<東京怪談ノベル(シングル)>
Faces
賑やかな大通りを外れ、日中でも薄闇と静けさの落ちる閑散とした路地裏を進むと、やがて小ぢんまりとした――しかし、品の良い構えの店を見つけることができる。『香り』を扱う一風変わった専門店だ。
建物というのはしばしば所有者の人格を表すものだが、そこも例にもれず、整然とした造りは店主の礼儀正しさを、正面からの明るい外観とは逆にくっきりと浮かび上がる陰影は、普段は温和な調香師の裏の顔を垣間見せているかのようだった。
もっとも、その陰の部分を知る者は多くない。今店の前に立っている女もまた、洒落た構えと窓から窺える店内の落ち着いた雰囲気に惹かれ、何も知らずに足を踏み入れんとする者の一人だった。
「紅茶屋さん……?」
小さな声で挨拶をして店に入った女は、途端に鼻腔をかすめた香りに気付いてそう呟く。内装はレトロ・アンティークで整えられており、喫茶スペースを兼ねたカウンターが目を引いた。だが、壁に並んだ棚には香水瓶や香炉・ポプリといった物から紅茶の葉、茶葉入りの菓子まで揃っているところをみると、ただの紅茶屋・雑貨屋というわけではなさそうだ、と女は判断したようである。興味深そうに棚に目をやると、品物をあれこれ手に取り物色を始めた。
――と、その時。
「いらっしゃい。今日はどのような品をご所望かな。」
店の奥から突然そんな言葉が発せられ、女は文字通り飛び上がって「ごめんなさい!」と反射的に叫んだ。それから、恐る恐るといった様子で声の主の方を振り返る。その目に飛び込んできたのは輝く金髪、宝石のように赤い瞳と黒衣が印象的な青年だった。
「いらっしゃいと声をかけて、ごめんなさいと言われたのは初めてだよ。何故あなたが謝るのか判らないけど……驚かせてしまったのなら僕が謝るべきだろう。失礼したね。」
そう言って軽く一礼した店の主――エル・クロークは穏やかな笑みを浮かべてみせる。その端正な顔は男にも女にも見えるが、実のところ、クロークはそのどちらでもない。懐中時計の精霊、それがクロークの正体であり、本来は性別を持たないが――長身のせいか、どうやら眼前の女には男に見えているようだった。
「ごめんなさい、気にしないで。謝るのはわたしの癖みたいなもので……たまたま前の道を通りかかって入っただけなの。その、別に何かを探していたわけじゃないんだけど……あの、でも何か欲しいわ。ここにある物はどれも素敵だから……お勧めってあるかしら?」
二十歳は過ぎているようだが、その割にはどうにも落ち着きのない口調で顔を赤らめながら女が言い、それを気にした風もなくクロークは笑顔で頷く。
「今日のお勧めは……そうだねぇ、これなんかどうかな。」
そう言って差し出したのは洒落た包みの香だった。たちまちそれに心を奪われたらしい女が包みを手に取ると、
「最近仕入れたばかりで、あなたのような若い女性によく合う香りだよ。それに、鎮静効果もある。」
と言い、クロークは意味ありげな視線を『客』に向けた。赤い瞳に見つめられ、女はびくりと身をすくめる。
「鎮静効果……?」
「そう。香りには様々な効能がある――心を落ち着かせたり、頭をすっきりさせたりね。時には普段忘れている記憶を呼び覚ますこともある。パン屋の前を通って、子供の頃に母親が作ってくれたお菓子の味をふいに思い出したことは?」
そんなことを言ってクロークが微笑みかけると、女も「あるわ。」と明るい声で小さく笑った。クローク自身にはもちろんそんな経験はなかったが、香りが人間に与える効果はよく知っている。他愛ないが、それだけに誰しも一度は覚えのある話を聞いて女は少し緊張を解いたようだった。
「香りって、ただいい匂いがするなって思ったりするだけじゃないのね。」
そう言って女はクロークが勧めた香に顔を寄せ、匂いを嗅ぐ仕草をすると、にこりと笑って勘定を頼んだ。クロークは代金を受け取り、釣りを出しにカウンターの方へと向かう。女もそれについていきながら興味深そうに、クロークの背に質問を投げかけた。
「ところでここは何屋さんなの? 最初は紅茶屋さんかと思ったんだけど……『香り』屋さん?」
「そんなところかな。足下、気をつけて。」
好奇心に目を輝かせ、すっかり足への配慮を忘れている女に、クロークは釣りを差し出しながら注意を促す――が、どうやらそれは少し遅かったらしい。女は、邪魔にならないようにと店の片隅に寄せられていた籠にご丁寧にけつまずき、小さな悲鳴をあげて転倒した。そのはずみで棚の商品をいくつか巻き添えにして。
「しっかり、怪我はない?」
足早にカウンターから出たクロークはそう言って、棚にあった商品と一緒に床に転がっている女に手を差し出す。
しかし、女は身を起こしたところでふいに動きを止め、目を大きく見開いた。その瞳がみるみるうちにガラス玉のように感情を失い、そうかと思うと、次の瞬間には怒りを含んだ鋭いものに変わる。
その変貌ぶりに異常を察したクロークがとっさに身を引くと、女は怒声をあげて店の床を叩いた。
「どうして『おれ』を放っておいてくれないんだ!」
声こそ女のものだったが、口調は先ほどと違い、怒りに満ちて、男のように荒々しい。
クロークは素早く周囲に目を配り、女が急に態度を変えた理由に気付いた。彼女が転倒した時に落とした商品――入れ物はどれも無事だったが、一つだけ蓋が開いて中身がこぼれ出ているものがある。さして珍しくもないハーブの類だったが、その強い香りが一瞬で店内の空気を変えてしまっていた。そして、どうやらそれは女にとって何か怒らずにはいられない記憶を――あるいは別のものを、呼び覚ましてしまったらしい。
クロークは素早く棚に並んだ香炉の一つを取り、そこに女が買った香を入れて火をつけた。そして、香炉に手をかざす。その途端、尋常ならざる速さで柔らかな香りが一帯に広がり、未だ乱暴な語調でわめき続けている女と、傍らのクロークを優しく包み込んだ。
香炉に手をかざしたままでクロークが見守る中、女は再びその目から感情をなくし、人形のような虚ろな顔になる。
しかし、混乱しているのか女は無表情を崩さず、元に戻る気配を見せなかった。ただ、口元が小さく動いている。それに気付いたクロークは耳を澄まし、囁くような、だが切実な願いを確かに聞いた。
「僕に出来ることならば、何なりと。」
クロークはそう言って女に腕を伸ばし、ゆっくりと立たせると、店の奥へ導く。その間も感情の欠けた顔のまま、女は「たすけて。」と呟き続けていた。
店の奥には、普段は倉庫として使用している部屋があるが、そこはクロークのもう一つの仕事を行うための部屋でもあり、店とその仕事場を繋ぐ扉は、言わば裏の顔を隠す仮面でもある。それをしっかりと閉ざし、深い闇とランプの放つぼんやりとした明かり、そして不思議な香の香りが満ちる部屋の中、クロークは低く耳に心地良い声で女に囁きかけていた。
「僕の言葉に耳を傾けるだけでいい。そう、深呼吸して……。」
魂の表面をなでていくようなクロークの穏やかな声は、部屋の中央に置かれたリクライニングチェアにゆったりと腰掛けている女の混乱した心を満たしていく。強い語調で命令されたわけでもないのに、女は言われるままに深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。それを見てクロークはかすかな笑みを浮かべる。その表情はいつもと同じ、どんな客にも礼儀正しく応じる表の店の主と変わらぬものであるはずなのだが、ランプの明かりのせいか今はどこか妖しげに見えた。
「さあ……ここではもう、さっきの嫌な匂いはしない。あなたを怒らせるものはない。あなたに危害を加える者もいない。……安心して、話したいことから話してごらん。」
「……追いかけてくるの……庭……一面のレモングラス……逃げなきゃ……いいえ、復讐を……誰か助けて……。」
クロークの言葉に応え、途切れ途切れに女の感情が呟きとなって唇からこぼれ出る。クロークはリクライニングチェアの背に片腕を乗せて、女の頭上から断片化された心の隙間に忍び入るような密やかな声音で囁いた。
「誰かがあなたをいじめるんだね? そう……僕が手を貸してあげよう。あなたはどうしたいのかな? 永遠に隠れていることもできるだろう。……あるいは……。」
「……。」
女の返答はとても弱々しく、秒針が刻む時の音よりも小さくて、今にも消え入りそうであったが、クロークは決してそれを聞き逃さなかった。
「……あなたがそれを望むのならば。」
クロークはそう言って静かに唇の端を上げる。紅玉の瞳が血に濡れたように輝き、白い横顔に落ちる影が妖しく、そして畏怖すら覚えるほどその表情を美しく見せるのは、香炉から立ち上るうっすらとした煙と、それを照らすランプの明かりのせいだけではなかった。
「今度こそ、足下に気をつけて。」
「ええ、ありがとう。」
にこやかにクロークに見送られ、女は軽い足取りで店を出て行った。その手には、クロークが新しく包みなおした香が大事そうに抱えられているが、それにはもう鎮静効果は含まれていない。もちろん、今の彼女には必要がなくなったからである。
しかし、彼女の心の不安が根本的に解消されたわけではない。クロークがもう一つの仕事として客に与えられるのは一時しのぎの幻にしか過ぎず、人の記憶や感情は幻よりも鮮明だからだ。
女はまたいつかこの店の扉をくぐることになるだろう。表の扉と、奥の扉を。そしてその時には、クロークが穏やかな微笑を浮かべ、こう言って迎え入れてくれるに違いない。
「今日はどのような品をご所望かな。」
と、優しくも妖しげな声で。
了
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