<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


王家の封印 〜 diva shows a dream 〜



 昔々あるところに、民からの信頼が厚い王家がありました。
 王様は思慮深く民思いで、お妃様は慈悲深く、お姫様は目を見張るほどに美しく、2人の王子様は剣の腕が一流でした。
 貧しい者には食べ物を与え、困っている人がいれば話を聞き、国の発展に努めていました。
 争いを好まない王様は他国との仲も良好で、王国は繁栄の一途を辿っておりました。
 しかし、その繁栄を快く思わない人がいました。
 隣国の王様は、栄え行く王国に嫉妬の念を抱いていました。
 争い好きで贅沢好き、民から絞れるだけ税をとる王様は信頼も低く、戦争のたびに負け、国の財政は貧窮していました。
 ある日隣国の王様は1人の魔術師を呼ぶと、王家を滅亡させる手はないかと尋ねました。
 魔術師は暫し考えた後で、ある魔術をかければ王家のみならず、王国も滅びましょうと言いました。
 その魔術はお妃様、お姫様、2人の王子様を東西南北それぞれの塔に封じ、城の真ん中にある広間に王様を封じると言うものでした。
 5つの封印の力で悪しき者が目覚め、王国は死者の国になりましょう。魔術師のその言葉に、隣国の王様はすぐにその魔術をかけるようにと命令しました。
 まずは四方の塔にお妃様、お姫様、2人の王子様を封じ、広間に王様を封じました。
 すると何処からともなく不気味な声が聞こえ、王国中の墓から死者が蘇りました。
 死者は生者を喰らい、仲間にし、ついに王国は滅びてしまいました。



 エスメラルダはどこまでも深く見える闇色の瞳を細めながら、後頭部で1つに結んだ長い茶色の髪を背に払った。人が疎らな黒山羊亭の中、喋り続けていた彼女はいささか疲れたのか、小さく溜息をつくと琥珀色の液体の入ったグラスを傾けた。
「噂では、お城は今や荒れ放題、骸骨と化した死者が闊歩し、人の生き血を吸う吸血虫が生息しているらしいわ」
 死者は倒しても倒しても蘇り、たとえ散り散りに破壊しようとも無駄なのだと言う。
 吸血虫は城のいたるところに卵を産み、生者の体温や音に反応して孵化し、ある一定の時間がたつと巨大な蛾になって生者を襲うのだと言う。
「吸血虫は孵化する前に卵を壊せば良いのだけれど‥‥結局、巣を壊さないと次から次へ産まれてしまうわ」
 エスメラルダの細く整った眉が顰められ、むき出しの腕に鳥肌が立つ。自分で言っていて、その光景を想像してしまったのだろう。
「死者を倒すためには、東西南北各塔にある封印球を壊して、最後に広間にある封印球を壊せば良いのだけれど、封印球は硬いし、封印球を守る者がいるの」
 北の塔には動きは遅いながらも力が強い1人の王子
 南の塔には力は弱いながらも動きの早い1人の姫
 東の塔には素早くそして力も強い1人の王子
 西の塔には素早く狡猾な1人の妃
 広間には王がいるが、4つの封印球を全て壊してここを訪れた者はまだおらず、力の程は不明
「封印球を守っている者は、封印球が壊れれば消えるわ。最後は広間の封印球を壊せば良いのだけれど‥‥」
 エスメラルダが困ったように言葉を濁し、薄く口紅をひいた唇を噛む。
「各塔に散っていた死者は広間に集まるでしょうし、王だって手強いはず。死者と吸血虫、王の攻撃をかわしながら封印球を壊すとなると、かなりキツイ戦いになると思うわ」
 上目遣いでこちらをチラリと見ては、手元のグラスに視線を落とす。再びチラリとこちらを見ては、潤んだ瞳を懇願するように細め、またグラスに落とす。
「‥‥とても危険が伴うけれど、その分報酬は良いわ。どうかしら、引き受けてもらえないかな?」



* * * diva shows a dream * * *



 窓から差し込む光が黒山羊亭の中に斜めに差し込み、誰かが動くたびに小さな埃が舞い上がり、キラキラと幻想的に輝く。夜にはお酒と踊り、歌に酔いしれるこの場所は現在、重苦しい沈黙に支配されていた。
 この場にいる者は皆、美味しい食事を求めて、または一時の仄かな酔いを求めて、あるいはほんの少しの予感を胸に、昨晩ベルファ通りにあるここ、黒山羊亭へと足を運んで来た。



 店内には低くクラシックがかかり、そこかしこで楽しげな、それでいて十分に押さえた声量の話し声が花開いていた。舞台の上に踊り子の姿はなく、本来そこで人々を魅了する踊りを舞っていなければならないはずのエスメラルダはカウンターの奥でボンヤリとした顔でカクテルを作っていた。
 深く思い詰めているような横顔は寂しげで、ミルカは肩にかけたショールを脱ぎ、左手にかけるとそっと彼女の前に腰を下ろした。
「あら、こんな時間に珍しいのね」
「ちょっとエスメラルダさんの料理が恋しくなっちゃったの」
「可愛いこと言ってくれるわね。すぐに用意するわ。何が食べたいのかしら?」
「うーん、そうねえ‥‥お任せしても良いかしら?」
「もちろん。直ぐに作るから、待ってて」
 エスメラルダはそう言うと、ミルカの前にオレンジジュースの入ったグラスを滑らせた。ゆらりと波打つオレンジ色の水面は、照明がかなり落とされたこの場所で見ると、全く別の飲み物のようにさえ見えた。
 店内にかかっているクラシックはミルカも聞いたことのあるもので、物悲しい旋律は今にも壊れそうなほどに美しく儚気だ。
 ―――確かこれは、どこかのお姫様のための鎮魂歌‥‥だったわよねえ?
 目を閉じ、曲に集中する。今にも口をついて出そうになる歌声を我慢し、頭の中に歌詞を思い浮かべる。
 ―――そう‥‥出だしは‥‥
「お待たせ。‥‥寝てるなんてことはないわよね?」
 エスメラルダの凛と耳障りの良い声に目を開ける。目の前には熱々のオムレツとハーブの入ったパンが置かれている。オムレツの上にはホワイトソースがたっぷりかけられており、彩りに緑色の葉っぱが乗せられている。
「考えごとをしていただけよ。‥‥うーん‥‥良い匂い‥‥おいしそうだわあ」
 スプーンを手に取り、いただきますと呟いてオムレツを崩しにかかる。トロリと半熟の卵とホワイトソースが絡み合い、食欲を誘う良い香りが鼻腔をくすぐる。ミルカは熱々のそれに数度息を吹きかけてから口の中に入れた。
「やっぱり美味しいわあ、熱々で、とっても体があたたまるわ」
 するすると食道を通り、胃に落ちていくオムレツは、冷え切ったミルカの身体を中から温めてくれる。
 オムレツとパンに舌鼓を打っているうちに、いつの間にか店内にかかっている曲は明るいものに変り、ふと気づけば黒山羊亭の中は人が疎らになっていた。
「そう言えばさっき、考えごとをしていたって言っていたけれど、どんな事を考えていたの?」
「どんな歌だったかしらあって、思い出そうとしてたのよう」
「‥‥どんな歌だったか‥‥?」
 エスメラルダの細い眉が顰められる。主語が抜け落ちたミルカの言葉は、彼女を当惑させた。
「ええーっと、ほら、さっきまでかかってた曲があったじゃない?」
「あぁ、“高き南の空に住まいし麗しき姫のための鎮魂歌”ね?」
 コクリと頷く。既にオムライスは食べ終わり、ハーブ入りのパンをお皿に残ったソースにつけて食べる。
「たしか、歌いだしは ♪栄える王国 美しき姫 王は賢く 民を愛し」
「♪妃は慈悲深く 王子は強い 栄える王国 今どこに」
「♪姫を呪いし 憎き魔道師 美しき姫 その御心は 今どこに」
 エスメラルダとミルカの声が合わさり、綺麗なハーモニーを生み出す。黒山羊亭にまだ残っていた数人のお客が突然の合唱にこちらを振り向く。
「‥‥‥ねぇ、ミルカちゃん。こんな話を聞いた事はないかしら?」
 エスメラルダはミルカの前に腰を下ろすと、長い昔話を語って聞かせた。スラスラと紡がれるそれは、彼女がその話を今日初めてしたものではないと言う事を如実に語っていた。
 ―――きっと、あたしが来る前にもこうやって誰かに話してきかせたんだわ‥‥。
「もちろんね、今直ぐに返事を聞きたいとは言わないわ。断ってくれても構わないの」
 沈黙したミルカに優しく語り掛けるエスメラルダ。その瞳は捨てられた子犬のように寂しげで、行くわと言う言葉が喉元まででかかる。けれど、話に聞くだけでも難しそうな依頼だ。無傷では帰って来れないだろう。
「もし決心がついたら、明日の昼にここに来て?一晩しか考える時間がなくて申し訳ないんだけれど‥‥」
 エスメラルダは寂しそうに微笑むと、そうだわと可愛らしく呟いて胸の前でパチリと手を合わせた。
「ミルカちゃん、もし良ければ1曲歌ってくれないかしら?あそこにカップルが見えるのが分かる?彼女達のために‥‥‥」
 振り返れば、気弱そうな青年と腰までの金髪が見事な美女が楽しそうに顔をつき合わせてお喋りをしていた。
「その代わりと言っては何だけれど、食事代はいらないわ」
「お安い御用よう」
 ミルカは膝に乗せてあった竪琴を取ると、2人の会話の邪魔にならない程度の音量で華やかな旋律を紡ぎ出した。
 明るく弾むような曲は、どこかのお姫様の美しさや無垢さを賛美したもので、さほど有名ではないが時折リクエストを受ける事がある。賑やかな場所では手拍子を受けながら軽快に演奏するミルカだったが、今日はスローテンポで1音1音を大切に紡ぐように演奏した‥‥‥。

 繊細な音色はまるで、恋のよう‥‥ほんの一瞬のタイミングで変ってしまう、壊れやすいモノ。
 繊細な音色はまるで‥‥‥幸せのよう‥‥‥たった1つのコトで狂わされてしまう、壊れやすいモノ。

 ミルカは恋人達のためにさえずるように歌いながら、エスメラルダから聞いた悲しい王国の話に思いを馳せていた‥‥‥。



「お話を伺った限り、決して赦されることではありませんっ!一刻も早く封印から王国を解放して、その封印を施したという隣国の王と魔術師に裁きの鉄槌を行わなければっ!」
 メイの力強い声に、ミルカは顔を上げた。昨晩の記憶を回想していた彼女の前に、いつの間に出されたのか温かなココアが置かれていた。膝の上で組んだまま固まっていた手を解き、小花があしらわれたカップの側面を両手で包み込む。
「第一、死者を玩ぶ所業も赦せることではありません。安楽の死を乱して、生者の営みを壊すなど、言語道断です!」
 雪のように白い肌が火照り、ピンク色に染まる。普段ならば伏せ目がちに控えめな輝きを発する紫銀の瞳は、今は力強い光を纏っている。怒りのためにか、肩が小刻みに震え、膝の上で握り締めた手には血管が浮かび上がっている。
「死者を還す事も我が使命のひとつ。ぜひ参加したいと思います」
 きっぱりと言い放った口調は、メイの決心の強さを如実に語っていた。
「炎帝白虎には自然の秩序を守る使命がある。俺も参加するぜ」
 不敵な笑顔でメイの次に名乗りを上げたのは虎王丸だ。健康的な小麦色の肌をした彼は、隣に座る大人しそうな少年―――蒼柳・凪の腕を肘で突付くと、お前もだよな?と言うように眉を跳ね上げた。
「俺には‥‥上の立場に立つ者が王国を滅ぼそうと考える事が理解できない。民なくして、王族の繁栄はありえないのだから」
「利口な王はそこに気づくだろうな。でもよ、この広い世界、民を顧みない王だっている。そんな暴君はいつだって自己中心的、目先の事しか考えられねぇんだよ」
 皮肉気な口調でそう言うと、リルド・ラーケンはともすれば冷たく見える青色の目を細めた。透き通った白い肌に整った顔立ち、美青年と言う部類に入れてもおかしくない容姿をしているリルドだったが、全身から発せられる鋭い雰囲気はそれを拒むかのようだった。
「確かに、そう言う王もいるわね。悲しいことだわ‥‥」
 エスメラルダがしみじみと呟き、琥珀色の液体の入ったグラスを傾ける。
「全員で1つ1つ塔を当たるよりも、2手に分かれた方が効率が良いと思うの。7人で動くとなると大変だし、4つも回っていたら夜になってしまうわ。塔からはお城に通じる通路もあるし‥‥どうかしら?」
「そうですね、それが良いと思います。細い通路などで戦闘になった時、危険ですし。そのことも踏まえて、皆様の能力や戦闘スタイルを知っておきたいと思うのですが、どうでしょう?お話に聞くだけでも難しい依頼ですし‥‥皆様との連携が上手くとれない限り成功の見込みはないと、あたしは思います」
「メイの言うとおりだな。俺は白焔を使おうと思ってる。アンデッドには有効だからな。戦闘スタイルは‥‥」
「単純馬鹿で猪突猛進、誰かがブレーキをかけないと危ない‥‥ってところか?」
「なーぎーっ!!」
 だって本当の事だろう?と、いたってクールな凪は、キャンキャンと隣で怒鳴る虎王丸を押し止めると、懐から赤茶色の文字が書かれた薄い紙を数枚取り出した。
「俺は呪符を使おうと思ってる。最初から銃を使って、遠距離攻撃が可能な事を相手に知らせたくはない」
「その呪符はどんな力があるんですか?」
「虎王丸の白焔を篭めようと思っている」
「篭めるってことは、今のその紙には何の力もないってことですよね?」
「あぁ、そう言う事になるな。虎王丸、頼む」
 分かったと呟き、虎王丸が右手を符に乗せる。ポワリと白銀の光が符を包み、符の中心に焔の記号が浮かぶ。幻想的な光は空気へと溶け、虎王丸は符を凪に差し出すとまだ何も篭められていない符を取り、再び先ほどと同じ手順で符に力を篭めた。
「それって、何か特別なことをしないと篭められねぇのか?」
 リルドの質問に、虎王丸が首を振る。手を乗せれば勝手に符が魔力に共鳴し、その力をコピーして封じ篭めるのではないかと、虎王丸は持論を語った。特に符に力を篭めたからといって、自身の能力が落ちる事もないのだと言う。
「なら、俺の能力も篭めてやるよ。使えるか使えねぇかは分かんねぇけどな」
 符が白銀の光に包まれ、雷の記号が浮かぶ。次に現れたのは水の記号で、次の符には風の記号が浮かんだ。どうやらリルドは幾つかの魔力を保持しているらしい。頼もしさに安心しつつ、凪はメイに向き直った。
「メイはどうなんだ?」
「あたしは、普段と同じスタイルで、大鎌で‥‥」
 胸元のペンダントを弄り、口篭る。何かを考えているらしい横顔に、誰もが彼女の答えを待つように口を閉ざす。
「もし‥‥使用許可が下りれば、ですけれども‥‥切り札を用意しておこうと思うんです」
 相手は多数の上に凶悪ですから、おそらく下りるとは思うのですが‥‥と言って悩むメイ。何か気になる事があるらしいが、気持ちを切り替えるように大きく深呼吸をすると、リルドに視線を向けた。
「俺はコレだな」
 脇に下げた剣の柄に触れ、他には清水をどこからか調達してきて使おうと思っていると付け加えた。
「ケヴィン様は‥‥」
 無言で傍らに置いた剣を指差すケヴィン・フォレスト。無表情な顔は怒っているようにも見えるが、特にそう言うわけではない。全身をやる気のないオーラが包んでいるようにも見えるが、決してそう言うわけではない。もしやる気がないのならば、この場にいないはずなのだから。
「‥‥‥手伝って、もらう、から‥‥‥」
 たどたどしい口調でそう言うと、千獣は自身の腕に巻かれた包帯を撫ぜた。呪符の織り込まれたそれは、彼女の白く美しい肌のほとんどを覆いつくしている。ルビーを思い出させる透き通った色をした赤い瞳は、どこか寂しそうでもあり、それでいて慈しむようでもあった。
 ミルカ以外の全員が自身の能力と戦闘スタイルを雄弁に、またはほんの少しだけ語り終わり、エスメラルダを含めた12の瞳が一斉に残りの1人に注がれる。ちなみに7人いるのに12の瞳とあるのは、リルドは右目を眼帯で覆っているため、千獣は長い艶やかな黒髪と包帯によって左目がほとんど隠れてしまっているためだ。
「あたしって‥‥あなた達からはどうゆう風に見えている?」
 無言の質問を質問で打ち返すミルカだったが、ソレは答えの必要としない問いだった。
 ―――何故ならば、その答えはちゃんと知っているのだから‥‥‥
「どこからどう見たって、細くてか弱いヲトメだわ」
 ポカンとした顔をした人が数人いたが、黙殺する。異論は受け付けない、絶対に。
「戦いって柄じゃないし、自分でも“この依頼は向いてないなあ”って思うの。行くのは危ないんじゃないかしら、って」
 昨夜―――黒山羊亭から帰った後―――の事を思い出し、それと連動するように、今朝の事も思い出す。頑なな否定はミルカのためを思ってのことだと、分かっていた。ミルカの事を思っている家族や友達なら、戦闘能力のない彼女をそんな危険な場所に行かせることはしないだろう。
 優しい気持ちを全身で受け止め、一生懸命考えた結果、今黒山羊亭でテーブルを囲んでいる。
「‥‥そのお話を聞いた時ね、なんとも言えない気分になったの。幸せだったのに、それが壊されて‥‥悲しかったんじゃないか、って、そんな風に思えて‥‥」
 もし自分の身にそんな事が起こったら?
 大切な家族を壊され、友達すらも滅茶苦茶にされ、なす術もなく守人として、悪しき封印球を守らねばならない。そんなの、地獄以外の何物でもない。耐えられることじゃない。
 嘆き悲しむことも許されなくて、祈ることも許されなくて、永遠の眠りにつくことすら許されていない。
 考えただけでも気が狂いそうだった。大切な人の顔が次から次に浮かび、ミルカの胸を締め付けた。まだ見ぬ王家の人々も、今まさにこんな思いをしているのだろうか?‥‥‥今だけじゃなく、ずっとずっと‥‥‥王国が滅亡したその日から、気の遠くなるような歳月をこんな気持ちのまま過ごしたのだろうか?
「あたしの歌で、少しでも彼らの心を慰められたらいい。そう思ったの」
 彼らの痛みを、苦しみを、代わってあげることは出来ない。けれど、心を解り、慰めることなら出来るのではないか。
 自分に今出来る、精一杯のことは何だろうか?―――それは、王国の呪いを解き、解き放たれた人々の心を少しでも癒せれば良いと願いながら歌うこと―――
「だから、出来たらでいいの。足手纏いになっちゃうかもしれないけれど‥‥あたしも一緒に、連れて行って」
 不意に浮かびそうになる涙を堪える。様々な感情が胸の中で渦を巻き、ミルカは唇を噛むと返事を待った。
「‥‥ミルカ様は、戦闘になった場合、どんな事が出来ますか?」
 優しく労わるようなメイの声に顔を上げる。青銀色の長い髪を白いリボンで緩く結んだ戦天使見習いは、慈悲深い瞳を細めると、胸の前で両手を組み合わせた。
「戦うだけが全てではありません」
「その心意気があれば、力強い味方になるしな」
 視線を逸らしながらポツリと呟いたリルドが、頬を掻くと俯く。照れているらしい横顔は、思わず言ってしまった本心を後悔しているようでもあった。
「あたしに出来ることは‥‥歌を歌うこと。聴く人の身体能力を向上させたり、強化したり、治癒効果も期待できるかしらあ。でも、直接的な攻撃はできないわ」
「何だよ、そんだけ出来れば十分じゃねぇか。な、凪?」
「あぁ。ぜひ一緒に来て欲しい。ミルカの力は、必要だ」
「‥‥‥私、も‥‥‥そう、思う‥‥‥。ミルカ‥‥‥足、手、纏い、なんか、じゃ、ない‥‥‥」
「ありがとう‥‥みんな‥‥」
 必要とされている、足手纏いなんかではない。そのことが、ミルカの胸を熱くさせた。可愛らしい笑顔を引っ込め、強く誓う。絶対に、呪いを解いてあげるんだと‥‥‥。
「分け方はどうする?」
「俺とミルカは分かれた方が良い。俺も一応、治癒が出来るから」
「じゃぁ、凪とミルカは別々にするとして‥‥」
「俺と凪、一緒じゃダメか?ちょっと考えがあるんだ」
「別に良いんじゃねぇか?ってことは、凪と虎王丸が一緒で‥‥」
「‥‥私、が‥‥‥一緒、に、行く‥‥」
「3人と4人で分けなくちゃなんねーけど、どうする?」
「俺と凪と千獣で、後は4人で良いんじゃねぇのか?」
「3人で良いのか?」
 リルドの確認に、虎王丸と凪が頷く。1歩遅れて頷いた千獣は、悩んでいたと言うよりはただ単に反応が遅れただけだろう。
「あたしもそれで良いと思います。こちらは、リルド様、ケヴィン様、あたしと攻撃型ですし、ミルカ様が危なくなった時でも、3人もいれば安心です」
 危なくなったら必ず守りますからねと、メイが力強く言ってミルカの手を握る。本来ならば人見知りをする恥ずかしがりやさんのメイだったが、使命に燃えている熱血メイちゃんはそんな呑気な事は言ってられない。物怖じせずに手だって握るし、顔だって近づけてしまう。
「んじゃぁ、パーティも決まった事で‥‥いったんバラけて最終準備を整えようぜ。昨日のうちに準備はしてあるけど、苦戦する事は目に見えてる。念には念を入れてってな」
「虎王丸にしては賢明な意見だ‥‥」
 凪が少々驚いたような顔で呟くが、虎王丸は自らの精神衛生上のため、ここで不毛な言い争いに発展して仲間から冷たい目で見られないため、ぐっと堪えた。大人な反応だと自画自賛するが、凪は嫌がらせであの表情をしたわけではなく、純粋な反応としてあの表情になってしまったのだ。不可抗力としか言いようがない。
「‥‥‥準備、ない‥‥‥どう、すれば、いい‥‥‥?」
「それなら、ココに行って足を用意してきてくれないかしら。歩いて行くには遠い場所だから」
 エスメラルダがカウンターに行き、メモ帳を持ってくると簡単に地図を書く。さらさらと簡略化された道は分かりやすく、千獣は「‥‥わかった‥‥」と呟きコクリと頷くとメモを握り締めた。
「そうだわ、皆も一旦ここに来てもらうより、向こうに行った方が早いわね」
 千獣に渡した物と同じ地図を描くと、エスメラルダはその場にいる全員に手渡した。黒山羊亭からは少々離れた目的には“喫茶店・ティクルア”と書かれてあった。
「‥‥ティクルアに行くのか!?」
「あら、虎王丸君、知ってるの?」
「知ってるも何も‥‥なぁ、凪?」
「以前お世話になった事があって‥‥」
「千獣、リタに弁当作ってもらうように言ってくれ!美味いんだぜ、リタの料理!」
「虎王丸!」
 凪がキっと睨みつけるが、虎王丸は視線を逸らしてその攻撃をかわす。
「‥‥‥わかった‥‥‥リタ、お弁当‥‥‥作って、もらう‥‥‥」
「千獣ちゃん、リタちゃんに会ったら“竜樹の鳥を貸して下さい”って言うのよ“エスメラルダの知り合いの者です”ってちゃんと付け加えてね」
 コクリ、千獣が頷き、ブツブツと口の中で復唱する。
「それでは1時間後、喫茶店ティクルアで会いましょう」
「気をつけて‥‥」
 メイが爽やかに言い、7人はエスメラルダの心配そうな、それでいて祈るような瞳に見送られながら黒山羊亭を後にしたのだった。



* * *



 高く透き通った空には雲一つなく、柔らかな陽光が冷たい風を温めている。
 ミルカは天使の広場を通り、そこで何時も美しい歌声を響かせているカレン・ヴイオルドに微笑みかけると、そのままアルマ通りへと抜けた。白山羊亭からはルディアの明るい声が漏れ聞こえており、今日もお店は繁盛している。
 漂ってくる美味しそうな匂いを振り切るように進むと、シェリルの店へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませー!」
 店内から元気の良い声が響き、赤い髪を靡かせながらシェリル・ロックウッドが何かが詰まっているらしき袋を両手に抱えながら駆け出してきた。
 人が疎らな店内には、魔道師らしきおじいさんが不思議な壷に見入っていたり、冒険者らしき女の人が薬草を見ながら悩んでいる。
「入用な物はなにかな?お腹に効く薬、頭が痛い時に飲む薬、火傷した時に使う薬草、なーんでも揃ってるわよ!」
「えぇっと、そう言うのじゃなくて‥‥これから冒険に出かけるんだけど、あたしの治癒能力だけじゃちょっと不安なのよねえ‥‥」
「冒険!?なになに、何処に行くの!?」
 シェリルの緑色の瞳が鮮やかに輝く。今にもキラキラとした星が飛び出してきそうだ‥‥。
「“高き南の空に住まいし麗しき姫のための鎮魂歌”って、ごぞんじかしらあ?あの歌の‥‥」
「あぁ‥‥あそこ、ね‥‥。悪いことは言わないわ、止めた方が良い。あそこに行った人何人か知ってるけど、誰一人として戻って来なかったんだから。それより、キミ1人で行こうとしてるの?」
 首を振る。緩い三つ編に結われた白銀の髪が視界の隅で揺れる。
 シェリルが何かを言おうと口を開いた時、ミルカの背後で扉が開いた。
「うわ、びびった!‥‥何でこんなところに突っ立ってんだ‥‥って、ミルカ?」
「リルドさん、どうしたのう?」
「いや、ちょっと何かねぇかなぁと‥‥」
「キミ、この人と一緒に行くの?」
「ええ、そうなのよう。あたしとリルドさんと、あと5人いるのよう」
「ふーん、7人か‥‥。ま、キミ強そうだし、キミみたいな人が5人もいるんなら、あるいは‥‥ね」
 シェリルが不敵に微笑み、持っていた袋を足元に無造作に置くと、ゴソゴソと中を探る。チラリと見えた袋の中は、様々な物が入り乱れ、何が何なのかさっぱり分からない状態になっている。
「あぁ、あった!これこれ!キミ達も、見たことくらいはあるでしょう?」
 袋から取り出されたのは、葉の先端部分が薄い紫色に染まった草だった。チョロリと生えている白い根には土がついており、鮮やかな緑色は開いたままのドアから差し込んでくる光に艶っぽく輝いている。
「体の中に入ったばい菌を消してくれる草よ。強力だから葉っぱを半分にして水で飲んでね」
「わあ‥‥すごーい!久しぶりに見たわあ、これ、すっごく手に入らないのよねえ」
「そうそう、貴重な草だからね。それから、こっちは治癒力を高めてくれる薬。魔法がかかってるから、効果は凄いわよー!それで、こっちは貧血になった時に飲む増血剤。あそこ、吸血虫がいるんでしょう?そんで、コレが一粒でお腹がいっぱいになる魔法の薬!ダイエットの時にもお勧めよ!それから、コレが髪を綺麗にする水で‥‥」
 延々と続くシェリルのセールストークに、リルドが眉を顰める。彼女のトークは弾丸のような速さで、あっという間にミルカとリルドの前には山のような商品が積み重なった。
「‥‥おい、こんな大荷物抱えて行けるかっつの!」
「大丈夫!自宅宅配サービスもやってるから!」
「そう言う問題じゃねぇ!」
「えーっと、とりあえず‥‥リブセンの葉と治癒薬の一番効果の高いのと‥‥サンフロウの花はあるかしらあ?あと、増血剤も必要よねえ‥‥」
「リブセンと治癒S、増血剤ね。サンフロウもあるわよ、ちょっと待っててね」
 シェリルがお店の中へと駆けて行き、ミルカは他にも必要な物がないか考え始めた。
 リブセンの葉があれば、体内に入った菌を心配する事もなくなる。治癒薬があればもしもの時に安心だし、増血剤は必須だ。
 治癒薬は高いために1つか2つしか買えないだろうが、その分をサンフロウの花で補えば良い。効果は落ちるが、傷口に当てれば数秒から数分で傷口はくっつく。もっとも、治ったわけではないので派手に動くと再び開いてしまうだろうけれども。
「お待たせ!包帯にテープも持ってきたよ。サンフロウを使うときに必要でしょう?あと、小さめの水筒に水も入れてあるから。少し重たいかもしれないけど、リブセン飲む時に必要だしね」
「ありがとう、助かるわあ」
「それと、ポーチもサービス。紙袋持ってなんて行けないものね」
 淡いピンク色のポーチに詰められた品を受け取り、ミルカは可愛らしい笑顔でお礼を言うと、お代は?と首を傾げた。これくらいで良いと言って提示された額は思ったよりもかなり安く、リルドが後ろから言葉を挟む。
「なんでそんなに安いんだよ‥‥」
「この値段にまける代わりに、キミ達の冒険話を聞きたいなって思って。‥‥だから、絶対に無事に帰ってきてよね、約束よ!」
 差し出された小指に指を絡め、ミルカとリルドはシェリルの店を後にし、喫茶店ティクルアに向けて歩き始めた。



* * *



 まるで御伽噺の中から抜け出してきたような丸太小屋の喫茶店・ティクルアで落ち合うと、一行は竜樹の鳥と呼ばれる巨大な鳥の背中に乗り、呪われた王国目指して空に飛び立った。
 空の旅は意外と快適で、寒いと思ったのは最初の浮遊時のみで、それからは太陽に熱せられた風が優しかった。
「うーん、美味い!さすがリタだ!」
「‥‥‥リタ‥‥‥すごいスピードで、作ってた‥‥‥」
 むしゃむしゃとお弁当を食べる虎王丸と、あまり表情は変らないながらも何か見てはならない物を見てしまったような、遠い目をしながらサンドイッチを口に運ぶ千獣。
「皆も食べたらどうだ?腹が減ってちゃ力も出ねぇだろ?」
「‥‥そうだな、せっかく沢山あるんだし、食うか」
 虎王丸の脇に積み重なっていたお弁当を取り、リルドが箸を割る。ミルカとメイは千獣からサンドイッチのお弁当を受け取ると、食べ始めた。
 カラシマヨネーズは自家製だろうか、あまり鼻に来ないそれは美味しく、レタスやトマトは新鮮だった。
「美味しいですね、ミルカ様」
「ええ、とっても美味しいわあ。空の上で食べるお弁当ってゆうのも、いいわよねえ」
 口の端についたマヨネーズを親指で拭い、ペロリと舐め取る。
「しっかし、デカイ鳥だよなぁ。これ、いつもは何処にいるんだ?」
 リルドの素朴な疑問に、凪と虎王丸が顔を見合わせて首を振る。こんな大きな鳥がそこらを飛んでいれば、モンスターだと思われて攻撃されそうなものだが‥‥。眼下に見える地上には、民家らしき物は見えず、延々草地と森が続いている。
 暫くその緑色の絨毯を眺めていると、不意にメイが立ち上がった。
「死臭がします‥‥‥近いですよ!」
 相変わらず温かな風の中に、メイの言う死臭が感じられたのはそれから直ぐの事だった。
 ねっとりと絡みつくような空気は悪意を含んでおり、激しい負の感情に寒気が走る。
 ミルカは純白の竪琴を胸に強く抱くと、靡く髪には構わずに立ち上がった。座っている時にはあまり感じられなかった風圧が顔を直撃し、思わずよろける。近くにいたケヴィンが腕を掴み、ミルカは体勢を立て直すと笑顔でお礼を言った。
 フルフルと首を振ったケヴィンは‥‥‥多分、気にするなと言いたかったのだろう。何となく分かり合えるから不思議だ。
 立ち上がった事によって空が近付いたように感じるが、魅力的な青に手を浸すことは出来ない。思わず手を伸ばしそうになるが、伸ばせば強い風圧を受けるだろう。ミルカは深く息を吸い込むと、皆が眺めている方角へ視線を滑らせた。
 白亜の城は未だにその威厳を失っておらず、四方に伸びる塔も美しさは少しも損なっていない。事前知識もなく、負の雰囲気に鈍感な者が見たならば、呪われた城などとは夢にも思わないであろう。
「意外と綺麗だな‥‥‥」
「えぇ。でも、城下町を見てください」
 城門を隔てた外、城下町には無数の家々が軒を並べているが、倒壊している物がちらほら見える。東側の地域では大規模な火事でもあったのか、一角全てが黒い炭となり崩れかけている。炭とならずに済んだものも、壁が黒く煤けており、見るからに痛々しい。
 竜樹の鳥が呪われた王国の上を旋回しながら徐々に高度を下げて行く。
「やっぱ、アンデッドがかなりいやがるな‥‥」
 虎王丸が舌打ちをし、腰に下げた刀に手をかける。
 城門の中にも城下町にも、白い骸骨がノロノロと歩いているのが見える。ボロボロの、かつては服であったものを引きずりながら歩く死者達は、数ブロック歩いては戻り、また踵を返しては歩きを繰り返している。
 竜樹の鳥がさらに高度を下げ、塔の先端すれすれの所を旋回する。城下町を歩く死者の手に思い思いの武器が握られているのが見て取れる。それはナイフであったり鍬であったり、おそらくはその人が生きていた頃に使用していた物なのだろう。
「この鳥じゃぁ、城の前に下りることは出来ねぇ。草原に下りて城下町を突っ切るか、もしくは城の上に来たときに飛び降りるか‥‥」
「あたしはどちらでも大丈夫ですが‥‥城下町を突っ切る方が良いと思います」
「そうだな、一歩間違えれば飛び乗り損ねて地上まで一直線になるかも知れねぇし‥‥‥。んじゃぁ、そう言うことで草原に下りてくれ」
 リルドの言葉に答えるように、竜樹の鳥が一声鳴いて城下町の上空を通り過ぎ、王国をグルリと囲む塀の外、広大な草原の上に着地する。
「この鳥が人の言葉分かって助かるよな」
「そうですね。とても知能が高いんでしょうね‥‥」
 メイが虎王丸に賛同し、そっと背中を撫ぜる。
 膝を折り、低姿勢になって降りやすいように配慮してくれる竜樹の鳥だったが、それでもまだ高い。メイが純白の羽根を広げ、ふわりと着地する。虎王丸とリルドが飛び降り、凪とケヴィンもそれに続く。
「‥‥‥はい‥‥‥」
 どうやって降りようかと思案していたミルカの前に、千獣の細い手が差し出される。
「ええっと‥‥?」
 意味が分からずに首を傾げたミルカを、千獣が抱き上げる。華奢な細い腕はいつの間にか硬い毛で覆われており、青紫のマントからは夜色の蝙蝠のような羽が伸びている。
 トンと軽く跳躍し、バサリと羽を羽ばたかせる。空中浮遊は直ぐに終わり、ミルカは地面に足をつけると千獣に丁寧にお礼を言った。その時には既に羽はなくなり、左手は元の華奢な腕に戻っていた。
「大きな門ですが‥‥これ、開くんでしょうか‥‥」
 ケヴィンが竜樹の鳥の顔をそっと撫ぜる。言葉ではない何かを感じ取った竜樹の鳥が立ち上がり、羽を広げると上下に動かす。風と立ち上る砂埃に目を閉じた時、甲高い鳴き声とともに竜樹の鳥が空へと舞い上がった。
「つーか、帰りはどうするんだ?」
「虎王丸、帰りの心配は封印球を壊してからするんだな」
「んだよ凪。まさか、帰れないかもなんて暗いこと考えてんじゃねぇだろーな」
「‥‥そうならないように力を振り絞るだけ、だな」
 虎王丸と凪のそんな会話を背後に、メイが門に手を触れる。巨大な鉄製の門は彼女の小さな手が触れるか触れないかの内に、微かに軋みながら内側へと開いて行った。
 誘われてる―――ミルカはそう感じた。
 ―――この悲劇を終わらせて欲しくて、みんなが呼んでるんだわあ‥‥‥
「上空から見た限りでは、大通りを直進するのが最短です。でも‥‥‥」
「死者が沢山いる、ってか。ンなん気にしてたらいつになったって辿り着けやしねぇ。この人数だ、細道の方が危ねぇと思うぜ?」
「リルドの言うとおりだ。突っ切ろうぜ!」
「先陣は俺と虎王丸が斬る」
 リルドがそう言って剣を構え、虎王丸も刀を構える。
「あたしと凪様でミルカ様を左右から守りましょう」
「あぁ、分かった」
「千獣様とケヴィン様は、後方をお願い出来ますか?」
「‥‥わかった‥‥‥」
 メイが胸元のペンダントを外し、両手で包み込む。淡い光を放ちながらペンダントが巨大化し、両手持ちの大鎌・イノセントグレイスへと変る。その隣ではケヴィンが剣を抜き、相変わらずのやる気のない雰囲気を漂わせながら黙っている――― もっとも、彼の顔をよく見れば深い黒の瞳は真剣な輝きを宿しているのだが―――
 千獣の眼光が鋭くなり、凪がミルカに右手を差し出す。右手に持っていたはずの銃は腰元に下げられているのが見える。
「はぐれたら大変だろ?」
「もうっ!一本道なんだからはぐれないわよう」
 ぷぅっと頬を膨らませながらも、凪の手を取る。
 きっとこの手は凪の優しさだ。ミルカが万が一遅れても引っ張れるように、何か危険が迫った時には咄嗟に自分を盾に出来るように‥‥。
 ―――ありがとう、凪君。でも、あたしも足手纏いになるだけじゃないんだからね―――
 ―――きっと役に立ってみせる。この声で、この歌で‥‥‥‥‥
「‥‥‥行くぞ!」
 虎王丸が静かながらも力強い声で言い、門を潜り抜ける。リルドがそれに続き、凪とメイに両側を守られながらミルカが走る。
 左右に並ぶ建物は、何かのお店屋さんが多いようだが、下がっている木の看板はほとんどが朽ちかけており、文字は判別不能だ。
 壊れた扉から覗く店内は荒れており、床には大穴が開き、陳列棚と思わしき所はボロボロに崩れ落ちている。
 足元はサラサラの砂で、走るたびに細かい砂埃が舞い上がる。
 上を向けば高い空が見えるが、この王国の上空にだけは薄く暗い雲が広がっている。
「来やがったぜ!」
「無理に全員を倒すことはありません!」
 前方からは5体の死者が重なるようにして走って来ている。ボロボロのスカートを穿いた死者は大きな包丁を持っており、その右側にいる少し大きめの死者は硬そうな棒を持っている。他の3体は身体に全く合っていない錆びた鎧を着ており、ガチャガチャと耳障りな音を響かせながら剣を構えている。
「虎王丸、無茶しすぎるなよ」
「わかってるって!」
 虎王丸が地を蹴り、剣を持った死者に斬りかかる。間一髪のところで攻撃は防がれ、後方に押し返される。
「〜♪良いね、この空気。完全にヤりにきてやがる」
 リルドが嬉しそうにそう言い、ニヤリと不敵な笑みを浮かべると一気に間合いを詰める。迫り来る包丁をギリギリで避け、足を払う。後方から伸びてきた刃を剣で弾き飛ばし、よろめいた死者の首をはねる。兜を被った頭がグラリと揺れ、後方に転がって行く。
 ミルカは思わず顔を顰めたが、リルドはそんなことはお構いなしに、首のない死者を蹴り飛ばすと走り出した。
 地面に這い蹲って棒を握り締める骸骨は虎王丸によって足を斬られ、立とうとしては倒れこむを繰り返している。地に突っ伏したままだった包丁を持った死者の頭をメイの大鎌が砕く。
「どうやら頭に深手を負うと動きが止まるみたいだな」
 凪が冷静に分析し、虎王丸が手を斬った死者の頭を銃のグリップで殴る。グラリと地に突っ伏した死者は、後ろから走って来た千獣の鋭い爪によって頭を砕かれ、更には身体を二つに裂かれた。
 千獣はそれほど悲惨な状況にしようとは思っていなかったのだが、走って来た際のスピードと長い爪により、勢い余ってそうなってしまったのだ。だからと言って、美しく戦おうなどと言う気は毛頭ないため、死者はそのまま捨て置かれた。
 7人は砂埃を上げながら大通りを疾走した。細道にいた死者が顔を上げ、こちらに向かって来るのが見える。
 背後から追って来るのは分かっていたが、いちいち立ち止まって相手をしていてはキリがない。この城下町に巣食う死者全てを相手にしていたら、塔に行き着く前に倒れてしまうだろう。
 大通りの中央、天使の広場を髣髴とさせる噴水が置かれている広間を過ぎる。とっくの昔に水は枯れ、瓶を持った天使の像は所々ひび割れており、風雨にさらされた頬には涙の跡と見紛うばかりの黒い筋がついている。雨と埃が混じって出来たものだろうが、もしかしたら王国の末路を嘆いて天使像が流した本物の涙かもしれない。きっとこの天使像は、栄えていた時代の王国を静かに見守っていたのだろうから‥‥。
 前方から死者の軍団がこちらに向かって来るのが見える。リルドと虎王丸が一気に間合いを詰めようと駆け出し―――ふっと立ち止まると上空を仰ぎ見た。何に反応して立ち止まったのだろうかと足元を見れば、細い木の枝のようなものがリルドの足元に突き刺さっている。
 ―――あれは‥‥‥弓‥‥‥?
「危ねぇっ!!」
 虎王丸の怒声が響く。こちらを振り返った彼の背に死者が斬りかかろうとするが、何とかそれを避けると刀で弾き飛ばす。
 ミルカが顔を上げ、2人が見ていた方に視線を向けようとした瞬間、背後から抱きかかえられ、そのままふわりと宙を浮いた。
 風がミルカの淡い桜色のスカートを靡かせる。レースが波のように揺れ、華奢な足に纏わりつく。履き慣れた茶色いブーツの直ぐ下を、何かが凄まじい勢いで空を切り裂きながら地面に突き刺さった。
「‥‥‥危な、かった‥‥‥へいき‥‥‥?」
「ええ、ありがとう‥‥‥」
 あたしが狙われてたんだ―――そう思うと、心臓がギュッと縮み上がった。
 木造2階建てのお洒落な家の窓から、弓で狙いをつけている死者が見える。その矛先は前方の2人、虎王丸かリルドのどちらかに向けられている。千獣が弓が放たれる前に倒そうと羽を羽ばたかせた時、後方から何かが飛んで来た。
 死者の額に深々と突き刺さった物は、自身が持っているものと同じ木の細い棒。足元を見れば、ケヴィンが弓矢を手にして立っていた。
 ケヴィンは倒した事を確認すると、後方から迫ってきた死者を肘鉄で振り払った。鞘に収めていた剣を抜き、大振りで横に払う。一気に数体が地面に倒れこみ、彼らを踏みにじりながら死者が迫って来る。
 前方からも後方からも、死者が道を塞いでいる。虎王丸とリルドが刀と剣で行く手を阻む者を蹴散らし、2人が討ちもらした者をメイと凪が大鎌と銃で止めを刺して行く。後方から迫る死者はケヴィンが倒し―――数の多さに圧倒され、後退る。ケヴィンの劣勢を見て取った凪が援護するが、そちらに気を取られているうちにメイの方が手一杯になる。
「たいへんだわ‥‥!早くあたしたちも‥‥‥‥」
「‥‥‥いま、行って、も‥‥‥危ない、だけ‥‥‥」
 千獣の言葉に愕然とする。
 そうだわ―――例えあたしが今行ったところで、足手纏いになるだけ‥‥‥‥
 自分の身すらも危ない乱戦の最中、ミルカが行けば尚更劣勢に追い込まれることは目に見えている。凪もメイも、己のことは顧みずにミルカを守るだろう。そうすれば、ケヴィンやリルド、虎王丸が危険にさらされる事になる。
 悔しい―――――
 ミルカは唇を噛み締めると、足元で奮闘する仲間を見つめた。
 虎王丸と凪の背中が合わさる。それほどまでに、間合いが詰められているのだ。ケヴィンが討ち損ねた死者がメイに襲い掛かり、間一髪のところでリルドが剣を延ばし、首をはねる。背後に気を取られたリルドの背を守るべく虎王丸が刀を大振りに払い、隙の大きい振りをカバーするように凪が正確な射撃で敵を倒す。
「‥‥‥なに、やって、る、の‥‥‥?」
「え‥‥‥?」
 非難するような口調の千獣に、ミルカは首を右に捻った。すぐ近くに千獣の整った横顔があり、透き通った瞳と目が合う。
「早く、助け‥‥‥ない、と‥‥‥」
「でも、あたしは何も―――――」
 ―――何も出来ない?足手纏いになるだけ?‥‥‥‥‥嘘でしょう‥‥‥‥‥?
 皆、あんなに言ってくれたじゃない。それだけ出来れば十分だって、必要だって、足手纏いなんかじゃないって‥‥‥。
 そうよ、きっと役に立ってみせる。この音で、この歌で―――――
 ミルカはキュっと口を引き結ぶと、竪琴の側面に彫られた人魚をそっと撫ぜた。上手く歌えますようにと願いを込めて、細い絃に指を滑らせる。
 優しく絃を弾き、温かな旋律を紡ぐ。空中では竪琴を膝の上に置くことは出来ないため、手で押さえるしかない。左手で竪琴を強く押さえ、それでも右手は柔らかい音を出すように努める。
「♪When vous andare a letto a quiet se coucher, Ich sing this chanson」
 最初この歌を聴いた時、ミルカは心に染み入るような優しい旋律に惹かれた。その時歌っていたのは褐色の肌をした女性で、彼女の声は天使の歌声と言っても過言ではないほどに透き通った美しい高音だった。
 何を言っているのか分からないながらも、子守唄だと直感的に感じた。お母さんが子供を寝かしつける時に耳元でそっと囁く、そんな温かな光景さえ瞼の裏に描いた。
「♪I pregare so that sind have a bonheur traum」
 歌い終わった女性に聞いたところ、やはりこれは子守唄で、彼女がまだ小さい時母親が夜に歌ってくれたのだと言う。
『優しいお母さんだったのねえ‥‥羨ましいわあ‥‥』
『私が貴方の半分くらいの年齢の時に亡くなったんだけれどもね』
 寂しそうに呟いた女性の横顔が、未だに忘れられない。悲しみ、苦しみ、それより何より、亡き母に対する未だに変らぬ愛しさ‥‥。
「♪Please have a bonne sogno」
 貴方が安らかに眠れるよう、私はこの歌を歌います
 貴方が幸せな夢を見られるように、私は祈ります
 楽しい夢を見てください
 貴方が明日も笑顔でいられるよう、私は歌います
「♪Je sing so that lei can lachen demain」
 ―――幸せな夢を見せてあげたい、例えそれが一時の幻であろうとも‥‥‥
 死者の動きが鈍くなる。ふらふらと視線が宙を彷徨い、何処かへと歩き出す者もいる。ある者は武器を捨て、空へ手を伸ばし、何かを掴もうと必死になって掌を開いたり閉じたりしている。
 ミルカの足が地面につき、待っていた凪が手を引っ張る。千獣が羽をたたみ、ケヴィンと併走するように走り出す。
「これ、持ってどのくらいだ!?」
 幻影に惑わされた死者を掻き分けながら、リルドが鋭い声を飛ばす。
「それほど持たないわ!」
 歌い続けていれば効果は続くが、歌を止めればどれほど続くのかは分からない。
 ミルカの歌と言う魔法をかけられた空気は、徐々に徐々に風によって吹き流され、かき消されている。
「この状態で戻られたら洒落になんねーぜ!」
 虎王丸が刀で前方にいた死者2体を弾き飛ばす。幻が消え始めたのか、死者が不思議そうに両手を見つめて首を傾げている。
 あともう少し、もう少しで―――
 死者の海を抜けた先、巨大な木の門がぴったりと閉じられている。威圧感のある門が頑なに口を閉ざしている様を見て、ミルカの脳裏に一瞬嫌な予感が走る。もし、この門が開かなかったなら‥‥‥?
 しかしそんな心配は杞憂だった。いち早く門にたどり着いた虎王丸が扉に手をかけた瞬間、ゆっくりと内側に開いた。軋みもなくスムーズに開く扉は、未だに油を差し、使用されているかのようだった。
「走れっ!!」
 扉の内側に虎王丸とリルドが身体を滑り込ませる。既に死者は我に返り、逃げた侵入者を追って来ている。
 凪が手を離し、ミルカだけを中に入れる。それに続いてメイが入り、ケヴィンの服の裾を掴んでいる死者を千獣の爪が切り裂く。
 2丁の銃が火を噴き、千獣に襲い掛かろうとしていた死者を撃ち抜く。千獣が先に中に入り、ケヴィンが剣を大きく振り、迫っていた数体を斬ると凪とともに門の中に身体を滑り込ませた。
 リルドとメイ、虎王丸とミルカが力いっぱい扉を押し、迫り来る死者のパワーに四苦八苦する。千獣と凪も手伝い、あと数センチで閉まるというところで死者の手が突き出した。ケヴィンが腰にささっていた小振りのナイフを取り出し、手を落とす。渾身の力を振り絞って扉を閉め、千獣が足元に落ちていた木の板を掴むと扉の中央に差し込んだ。
 幅の広い板は鍵の役割を果たし、向こう側から死者が叩こうとも揺れるだけで開く気配はない。
「ふー、危ないところだったな」
「あぁ、でも、この門もどれだけ持つか分からない」
 ガクガクと揺れる扉は不気味だった。この向こうには、何十・何百と言う死者が集まり、叩いているのだ。
「とっとと封印球をぶっ壊して帰ろうぜ」
「あぁ、そうだな。帰りはティクルアにでも寄って、美味い飯を食おうぜ」
 リルドと虎王丸が拳をぶつける。
「凪様、千獣様、虎王丸様、どうかお気をつけて‥‥‥」
「‥‥‥メイ、たち、も‥‥‥きを、つけ、て‥‥‥」
「そうだわ、忘れるところだったわあ‥‥凪君、はいこれ」
 ポシェットの中からリブセンの葉と増血剤、サンフロウの花と治療薬、そして包帯とテープを幾つか手渡す。
「有難う。‥‥‥広間で会おう」
 手を振って去って行く3人の後姿を暫し見つめ、ミルカ達は南の塔へと走った。



* * *



 グルグルと回る螺旋階段を上りながら、ミルカは前を進むリルドの背中を見つめていた。時折彼が吸血虫の卵を見つけて立ち止まるために、顔を上げて注意していないとぶつかってしまうのだ。
 足元は埃が厚く積もった赤絨毯で、元は綺麗だったであろう壁紙は所々剥がれ落ちている。左右についた木の手すりも艶がなくなり、体重をかければあっけなく崩れてしまいそうなほどに痛んでいる。
「またありやがった‥‥」
 溜息交じりでリルドが剣を階段に突き刺す。黄みを帯びた卵から、緑色の液体が流れ落ちる。ドロリとした液体と一緒に、透明なゼリー状のものが引きずり出される。最初、ミルカはそれが何なのか分からなかった。しかし幾つか見ていくうちに、それが吸血虫の幼虫である事に気づき、背筋が凍った。
「まだ孵化した幼虫はいないようですが‥‥」
「だんだん大きくなってきてる気がするな」
 最初の卵からは、小指の爪ほどの幼虫が現れた。もっとも、ミルカはあふれ出た不気味な色の液体に早々に目を逸らしたためによく見えていなかったのだが、メイとリルド―――そしておそらくケヴィンも―――はきちんと観察していたようだ。
 次の卵は小指の爪先から第2間接くらいの大きさの幼虫、次は小指くらいの幼虫、次は―――と、徐々に大きくなり、今しがた壊した卵からは、ミルカの掌ほどの大きさの幼虫が出てきた。
「この幼虫、どこまで大きくなるのかしらあ‥‥?」
「考えただけでも鳥肌が立ちますね」
 メイが腕をさすり、ケヴィンもほんの少しだけ顔を顰める。
「しっかし、この階段はいつまで続くんだ?」
 剣を振り、刃についた液体を落とすと鞘に収める。
「もう少しで着くんじゃないでしょうか。大分上って来ましたし‥‥」
「こんなんなら、城から上がった方が良かったかもな。こんな狭いところでヤツラに囲まれたら最悪だぜ?」
「今のところ気配は感じられないのでいないとは思いますが‥‥」
「‥‥たとえお城の玄関のところに行っても開かなかったんじゃないかなあって、あたしは思うんだけど‥‥」
「どう言う事だ?」
 こんな所で立ち止まっていてはいつになっても着かないと、耳だけはミルカの方へ集中させ、リルドが歩き出す。
「この王国自体に魔法がかけられているんだと思うのよう。扉だって、少し触れただけで自然とあいたでしょう?」
「それは一理あるかも知れませんね。だとすると、この呪いをかけたのは相当な力の持ち主―――」
 封印球も容易くは壊れないだろうとメイが呟き、リルドが再び見つけた卵を割る。緑色の液体から流れる透明なゼリー状の幼虫は、リルドの両手ほどの大きさに成長していた。
 まだこの幼虫は成長するのだろうか‥‥‥?背中に寒気が走る。割れた卵の傍を足早に通り過ぎた時、前方に重厚な木の扉が現れた。木の表面には妖精や草花が彫られており、絡まった蜘蛛の巣や積もった埃を払えば綺麗な扉だという事が分かる。
「ここが南の塔の部屋‥‥‥お姫様がいらっしゃる所ですよね」
「まだお姫様でいるんならな」
 メイの呟きにリルドが冷たく返し、金色のドアノブを回す。何の抵抗もなく回ったノブは、まるでリルドの手から逃げるかのようにひとりでに内側に開いた。
 開け放たれた扉から見える中は、今まで見てきた場所とは違い、掃除が行き届いているらしく綺麗だった。
 慎重に中を覗き込めば、ガランとしたそこに人の姿はない。曇った窓には白いレースのカーテンがかかっており、その隣には装丁の美しい本がずらりと並んだ本棚、花柄のカバーのかかったソファーに小振りのテーブルの上には一輪挿し。世話をする人を失ってしまった花は枯れ、テーブルの上に茶色く崩れている。
 警戒しながら部屋に足を踏み入れる。リルドが剣を構えて先に入り、次にメイ、ケヴィンと続く。ミルカがケヴィンの後に続いて入った時、背後でパキリと何かが割れる音がした。
 逃がさないと言っているかのように扉がゆっくりと閉まり―――チラリとミルカの目に大きな蛾のような生物が映った。それはミルカが両腕を広げたくらいの大きさがあり、汚れた茶色の羽根に点々とついた赤い模様が毒々しかった。
 ―――あれが吸血虫‥‥‥?
 ザワリと腕に鳥肌がたつ。あんなのに上空から襲われたら‥‥‥そう思うと寒気がした。
「しかし、どうして誰もいないんだ?」
 リルドの声にはっと顔を上げる。音もなく閉まった扉に気を取られていたミルカは、ひとりでに扉が閉まった事と吸血虫を見たという事を伝えようとリルドを見上げた。深い海のような神秘的で美しい青の瞳と目が合った次の瞬間、ミルカは天井にいるソレに気づいてしまった。
 色あせた金色の髪をダラリと垂らし、濁った真紅の瞳をこちらに向けているソレは、天井に張り付いたまま右手を垂らすと指先に赤い弾を創り出した。それは見る間に大きくなり、こちらに放たれた。
「危ない!!」
 ミルカは目の前にいたリルドに飛びついた。両側にいたメイとケヴィンが異変を察知し、後方に飛び退く。ミルカの足元すれすれに落ちた火の玉は、強烈な爆風と凄まじい爆発音を響かせながら掻き消えた。
「大丈夫ですかミルカ様、リルド様!」
「あぁ、俺は平気だ‥‥」
「あたしも大丈夫よう。それより、上から‥‥」
 リルドの上に乗っている状態だったミルカは、意外にも近い顔の位置にどぎまぎしながら身体を起こした。今はそんな事を考えている場合ではないと思い返し、天井を見上げる。先ほどまでそこにいたはずの姫―― 守人―――の姿はそこにはなく、視線を彷徨わせてみるが動いている人影はない。
「上から来るとはな‥‥。何処に行きやがったんだ‥‥?」
 剣を構えるリルドの全身が、青白い雷に包まれる。深い海のような色をしていた瞳が高く澄んだ空の色に変り、輝きを放つ。瞳孔が長くなり、広がる。“本気モード”になったリルドは、すっと目を細めると全神経を耳に集中させた。
 ミルカが息を呑み、メイもケヴィンも身動き一つしない。ピンと張り詰めた沈黙の中、ミルカはガラスケースの中に入った七色の球を見つけた。キラキラと複雑に色を変えながら輝くそれは、ミルカの勘が正しければ封印球だ。
 メイがミルカの視線の先を追い、コクリと頷くと視線でケヴィンに合図を出す。ケヴィンが剣を構え、リルドが目を開ける。ほんの刹那だけケヴィンと視線を合わせ、全てを察すると、ミルカの腕を引っ張り自分の背後に隠した。
 視界の端に黒い何かが動くのが見える。素早い動きはまともに目で追えないほどで、リルドが左手を翳して雷弾を放つが当たる気配はない。雷弾を避けながら守人が炎の球を幾つも創り、一斉に投げる。
 リルドが素早く水で盾をつくり、炎の球を消して行く。球を全て放ち終わった守人が一気に間合いを詰め、鋭い爪で襲い掛かる。右手に持った剣で何とか攻撃を弾き飛ばしたリルドだったが、守人はすぐに炎の球を創りだすと放った。
 身体を右手方向に向け、水の盾をつくる。守人がトンと軽く跳躍するとミルカの前へ降り立ち―――いつの間にか部屋の奥へ移動していたケヴィンが矢を放つ。ボロボロのドレスの丁度胸元を貫通した矢は、一瞬だけ守人の動きを止めた。リルドが剣で斬りかかり、寸でのところでかわされる。
 守人が天井へと飛び移り、封印球を壊しにかかっていたメイの真上まで走ると、爪を振り下ろした。間一髪のところでそれをかわしたメイが、大鎌を振り上げる。残像を残しながら消えた守人は、ケヴィンの背後へと迫っていた。
 リルドがコートの裏から透明な容器を取り出すと蓋を開け、中身をその場に撒く。
「こんな所でグズグズしてるわけにはいかねぇ、一気にケリをつけるぞ!」
 全身を包む青白い光が一層強くなり、部屋全体を妖しく染め上げる。
 右手に持っていた剣を床に突き刺し、手を前に伸ばす。すっと目を細め、低く何かを呟くリルド。青白い光りが脈打つように点滅し、それに呼応するかのように床からヒンヤリとした冷気が立ち上ってくる。
 足元に撒かれた清水から白い煙のような物が湧き出し、床を滑って行く。ピキリと微かな音がする。最初は1つ2つの音が、数を増し、床が凍結する。
 四方へと伸びた煙は壁を伝い、天井へ這っていく。不思議と仲間達の足元は避けて広がって行く煙は、天井の真ん中で1つに結ばれると鋭く輝いた。
「――――― 氷の牢に囚われろっ!!」
 リルドの声に反応して、部屋全体に広がっていた冷気が一気に集束する。素早い動きで天井を這っていた守人の周囲に壁を作り、取り込む。
「今のうちだ、とっとと封印球を壊せ!相手は炎を使う、そんなには持たねぇぞ!」
 氷の牢の中で、守人が狂ったように炎の弾を乱射する。そのたびに、牢からは冷たい水が滴り落ちる。
 牢を抜ければ、再びあの速さに翻弄される。メイが封印球に大鎌を叩きつけ、ケヴィンも剣を振り下ろす。
「‥‥‥くっ‥‥‥硬い‥‥‥!」
 ガキィンと鋭い音が鳴る度に跳ね返される大鎌と剣。封印球の表面に微かなヒビがはいるが、それ以上は何もない。
「ミルカ!」
「分かってるわ!」
 リルドの呼び声に頷き、竪琴を胸にシッカリ抱くと絃を弾く。先ほど死者達に幻を見せた時とは違う、力強い音色だった。
 少しでも皆の心に届きますように―――
 ミルカはそう願いながら、高く澄んだ歌声を響かせた。
「♪強かな心 苦難を打ち砕く 揺るぎなき想い 未来を切り開く」
 即興の歌は、心に浮かんだ言葉をそのまま口に出すため、不慣れな者は必ずどこかで詰まったり、音程が狂ったりするだろうし、帳尻合わせのようにテンポが早くなったり遅くなったりもするだろう。しかしミルカの曲は、そんな不安定な物ではなかった。
 まるで最初から譜面があるかのように、そこに歌うべき歌詞が書かれているかのように、詰まることなく流れるように紡がれる。
「♪輝く世界は 貴方に味方する 優しき心は 貴方を強くする」
 メイの、ケヴィンの力が強くなる。リルドの氷の牢は、守人の攻撃に少しだけ粘りを見せる。
「♪貴方の強さは きっと 幸せを運んでくるから―――」
 ケヴィンの渾身の一振りが、封印球に深く突き刺さった。
 割れた部分から七色の光りが漏れ、部屋を鮮やかに染め上げる。
 守人がリルドの氷の牢を溶かしきり、地面に落ちる。赤・青・黄と変化する眩い光りに照らされ―――耳を塞ぎたくなるような断末魔を上げながら、守人が光りの中に溶け込んで行く。助けを求めるかのように伸ばされた手は、床を引っ掻いただけだった。
 目も開けていられないほどの光りの洪水の中、ミルカはそっと目を閉じた。
 そして――――――
 目を瞑った先、明るい闇の中、1人の美しい金髪の女性が佇んでいた。
 穏やかな優しいグリーンの瞳、象牙のような白い肌、足元まですっぽりと覆う長いスカート、胸元には大粒のダイヤのネックレス‥‥。
 ―――お姫様だわあ‥‥‥
 美しい姫は、寂しそうな瞳で微笑むと、祈るように胸元で手を組み合わせた。
 言葉は何も発していない。それでも、ミルカには彼女がなんと言いたいのか、何を望んでいるのか、しっかりと分かっていた。
 辛かった事、悲しかった事、それでも、助けてくれた感謝の気持ち‥‥‥。
「他の人も、絶対に助けるわ。そう望んでいるのよね?‥‥‥やくそく、よ‥‥‥」
 ふわり、純粋で美しい笑顔を浮かべる姫。その瞳には、喜びだけが映っていた。
 ―――助けるわ、ぜったい‥‥‥だって、あなた達は何もしてない‥‥‥ただ、幸せな日々を送っていただけなのに―――
 瞼の向こう側の光りがふっと消え、姫の姿も掻き消えた。
 ミルカは暫くそのまま目を閉じ、心の中で彼女のために“高き南の空に住まいし麗しき姫のための鎮魂歌”を歌うと、目を開けた。
「‥‥‥‥‥奥のドアが開いたみたいです。先に、進みましょう」
 低く感情を押し殺したようなメイの声に、顔を上げる。
 浮かない表情をしたメイに、表情は変らないながらも瞳が少し寂しそうに濁っているケヴィン、唇を噛み締めて怒っているかのように眉根を寄せているリルド。‥‥‥仲間達も、彼女に会ったのだ‥‥‥。
「早く‥‥‥早く、皆様を解放して差し上げなくてはなりません。‥‥‥行きましょう」
「あぁ」
 キッパリとしたメイの口調に促されるように、開いた扉へ向かう。
 左側がガラス張りになった廊下は塔と塔を繋ぐ役割を果たしており、近付けば遥か下に地面が見える。右側には幾つもの肖像画がかけられており、それは在りし日の王族の幸せな日々を無言で語っていた。
 金色の髪の美しいお姫様、青い瞳の綺麗な王子様、短い赤色の髪をした力強そうな王子様。
 立派な王冠を頭に乗せた王様は、その輝きをも圧倒するような存在感を放っている。王の傍らで静かな笑みを浮かべているお妃様は、深い碧色の瞳をした優しそうな女性だった。
 お城の庭で椅子に座ってすまし顔をしている肖像画、お姫様と青い瞳の王子様が一生懸命机に向かって何かをやっている場面、赤い髪の王子様が剣を片手に誇らしげな顔をしている肖像画、お妃様が薔薇の花に水をあげている姿‥‥‥どの絵を見ても、自然と表情が緩む。
「この人たちが、何をしたって言うのよ‥‥‥」
 グッと奥歯を噛み締め、歯の隙間から絞り出すような声を出す。
 メイが寂しそうに目を伏せ、リルドもケヴィンも返す言葉が見当たらずに口を閉ざしている。
「だって、こんなのおかしいじゃない!ただ幸せに過ごしていただけなのに、どうして―――――!」
 膨れ上がった感情を八つ当たり気味に声に出していた時、突然何かが壊れる大きな音がした。
「今のはいったいなんだ?」
 顔を見合わせる。誰もが視線を宙に泳がせ、音の正体を考える。
「―――あっ!アレ‥‥‥あれを見てください!」
 メイがガラスに飛びつき、外を指差す。
 駆け寄ってみれば、城下町と城とを結ぶ門が内側に倒れているのが見えた。そして、その上を虚ろな足取りで歩いてくる死者の大群―――
「門が突破されたか‥‥‥こりゃ、尚更のんびりしてられねぇな」
「そうですね」
 コクリと真剣な顔で頷いたメイが、大鎌を持つ手に力を込める。紫銀の瞳が強い意思をたたえ、ケヴィンがポンとミルカの背中を叩くと歩き出す。
 右手に並んだ肖像画は極力見ないようにして、先に進む。廊下の端に現れた茶色い扉にケヴィンが手を翳す。
 ゆっくりと開く扉には必要以上に蜘蛛の巣が絡んでおり、目を凝らしてよく見れば、そこには薔薇の花や蝶々が彫り込まれてあった。
 部屋中に絡んだ蜘蛛の糸が、窓から差し込む光りにキラリと光る。部屋の中を重たい足取りで動いていた死者が開かれた扉に気づき、持っていた剣を振り上げると走ってくる。
 城下町で出会った死者と同じ、ブカブカの鎧が耳障りな音を立て、戦闘態勢に入るメイとリルドを制すると、ケヴィンがすっと背筋を伸ばし、綺麗な姿勢で矢を放った。
 矢は迫り来る死者の額に突き刺さり、グラリと後ろへ倒れこむ。ドシンと、それなりに重みを持った音が響き、成り行きを見守る4人の前で死者はバラバラと崩れ落ちると、鎧と剣だけを残して消え去った。
 先ほどはグズグズしていては死者に囲まれてしまう危険があったため、倒した死者がどうなるのかじっくりと見ている暇はなかったのだが、部屋の中を見たところ妃―――守人―――の姿はない。今後の事も考えて、死者がどれくらいで蘇るのか、どんな風に立ち上がるのかを見ておく必要がある。
 それから暫く、沈黙の時が続いた。さほど長い時間ではなかっただろうが、急く心は時を早める。
 もしかして、死者が蘇るというのはただの噂なのでは?そう思い始めた時、ザワリと空気が揺らいだ。
 冷たい手で身体を撫ぜられているかのような不快な風は、死者が残していった鎧と剣に集まると空間を捻じ曲げ始めた。グニャリと歪んだ景色の中、鎧と剣が宙に浮き、白い何かが形作られて行く。まずは頭、次に胸、腕、脚、あっという間に元の形を取り戻した死者は、剣を振り上げると襲い掛かってきた。
「すぐ蘇るってわけじゃねぇんだな」
「えぇ。でも、このくらいの時間でしたら不安です。倒した後も気をつけていないと背後を取られる危険性があります」
 リルドが剣を一振りし、首をはねる。
 メイが大鎌を握り締めながら部屋に入り、ミルカとケヴィンがそれに続く。最後に死者の鎧と剣を廊下に放り投げたリルドが続き、扉がバタリと音を立てて閉まった。
 ヒンヤリとした空気の中、どこからかポタポタと水が漏れるような音が聞こえてくる。水に濡れた足が板の間を歩くような、ヒタヒタと言う音がするが、守人の姿は何処にもない。
 グルリと部屋の中を見渡したメイが、素早い動きで顔を上げる。ミルカも顔を上げ、そこにへばりついた茶色い髪の女性を見つけた。長く伸びた髪の先からは水が滴り落ち、埃と蜘蛛の巣に汚された赤絨毯へと吸い込まれていく。吹き抜けの天井は高く、塔の先端部分に向かって緩やかに傾斜している。
 元は碧かったであろう濁った瞳と目が合った瞬間、守人が何かを投げた。白い塊はこちらに向かって落下し、メイとリルドが咄嗟に飛び退く。彼らほど修羅場慣れしていないミルカが判断を迷い―――塊が解れ、広がる。蜘蛛の糸だと理解した直後、ケヴィンがミルカの上に覆いかぶさった。
 粘り気のある白い糸がケヴィンの背中を包み、強い力で床に押し付けようとする。もしミルカだけが糸に絡まれたならば、力負けして床に押し付けられ、危ないところだっただろう。押し潰されまいと必死に腕に力をこめて耐えるケヴィンを助けようとリルドとメイが走り寄り、上空から放たれた蜘蛛の糸の塊に気づき、回避する。
 糸は誰に当たる事もなく床に砕けると、粘り気のある罠を作り上げた。迂闊に足を踏み入れれば、糸に囚われて動けなくなってしまう。
「くそ‥‥‥このままじゃ近付けねぇ!」
「ミルカ様、聞こえますか!」
「きこえるわ!」
「ケヴィン様はナイフを持っているはずです、それを探して糸を切るんです!」
 探せと言われても―――
 勝手に服をまさぐる事に強い抵抗を感じたミルカだったが、唇を噛んで耐えるケヴィンの表情に決心すると、ごめんなさいと小さく謝ってから彼の着ているジャケットを捲り、内ポケットの中を探った。
 糸に包まれているせいで視界は薄暗い。丁寧に見ている暇はないとやや乱暴な手つきでジャケットの内側を探っていた時、何か鋭い物が指先にあたり、小さな痛みを伴いながら温かい何かが流れ落ちた。
 指先が切れた―――と言うことは、ナイフは‥‥‥‥
 血が滴り落ちる指には構うことなく、ミルカはナイフを引きずり出すと床に伸びた無数の糸を切りにかかった。
「リルド様、守人はあたしに任せてください」
「分かった。俺は封印球を探してぶっ壊す」
 リルドが張られた蜘蛛の巣を気にしながら奥へと進み、本棚の上に置かれていた封印球を見つけると剣を一振りして棚を壊した。落ちてきた封印球に向かって雷弾を放つが、表面には傷一つつかない。連続で氷弾も撃ち、微かにヒビが入ったのを確認すると剣を振り下ろす。
 封印球に危険が迫った事を感じた守人がそちらへ移動しようとするのを、宙に浮かび上がったメイが阻む。一対の純白の羽がメイの軽い体重を支えるように羽ばたき、窓から差し込む日差しを受けて神々しいまでに輝く。
「お妃様だって、あの封印球を壊して欲しいはずなんです―――だから‥‥‥ここから先は、絶対に行かせはしません!」
 放たれた蜘蛛の糸を避ける。壁にベッタリと張り付いた糸の位置を確認すると、大鎌を振り上げて守人に斬りかかる。髪の毛を数本断ち切っただけで避けられはしたが、先ほど戦った守人よりは格段にスピードが遅い。
 ミルカがケヴィンの上半身を覆っていた糸を断ち切り、更に下に伸びる糸を切ろうとするのを止められる。グイと力任せに足を引き抜いたケヴィンの背中には、粘り気のある糸が絡み付いている。
「たすけてくれて、ありがとう‥‥‥」
 ふわりと、場にそぐわないながらも柔らかい笑顔を浮かべたミルカに、ケヴィンもほんの少しだけ微笑を返す。
 上空で戦いを繰り広げるメイと守人だったが、見るからにメイの方が優勢だ。攻撃される心配のないリルドが力いっぱい封印球に剣を叩きつけ―――ガシャンと、窓が割れる音に顔を上げる。塔のてっぺん近くに設けられた明り取りの窓から、汚れた茶色の羽を広げた吸血虫が入り込んできた。
 点々とついた毒々しい模様に、それと同じ色をした小さな瞳。その両眼を真っ直ぐにメイに向けると、急降下して彼女の華奢な身体を細い無数の腕で捉えた。口元から伸びる細い管が白い首筋に突き刺さり、血を吸い始める。強い力はメイの抵抗などものともせず、彼女の意識が遠のくギリギリまで血を吸い続けると、突然上空で腕を放した。
 落下してくる彼女を受け止められるのは、近くにいるケヴィンしかいない。しかし、彼の後ろには非戦闘員のミルカがいる‥‥‥
「あたしのことは気にしないで!」
 ドンと背中を押す。ケヴィンが床を蹴り、落ちてくるメイをキャッチする。
 リルドが吸血虫目掛けて雷弾を放ち、ミルカの方へ駆け出す。上を向けば守人が鋭く伸びた爪をギラつかせながらこちらに迫って来ていた。
 ここにいてはダメ―――
 そう判断したミルカが走り出す。雷弾によってかなりダメージを受けた吸血虫が、メイを無事に抱きとめたケヴィンに向かって行く。
 リルドがどちらに行けば良いのか逡巡し、剣を抜いて戦闘態勢に入ったケヴィンを視界の端に留めるとミルカの方へと向かう。
「ミルカっ!!」
 伸ばされた手を掴む。力強く引っ張られ、足が縺れて体勢が崩れそうになる。
 背後に迫っていた守人が爪を振り上げ、リルドがミルカを胸に抱くと反転する。
「くっ―――――!!」
 ミルカを抱く手に力が篭められる。肩口から脇までを斜めに斬られたリルドは、守人の攻撃を避けきれないと判断し、自分を犠牲にしてミルカを守った。
「リルドさん‥‥‥!!!」
「メイ、に‥‥‥増血剤、を‥‥‥」
 背中に手を回す。ぬるりとした何かがミルカの掌を濡らす。
 グラリと横に倒れこんだリルドの背中から大量の血が流れ出し、色あせた絨毯を赤く染め上げる。
 荒い呼吸、青白い顔―――ミルカの頭の中がパニックに陥る。
 あたしのせいだわ、あたしのせいで‥‥‥‥‥あたしが―――――
「ミルカ!!」
 低く落ち着いた声に顔を上げる。吸血虫に最後の一撃を刺したケヴィンが、鋭い視線でこちらを見つめている。
 それは、初めて聞く彼の声だった。様々な感情が混ざり合った深い声は、一瞬にしてミルカを冷静にさせた。
 ―――そうよ、あたしがパニックになってどうするの!
 自分を叱咤する。血に濡れた手でポシェットの中を漁り、増血剤と治癒薬を引っ張り出す。
 増血剤は直ぐに効果が現れるが、治癒薬は一定の時間を置かないとダメな場合がある。傷が深いと直ぐには治らないのだ。
 ケヴィンが守人を挑発するように矢を射る。おそらく、ミルカが2人の手当てをしている間時間を稼いでくれるつもりなのだろう。
 徐々に弱くなるリルドの呼吸を気にしながら、ミルカはメイの元へ走り、増血剤を薄く開いた桜色の唇の中に押し込んだ。
「メイちゃん、しっかり‥‥‥!」
 メイの頭を持ち上げ、自身の膝の上に乗せる。青銀色の美しい髪が汚れた絨毯の上に広がる様はあまり見ていて気持ちの良いものではなかったが、今はそれどころではない。雪のように白い肌は今や病的なまでに青白くなっており、閉じられた目は嫌な想像を掻き立てる。メイがあとほんの少し目を開けるのが遅れたら、ミルカはその頬を叩いていたところだった。
「あたし‥‥‥」
「吸血虫に血を吸われたのよう、覚えてない?」
 焦点が定まり、頬に赤みがさす。勢いよく起き上がろうとして、まだ血の足りていないメイの身体がフラリと傾く。
「そんなに早く動いたら‥‥‥」
「吸血虫は、守人はどうしました?」
 意外とシッカリとした口調に、ミルカは彼女が気を失っている間にあった事を簡潔に話した。
 落ちてきたメイをケヴィンが抱きとめ、吸血虫を倒した事、リルドがミルカを守って負傷した事―――
「あたしはもう大丈夫です。ミルカ様は、リルド様をお願いします」
 上半身を起こしたメイが、近くに落ちていた大鎌を掴むとケヴィンを一瞥してから封印球に向かう。足取りは確かで、増血剤が効いている事が分かる。
 ミルカは手の中の治癒薬をギュっと握り締めると立ち上がり、うつ伏せに倒れたリルドの身体を起こした。
 スカートが血に濡れるのも構わずに、膝の上にリルドの上半身を横たえる。痛みに耐えるようにキツク閉じられた口をこじ開け、喉の奥へと治癒薬のカプセルを押し込む。床に放り捨てられたままだったポシェットの紐を乱暴に手繰り寄せ、中から水筒を取り出すと口の中に水を流し込む。
 ゴクリと喉が動くのを確認し、ミルカは水筒をポシェットにしまった。
 ―――この怪我だもの、すぐには回復しないわよねえ‥‥‥
 辛そうに顰められた眉、血の気の薄い白い肌、ミルカはそっとリルドの艶やかな黒髪を撫ぜると、息を吸い込んだ。
「♪忘れていた 幼いあの日の約束」
 優しい歌声は、ヒンヤリと凍った空気を柔らかく溶かしていく。
「♪また会おうねと 絡めた小指 舞い散る桜」
 ミルカの指先に出来ていた切り傷が治り、メイの首筋についていた吸血虫が刺した痕が消える。
「♪月日重ねるうち 淡くなって行った思い出 思い出した今 輝くよ」
 ケヴィンの背中に残っていた鈍い痛みが消える。リルドが薄く目を開き―――
「♪貴方を想って 書いた手紙 届け 貴方の元へ この気持ち乗せて」
「‥‥‥ミル、カ‥‥‥?」
 眩しそうにミルカを見上げるリルドの背中からは、もう血は流れていない。顔色も随分良くなり、ゆっくりと上半身を起こした時、メイの大鎌が封印球を砕き、七色の光りがあふれ出す。
 守人が断末魔を上げながら光りの中に飲み込まれ―――目を閉じる。茶色い髪をした上品な女性が1人、碧色の優しい瞳を細め、丁寧に頭を下げているのが見える。彼女の瞳はただ慈悲深いだけで、何も求めてこない。
 ―――ああ、やっぱりお妃様は慈悲深くて優しい方だったのねえ‥‥‥
 聖母の2文字が頭の中に浮かぶ。求めるより与える事を望む彼女の瞳は、最後にほんの少しだけ寂しそうに細められると、光りの中へと消えて行った。
「なんて素晴らしい方なんでしょう‥‥‥」
「―――とっとと王の封印も解いて、帰るぞ」
 床に落ちていた剣を拾って立ち上がったリルドのコートの裾を握り、ミルカは助けてくれたお礼と怪我をさせてしまったことの謝罪をしようと口を開いたのだが、喉元まで出かかった言葉はリルドの一言によって飲み込まれた。
「礼なんかいらねーよ。まして謝ったりしたらぶっ飛ばすからな」
「でも‥‥‥」
「あんなぁ、ここは戦いの場だぞ?守ったり守られたり、そんなんにいちいち反応してたらキリがねぇ。しかも、庇ったのは俺の判断だ。‥‥‥俺だって助けてもらったしな、おあいこだ」
 奥の扉が軋みながら開き、ケヴィンが剣を鞘に収めるとそちらを振り返る。
「凪様、虎王丸様、千獣様はご無事でしょうか‥‥‥」
「ご無事に決まってるわよう。凪君も虎王丸君も千獣さんも、強いんだから」
 力強くそう言いきった時、南の塔とを繋ぐ扉が外側から激しく叩かれた。
「死者がもうここまで‥‥‥」
「ケヴィン、そこにある棚を持って来い、バリケードを作るぞ。直ぐに突破されちまうだろうが、ないよりゃマシだろ」
 棚にソファーに机、部屋にある動かせそうな家具を全て扉の前に積み上げると、4人はお妃様の部屋を後にし、城へ続く廊下を走り抜けた。



* * *



 死者が溢れる城内を疾走する。上から襲って来る吸血虫には威嚇程度の攻撃をし、広間目指して止まらずに進む。
 先頭を走るのはリルドで、その次にメイがミルカを守りながら続く。背中を守るのはケヴィンだ。
 西の塔から城内へと入った4人は、城下町からなだれ込んできたと思われる死者の多さに唖然とした。細い通路には様々な武器を持った死者が蠢いており、孵化した吸血虫がそこかしこの壁にへばりついていた。
「ここは一気に駆け抜けるしか手はねぇようだな。俺が行く手を阻むヤツラを蹴散らす」
「ミルカ様はあたしが守ります。ケヴィン様は後方をお願いできますか?」
 コクリと頷いたケヴィンが剣を構える。
「ミルカ様は走ることだけに専念してください。‥‥‥王様との戦いでは、ミルカ様の歌が必要になります。ですから‥‥‥」
 ここでやられるわけには行かない。メイの強い意思を宿した瞳に真正面から見つめられ、ミルカは竪琴を胸に抱くと強く頷いた。
「行くぞ!!!」
 雷を纏った剣が死者を切り裂き、後方に押し返す。メイが上空から襲う吸血虫が近づけないように大鎌を降る。死者が退いて出来た道を走り、後ろから追いすがる彼らをケヴィンが倒す。
 廊下は一本道で、分かれ道で頭を悩ませなくて良い分ありがたかったのだが、挟み撃ち状態になっている現状では手放しでは喜べない。4人のうち誰か1人でも倒れたならば、王の広間にたどり着くことは出来ないだろう。
 死に物狂いで通路を進んだ先、金色に輝く両開きの扉が見えた。
「きっとあそこが広間です!」
 この王国に来る前もいち早く死臭に気づいたメイだったが、今回も何かに気づいたらしく声を上げた。
 あともう少しで広間に辿りつけるのだが、まるで扉を守るかのように死者が大群で押し寄せて来ており、なかなか先に進めない。ついには足が止まってしまい、死者の中に取り残されたような状態になってしまった。上空からは吸血虫がこちらを伺っており、少しでも気を抜けば急降下してきそうだ。
 ―――あたしの歌で幻を見せれば‥‥‥
 竪琴をしっかりと抱き、細い指で絃を弾こうとした時、前方から何か大きなものが死者の頭上を飛び越えて来た。鋭い爪に、硬そうな毛で覆われた脚。長い黒髪を靡かせた彼女は、死者を切り裂くとリルドの前に着地した。
「千獣‥‥‥!」
「‥‥‥みんな‥‥‥無事、で‥‥‥よかった‥‥‥」
 あまり表情の変っていない千獣だったが、紅の瞳の奥には安堵したような色が宿っている。
「やっぱ無事だったみてぇだな!」
 元気の良い声と共に、虎王丸が長く伸びた爪で死者を切り裂きながらやって来る。その後ろには銃を構えた凪が続き、虎王丸が討ちもらした敵を鮮やかな銃さばきで倒している。
「そっちこそ、無事だったようだな」
「あったりまえだろ!何せこっちには俺がついてたんだからな!」
「‥‥一度死にかけたヤツがよく言う‥‥‥」
「あぁ!?なんか言ったか凪!?だーれのせいで死にかけたんだっつの!」
「何だ虎王丸、お前も死にかけたのか。奇遇だな!」
 軽口をたたきながら、リルドと虎王丸が合流する。千獣が広間の扉に手を触れれば、ゆっくりと内側へ開いていく。
 まずは千獣とメイが中に入り、凪がミルカを守りながら入る。ケヴィンと虎王丸、リルドが迫る死者を後方へと押し飛ばし、扉を閉める。
 内鍵をかけはしたものの、この扉も長くは持たないだろう。
「皆様、来ますよ‥‥‥!!」
 メイの緊張した声が広間に響く。
 今でも掃除する人がいるかのように綺麗な広間は、大理石の床が輝いていた。
 重く落ち着いた足音と共に、紅のマントを羽織り、黄金の冠を頭に乗せた初老の男性の姿が現れる。巨大な広間の奥は漆黒の闇が潜んでおり、グルリと見たところ見つからない封印球は、おそらくそこにあるのだろう。
 ズっと音を立てながら引きずられた大きな対の剣が、大理石の床を傷付ける。
 白く濁った瞳は元がどんな色だったのか分からない―――肖像画で見た時は深く澄んだグリーンの瞳だったが、今やその面影はどこにもない。
 全身から発せられるオーラは圧倒されそうなほどに強い。
「随分強そうだな、おい‥‥‥」
 虎王丸の頬を冷や汗が滑る。彼だけではない、その場にいる誰もが絶対的な力を滲ませる王―――守人―――の雰囲気に緊張していた。
「‥‥俺は封印球を狙う。千獣に虎王丸、守人を足止めできるか?」
「任せろ‥‥と、力強く言いたいところだが、約束は出来ねぇな」
「‥‥‥がん、ばる‥‥‥」
「‥‥俺がリルドさんを援護します」
「あたしとケヴィン様はミルカ様を守りましょう。状況によってはお手伝いします」
「あたしは歌を歌うわ」
 リルドが剣を構え、走り出す。凪がその後を追い、千獣と虎王丸が守人に立ち向かう。
 ミルカはそっと竪琴の側面を彩る人魚を撫ぜると息を吸い込んだ。
「♪後ろは振り返らない ただ進むのみ」
 力強い音は、仲間に勇気と力を与える。
 リルドが守人の傍を通り過ぎ、虎王丸が刀を、千獣が爪を振り上げる。どちらも脚は硬く短い毛で覆われており、獣のパワーは2人の身体を高く上空へと跳ね上げた。守人の頭上、右と左の両方向から攻撃を加える。
 守人の足が止まり、ふっと天井を見上げる。先ほどの歩行速度を見る限りでは、間近に迫った2人を避けられるほど素早いとは思えない。カッと濁った両眼が光り、太い腕に握られた大きな剣が振り上げられる。そのスピードは驚くほど早く、空中と言う不安定な場所にいた2人は避けるタイミングを失い、なるべく被害の少ない体勢に身体を捻る事しか出来なかった。
 鈍い音を立てて壁際まで吹っ飛ばされる千獣と虎王丸。虎王丸の背中に本棚が当たり、ガラガラと崩れ落ちる。千獣は高そうな椅子をなぎ倒し、壁に強かに背中を打つとむせ始めた。
「♪下を向いては 足が止まるから 上を向いては 空の青さに 吸いこまれるから」
 こちらへと迫る守人に、メイとケヴィンが戦闘態勢に入る。
 暗がりから鈍い音が聞こえてくる。おそらく、リルドが封印球に攻撃を加えているのだろう。
「♪前を向いて ただひたすら 伸びる道を見つめて」
 純白の羽で守人の頭上に飛び立ったメイが大鎌を振り下ろすが、難なく弾かれる。それを見ていたケヴィンが距離をとりつつ矢を放つ。
 空を切り裂きながら真っ直ぐに飛んだ矢は、守人の振り下ろした剣に跳ね返され、壁に突き刺さった。ケヴィンが矢を番え、キリキリと弦を引く。そちらに気を取られている隙にとメイが再び大鎌を振り下ろし――― 守人の左薬指にはめられた指輪、その紅の石が妖しく光り輝く。
 ―――危ない‥‥‥!
 そう思った時には遅かった。
 守人の指先から5つの炎の弾が上空と左右、真後ろと真正面へと放たれる。
 メイが大鎌を盾にして炎から身を守るが、勢いに力負けして壁に叩きつけられる。一瞬気を失っていた虎王丸と千獣は、炎の弾が当たる前に意識を回復すると、虎王丸は自身の白焔で、千獣は黒い羽で何とか身を焦がさずにすんだ。
 真後ろに放たれた炎の弾は凪の方へと飛んで行ったが、右へと避けて回避した。爆風によって数m床を滑りはしたが、回避時に腰を落としていたため、踏ん張りが強くきき、壁に叩きつけられる事はなかった。
 真正面に飛ばされた炎の弾は、歌い続けるミルカに向かっていた。
「♪信じた道は きっと 未来へと繋がっているから―――」
 ―――避けないと‥‥‥!
 そうは思っても、床に縫い付けられてしまったかのように足は動かない。近くにいたケヴィンがミルカの前に立ちはだかるが、細い剣だけでは攻撃を防ぎようがない。パニックで頭が真っ白になりかけた時、守人の後方から凄まじい勢いで何かが飛んできた。
 透明なソレは炎の弾に追いつくと包み込み、ケヴィンとミルカに当たった。強い水圧に押し倒され、床で背中を強かに打つが熱くはない。
 広間の異変に気づいたリルドが封印球への攻撃の手を止め、様子を見に来てくれたから助かった。
 彼は瞬時に状況を理解すると大気中の水を集め、ブーストをかけて放った。圧縮された水の弾は炎の弾よりも加速し、間一髪のところで追いつくと消し去った。
 ほっと安堵したのも束の間、守人の攻撃の矛先がリルドへと変る。剣を構え、走り出す守人のスピードはなかなか速い。
 先ほど飛ばされた際に武神演舞を舞っていた凪が、両手に持った銃の引き金を引く。大して狙いをつけなくても当たるのは、彼の身に宿った神霊が百戦錬磨の銃の達人だったからだ。
 反動をものともせずに引き金を絞り続ける凪だったが、巨大な対の剣はあっさりと弾いてしまう。
 キィン、キィンと弾が剣に当たっては弾かれる音が響き、守人が凪の目の前まで来る。左の剣が上空から振り下ろされ、身体を反転させて避けた先、右の剣が横から襲い掛かる。防御の体勢をとるものの、勢いを殺す事は出来ずに壁に叩きつけられる。
 リルドの元へは行かせないと、虎王丸が地を蹴って一気に間合いを詰める。剣を振り上げ――― 守人の左の剣が唸り、虎王丸を弾き飛ばす。上空から大鎌を持って急降下していたメイが右の剣に飛ばされるが、双方とも上手く防御し、壁に叩きつけられる事は免れた。
「‥‥‥リルド、封印、球‥‥‥!」
 幾ら守人を攻撃しようとも、封印球を壊さない限りはこの状況は好転しない。
 千獣がリルドに声をかけてから守人に飛び掛るが、長い爪は紅のマントを切り裂く前に巨大な剣によって弾かれた。
 リルドが封印球が置かれている奥へととって帰ろうとするのを制するように、守人の左手中指にはめられた水色の石が輝く。
 咄嗟に自身の周囲に水の壁を作り出すリルド。守人の指先から巨大な水の柱が生まれ、リルドを襲う。水柱の力は凄まじく、華奢な壁ともどもリルドは後方へと押し飛ばされた。
 鈍い音と共に壁に叩きつけられたリルドがぐったりと力なく床に横たわる。メイが急降下して守人の前に立ちはだかる。守人の意識がメイに向くのを見て、千獣が黒い羽を羽ばたかせ、リルドの身体を持ち上げると離れた位置で成り行きを見守っていたミルカとケヴィンの元へ運ぶ。
 ミルカがリルドの身体を素早く調べ、気を失っているだけだと判断するとポシェットの中から水筒を取り出して彼の口に含ませる。
「俺とメイで守人の注意を逸らす!凪!」
「分かった!」
 一番封印球の近くにいた凪が奥へと駆け出し―――ガンと、鈍い音が広間に響き渡った。
 ミルカとケヴィン、そして千獣とリルドの後ろにあった巨大な扉が、ついに死者達の攻撃に負け、倒れたのだ‥‥‥!
「‥‥‥ミルカ、リルド、を‥‥‥」
「分かってるわ!」
 まだ意識の回復しないリルドを膝に、ミルカは力強く頷いた。
 千獣とケヴィンがなだれ込んでくる大量の死者を前に、爪と剣を振るう。蠢く死者の上空、茶色い巨大な蛾がミルカとリルドに狙いを定めて飛んでくる。それに気づいた虎王丸が守人との戦闘を一時抜け、吸血虫の前に立ちはだかると身体から白焔を出して茶色い羽を燃やす。
 虎王丸が抜けた事によってメイが途端に劣勢に立たされ、対の剣に翻弄される。凪が封印球壊しを一時諦めて守人に銃を放つ。
「虎王丸!」
 凪が何かを言いたげに虎王丸の名を呼び、守人に銃を撃ち続けながら千獣とケヴィンの方へと走って行く。
「ケヴィン!」
 虎王丸に呼ばれたケヴィンがチラリと凪の動きを見ると全てを察したらしく、頷いた。
「‥‥‥ここは、守る‥‥‥から、行って‥‥‥!」
 一連の出来事を聞いていた千獣が、迫る死者を爪で切り裂くと力強く言い放つ。
「メイ!」
「大丈夫です!」
 メイが虎王丸の呼びかけに強く頷く。
 ‥‥‥戦いに身を置く者同士、口に出さなくても伝わる言葉。それは、一種の絆と言っても過言ではないものだった。
 凪が千獣の隣につき、ケヴィンがミルカとリルドを守るべく飛来する吸血虫に立ち向かう。ミルカとリルドの傍を離れた虎王丸が、1人で守人を相手に頑張るメイの元へ急ぐ。
 一連の出来事はほんの数秒のうちに完了されたが、もし誰か1人でも呼びかけの意味を理解できない者がいたならば、危険な状況だった。
 凪は自身の持つ天恩霊陣が大量の死者に有効であると思い、守人との戦闘を虎王丸に代わってもらうべく彼の名を呼んだ。
 虎王丸は凪が千獣とケヴィンの方へと走っていくのを視界の端に留め、彼の言いたい事を悟ると、ミルカとリルドを吸血虫から守る役目を代わってもらうためにケヴィンの名を呼んだ。
 ケヴィンは凪の行動、そして虎王丸の呼びかけに全てを悟ると、頷いた。
 無表情ながらもケヴィンの横顔に浮かんだ心配の色。ここを離れたら千獣が一人で敵を相手にしなければならない―――その考えを読んだ千獣が、彼の背中を押すべく大丈夫だと強く言い放った。
 最後、虎王丸がメイの名を呼んだのは、凪が千獣の元へつき、守人への射撃をやめた時、虎王丸が駆けつけるまでメイは1人で守人を相手にしなければならない。ほんの数秒だが、彼の力をまざまざと見せ付けられていた虎王丸は、心配になって声をかけた。それに対してのメイの答えは力強いものだった。
 凪が天恩霊陣を舞い、死者に毒を、味方に癒しを与える。虎王丸とメイが守人相手に奮闘し、ケヴィンも襲い来る吸血虫を剣で斬っていく。
「‥‥‥うっ‥‥‥」
「あ!リルドさん!」
 ミルカの膝の上で低く唸ったリルドが目を開け、一瞬顔を顰めると起き上がる。
「だいじょうぶなの‥‥?」
「あぁ。平気だ‥‥‥。それより、とうとう扉が破られちまったか」
 頭を掻き、傍らに置かれた剣を掴むと立ち上がるリルド。パリンと窓が割れる音がし、吸血虫が広間になだれ込んでくる。
「‥‥‥くそっ!厄介なヤツがこんな大量に‥‥‥!」
 苦々しく呟いたリルドが、コートの裏から清水の入った容器を取り出すとばら撒く。
「メイ!」
 リルドの呼びかけに、メイは一瞬だけ守人から視線を外すとばら撒かれた清水を見た。
「虎王丸様!」
「何か分からねぇけど、ヘマはすんなよ!」
 ザワリと場の空気が揺らぎ、リルドの足元に撒かれた清水が玉となって空中を浮遊する。
「一撃でも入れて隙が出来りゃ、風を喚んで一気に距離を詰めてケリを付ける」
 メイと虎王丸が飛び退き、メイは吸血虫を倒すべく空中に飛び上がり、虎王丸は少し考えた後で封印球へと走った。
 守人が虎王丸を追おうと背を向けた瞬間、リルドの右手が宙を切り裂いた。
「水の刃に貫かれろっ!!」
 大きく膨らんだ水の玉が弾け、無数の鋭い矢となって守人に襲い掛かる。守人が足を止め、その瞬間を見逃さずに風を喚ぶ。リルドの身体がふわりと浮き上がり、強い風の力で一気に守人に近付き――― 守人の右薬指にはめられた黒い石が妖しく輝く。
 黒い石から闇が生み出される。闇は急速に広がると、強い衝撃波となって広間を駆け巡った。
 空中で吸血虫と戦っていたメイが吸血虫ともども天井に叩きつけられ、封印球へと向かおうとしていた虎王丸が壁に吹っ飛ぶ。
 死者はあまりの衝撃に扉から押し出され、千獣と凪も廊下へと吹き飛ばされる。ミルカの華奢な身体が宙を舞い、ケヴィンが必死になって彼女の腕を掴むが彼の足も床についていない。ミルカを胸に抱き、右手に持った剣を床に突き刺して何とか壁との激突は免れたが、右腕の筋を痛めた。
 衝撃波の一番近くにいたリルドは、後方から風に押されていたために数m飛ばされたに過ぎなかったが、あまりの衝撃に息が詰まった。
「くっそ‥‥‥」
 胸を押さえ、咳き込みながらリルドが喘ぐ。
「メイ‥‥‥!」
 天井にぶつかった衝撃で気を失ったメイが落ちてくる。彼女と一緒に落ちてくる吸血虫を白焔で焼きながら、虎王丸が痛む身体を引きずって彼女の身体をキャッチする。
「‥‥‥凪、なぎ‥‥‥!」
 廊下からは千獣の声が響いてくる。死者の真っ只中に取り残された千獣は、床に叩きつけられた衝撃で気絶した凪を守りながら四方から来る敵と戦わなくてはならなくなっていた。
「いっ‥‥‥」
 右腕を押さえたケヴィンが苦しそうに眉根を寄せ、剣を左手で持つと立ち上がる。
「ケヴィンさん‥‥‥!」
 千獣の援護に回ろうとしているケヴィンだったが、利き腕はダラリと力なく身体の脇で揺れている。
「そんな腕で行くなんて、むちゃよう!」
 そうは言ってみるものの、千獣と凪を見殺しには出来ない。虎王丸は目を覚ましたメイと共に吸血虫と戦っているし、リルドは守人と対峙している真っ最中だ。援護に駆けつけられるのはケヴィンしかいない。
「虎王丸、メイ!虫と守人、ほんの少しで良い‥‥‥任せられるか!?」
「それしか手がねぇんならな!」
「リルド様、何かお考えがあるのですか?」
 迫り来る吸血虫を大鎌で叩き切ったメイが、フワリと守人の前に着地する。虎王丸が刀を横に振り払って吸血虫を威嚇し、守人の背後を取る。
「千獣、聞こえてるか!?お前らの上だけ空間を開けて死者を氷の牢に閉じ込める!」
「‥‥‥上、から、脱出‥‥する‥‥‥わかった‥‥」
「ミルカ、少しで良い、死者の動きを止めろ」
「分かったわ!」
 リルドが最後の清水を床にばら撒く。メイと虎王丸が守人に両方向からの攻撃を加え、彼の意識がリルドやミルカの方へ向かないように気を逸らさせる。竪琴を手に幻想的な曲を紡ぐミルカを吸血虫の攻撃から守るべく、ケヴィンが左手で剣を振るう。
「♪夢を見ていた 優しく 穏やかな夢」
 揺れるようなか細いメロディは美しく、死者の動きが鈍くなる。千獣はすぐ近くにいた数体を爪で切り裂くと、凪の身体を持ち上げた。
「♪白い翼で 空を飛ぶ 柔らかい風を感じた」
 リルドの身体を包む青白い光が点滅する。足元から冷気が立ち上り、撒かれた清水から白い煙のようなものが湧き出して床を滑って行く。
「♪温かい太陽に手を伸ばす 青く澄んだ空は遠くて 手が溶け込みそうで」
 水が凍結する微かな音が広間を包む。白い煙は真っ直ぐに廊下に流れ出すと壁と伝い、天井で1つに結ばれると鋭く輝いた。
 氷の牢が死者を囲い、千獣が凪を抱えて脱出する。黒い羽が窮屈そうに天井に当たり、何とか死者の大群を抜けるとミルカとケヴィンの前に降り立った。
 ミルカが凪を仰向けに寝かせ、ポシェットから水を取り出すと口に含ませる。数度頬を叩き、薄っすらと開いた目に安堵する。
「この、氷の、牢‥‥‥どのくらい、もつ‥‥‥?」
「結構持つと思うぜ。今のうちに封印球をぶっ壊すぞ!」
「あたしと虎王丸様で守人を食い止めます!千獣様とリルド様は封印球を!」
「凪はケヴィンと一緒にミルカを守れ!余裕があったら吸血虫も頼んだぜ!」
 凪が大きく深呼吸をし、軽く頷くと立ち上がる。
 仲間の能力を高めるべくミルカが甘い声で歌い始め――― 守人の右中指にはめられた白い石が輝く。
 また何かの魔法が―――!!
 光りが広間を駆け巡り、防御体勢に入る。しかし、思った衝撃はこなかった。眩んだ目を薄く開け、今のは一体なんだったのかと広間を見渡す。
 まず気づいたのは、リルドを包んでいた青白い雷が消えていたことだった。そして―――死者を閉じ込めていたはずの氷の牢が跡形もなく消えている事に愕然とする。
「これはいったい‥‥‥」
 メイが首を傾げる。何が起きているのか、最初に気づいたのはミルカだった。
 ―――声が‥‥‥!
 凪の袖を引っ張り、自身の喉を指差して首を振る。何のジェスチャーかと思案顔になった凪が、はっと顔を上げる。
「無効化―――!!」
 コクリ。ミルカは頷いた。
 この場には無効化の魔法がかけられており、ミルカの歌魔法は勿論の事、リルドの魔法も、虎王丸の白焔も発動できない。
「どうして無効化なんて‥‥‥!」
 メイが目を大きく見開き、小さな手で口を覆う。
「今はそんなこと言ってる場合じゃねぇ!」
 驚きからいち早く立ち直ったリルドが剣を構える。行く手を遮るものが無くなった死者たちが、近くにいたケヴィンと凪に襲い掛かり、廊下から飛んできた吸血虫が千獣に襲い掛かる。
 壊れた窓からも吸血虫が侵入し、メイがそちらへ飛び立つ。虎王丸とリルドが守人の動きを止めようと双方から攻撃を加える。
 凪が舞った天恩霊陣も無効化にかき消されており、死者は何の障害もなくおのおのが持った武器を振り回している。勢いに押され、後退し始めるケヴィンと凪。圧倒的に不利な状況に、千獣が近くにいた吸血虫を倒すと加勢に加わる。
 状況を見て取ったメイが降下し、廊下から入ってくる吸血虫と上空から飛んでくる吸血虫の両方を相手に奮闘する。
 大鎌が唸りながら空を切り裂き、集まっていた3匹の吸血虫の羽を切り落とす。次から次へとやってくる吸血虫は、一斉に四方からメイを囲むと一気に襲い掛かった。大鎌を持ったまま回転し、周囲に集まっていた吸血虫を倒す。下から飛んでくる吸血虫は蹴り飛ばしたのだが、上空から飛んで来る吸血虫を避ける事は出来なかった。腕を盾にして何とか顔への攻撃は免れたが、鋭い歯に切り裂かれた腕からは血が滴り落ちている。
「くっ‥‥‥!」
「メイ!!」
 下でその様子を見ていた虎王丸が思わず攻撃の手を緩め、その好機を逃さずに守人が剣を振り下ろす。一瞬判断の遅れた虎王丸の胸に一筋の赤い線が描かれ、そこからユルユルと鮮血が流れる。
「うっ‥‥‥」
「虎王丸!」
 斜めにかなり深く斬られた虎王丸が胸を押さえてうずくまり、リルドが彼を助けるために地を蹴る。守人の攻撃をかわし、虎王丸の前に立ちはだかる。対の巨大な剣が十字に合わせられ、渾身の力をこめて振り下ろされるのを剣で受け止める。あまりにも重い衝撃に押し潰されそうになるが、歯を食いしばって耐える。
 リルドの一大事に千獣が漆黒の羽を羽ばたかせ、守人の顔目掛けて爪を伸ばす。あともう少しで当たると言うところで守人が剣を振り上げて千獣の攻撃を弾く。
 千獣がいなくなったことで劣勢に追い込まれた凪とケヴィンが再び後退を始め―――2人の一瞬の隙をつき、死者がミルカに走りよる。壁際で成り行きを見守っていたミルカが、振り上げられた剣を何とか避ける。
 襲い来る死者から逃れるために走り、磨かれた大理石に横たわる死んだ吸血虫に足を取られて転倒する。
 手に持っていた竪琴が床を滑り、淡い色のスカートが広がる。銀色の細い髪を縛っていた白いリボンがはらりと解け、誰のものかは分からないが、落ちていた血に染まる。
「ミルカっ!!」
 虎王丸の声が聞こえ、ミルカは目を瞑った。すぐ後に来るであろう痛みに耐えるために歯を食いしばり―――
 ザンと、剣が濡れた何かを切り裂く音が聞こえる。それは確かに人を斬った時の音だったが、ミルカの身体に痛みはない。
「虎王丸!!」
 凪の叫び声が広間を揺るがす。それは、クールな彼からは想像も出来ないほどに上ずった、悲鳴のような声だった。
「虎王丸様!!」
 メイの声が頭上から降り注ぐ。甲高い叫びは絶望を含んでおり、ミルカはそっと目を開けると後ろを振り返った。
 仁王立ちに立った背中は、薄い布越しでもしっかりと筋肉がついているのが分かる。黒い髪は下のほうで1つに結ばれており―――今、髪を縛っていた白い紐がハラリと解けた。
 グラリと傾いだ背中を受け止めようと手を伸ばすが、彼女よりも大きな身体を受け止めるのには無理があった。一緒になって後ろにひっくり返り、背中を強かに打つ。息が詰まり、ミルカはゲホゲホとむせながら上体を起こした。
 目の前には左手に剣を持ったケヴィンが立っており、その足元には首をはねられた死者が転がっている。
 ミルカは自分の身体の上に乗っている虎王丸の顔を覗き込んだ。
 硬く閉じられた目、薄く開いた口の端からは赤い糸のようなものが見える。しっかりとした首筋、胸元を守っていた鎧は割れており、そこから小麦色の肌が見えている。
 ―――虎王丸、君‥‥‥?
 声が出ない事を忘れ、呼びかける。
 胸から溢れる血は薄い服を染め上げ、床に滴り落ちている。ぐったりと投げ出された手からは刀が落ち、無造作に投げ捨てられている。
「どけっ!!」
 呆然と固まるミルカを押しのけ、リルドが虎王丸の首筋に指を当て、耳を顔に近づける。
「‥‥‥大丈夫だ、息はある‥‥‥ただ、そう長くは持たねぇ‥‥‥」
 リルドが苦々しく言い、立ち上がる。彼が抜けた穴を千獣が埋め、1人で果敢に守人に向かっている。入り口から入って来る死者の大群に苦戦している凪と、それを援護すべく戻るケヴィンの姿が目に入り、空中で1人吸血虫と戦っているメイの姿を見上げる。
「良いかミルカ、コレはコイツが決めたことだ。お前には何の責任もねぇ」
 ―――でも‥‥‥
 言葉を続けようとするが、声は出ない。
「今ここにいる誰か1人でも欠ければここまで来れなかった。お前の歌がなきゃ、城下町で死者に囲まれて身動きが取れなくなってた‥‥‥そうだろ?」
 ふわり―――リルドが優しく微笑むと、ミルカの頭を撫ぜた。
 ミルカの頬を熱い涙が伝う。
 自分の無力さが悲しくて、守ってもらうだけの自分が情けなくて‥‥‥
 頼りにしている、そう言ってくれたのに、ミルカの口から歌は紡がれない。
「今、自分に出来る事を考えろ。後悔なんて役に立たねぇもんは一切考えるな」
 ポンと最後に頭を叩くと、リルドが守人に向かって行く。
 不器用ながらも必死に慰めてくれたリルドの優しさが温かかった。
 そう―――きっと、この場にいる誰もがミルカの事を責めはしないだろう。リルドの言ったとおり、彼女がいなければ城下町で引き返していた可能性が高い。彼女の歌があったからこそここまで来れた。
 たとえ歌が封じられたとしても、ミルカは仲間だ。仲間のピンチを助けるのは当然の事―――虎王丸はそう思ったからこそ、死者の前に立ちはだかってミルカを守った。虎王丸だけではなく、もしあの場に違う人がいたとしても、きっとミルカを守っただろう。この手が届くのならば―――
 唇を噛み締め、ミルカは乱暴に涙を拭った。チリリと唇が痛み、血の味がするのも構わずに立ち上がる。
 ―――あたしに、今、出来る事は何―――?
 ただ泣いて、自分の無力さを呪うだけ?
 後悔して、心の中で謝り続けるだけ?
 確かに、あたしはヲトメだわ。か弱くて、戦いなんて向いてない。でも―――
 ヲトメだって、やる時はやるはずよ。ヲトメだからこそ、強い気持ちがあればきっと出来る―――!!
 足元に転がっていた虎王丸の刀を掴む。重たいそれは持っただけでふらつきそうになるが、しっかりと足に力を入れると走り出した。
 守人の相手をしているリルドと千獣の脇を通り抜け、暗闇の中へ入る。
 応接間のような狭い部屋の中央、どっしりとしたテーブルの上に乗っている七色の封印球を見つけ、ミルカは両手に力を篭めると刀を振り上げた。渾身の力を篭めて封印球の上に刀を振り下ろす。すでに細かなヒビが入っていた封印球は、体重の乗った重たい一撃にパキリと割れ――― 七色の光りが漏れ出す。
 広間から聞こえてくる雄たけびのような声を聞きながら、ミルカは光に包まれた‥‥‥



 目を開ければ、そこは真っ白な世界だった。上も下も右も左も、純白に染め上げられた世界だった。
「おめでとう、可愛らしい勇者さん」
 凛と良く響くテノールの声に振り向けば、サラリとした金髪の、驚くような美少年が立っていた。
 象牙のように白い肌に、長い睫、血のように赤く透き通った瞳はどこまでも深く、華奢な身体は今にも折れそうだ。
「あなたは‥‥‥」
「僕の名前はクロード。クロード・フェイド・ペディキュロージアって言うんだ」
 ふわり。思わず見つめてしまうほどに完璧な笑顔だった。
 ミルカよりも大分背の高いクロードは、悪戯っぽく目を細めると腰を曲げ、彼女の顔を覗き込んだ。
 近付いた顔は近くで見ても繊細で、思わず顔を引いてしまう。
「この魔法を作った張本人だよ」
 ――― 刹那、何を言われたのか分からなかった。
 それは、彼があまりにも無邪気に言ったからかもしれなかった。
 それは、この残酷な魔術を施した相手がこんなに若く、綺麗だとは夢にも思わなかったからかもしれなかった。
「あなたが‥‥‥!」
「そうだよ。‥‥あぁ、君は怒っても可愛らしいんだね」
「どうしてこんな事をしたの!?」
「さぁ、どうしてだろうね。ただの気まぐれ、かな?」
 かっと、頬に朱がさす。
 ただの気まぐれで呪いをかけられた王家、呪縛に苦しんだ王族―――
「そんなのって‥‥‥!」
 思わず手が出る。
 普段のミルカならば、こんなに頭に血が上らなかっただろうし、まして直ぐに手を上げるなんてことは考えられない。
 しかし、今日ばかりは事情が違った。
 頭の中でグルグルと映像が回る。守人となった王家の人々、廊下にかけられていた肖像画の幸せそうな顔‥‥‥
 パシリと手を掴まれ、グイと引き寄せられる。腰に回された手がミルカの動きを封じ、いくら左手を突っ張ろうとも身体は離れない。
「放して!」
「顔が赤いね。それは照れてるのかな?それとも怒ってるのかな?」
 にっこりと微笑んだクロードが、ミルカの銀色の髪にそっとキスを落とす。
 緩まった腰の手に、ミルカは彼を突き飛ばすと間合いを取った。
「また会えたら良いね、ミルカちゃん。君の怒った顔、また見たいな」
 クスクスと笑いながら、クロードが手を振る。
 あまりのセリフにミルカが唖然とした時、彼の姿が炎に包まれた。
 ゆらゆらと揺らめくそれは瞬く間に白の世界に広がり、全てを赤く染め上げた―――



 遠くで何かが燃える音に、ミルカは目を覚ました。
 黄昏に染まり始めた空を背景に、千獣の心配そうな顔が近くで見える。
「ミル、カ‥‥‥起き、た‥‥‥?」
「あたし‥‥‥」
「ミルカ様!良かった‥‥‥」
 身体を起こそうとするミルカを千獣が手伝い、メイが駆け寄ってくる。
「‥‥‥虎王丸君は!?」
「大丈夫だ。ミルカのポシェットからリブセンの葉とサンフロウの花を出して応急手当をしておいた。俺の舞の効果もあるし、虎王丸のことだ、すぐに傷も癒えて立ち上がるさ」
「凪君‥‥‥」
 ポシェットを勝手に漁って悪かったと謝る彼に、気にしていないと告げる。
「ミルカ様が封印球を壊した後、急にここに飛ばされたんです。‥‥‥王国はもう、浄化の炎で焼き尽くされています」
「浄化の炎‥‥?」
「はい。聖なる力を持った魔術師にしか創り出すことの出来ない、浄化の炎です」
 メイの瞳が鈍く光る。
 ――― 聖なる力を持った魔術師 ―――
 ミルカは心の中で呟くと、先ほど白の空間で出会ったクロードと名乗る男の顔を思い浮かべた。
 あれは一体なんだったのだろうか?ミルカの名前を知っていたと言う事は、あれは事前に撮ったものを封印球の中に込めていたわけではない。
 そうなれば、考えられる事は‥‥‥
 ―――封印球を割ると、あの空間に繋がるように出来ていた。そして、彼は‥‥‥きっとどこかで生きている―――
 ギュっと、掴まれた右手首を押さえる。
「クロード・フェイド・ペディキュロージア‥‥‥‥‥」



END


 ◇★◇★◇★  登場人物  ★◇★◇★◇

 【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


  3457 / ミルカ / 女性 / 17歳 / 歌姫 / 吟遊詩人


  1063 / メイ / 女性 / 13歳 / 戦天使見習い

  3544 / リルド・ラーケン / 男性 / 19歳 / 冒険者

  3425 / ケヴィン・フォレスト / 23歳 / 賞金稼ぎ


  2303 / 蒼柳・凪 / 男性 / 15歳 / 舞術師

  1070 / 虎王丸 / 男性 / 16歳 / 火炎剣士

  3087 / 千獣 / 女性 / 17歳 / 異界職


 ◆☆◆☆◆☆  ライター通信  ☆◆☆◆☆◆

 かなりの長文&かなりお待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。
 とても可愛らしいミルカちゃんですが、口調がとても心配です。大丈夫でしたでしょうか?
 職業は歌姫!と言うことで、たくさん歌っていただきました!
 ‥‥歌姫にダサイ歌なんて歌わせられない!と必死になりましたが‥‥だ、大丈夫ですかね?
 最初の子守唄は、色々な国の言葉をミックスしたものです。文体は英語です。
 ミルカちゃんの可愛くも強い一面を描けていたらなと思います。
 ご参加いただきまして、まことに有難う御座いました!