‥‥凪君、はいこれ」
 ミルカがポシェットの中からリブセンの葉と増血剤、サンフロウの花と治療薬、そして包帯とテープを幾つか取り出すと凪に差し出した。
「有難う。‥‥‥広間で会おう」
 手を振って去って行く4人の後姿を暫し見つめ、虎王丸達は北の塔へと走った。



* * *



 グルグルと回る螺旋階段を上りながら、虎王丸は前を進む千獣の背中を見つめていた。時折彼女が吸血虫の卵を見つけて立ち止まるために、顔を上げて注意していないとぶつかってしまうのだ。
 足元は埃が厚く積もった赤絨毯で、元は綺麗だったであろう壁紙は所々剥がれ落ちている。左右についた木の手すりも艶がなくなり、体重をかければあっけなく崩れてしまいそうなほどに痛んでいる。
「また‥‥‥」
 溜息交じりで千獣が爪を階段に突き刺す。黄みを帯びた卵から、緑色の液体が流れ落ちる。ドロリとした液体と一緒に、透明なゼリー状のものが引きずり出される。最初、凪はそれが何なのか分からなかった。しかし幾つか見ていくうちに、それが吸血虫の幼虫である事に気づき、背筋が凍った。
「あぁ。でも、だんだん大きくなっていっている気がするな」
 最初の卵からは、小指の爪ほどの幼虫が現れた。次の卵は小指の爪先から第2間接くらいの大きさの幼虫、次は小指くらいの幼虫、次は―――と、徐々に大きくなり、今しがた壊した卵からは、女の子の掌ほどの大きさの幼虫が出てきた。
「この幼虫、どこまで大きくなるんだ‥‥?」
「考えただけでも鳥肌が立つな」
 腕をさすりながら隣を見れば、凪もほんの少しだけ顔を顰めていた。
「しっかしよー、この階段はいつまで続くんだ?」
 千獣が爪についた液体を振り落とす。壁にピシピシと緑色の斑点が出来る様は、見ていて気分が悪くなる。
「‥‥‥もう、少し、で‥‥‥つく、と、思う‥‥‥」
「こんなんなら、城から上がった方が良かったかもな。こんな狭いところでヤツラに囲まれたら、最悪だぜ?」
「‥‥‥気配、ない。たぶん‥‥‥だい、じょう、ぶ‥‥‥」
「たとえ城の玄関のところに行こうとも、開かなかったんじゃないかと思うんだが‥‥‥」
「どう言う事だよ凪?」
 こんな所で立ち止まっていてはいつになっても着かないと、耳だけは凪の方へ集中させ、千獣が歩き出す。
「この王国自体に魔法がかけられているんだと思うんだ。扉だって、少し触れただけで自然とあいただろ?」
「うーん、たしかにそれは一理あるかも知れねぇな。つーことは、この呪いをかけたのは相当な力の持ち主―――」
 封印球も容易くは壊れないだろうと呟き、千獣が再び見つけた卵を割った。緑色の液体から流れる透明なゼリー状の幼虫は、男の人の両手ほどの大きさに成長していた。
 まだこの幼虫は成長するのだろうか‥‥‥?背中に寒気が走る。割れた卵の傍を足早に通り過ぎた時、前方に重厚な木の扉が現れた。木の表面には虎や山川が彫られており、絡まった蜘蛛の巣や積もった埃を払えば綺麗な扉だという事が分かる。
「ここが北の塔の部屋‥‥‥第1王子がいる所だな」
「北の塔には動きは遅いながらも力が強い1人の王子、か‥‥‥」
 凪がそう呟き、金色のドアノブを回す。何の抵抗もなく回ったノブは、まるで凪の手から逃げるかのようにひとりでに内側に開いた。
 開け放たれた扉から見える中は、今まで見てきた場所とは違い、掃除が行き届いているらしく綺麗だった。
 慎重に中を覗き込めば、ガランとしたそこに人の姿はない。曇った窓には白いレースのカーテンがかかっており、その隣には装丁の美しい本がずらりと並んだ本棚、濃紺のカバーのかかったソファーに小振りのテーブルの上には一輪挿し。世話をする人を失ってしまった花は枯れ、テーブルの上に茶色く崩れている。
 警戒しながら部屋に足を踏み入れる。虎王丸が剣を構えて先に入り、次に千獣と凪が続く。
「しかし、どうして誰もいないんだ?」
 虎王丸がそう呟いた時、凪が何かを言いたげに顔を上げた。血のように赤く透き通った瞳が虎王丸に向けられた瞬間、凪の視線が天井に固定された。
 尋常ではない表情に顔を上げる。赤色の短い髪に、白濁した瞳。天井に張り付いていたソレは、目が合うと斧を片手に落ちてきた。
「危ない!!」
 凪の叫びと共に、後方に押し飛ばされる。異変を察知した千獣が後方に飛び退き、第1王子――― 守人―――の攻撃を間一髪のところでかわす。体重の乗った重たい一撃は床を震わせ、部屋の中にある家具がグラグラと揺れる。
「大丈夫か千獣!」
「‥‥‥へーき‥‥‥そっち、は‥‥‥?」
「俺も虎王丸も平気です!」
 上に乗っていた凪が顔を上げる。意外にも近い顔の位置に驚きながら、彼が退くのを待つ。
「上から来るとは、予想外だな」
 虎王丸が背に符を張り、凪が発動させる。塔に入る前に八重羽衣と武神演舞を予め舞っていた凪は、すっと集中した
 シュー、シューと規則正しい荒い息をしながら、見上げるほど大きな身長の守人が斧を肩に担ぐとゆっくりとした足取りでこちらに近付いてくる。
 動きの遅い守人は、攻撃を避けるのにさほど苦労はしない。ただし、その攻撃を一撃でも喰らってしまえば―――どうなるかは分からない。
 千獣が息を呑み、虎王丸も凪も身動き一つしない。ピンと張り詰めた沈黙の中、虎王丸はガラスケースの中に入った七色の球を見つけた。キラキラと複雑に色を変えながら輝くソレは、虎王丸の勘が正しければ封印球だ。
 千獣が何かを言いたげにこちらに視線を向ける。その視線に反応するように、凪と目を合わせて頷く。
「虎王丸、一人で守人の相手を頼めるか?」
「こんなトロくせぇヤツの相手なんかしてたら日が暮れちまうぜ」
「‥‥‥私、は‥‥‥ふういん、きゅう‥‥‥壊す‥‥‥」
 攻撃圏内に入るギリギリまで、千獣と凪、虎王丸は動かなかった。斧が振り下ろされる、その瞬間に千獣と凪は部屋の奥へと走り出した。
 大きな振りは虎王丸が守人の背に回るまで十分な時間があり、刀を振り上げると背に突き刺す。
 低い雄たけびを上げた守人が虎王丸を振り払い、天井にへばりつく。千獣が封印球に長い爪を振り下ろし、壁にかけられてあった大振りの剣を掴むと凪が部屋に戻る。
「いってぇ‥‥‥」
 背中を押さえ、涙目になりながら天井を見上げ、そこにある現実に渋い顔になる。
 虎王丸の刀が守人の背に突き刺さっており、自分自身は今、丸腰状態だった。
「くっそ‥‥‥俺の刀を返せ!」
「自分で刺しておきながら何を言っているんだ‥‥‥」
 凪が呆れたように言い、鞘から剣を抜くと構える。普段彼が使っている銃よりも重たい剣に、片手ではダメだと判断し、両手を添えて守人を睨み付ける。
「千獣!」
「‥‥‥わかって、る‥‥‥」
 ガキィンと鋭い音が鳴る度に跳ね返される爪に、千獣の額に汗が浮かぶ。
 守人が天井から降りてきて、凪と虎王丸の前に立ちはだかる。ドロリとした瞳は何も見ておらず―――それでも、瞳に浮かぶ強い憎悪の感情は見て取れた。
 斧が振り回される。動きはトロイながらも、遠心力を生かしたその攻撃は徐々に速度を増し―――
「ヤッベ‥‥‥!」
 部屋の隅まで追い詰められる。跳んで避けるにしては、斧はあまりにも長すぎた。
「千獣!」
 屈んで避けるにしても、守人の足元を通るのはいささか危険だ。
 虎王丸と凪の危険に、千獣に焦りが生まれる。無我夢中で封印球を攻撃し―――ザクリと、爪が封印球に深く突き刺さった。
 割れた部分から七色の光りが漏れ、部屋を鮮やかに染め上げる。
 守人の回転が止まり、足元に斧を落とす。赤・青・黄と変化する眩い光りに照らされ―――耳を塞ぎたくなるような断末魔を上げながら、守人が光りの中に溶け込んで行く。助けを求めるかのように伸ばされた手は、床を引っ掻いただけだった。
 目も開けていられないほどの光りの洪水の中、虎王丸はそっと目を閉じた。
 そして――――――
 目を瞑った先、明るい闇の中、1人の逞し赤毛の男性が佇んでいた。
 強さをたたえた茶色の瞳は同時に優しさも秘められており、浅黒い肌は健康的だ。薄い服の奥、盛り上がった筋肉が見て取れる。
 ―――第1王子‥‥‥
 逞しい王子は寂しそうな瞳で微笑むと、ふっと視線を足元に落とした。
 言葉は何も発していない。それでも、虎王丸には彼がなんと言いたいのか、何を望んでいるのか、しっかりと分かっていた。
 辛かった事、悲しかった事、それでも、助けてくれた感謝の気持ち‥‥‥。
「安心しろ、他のやつらの封印も必ず解いてやるから‥‥」
 ふわり、子供のような無垢な笑顔を浮かべる王子。その瞳には、喜びだけが映っていた。
 ――― 必ず‥‥―――
 瞼の向こう側の光りがふっと消え、王子の姿も掻き消えた。
 虎王丸は暫くそのまま目を閉じ、エスメラルダから聞いたあの話を思い返すと、ゆっくりと目を開けた。
「‥‥‥‥‥ドア、あいた‥‥‥いか、ないと‥‥‥」
 低く感情を押し殺したような千獣の声に、顔を上げる。
 浮かない表情をした千獣に、あまり表情は変らないながらも、寂しそうに目を伏せている凪。‥‥‥仲間達も、彼女に会ったのだ‥‥‥。
「そうだな。早く‥‥‥封印を解いてやらないと‥‥‥」
「あぁ」
 凪の口調に促されるように、開いた扉へ向かう。
 左側がガラス張りになった廊下は塔と塔を繋ぐ役割を果たしており、近付けば遥か下に地面が見える。右側には幾つもの肖像画がかけられており、それは在りし日の王族の幸せな日々を無言で語っていた。
 金色の髪の美しいお姫様、青い瞳の綺麗な王子様、短い赤色の髪をした力強そうな王子様。
 立派な王冠を頭に乗せた王様は、その輝きをも圧倒するような存在感を放っている。王の傍らで静かな笑みを浮かべているお妃様は、深い碧色の瞳をした優しそうな女性だった。
 お城の庭で椅子に座ってすまし顔をしている肖像画、お姫様と青い瞳の王子様が一生懸命机に向かって何かをやっている場面、赤い髪の王子様が剣を片手に誇らしげな顔をしている肖像画、お妃様が薔薇の花に水をあげている姿‥‥‥どの絵を見ても、自然と表情が緩む。
「こいつらが、何をしたって言うんだよ‥‥‥」
 グッと奥歯を噛み締め、歯の隙間から絞り出すような声を出す。
 凪が寂しそうに目を伏せ、千獣も返す言葉が見当たらずに口を閉ざしている。
「こんなのおかしいじゃねぇか!ただ幸せに過ごしてただけだろ!?なのに、なんで――――――!」
 膨れ上がった感情を八つ当たり気味に声に出していた時、突然何かが壊れる大きな音がした。
「今のはいったいなんだ?」
 顔を見合わせる。誰もが視線を宙に泳がせ、音の正体を考える。
「―――あれ‥‥‥あれを‥‥‥!」
 凪がガラスに飛びつき、外を指差す。
 駆け寄ってみれば、城下町と城とを結ぶ門が内側に倒れているのが見えた。そして、その上を虚ろな足取りで歩いてくる死者の大群―――
「門が突破されたか‥‥‥尚更のんびりしてられねぇな」
「‥‥‥そう、だね‥‥‥」
 コクリと真剣な顔で頷いた千獣。凪と虎王丸が目を合わせ、大きく頷くと歩き出す。
 右手に並んだ肖像画は極力見ないようにして、先に進む。廊下の端に現れた茶色い扉に虎王丸が手を翳す。
 ゆっくりと開く扉には必要以上に蜘蛛の巣が絡んでおり、目を凝らしてよく見れば、そこには狼と満月が彫り込まれてあった。
 部屋中に絡んだ蜘蛛の糸が、窓から差し込む光りにキラリと光る。部屋の中を重たい足取りで動いていた死者が開かれた扉に気づき、持っていた剣を振り上げると走ってくる。
 城下町で出会った死者と同じ、ブカブカの鎧が耳障りな音を立て、戦闘態勢に入る凪と虎王丸を制すると、千獣が素早く死者の首をはねる。
 ゴロリと死者の首が背後に落ち‥‥‥ドシンと、それなりに重みを持った音が響き、成り行きを見守る3人の前で死者はバラバラと崩れ落ちると、鎧と剣だけを残して消え去った。
 先ほどはグズグズしていては死者に囲まれてしまう危険があったため、倒した死者がどうなるのかじっくりと見ている暇はなかったのだが、部屋の中を見たところ第2王子―――守人―――の姿はない。今後の事も考えて、死者がどれくらいで蘇るのか、どんな風に立ち上がるのかを見ておく必要がある。
 それから暫く、沈黙の時が続いた。さほど長い時間ではなかっただろうが、急く心は時を早める。
 もしかして、死者が蘇るというのはただの噂なのでは?そう思い始めた時、ザワリと空気が揺らいだ。
 冷たい手で身体を撫ぜられているかのような不快な風は、死者が残していった鎧と剣に集まると空間を捻じ曲げ始めた。グニャリと歪んだ景色の中、鎧と剣が宙に浮き、白い何かが形作られて行く。まずは頭、次に胸、腕、脚、あっという間に元の形を取り戻した死者は、剣を振り上げると襲い掛かってきた。
「すぐ蘇るってわけじゃねぇんだな」
「あぁ、そうだな。でも、このくらいの時間だったら不安だ。倒した後も気をつけてないと‥‥‥」
「とりあえず、俺は背後の心配なねぇな」
 虎王丸が剣を一振りし、首をはねる。
 千獣と凪がゆっくりと部屋に入り、死者の鎧と剣を廊下に放り投げた虎王丸が続いて入った時、扉がバタリと音を立てて閉まった。
 ヒンヤリとした空気の中、どこからかポタポタと水が漏れるような音が聞こえてくる。水に濡れた足が板の間を歩くような、ヒタヒタと言う音がするが、守人の姿は何処にもない。
 グルリと部屋の中を見渡し、先ほどの事を思い出すと素早く顔を上げた。そこにやはりと言うか‥‥‥へばりついた守人の姿を見つけた。ぐっしょりと濡れた全身から水が滴り落ち、埃と蜘蛛の巣に汚された赤絨毯へと吸い込まれていく。吹き抜けの天井は高く、塔の先端部分に向かって緩やかに傾斜している。
 元は青かったであろう濁った瞳と目が合った瞬間、守人が何かを投げた。白い塊はこちらに向かって落下し、3人が同時に飛び退く。修羅離れしている彼らは、突然の攻撃にも十分対処できるだけの判断能力と身体能力があった。
 白い塊が解れ、広がる。蜘蛛の糸だと理解した直後、それは床にベッタリと張り付いた。
 粘り気のある罠は、迂闊に足を踏み入れれば糸に囚われて動けなくなってしまう。
「凪!守人の相手をしてやろうぜ!」
「千獣さんは、封印球をお願いします」
 コクンと頷いた千獣が、張られた蜘蛛の巣を気にしながら奥へと進み、本棚の上に置かれていた封印球を見つけると爪を一振りして棚を壊した。落ちてきた封印球に向かって爪を振り上げるが、表面には傷一つつかない。連続技で何度も攻撃を加え、微かにヒビが入ったのを確認するとふっと息を吐いた。
 封印球に危険が迫った事を感じた守人がそちらへ移動しようとするのを、脚を獣化した虎王丸が阻む。
「お前の相手はそっちじゃねぇ!」
 放たれた蜘蛛の糸を避ける。壁にベッタリと張り付いた糸の位置を確認すると、壁を蹴って守人に襲い掛かる。刀が唸り、守人が剣を振り上げてそれを弾き飛ばす。下で見守っていた凪が、リルドの能力が篭められた符を発動させる。
 氷の弾が真っ直ぐに守人を襲い―――避けられる。しかしそちらに気を取られた守人の背後はがら空きだった。虎王丸がその背に襲い掛かり、素早い動きで振り返った守人の蹴りを間一髪のところで避ける。先ほどの守人とは比べ物にならないくらい動きが早い。
 上空で戦いを繰り広げる虎王丸と守人だったが、下からの凪の援護もあり、虎王丸の方が優勢だ。攻撃される心配のない千獣が力いっぱい封印球に剣を叩きつけ―――ガシャンと、窓が割れる音に顔を上げる。塔のてっぺん近くに設けられた明り取りの窓から、汚れた茶色の羽を広げた吸血虫が入り込んできた。
 小柄な女の子が両手を広げたくらいの大きさがありそうな吸血虫の茶色く汚れた羽には点々とついた毒々しい模様がついており、それと同じ色をした小さな瞳は凶悪な色を孕んでいる。入って来た吸血虫はその両眼を真っ直ぐに虎王丸に向けると、急降下して彼の身体を細い無数の腕で捉えた。口元から伸びる細い管が小麦色の首筋に突き刺さり、血を吸い始める。強い力は虎王丸の抵抗などものともせず、彼の意識が遠のくギリギリまで血を吸い続けると、突然上空で腕を放した。



 落下してくる彼を受け止められるのは、近くにいる凪しかいない。しかし、果たして自分の力で虎王丸を受け止められるだろうか‥‥?
 凪の迷いを見て取った千獣が封印球壊しを中断し、落ちてくる虎王丸をキャッチする。
 吸血虫目掛けて符を発動させ、雷弾を放つ。背後から迫る守人を避けつつ、千獣に増血剤を投げ渡す。
 千獣が真っ直ぐに飛んできたソレを受け取り、虎王丸の口に含ませる。
 使い慣れていない剣では不利だと悟った凪が銃を構え、封印球を狙うが、吸血虫の動きを察知して体を捻る。
 体を捻った先に守人の剣が突き刺さる。あと1歩遅ければ突き刺さっていた‥‥‥額に冷や汗が流れる。
 吸血虫を銃で威嚇し、守人の攻撃をかわす。2体を相手にするのはなかなか大変だった。
 チラリと視線を横に流す。千獣が不安な顔でこちらを見ており―――



 クラクラと揺れる視界の中、千獣の顔が見える。
「俺は‥‥‥」
 まだぼやける頭を必死になって働かせ、起き上がる。周囲の状況を見て、瞬時に理解すると、未だにふらつく身体を無理矢理立たせ―――凪の背後に守人が迫る。
「凪っ!!」
 反射的に走り出し、吸血虫に銃を放っていた凪の体を押し飛ばす。突然の乱入者にも焦ることなく守人が剣を振り上げ‥‥‥ザンと、虎王丸の腕を深く斬りつける。
「くっ――――!」
「虎王丸!!」
 鋭い痛みに苦悶の表情を浮かべ、右腕を押さえる。腕からは夥しい量の血が流れ出し、色あせた絨毯を赤く染め上げている。
 身体が冷たくなっていくような錯覚、呼吸がままならなくなる息苦しさ。
 凪がミルカから貰った治癒薬を取り出し、虎王丸の口の中に押し込む。
 増血剤は直ぐに効果が現れるが、治癒薬は一定の時間を置かないとダメな場合がある。傷が深いと直ぐには治らないのだ。
 千獣が吸血虫を切り裂き、守人に向かう。
 守人の振り上げる剣を避け、壁を蹴って間合いを詰めると爪を振り上げる。跳ね返される事は承知だったため、体重はさほどかけていない。
 虎王丸の腕から血が止まり、除所に顔色が良くなっていく。体温が戻ってきて、霞んでいた視界がクリアになる。
 傍らに投げ出していた剣を掴み、立ち上がる。
「大丈夫なのか?」
「無理っつえば、休めるのか?」
「いや。休めないな」
 あっさりと言われ、だよなと口の中で呟く。
「千獣さん!」
 戦闘態勢に入った凪と虎王丸を見て、軽く頷くと千獣が駆け出す。
 七色に光る封印球に手を上げ――― 七色の光りがあふれ出す。
 守人が断末魔を上げながら光りの中に飲み込まれ‥‥‥目を閉じる。
 青い瞳をした物腰が柔らかそうな青年が1人、丁寧に頭を下げているのが見える。
 優しい表情で微笑む彼の瞳は、何も望んでいない。ただ、あるがままを受け入れ、そして‥‥‥
 ―――求めるよりも与える、か‥‥‥王族に相応しいやつだな‥‥‥
 彼のような人こそ、人々の上に立つべきなのだろう。自身の持つ力を、人々のために使うような人こそ―――
 最後にほんの少しだけ、寂しそうに細められた瞳に‥‥‥王子の王子としてではない、1人の人間としての姿を垣間見た気がした‥‥‥。
「第2王子だけど、こっちのが王様としての素質があったのかもな」
「‥‥‥そうかも知れないな‥‥‥」
「―――とっとと王の封印も解いて、帰るぞ」
 しんみりとそんな言葉を交わしていた2人には何も声をかけずに、千獣が閉ざされた扉の前に歩み寄った。銀色のドアノブに手をかけようとし―――ひとりでに開く扉に、1歩後退る。
「リルドさんにケヴィンさん、ミルカとメイは無事かな‥‥‥」
「当たり前だろ!あいつら、強いぜ?」
 虎王丸が力強くそう言いきった時、北の塔とを繋ぐ扉が外側から激しく叩かれた。
「死者がもうここまで‥‥‥」
「凪、そこにある棚を持って来い、バリケードを作るぞ。直ぐに突破されちまうだろうが、ないよりゃマシだろ」
 棚にソファーに机、部屋にある動かせそうな家具を全て扉の前に積み上げると、3人は王子様の部屋を後にし、城へ続く廊下を走り抜けた。



* * *



 死者が溢れる城内を疾走する。上から襲って来る吸血虫には威嚇程度の攻撃をし、広間目指して止まらずに進む。
 先頭を走るのは千獣で、その次に虎王丸と凪が続く。
 東の塔から城内へと入った3人は、城下町からなだれ込んできたと思われる死者の多さに唖然とした。細い通路には様々な武器を持った死者が蠢いており、孵化した吸血虫がそこかしこの壁にへばりついていた。
「ここは一気に駆け抜けるしか手はねぇようだな」
「‥‥‥てき、倒す‥‥‥」
「行くぞ!!!」
 白焔を背にした虎王丸が上空から襲う吸血虫を焼いて行き、千獣が鋭く伸びた爪で死者を切り刻む。死者が退いて出来た道を走り、後ろから追いすがる彼らを凪が倒す。
 廊下は一本道で、分かれ道で頭を悩ませなくて良い分ありがたかったのだが、挟み撃ち状態になっている現状では手放しでは喜べない。3人のうち誰か1人でも倒れたならば、王の広間にたどり着くことは出来ないだろう。
 死に物狂いで通路を進んだ先、金色に輝く両開きの扉が見えた。
「‥‥‥あそこ‥‥‥」
 何かに気づいたらしい千獣が声をかける。
 あともう少しで広間に辿りつけるのだが、まるで扉を守るかのように死者が大群で押し寄せて来ており、なかなか先に進めない。ついには足が止まってしまい、死者の中に取り残されたような状態になってしまった。上空からは吸血虫がこちらを伺っており、少しでも気を抜けば急降下してきそうだ。
 虎王丸の刀が唸り、凪の銃が火を吹く。千獣が高く跳躍して死者を蹴り飛ばし―――前方から真っ白な何かが死者の頭上を飛び越えてきた。目に痛いほどの純白の対の羽は、大きな鎌を持っており、吸血虫を死者を斬りつけると千獣の直ぐ目の前に着地した。
「メイ‥‥‥」
「皆様、ご無事で良かったです!」
 ふわりと微笑んだメイが、大鎌で迫り来る死者を斬りつける。―――表情と行動があっていないところが少々恐ろしいが、あえて目を瞑っておく。
「やっぱ無事だったみてぇだな!」
 元気の良い声と共に、青白い雷を身に纏ったリルドが剣を振り回しながらやって来る。その後ろには、ミルカを守りながら進むケヴィンの姿があり、どちらも目立った怪我はしていないようだった。
「そっちこそ、無事だったようだな」
「ま、一度死にかけたけどな」
「奇遇だな、俺も死にかけたんだぜ!」
 ミルカを守ろうとして怪我をしたのだろうか‥‥‥?ふと考え込みそうになるが、意識をコチラに引き戻す。
 軽口をたたきながら、リルドと合流する。千獣が広間の扉に手を触れれば、ゆっくりと内側へ開いていく。
 まずは千獣とメイが中に入り、凪がミルカを守りながら入る。ケヴィンと虎王丸、リルドが迫る死者を後方へと押し飛ばし、扉を閉める。
 内鍵をかけはしたものの、この扉も長くは持たないだろう。
「皆様、来ますよ‥‥‥!!」
 メイの緊張した声が広間に響く。
 今でも掃除する人がいるかのように綺麗な広間は、大理石の床が輝いていた。
 重く落ち着いた足音と共に、紅のマントを羽織り、黄金の冠を頭に乗せた初老の男性の姿が現れる。巨大な広間の奥は漆黒の闇が潜んでおり、グルリと見たところ見つからない封印球は、おそらくそこにあるのだろう。
 ズっと音を立てながら引きずられた大きな対の剣が、大理石の床を傷付ける。
 白く濁った瞳は元がどんな色だったのか分からない―――肖像画で見た時は深く澄んだグリーンの瞳だったが、今やその面影はどこにもない。
 全身から発せられるオーラは圧倒されそうなほどに強い。
「随分強そうだな、おい‥‥‥」
 虎王丸の頬を冷や汗が滑る。彼だけではない、その場にいる誰もが絶対的な力を滲ませる王―――守人―――の雰囲気に緊張していた。
「‥‥俺は封印球を狙う。千獣に虎王丸、守人を足止めできるか?」
「任せろ‥‥と、力強く言いたいところだが、約束は出来ねぇな」
「‥‥‥がん、ばる‥‥‥」
「‥‥俺がリルドさんを援護します」
「あたしとケヴィン様はミルカ様を守りましょう。状況によってはお手伝いします」
「あたしは歌を歌うわ」
 リルドは剣を構えると、走り出した。凪がその後を追い、千獣と虎王丸が守人に立ち向かう。
 ミルカがそっと竪琴の側面を彩る人魚を撫ぜ、息を吸い込む。
「♪後ろは振り返らない ただ進むのみ」
 力強い音は、仲間に勇気と力を与える。
 リルドが守人の傍を通り過ぎ、虎王丸が刀を、千獣が爪を振り上げる。どちらも脚は硬く短い毛で覆われており、獣のパワーは2人の身体を高く上空へと跳ね上げた。守人の頭上、右と左の両方向から攻撃を加える。
 守人の足が止まり、ふっと天井を見上げる。先ほどの歩行速度を見る限りでは、間近に迫った2人を避けられるほど素早いとは思えない。カッと濁った両眼が光り、太い腕に握られた大きな剣が振り上げられる。そのスピードは驚くほど早く、空中と言う不安定な場所にいた2人は避けるタイミングを失い、なるべく被害の少ない体勢に身体を捻る事しか出来なかった。
 鈍い音を立てて壁際まで吹っ飛ばされる千獣と虎王丸。虎王丸の背中に本棚が当たり、ガラガラと崩れ落ちる。千獣は高そうな椅子をなぎ倒し、壁に強かに背中を打つとむせ始めた。
「♪下を向いては 足が止まるから 上を向いては 空の青さに 吸いこまれるから」
 ミルカに迫る守人に、メイとケヴィンが戦闘態勢に入る。
 暗がりから鈍い音が聞こえてくる。おそらく、リルドが封印球に攻撃を加えているのだろう。
「♪前を向いて ただひたすら 伸びる道を見つめて」
 純白の羽で守人の頭上に飛び立ったメイが大鎌を振り下ろすが、難なく弾かれる。それを見ていたケヴィンが距離をとりつつ矢を放つ。
 空を切り裂きながら真っ直ぐに飛んだ矢は、守人の振り下ろした剣に跳ね返され、壁に突き刺さった。ケヴィンが矢を番え、キリキリと弦を引く。そちらに気を取られている隙にとメイが再び大鎌を振り下ろし――― 守人の左薬指にはめられた指輪、その紅の石が妖しく光り輝く。
 守人の指先から5つの炎の弾が上空と左右、真後ろと真正面へと放たれる。
 メイが大鎌を盾にして炎から身を守るが、勢いに力負けして壁に叩きつけられる。一瞬気を失っていた虎王丸と千獣は、炎の弾が当たる前に意識を回復すると、虎王丸は自身の白焔で、千獣は黒い羽で何とか身を焦がさずにすんだ。
 真後ろに放たれた炎の弾は凪の方へと飛んで行ったが、右へと避けて回避した。爆風によって数m床を滑りはしたが、回避時に腰を落としていたため、踏ん張りが強くきき、壁に叩きつけられる事はなかった。
 真正面に飛ばされた炎の弾は、歌い続けるミルカに向かっていた。
「♪信じた道は きっと 未来へと繋がっているから―――」
 ―――ミルカ‥‥‥!
 駆けつけようにも、間に合う距離ではない。
 目を見開いて固まったままのミルカは、完全に逃げるタイミングを逸してしまっている。近くにいたケヴィンがミルカの前に立ちはだかるが、細い剣だけでは攻撃を防ぎようがない。
 ―――どうすりゃ‥‥‥!!
 パニックで頭が真っ白になりかけた時、守人の後方から凄まじい勢いで何かが飛んできた。
 透明なソレは炎の弾に追いつくと包み込み、ケヴィンとミルカに当たった。強い水圧に押し倒され、床で背中を強かに打つが熱くはない。
 広間の異変に気づいたリルドが封印球への攻撃の手を止め、様子を見に来てくれたから助かった。
 彼は瞬時に状況を理解すると大気中の水を集め、ブーストをかけて放った。圧縮された水の弾は炎の弾よりも加速し、間一髪のところで追いつくと消し去った。
 ほっと安堵したのも束の間、守人の攻撃の矛先がリルドへと変る。剣を構え、走り出す守人のスピードはなかなか速い。
 先ほど飛ばされた際に武神演舞を舞っていた凪が、両手に持った銃の引き金を引く。大して狙いをつけなくても当たるのは、彼の身に宿った神霊が百戦錬磨の銃の達人だったからだ。
 反動をものともせずに引き金を絞り続ける凪だったが、巨大な対の剣はあっさりと弾いてしまう。
 キィン、キィンと弾が剣に当たっては弾かれる音が響き、守人が凪の目の前まで来る。左の剣が上空から振り下ろされ、身体を反転させて避けた先、右の剣が横から襲い掛かる。防御の体勢をとるものの、勢いを殺す事は出来ずに壁に叩きつけられる。
 リルドの元へは行かせないと、虎王丸が地を蹴って一気に間合いを詰める。剣を振り上げ――― 守人の左の剣が唸り、虎王丸を弾き飛ばす。上空から大鎌を持って急降下していたメイが右の剣に飛ばされるが、双方とも上手く防御し、壁に叩きつけられる事は免れた。
「‥‥‥リルド、封印、球‥‥‥!」
 幾ら守人を攻撃しようとも、封印球を壊さない限りはこの状況は好転しない
 千獣はリルドに声をかけ、守人に飛び掛った。長い爪は紅のマントを切り裂く前に巨大な剣によって弾かれた。その際に少し右腕を切られたが、大した痛みではない。
 リルドが封印球が置かれている奥へととって帰ろうとするのを制するように、守人の左手中指にはめられた水色の石が輝く。
 咄嗟に自身の周囲に水の壁を作り出すリルド。守人の指先から巨大な水の柱が生まれ、リルドを襲う。水柱の力は凄まじく、華奢な壁ともどもリルドは後方へと押し飛ばされた。
 鈍い音と共に壁に叩きつけられたリルドがぐったりと力なく床に横たわる。メイが急降下して守人の前に立ちはだかる。守人の意識がメイに向くのを見て、千獣が黒い羽を羽ばたかせ、リルドの身体を持ち上げると離れた位置で成り行きを見守っていたミルカとケヴィンの元へ運ぶ。
 ミルカがリルドの身体を素早く調べ、気を失っているだけだと判断するとポシェットの中から水筒を取り出して彼の口に含ませる。
「俺とメイで守人の注意を逸らす!凪!」
「分かった!」
 一番封印球の近くにいた凪が奥へと駆け出し―――ガンと、鈍い音が広間に響き渡った。
 ミルカとケヴィン、そして千獣とリルドの後ろにあった巨大な扉が、ついに死者達の攻撃に負け、倒れたのだ‥‥‥!
「‥‥‥ミルカ、リルド、を‥‥‥」
「分かってるわ!」
 まだ意識の回復しないリルドを膝に、ミルカが力強く頷いた。
 千獣とケヴィンがなだれ込んでくる大量の死者を前に、爪と剣を振るう。蠢く死者の上空、茶色い巨大な蛾がミルカとリルドに狙いを定めて飛んでくる。それに気づいた虎王丸が守人との戦闘を一時抜け、吸血虫の前に立ちはだかると身体から白焔を出して茶色い羽を燃やす。
 虎王丸が抜けた事によってメイが途端に劣勢に立たされ、対の剣に翻弄される。凪が封印球壊しを一時諦めて守人に銃を放つ。
「虎王丸!」
 凪が何かを言いたげに虎王丸の名を呼び、守人に銃を撃ち続けながら千獣とケヴィンの方へと走って行く。
「ケヴィン!」
 虎王丸に呼ばれたケヴィンがチラリと凪の動きを見ると全てを察したらしく、頷いた。
「‥‥‥ここは、守る‥‥‥から、行って‥‥‥!」
 一連の出来事を聞いていた千獣が、迫る死者を爪で切り裂くと力強く言い放つ。
「メイ!」
「大丈夫です!」
 メイが虎王丸の呼びかけに強く頷く。
 ‥‥‥戦いに身を置く者同士、口に出さなくても伝わる言葉。それは、一種の絆と言っても過言ではないものだった。
 凪が千獣の隣につき、ケヴィンがミルカとリルドを守るべく飛来する吸血虫に立ち向かう。ミルカとリルドの傍を離れた虎王丸が、1人で守人を相手に頑張るメイの元へ急ぐ。
 一連の出来事はほんの数秒のうちに完了されたが、もし誰か1人でも呼びかけの意味を理解できない者がいたならば、危険な状況だった。
 凪は自身の持つ天恩霊陣が大量の死者に有効であると思い、守人との戦闘を虎王丸に代わってもらうべく彼の名を呼んだ。
 虎王丸は凪が千獣とケヴィンの方へと走っていくのを視界の端に留め、彼の言いたい事を悟ると、ミルカとリルドを吸血虫から守る役目を代わってもらうためにケヴィンの名を呼んだ。
 ケヴィンは凪の行動、そして虎王丸の呼びかけに全てを悟ると、頷いた。
 無表情ながらもケヴィンの横顔に浮かんだ心配の色。ここを離れたら千獣が一人で敵を相手にしなければならない―――その考えを読んだ千獣が、彼の背中を押すべく大丈夫だと強く言い放った。
 最後、虎王丸がメイの名を呼んだのは、凪が千獣の元へつき、守人への射撃をやめた時、虎王丸が駆けつけるまでメイは1人で守人を相手にしなければならない。ほんの数秒だが、彼の力をまざまざと見せ付けられていた虎王丸は、心配になって声をかけた。それに対してのメイの答えは力強いものだった。
 凪が天恩霊陣を舞い、死者に毒を、味方に癒しを与える。虎王丸とメイが守人相手に奮闘し、ケヴィンも襲い来る吸血虫を剣で斬っていく。
「‥‥‥うっ‥‥‥」
「あ!リルドさん!」
 ミルカの膝の上で低く唸ったリルドが目を開け、一瞬顔を顰めると起き上がる。
「だいじょうぶなの‥‥?」
「あぁ。平気だ‥‥‥。それより、とうとう扉が破られちまったか」
 頭を掻き、傍らに置かれた剣を掴むと立ち上がるリルド。パリンと窓が割れる音がし、吸血虫が広間になだれ込んでくる。
「‥‥‥くそっ!厄介なヤツがこんな大量に‥‥‥!」
 苦々しく呟いたリルドが、コートの裏から清水の入った容器を取り出すとばら撒く。
「メイ!」
 リルドの呼びかけに、メイは一瞬だけ守人から視線を外すとばら撒かれた清水を見た。
「虎王丸様!」
「何か分からねぇけど、ヘマはすんなよ!」
 ザワリと場の空気が揺らぎ、リルドの足元に撒かれた清水が玉となって空中を浮遊する。
「一撃でも入れて隙が出来りゃ、風を喚んで一気に距離を詰めてケリを付ける」
 メイと虎王丸が飛び退き、メイは吸血虫を倒すべく空中に飛び上がり、虎王丸は少し考えた後で封印球へと走った。
 守人が虎王丸を追おうと背を向けた瞬間、リルドの右手が宙を切り裂いた。
「水の刃に貫かれろっ!!」
 大きく膨らんだ水の玉が弾け、無数の鋭い矢となって守人に襲い掛かる。守人が足を止め、その瞬間を見逃さずに風を喚ぶ。リルドの身体がふわりと浮き上がり、強い風の力で一気に守人に近付き――― 守人の右薬指にはめられた黒い石が妖しく輝く。
 黒い石から闇が生み出される。闇は急速に広がると、強い衝撃波となって広間を駆け巡った。
 空中で吸血虫と戦っていたメイが吸血虫ともども天井に叩きつけられ、封印球へと向かおうとしていた虎王丸が壁に吹っ飛ぶ。
 死者はあまりの衝撃に扉から押し出され、千獣と凪も廊下へと吹き飛ばされる。ミルカの華奢な身体が宙を舞い、ケヴィンが必死になって彼女の腕を掴むが自分の足も床についていない。
 ケヴィンは渾身の力でミルカの華奢な身体を抱き寄せ、しっかり胸に抱くと、右手に持った剣を床に突き刺した。何とか壁との激突は免れたが、右腕の筋を痛めた。
 衝撃波の一番近くにいたリルドは、後方から風に押されていたために数m飛ばされたに過ぎなかったが、あまりの衝撃に息が詰まった。
「くっそ‥‥‥」
 胸を押さえ、咳き込みながらリルドが喘ぐ。
「メイ‥‥‥!」
 天井にぶつかった衝撃で気を失ったメイが落ちてくる。彼女と一緒に落ちてくる吸血虫を白焔で焼きながら、虎王丸が痛む身体を引きずって彼女の身体をキャッチする。
「‥‥‥凪、なぎ‥‥‥!」
 廊下からは千獣の声が響いてくる。死者の真っ只中に取り残された千獣は、床に叩きつけられた衝撃で気絶した凪を守りながら四方から来る敵と戦わなくてはならなくなっていた。
「いっ‥‥‥」
 右腕を押さえたケヴィンが苦しそうに眉根を寄せ、剣を左手で持つと立ち上がる。
「ケヴィンさん‥‥‥!」
 千獣の援護に回ろうとしているケヴィンだったが、利き腕はダラリと力なく身体の脇で揺れている。
「そんな腕で行くなんて、むちゃよう!」
 ミルカが切羽詰った声を上げるが、千獣と凪を見殺しには出来ない。虎王丸は目を覚ましたメイと共に吸血虫と戦っているし、リルドは守人と対峙している真っ最中だ。援護に駆けつけられるのはケヴィンしかいない。
「虎王丸、メイ!虫と守人、ほんの少しで良い‥‥‥任せられるか!?」
「それしか手がねぇんならな!」
「リルド様、何かお考えがあるのですか?」
 迫り来る吸血虫を大鎌で叩き切ったメイが、フワリと守人の前に着地する。虎王丸が刀を横に振り払って吸血虫を威嚇し、守人の背後を取る。
「千獣、聞こえてるか!?お前らの上だけ空間を開けて死者を氷の牢に閉じ込める!」
「‥‥‥上、から、脱出‥‥する‥‥‥わかった‥‥」
「ミルカ、少しで良い、死者の動きを止めろ」
「分かったわ!」
 リルドは最後の清水を床にばら撒いた。メイと虎王丸が守人に両方向からの攻撃を加え、彼の意識がリルドやミルカの方へ向かないように気を逸らさせる。竪琴を手に幻想的な曲を紡ぐミルカを吸血虫の攻撃から守るべく、ケヴィンが左手で剣を振るう。
「♪夢を見ていた 優しく 穏やかな夢」
 揺れるようなか細いメロディは美しく、死者の動きが鈍くなる。千獣はすぐ近くにいた数体を爪で切り裂くと、凪の身体を持ち上げた。
「♪白い翼で 空を飛ぶ 柔らかい風を感じた」
 リルドの身体を包む青白い光が点滅する。足元から冷気が立ち上り、撒かれた清水から白い煙のようなものが湧き出して床を滑って行く。
「♪温かい太陽に手を伸ばす 青く澄んだ空は遠くて 手が溶け込みそうで」
 水が凍結する微かな音が広間を包む。白い煙は真っ直ぐに廊下に流れ出すと壁と伝い、天井で1つに結ばれると鋭く輝いた。
 氷の牢が死者を囲い、千獣は凪を抱えると氷の牢の中から脱出した。黒い羽が窮屈そうに天井に当たり、何とか死者の大群を抜けるとミルカとケヴィンの前に降り立った。
 ミルカが凪を仰向けに寝かせ、ポシェットから水を取り出すと口に含ませる。数度頬を叩き、薄っすらと開いた目に安堵する。
「この、氷の、牢‥‥‥どのくらい、もつ‥‥‥?」
「結構持つと思うぜ。今のうちに封印球をぶっ壊すぞ!」
「あたしと虎王丸様で守人を食い止めます!千獣様とリルド様は封印球を!」
「凪はケヴィンと一緒にミルカを守れ!余裕があったら吸血虫も頼んだぜ!」
 凪が大きく深呼吸をし、軽く頷くと立ち上がる。
 仲間の能力を高めるべくミルカが甘い声で歌い始め――― 守人の右中指にはめられた白い石が輝く。
 また何かの魔法か―――!?
 光りが広間を駆け巡り、防御体勢に入る。しかし、思った衝撃はこなかった。眩んだ目を薄く開け、今のは一体なんだったのかと広間を見渡す。
 まず気づいたのは、リルドを包んでいた青白い雷が消えていたことだった。そして―――死者を閉じ込めていたはずの氷の牢が跡形もなく消えている事に愕然とする。
「これはいったい‥‥‥」
 メイが首を傾げる。何が起きているのか、最初に気づいたのはミルカだった。
 凪の袖を引っ張り、自身の喉を指差して首を振る。何のジェスチャーかと思案顔になった凪が、はっと顔を上げる。
「無効化―――!!」
 コクリ。ミルカは頷いた。
 この場には無効化の魔法がかけられており、ミルカの歌魔法は勿論の事、リルドの魔法も、虎王丸の白焔も発動できない。
「どうして無効化なんて‥‥‥!」
 メイが目を大きく見開き、小さな手で口を覆う。
「今はそんなこと言ってる場合じゃねぇ!」
 驚きからいち早く立ち直ったリルドが剣を構える。行く手を遮るものが無くなった死者たちが、近くにいたケヴィンと凪に襲い掛かり、廊下から飛んできた吸血虫が千獣に襲い掛かる。
 壊れた窓からも吸血虫が侵入し、メイがそちらへ飛び立つ。虎王丸とリルドが守人の動きを止めようと双方から攻撃を加える。
 凪が舞った天恩霊陣も無効化にかき消されており、死者は何の障害もなくおのおのが持った武器を振り回している。勢いに押され、後退し始めるケヴィンと凪。圧倒的に不利な状況に、千獣が近くにいた吸血虫を倒すと加勢に加わる。
 状況を見て取ったメイが降下し、廊下から入ってくる吸血虫と上空から飛んでくる吸血虫の両方を相手に奮闘する。
 大鎌が唸りながら空を切り裂き、集まっていた3匹の吸血虫の羽を切り落とす。次から次へとやってくる吸血虫は、一斉に四方からメイを囲むと一気に襲い掛かった。大鎌を持ったまま回転し、周囲に集まっていた吸血虫を倒す。下から飛んでくる吸血虫は蹴り飛ばしたのだが、上空から飛んで来る吸血虫を避ける事は出来なかった。腕を盾にして何とか顔への攻撃は免れたが、鋭い歯に切り裂かれた腕からは血が滴り落ちている。
「くっ‥‥‥!」
「メイ!!」
 下でその様子を見ていた虎王丸が思わず攻撃の手を緩め、その好機を逃さずに守人が剣を振り下ろす。一瞬判断の遅れた虎王丸の胸に一筋の赤い線が描かれ、そこからユルユルと鮮血が流れる。
「うっ‥‥‥」
「虎王丸!」
 斜めにかなり深く斬られた虎王丸が胸を押さえてうずくまり、リルドは彼を助けるために地を蹴った。守人の攻撃をかわし、虎王丸の前に立ちはだかる。対の巨大な剣が十字に合わせられ、渾身の力をこめて振り下ろされるのを剣で受け止める。あまりにも重い衝撃に押し潰されそうになるが、歯を食いしばって耐える。
 リルドの一大事に千獣が漆黒の羽を羽ばたかせ、守人の顔目掛けて爪を伸ばす。あともう少しで当たると言うところで守人が剣を振り上げて千獣の攻撃を弾く。
 千獣がいなくなったことで劣勢に追い込まれた凪とケヴィンが再び後退を始め―――2人の一瞬の隙をつき、死者がミルカに走りよる。壁際で成り行きを見守っていたミルカが、振り上げられた剣を何とか避ける。
 襲い来る死者から逃れるために走り、磨かれた大理石に横たわる死んだ吸血虫に足を取られて転倒する。
 手に持っていた竪琴が床を滑り、淡い色のスカートが広がる。銀色の細い髪を縛っていた白いリボンがはらりと解け、誰のものかは分からないが、落ちていた血に染まる。
「ミルカ‥‥‥!!」
 虎王丸は叫ぶと走り出した。
 ―――間にあってくれ‥‥!!
 心の中で叫びながらミルカと死者の前に降り立ち―――――
「ダメっ!!!」
 ドンと、何かに押し飛ばされる。予想外の強い力に尻餅をつき‥‥‥ザンと、剣が濡れた何かを切り裂く音が聞こえる。それは確かに人を斬った時の音だったが、虎王丸の身体を斬られた様子はない。
「ミルカ!!」
 凪の叫び声が広間を揺るがす。それは、クールな彼からは想像も出来ないほどに上ずった、悲鳴のような声だった。
「ミルカ様!!」
 メイの声が頭上から降り注ぐ。甲高い叫びは絶望を含んでおり、虎王丸は目の前で起こった惨劇に言葉を失った。
 死者の剣がミルカの華奢な身体を切り裂く。右肩から入った刃は左のわき腹までを切り裂き、手に持っていた純白の竪琴が足元に落ちる。
 立てひざをついた状態だった身体が、グラリと横に傾ぐ。受け止めようと立ち上がり、手を伸ばすが、不安定な体勢で受け止めたために一緒になってひっくり返り、肩を強かに打った。鈍い痛みが肩に走り、虎王丸は顔を顰めると上体を起こした。
 目の前には左手に剣を持ったケヴィンが立っており、その足元には首をはねられた死者が転がっている。
 虎王丸は自身の腕の中にいるミルカの顔を覗き込んだ。
 硬く閉じられた目、薄く開いた口の端からは赤い糸のようなものが見える。細く頼りなげな首筋、胸元で揺れるリボンは断ち切られており、そこから目に痛いほどに真っ白な肌が見える。
「―――――ミルカ‥‥‥‥?」
 自分のものとは思えないほどに情けない声が口から漏れる。
 胸から溢れる血は薄い服を染め上げ、床に滴り落ちている。ぐったりと投げ出された手から落ちた竪琴は床の上で寂しそうに揺れていた。
「どけっ!!」
 呆然と固まる虎王丸を押しのけ、リルドがミルカの首筋に指を当て、耳を顔に近づける。
「‥‥‥大丈夫だ、息はある‥‥‥ただ、そう長くは持たねぇ‥‥‥」
 リルドが苦々しく言い、立ち上がる。彼が抜けた穴を千獣が埋め、1人で果敢に守人に向かっている。入り口から入って来る死者の大群に苦戦しているケヴィンと、それを援護する凪の姿が目に入り、空中で1人吸血虫と戦っているメイの姿を見上げる。
「‥‥‥虎王丸‥‥‥くん‥‥‥」
 苦しそうに開けられた口の端から、細かい血の泡が落ちる。
「喋るな!」
 声が震えている。虎王丸はどこか遠くでそう思いながら、ミルカの顔を見つめた。
「‥‥‥お願い‥‥‥ふういんきゅう‥‥‥を‥‥‥」
 ふっと意識を失うミルカ。華奢な身体は血に濡れ、荒い呼吸は苦しそうだ。
 ―――もっと早くきづいてれば‥‥‥
 ミルカをもっときちんと守っていれば、もっと早く駆けつけられれば、もっと、もっと―――
「なにやってんだ虎王丸!」
 頭上から降り注いだ叱咤の声に、ビクリと肩を震わせると顔を上げる。
「今、そんなこと考えてる場合か!?‥‥違うだろ、今は自分に出来る事を考えるんだよ!後悔なんて役に立たねぇもんは一切考えるな!」
 強い光を宿した瞳をジっと見つめる。深い海のような色は、虎王丸の心に重くのしかかった何かを急速に溶かした。
 ―――今、出来る事‥‥‥
 皆に守られながらここまで来たミルカ。非戦闘員だと言いつつ、ミルカは欠かすことの出来ない大切な役割を担っていた。もし彼女がいなければ、ここまでたどり着けなかっただろう‥‥‥。
 王家の人を助けたい。その気持ちの強さだけでココまで来た。
 彼女はいつだって、自分に出来る精一杯の事をやっていた。だからこそ―――
 だからこそ、虎王丸を突き飛ばした。自分が斬られると分かっていて、それでも自分に今出来る精一杯の事は守られることじゃなく‥‥‥守ることだと、ミルカは自分自身でそう決めた。
 この手が届くのならば―――助けられるだけじゃなく、助けるために―――
 唇を噛み締める。チリリと唇が痛み、血の味がするのも構わずに立ち上がる。
 ―――今、出来ることは何だ―――?
 守れなかったと、後悔するだけなのか?
 変えられない過去を嘆き、ありもしない未来を想像するだけなのか?
 ぐっと、拳を握り、立ち上がる。
 ――― 変えたいのならば、前に進まないと‥‥‥
 自分の決めた選択に、後悔はしたくない。いつだって、未来に繋がる選択をしてきたと思いたい。
 ‥‥‥間違った選択肢があるとは思わない。選んだ後、歩む道を間違えなければきっとソレが正解になるはずなんだから‥‥‥。
 ―――きっと正解にしてみせる‥‥‥絶対に諦めない。絶対に、ミルカは助かる‥‥‥
 歯を食いしばり、走り出す。痛めた肩と腕が重たいが、そんなことは構わずに走る。
 守人の相手をしているリルドと千獣の脇を通り抜け、暗闇の中へ入る。
 応接間のような狭い部屋の中央、どっしりとしたテーブルの上に乗っている七色の封印球を見つけ、虎王丸両手に力を篭め、刀を振り上げた。渾身の力を篭めて封印球の上に刃を振り下ろす。すでに細かなヒビが入っていた封印球は、体重の乗った重たい一撃にパキリと割れ――― 七色の光りが漏れ出す。
 広間から聞こえてくる雄たけびのような声を聞きながら、虎王丸は光に包まれた‥‥‥



 目を開ければ、そこは真っ白な世界だった。上も下も右も左も、純白に染め上げられた世界だった。
「おめでとう、逞しい勇者さん」
 凛と良く響くテノールの声に振り向けば、サラリとした金髪の、驚くような美少年が立っていた。
 象牙のように白い肌に、長い睫、血のように赤く透き通った瞳はどこまでも深く、華奢な身体は今にも折れそうだ。
「お前は‥‥‥」
「僕の名前はクロード。クロード・フェイド・ペディキュロージアって言うんだ」
 ふわり。思わず見つめてしまうほどに完璧な笑顔だった。
 虎王丸よりもやや背の高いクロードは、悪戯っぽく目を細めると腰を屈め、彼の顔を覗き込んだ。
 近付いた顔は近くで見ても繊細で、思わず顔を引いてしまう。
「この魔法を作った張本人だよ」
 ――― 刹那、何を言われたのか分からなかった。
 それは、彼があまりにも無邪気に言ったからかもしれなかった。
 それは、この残酷な魔術を施した相手がこんなに若く、綺麗だとは夢にも思わなかったからかもしれなかった。
「お前が‥‥‥!」
「そうだよ。‥‥あぁ、君は本当に炎が良く似合うね」
「‥‥どうしてこんなことを!」
「さぁ、どうしてだろうね。ただの気まぐれ、かな?」
 かっと、頭に血が上る。
 ただの気まぐれで呪いをかけられた王家、呪縛に苦しんだ王族―――
 目の前が真っ赤に染まるような錯覚に、虎王丸は反射的に刀を構えた。
 頭の中でグルグルと映像が回る。守人となった王家の人々、廊下にかけられていた肖像画の幸せそうな顔‥‥‥
 ザンと人を斬る手ごたえを感じて前を見れば、クロードの姿はそこにはなかった。
 必死に視線を彷徨わせ―――背後に感じた殺気に振り返る。
 バシリと鈍い音がして、両手首に何かが巻き付けられる。グイグイと締め付ける力は凄まじく、虎王丸は堪らずに刀を足元に落とした。
 見れば手首には紅の光りを纏った紐が巻き付いており、炎の魔法だと気づいた時、手首が熱さに悲鳴を上げた。
「うっ‥‥‥」
「少し頭を冷やして欲しいな。いきなり斬りつけるなんて、酷いじゃないか」
 あまりの痛みに床に膝をついて苦しむ虎王丸を前に、クロードは楽しそうに微笑むとグイと顎を掴んで上を向かせた。
「は‥‥なせ‥‥‥」
「どうもさ、君みたいに熱い人を見ると苛めたくなっちゃうんだよね」
 この上もなく楽しそうな残酷な笑みを浮かべるリルド。ジリジリと手首から焼けていくような感覚に、汗が浮かぶ。
 上げそうになる声を抑えて歯を食いしばり‥‥‥すっと虎王丸の顎から手を離すと後退った。
「‥‥‥また会えたら良いね、虎王丸君。君、苛めがいがありそうだから、もっと時間がある時にまた遊びたいな」
 クスクスと笑い声を上げながら、クロードが手を振る。
 あまりのセリフに虎王丸が唖然とした時、彼の姿が炎に包まれた。
 ゆらゆらと揺らめくそれは瞬く間に白の世界に広がり、全てを赤く染め上げた―――



 遠くで何かが燃える音に、虎王丸は目を覚ました。
 黄昏に染まり始めた空を背景に、千獣の心配そうな顔が近くで見える。
「虎王丸‥‥‥起き、た‥‥‥?」
「俺は‥‥‥」
「虎王丸様!良かった‥‥‥」
 身体を起こそうとする虎王丸を千獣が手伝い、メイが駆け寄ってくる。
「‥‥‥ミルカは!?」
「大丈夫だ。ミルカのポシェットからリブセンの葉とサンフロウの花を出して応急手当をしておいた。俺の舞の効果もあるし、すぐに傷も癒えて立ち上がるさ」
「凪‥‥‥」
 ほっと安堵の溜息をつく。身体にキズも残らないと言う凪の言葉に、自然と表情が緩む。
「虎王丸様が封印球を壊した後、急にここに飛ばされたんです。‥‥‥王国はもう、浄化の炎で焼き尽くされています」
 ―――浄化の炎‥‥‥?
「聖なる力を持った魔術師にしか創り出すことの出来ない、浄化の炎です」
 メイの瞳が鈍く光る。
 ――― 聖なる力を持った魔術師、か ―――
 虎王丸は心の中で呟くと、先ほど白の空間で出会ったクロードと名乗る男の顔を思い浮かべた。
 あれは一体なんだったのだろうか?虎王丸の名前を知っていたと言う事は、あれは事前に撮ったものを封印球の中に込めていたわけではない。
 そうなれば、考えられる事は‥‥‥
 ―――封印球を割ると、あの空間に繋がるように出来ていた。そしてあいつは‥‥‥きっとどこかで生きている―――
 両手首に視線を落とす。何かに締め付けられたような生々しい痕に、唇を噛む。
 ―――クロード・フェイド・ペディキュロージア‥‥‥‥‥



END

 
 ◇★◇★◇★  登場人物  ★◇★◇★◇

 【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


  1070 / 虎王丸 / 男性 / 16歳 / 火炎剣士


  2303 / 蒼柳・凪 / 男性 / 15歳 / 舞術師

  3087 / 千獣 / 女性 / 17歳 / 異界職


  1063 / メイ / 女性 / 13歳 / 戦天使見習い

  3544 / リルド・ラーケン / 男性 / 19歳 / 冒険者

  3425 / ケヴィン・フォレスト / 23歳 / 賞金稼ぎ

  3457 / ミルカ / 女性 / 17歳 / 歌姫 / 吟遊詩人


 ◆☆◆☆◆☆  ライター通信  ☆◆☆◆☆◆

 かなりの長文&かなりお待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。
 虎王丸君には今回、ことあるごとに怪我をさせてしまいました。
 そしてクロードには変態ちっくな事を言われ‥‥散々な目に遭わせてしまいました、すみません!
 千獣ちゃんも凪君も強いという事で、守人との対決はさほど苦戦していません。
 流石に王との戦いでは苦戦いたしましたが‥‥
 虎王丸君らしさを少しでも描けていればなと思います。
 ご参加いただきまして、まことに有難う御座いました!