<東京怪談ノベル(シングル)>
『この名前を、彼女なら、教えてくれる』
―――それで、千獣は、良いの?
何を、ルディアが、言っているのか、私には、わからなかった………。
私には、何も、わからない。
………わからない。
人間の言う、感情や、
人間の抱く、感情なんて、
何も、
わかりはしない………。
それでも、
ルディアの身体の強張り方、
筋肉の萎縮の仕方、
急激な体温の低下が、
彼女の裡に、どのような変化をもたらしているのかは、
なんとなく、…………だけれども、私にも想像はできた。
想像。
そう、
想像。
生まれ育ち、そこに居るモノを殺して、生きて、喰らいつくして、生きた森から、外に出て、出会った人間の数々。
多くの腐った動物の死骸の様な汚いものを、その人間たちに見て、
そして、
光りまばゆい木漏れ日のような、綺麗なものを、その人間たちに、見た。
汚い感情には、全身で敵意を。
木漏れ日のような綺麗な感情には、胸に痛みを。
正直、たくさんの言葉と、感情、と呼ばれる干渉(感傷)に触れても、きっと、ちゃんと人間として、人間に育てられた、人間たちの様には、明確には、私はそれを理解はしてはいない。
できて、いない。
―――無い…………。
ただ、知ること、
それに名前がある事が、
不思議でたまらなくて、
どんな言葉にも出来ない…手で掬おうとしても、泉の水の様にさらさらと零れるそのどの痛みにも、人間は、名前をつけているのかが疑問で、
何かあって、
何かと過ごして、
何かに言われて、
何かに表情を向けられて、
その度に、
私の、
この、
胸に、
浮かぶ、
波紋のような痛みに、
呼吸もままならない、何とも言えない何かを、感じて、
それを、私の周りに居る、人間に育てられて、ちゃんと人間をしている人間に、訊いて、
それの名前を聞いてきた。
訊く度に、
人間は、
それの名前を教えてくれる。
時には明確に、
時にはその人間も、迷いながら、
時には嬉しそうに、
時には哀しげに、
時には笑いながら、
時には怒りながら。
私は、
何かあって、
何か言われて、
何かに出逢って、
そういう度に、
私のこの胸に浮かぶ波紋のような何かの痛みのようなものの、名前を知りたくて、
それに名前があるのかを知りたくて、
人間も、
人間に育てられたちゃんと人間をしている人間も、それを感じるのかを知りたくて、
訊きたくて、
聞きたくて、
それを知るたびに、
それの名前を知るたびに、
私は、
嬉しかった、
安心した。
そうして、私は、それを忘れぬために、寝るまでの間に、何度も何度も、その痛みを思い起こして、その痛みの名前を、繰り返し、呟いた。
まるで恋をしているよう。
ルディアが前にそう言った。
そう言った彼女の顔は、とても柔らかで、甘い香りがする桃の様だった。
見てると、胸が、しめつけられて、私はルディアの薄い胸に顔を押し付けて、彼女の顔を舐めたい衝動に駆られて、
そう、動物の赤ん坊が、母親にするように。
実際にそうしたら、なぜかルディアは、小さな悲鳴のような、吐息のような声をかすかに短くあげて、それから顔を真っ赤にしながら、私を、もじもじと怒った。
―――動物の母親は、喜ぶのに?
でも、そうやって、私は溜めていった。
たくさんの痛みと、
その、名前。
そして、
ルディアの感じている、
その痛みの名前を、
だから、
私は、
想像できる。
それは恐れ、恐怖。
そして、とうとう私にはよく理解できない、他者への憐れみ………という、
痛み、
感情―――。
私には、
わからない。
理解、できない。
その、痛みは………。
私は、私の暮らす森に、最近増えた住人の事を、彼女に話した。
彼らは何の武器も持たない。
強靭な爪も、
鋭い牙も。
早く走れる足も。
高く飛べる翼も。
だから、
私が、彼らを、守っていると、彼女に告げた。
彼らを害する輩は私が全て排除しているといった。
弱い彼らは、私を大変慕ってくれて、甘えてくれるといった。
私はそれが嬉しくって、
それが温かくて、
だから、
彼らのためなら、
嬉しい、って、
温かい、って、
感じさせてくれた彼らのためなら、
私の力の全てを出す事も厭わないと、
そう、ルディアに告げた。
その瞬間、
彼女は、
全身を強張らせた。
唇を、戦慄かせて、
涙を零した。
私のために。
私のために、
何かを恐れ、
何かを哀しみ、
何かを、憐れんでくれている………。
けれども、私には、それが、
ルディアの、
その、
小さな、胸に、波紋の様に浮かぶ、
痛みが、
感情の理由が、
名前が、
種類が、
理由が、
わからない………。
わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。
小首を傾げた私に、
ルディアは、小さく息を呑んで、
それから、
まるで、温かな冬の終わりを告げる春の到来の木漏れ日の様な笑みを浮かべて、
私の顔をそっと、その小さな胸に誘って、
私を抱きしめてくれた。
ルディアの胸は小さいけれども、
とても柔らかくって、
優しい、甘い香りがした。
―――それで、千獣は、良いの?
ルディアの声が聴こえた気がした。
私の身体に刻まれたおぞましき呪い。
私に喰われ、吸収されたモノたちの呪詛かのような力を、
私が私をあの森で生かすために得てきた力を全て出し尽くす、そう決めた、その瞬間に。
―――それで、千獣は、良いの?
今でも、ルディアの、感じた、痛みはわからない。
けれども、
私は、
私が、
守りたいものたちを守るために、
この力を使う、
って、決めた瞬間に、
胸に痛みを感じている。
それは、これまで、この力を使うときに、感じた、どの痛みとも違っていた。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい。
―――これまで溜めてきた痛みの名前が、濁流の様に耳に蘇る。
けれども、それは、これまで、この力を使うときに、感じた事がある痛みの名前。
感じたことの無い、感情の名前は、
恥ずかしい―――
そう、それは、恥ずかしい、だ・・・。
でも、前に、ルディアに教えてもらった、好きな人と一緒に居る時の、嬉しい、に似た恥ずかしいじゃない。
これは、哀しい、に近い恥ずかしい。
哀しいに近い、恥ずかしい…………。
―――どうして?
これは、私が、生きるために獲得して、
私を生かしてきてくれた力なのに………。
わからない。
わからない。
わからない。
理解できない。
どうしてこんなにも身体を引き裂かれるぐらいに恥ずかしい、って、哀しい、って、怖いって、思うのよ!!!
「でも、だからって、けれども、ここで、この力を使わないで、皆を死なせるのは、もっと、胸が引き裂かれそうで、だから、私はぁ――――ッ」
私はァ―――――!!!
ドクンッ、
―――心臓が脈打つのと一緒に大気が、脈打って、
その後に、萎縮していく。
世界が震えている。
恐れて、
嫌って、
私を、
私の存在を、
だから、
全力で、
見ないフリをする。
無視する。
世界が。
ああ、そうだ。
私は、
私は、
これまで、
この力を使っても、
この姿を見られても、
別に、
何とも思わなかった。
誰に何を見られても、構わなかった。
他人なんか、
私じゃないモノなんか、
モノなんか、
どうでも良かった。
世界は、
私が喰らうか、
私が殺すか、
私が喰らわれるか、
私が殺されるか、
そのどちらかだけで、
でも、
それに変化が訪れたのは、
森を出て、人に、モノに触れ合い始めてからで―――
「ああ、そうか。私は、私が守りたい、この子たちに、この姿を見られたくなかったんだ」
―――それが醜くて、忌まわしい、っていうのは、それを己が裡に飼っている私が、一番良く理解している事だから。
ねえ、ルディア。
私が、泣いちゃうと、思った?
私が、哀しむと、思った?
今なら、わかるよ・・・。
ルディアが思ってくれたこと。
けれどもね、
私は、嬉しいと思ったんだ。
守るべき存在が、できた事を。
それはまるで、私が、人間のようで―――。
ねえ、ルディア、
「人間は、こういうの、なんと言ったんだっけ?」
―――家族?
私は私がこの力を使わざるを得なかった魔獣の口の中から鷲掴み出した腸を捨てて、血に濡れた指先を舐めた。
力を使った衝動で、頭はすこぶる気持ち良くって、気を付けないと、この森に居る子たち全員を血祭りにあげたくなる。
ああ、あげたい。
殺してあげたい。
喰らってあげたい。
それで、皆、私になるの。
私の中で、私になって、皆で暮らしていくの。
そんな衝動に駆られる。
身体が、ぞくぞくする。
子宮が、熱くなる。
私が、濡れていく。
私はその甘い甘い蜂蜜のような衝動を早く抑えるべく、普段の私の姿に戻った。
それでもまだ頭がぽぉーっとする。
私は歩き出す。
後ろには彼ら。
私は彼らを振り返らない。
振り返らない。
後ろには静寂。
静寂が広がっている。
恐怖で萎縮して、皆、黙っている。
震えている。
けれども、それでも良い。
生きているのなら、それでも良い。
世界が私を無視して、阻害するように、
この子達に無視されて、阻害されても良い。
恐れられても良い。
私はそれでもこの子達を守る。
私と、この子達の関係を、なんというのだろう?
家族?
………違う。
家族は一方通行じゃない。
じゃあ、この名前はなんて、いうのだろう?
この関係の名前は、なんていうのだろう?
あれ?
どうしてだろう?
どうして、私、泣いているんだろう?
「待って!」
声がした。
一番小さい女の子が、私の前に走ってきて、それで、一輪のお花を、私に差し出してくれる。
私は目を見開いている。
心臓が、口から飛び出しそうなぐらいに、動いている。
喉が渇く。
私は喘いでいる。
女の子は、そんな私に、微笑んで、
「いつも、守ってくれて、ありがとう」
そう言ってくれて、
私は、また泣いた。
けれども、その、涙の名前を、この私の胸に波紋の様に広がる痛みの名前を、私はまだ知らない。
だから、すぐにこのお花を持って、ルディアに会いにいこう。
きっと、彼女なら、優しく、温かに、微笑んで、この名前を、教えてくれる。
― fin ―
|
|