<東京怪談ノベル(シングル)>
『さいわいの歌声』
―――あなた、もう、諦めなさい。
冷徹に言い放たれた言葉に心は震えた。
才能が無い事なんてあの人に言われるまでも無い。
自分で気づいている。
ああ、なんて皮肉だろう?
わたしが歌手を目指すきっかけになった人に引導を渡されるなんて。
夢を与えられて、
夢を奪われた。
けれどもきっと、彼女に言われなくっちゃ、わたしはこの道にすがりついて、諦める事なんてできなかった………。
そうだ。
彼女に言われたのだから、わたしはわたしを納得させる事が出来る。
わたしは、もう、歌手になる事を夢見るのは、よそう。
所詮、わたしには分不相応な夢だったんだ。
わたしには無理だったんだ。
だからわたしは、歌なんてやめて、それで………
それで………
「わたしは………」
―――僕は天井裏から彼女を見つめていた。
彼女は舞台の真ん中に立ち、泣きながら歌っている。
聴いている側も泣きたくなってしまいそうなそんな悲しみにくれた歌声で。
ああ、彼女は歌を愛しているのだ。深く。深く。深く。
そしてそんな歌に対して直向な彼女の姿が僕の心をこんなにも強く捕らえて離さない。
もう歌なんて本当は聴きたくは無かった。
歌は僕を幸せにはしてはくれなかった。
それでも僕が劇場の天井裏に住み着いたのは、ここが、歌がある場所が愚かしいぐらいに帰りたいと望んでしまう場所だからだ。
ああ、僕は歌に取り憑かれている。
彼女とは違って、もう歌に心の奥底から絶望して、憎んでさえいるのに。
…………そうか。
だから僕はいつだってこの天井裏から彼女を追いかけていたのだ。
彼女は僕が無くしてしまった物を持っていて、僕は………きっとそんな彼女を羨ましいと思っているから―――。
それでも本当は、
心はこんなにも歌を求めているけれども、
同時に心は心底僕を幸せにしてはくれなかった歌を恨んでいるから、
本当は、こんな事なんて、したくはないのだけれども………
「違うよ。そんな歌い方をしていると、喉を潰してしまう。ここはこう歌うんだ―――」
僕は彼女に歌を教え、
泣いていた彼女はいつの間にか子どものような笑みを浮かべて嬉しそうに僕と一緒に歌を歌っていた。
ああ、僕は彼女が好きだ。
だから僕は彼女に歌を教えよう。
僕が君を一流のオペラ歌手にしてあげるよ。
たとえそれで君が僕の手の届かないところへ行ってしまったとしても。
『さいわいの歌声』Open→
そこはエル・クロークの店だった。
ただし営業時間はもう終わっているようで、店の照明はクロークの傍らに置かれた樫で作られたテーブルに置かれたランタンのみ。
けれどもそのランタンのともし火が照り出すクロークは、この香りに支配されたような世界に存在する者としての厳かさと、それから静謐で神秘的な美とを兼ね備えていて、見る者の心を圧倒し、飲み込むような凄さを持っていた。
無論、クロークはそんな演出をするためにランタンのみをつけている訳ではない。
クロークは調香師であるが、同時に香りを治療に用いるセラピストであり、よってこの部屋に満ちるハーブの香りと何か関係があるのかもしれない。
「いや、ただ、こういう気分なだけだよ」
私は両目を開け広げた後に、苦笑する。
なるほど、さすがは人の心理を読むのに長けているエル・クロークだ。私がランタンを眺めているのを見て、私の考えを読んで、その答えを教えてくれた。
けれども私は正直、自分の考えを人に読まれるのは好きではない。
ここへだって、香りを求めてやってきたのでもなければ、カウンセリングを受けに来た訳でもないのだ。
私は―――
「火傷はもういいのかな?」
「………おかげさまで。こうして外出したり、人の話を聞きたいと思えるぐらいには回復したわ。それでも、さすがに長時間外出したりするのはダメなのよ。だから、」
「ああ。あなたがお望みのお話をお聞かせしよう。憐れな天井裏の住人と彼と出会う事で才能を開花させた若き歌姫の話を」
「ええ、そう願えるかしら」
私はクロークに頷き、瞼を閉じる。
瞼の裏にはあの半年前の火に包まれた劇場の光景がありありと浮かんだ。
今も夢に見ては飛び起きる光景だ。
身体中が、とくに火傷を負った場所が痛い。
まだ治りきってはいないところはもちろん、治った場所でさえ、あのごうごうと燃える火の海を、火に包まれた舞台で、両手を天に伸ばし、歌を歌い続けるその光景を思い出すたびに、全身が熱くなる。
クロークが、
まるで教会のレリーフに描かれる天使のように性別も年齢もわからないエル・クロークが、何か言葉を発するたびに、ハーブの香りが強くなっていく。
いえ、薄らいでいく?
不思議な感覚だ。
まるで眠りの波に誘われるように、意識が遠のいたり、近づいてきたり。
波打ち際に立てば波は足のつま先を触る。けれども波に触ろうとすれば、波はそれを察したように身を引いていく。
それと同じ感覚。
クロークの声は私の心に触れる。けれども私がクロークの声に触れようとすると、それは波のように引いていく。
闇からクロークを浮き立たせる淡いランタンの光りが、
大きく、
大きく、
大きく。
それが、火の海に―――!!!
―――私はあの日と同じ様に、火に包まれた舞台を前に、立ち尽くしている…………
クロークの声が、まるで枕元で子どもに絵本を語るように、囁かれる。
「彼が居た。
その彼は、昔、天使が如く歌声を持つ歌手として絶賛される歌い手だった。
けれども成長と共に、第二次成長を迎えると共に、彼は人々に絶賛された声を失った。
彼は、絶望した」
いえ、彼は歌に絶望していたんじゃない。
声を失った自分に絶望していたのよ。
歌を憎んでいたのは、
歌が―――
「彼女が居た。
彼女は幼い頃にとある歌姫のオペラを見て、オペラ歌手に憧れた。
そして彼女には才能があった。行動力も。彼女は見事にその憧れのオペラ歌手が居る劇団に入団して、夢への一歩を踏み出した。
けれども彼女は伸び悩んでしまった」
ええ、そう。
彼女は想いも、才能もあった。
だから、潰れそうになった。
「だけど、そんな彼と彼女が出会った。
彼は彼女を好いていた。
歌に直向な彼女に無くしてしまったかつての自分を見て、
彼女と自分を重ね合わせて、
彼女の才能を開花させた。
たとえそれで彼女が自分の手の届かぬオペラ歌手となっても、構わないと。
そう。そんな恋もあるのだね」
恋?
それを恋と呼ぶの?
それは恋だなんて生易しいものじゃないわ。
恋よりももっとどろどろとした醜くっておぞましい感情よ。
だからこそ、私は、
「彼と彼女に嫉妬した?」
クロークが穏やかに目だけで微笑んだ気配がした。
私はクロークを無視する。
瞼の裏にありありと刻まれている光景を見つめている。
あの、魂が総毛立つほどに美しく凄絶な舞台を、見つめている。
「いつも正規の練習が終わったあとに、彼は天井裏で、彼女は舞台で、同じ時間を過ごした。彼は彼女に歌の指導をしていた。彼女は彼の指導によって完全にその才能を開花させて、彼女の憧れだった女性を差し置いて一ヵ月後の舞台の主役に選ばれ、まさに幸福の絶頂にあった。けれども、何時だって人の成功を妬み、足を引っ張ろうとする輩はいる。彼女は、ある人物から歌手生命に関わる攻撃を受けていた」
本人も、悪いのよ―――。
「彼女の声の異変に彼はすぐに気付いた。
だから彼は天井裏から彼女を見守り、
そうして彼女がある人物から毎日、紅茶をご馳走になっている事に対して疑問を持ち、
この僕の店にやってきた。
そう。彼女に紅茶を差し出していた人物がその紅茶を購入していた店が、僕のこの店だったからだ。
そして彼が目を付けたとおりに、その紅茶は緩やかに声帯を壊す毒が仕込まれていた。それがそのお客人の望みだったのでね」
そう。クロークはそういう商売をする。
こうして心を癒すカウンセリングのような事をしながら、
それが表だとすれば、
裏の仕事もする。
他人を不幸にするような香りの調合もすれば、
自殺にも手を貸す。
たとえば今、私がここで死にたいと願えば、それが客である私の願だから、クロークはそれを叶えてくれる。
ここは、
クロークは、
そういう店で、
そういう店主。
「彼は怒り狂ったよ」
それはそうだろう。
彼は彼女の事を心底愛していたのだから。
「けれども彼も馬鹿ではなかった。
彼女から紅茶を取り上げれば、今度こそ彼女の命が危ないから。
だから彼はこの店で解毒の効能を持つ香を買っていった。
紅茶を呑んだ後の彼女に、彼もその解毒の香をかがせた」
きっと解毒の香という事は黙っていたのだろう。
彼女も天井裏の彼から渡された香だから、得体が知れずとも信じて焚いた。
彼は彼女を愛していて、
彼女は彼を信じていた。
その絆は強く、
だから、私は………
―――それにしても、きっと、あの彼の事だ。クロークの事はエルと呼んでいたのだろう。彼はそういう男だった。
「しかし彼女に毒薬の入った紅茶を飲ませていた人物はその効能が表れ出ない事にやがて不信感を持ち、そして彼女の事を陰から監視した。
そしてその人物は、彼女が正体不明の天井裏の人物から歌の指導を受けている事を知り、またその怪人が彼女に解毒の香をかがせている事も知った。
彼女も怒り狂ってまたこの店に乗り込んできたよ。
そして、今度こそ即効性の毒の香を買っていって、彼女を殺した。
もう、緩やかに喉を潰すという面倒臭い事をせずとも、天井裏に居る彼に罪を着せれば良いから。
そうして彼女は殺され、
彼は、彼女を殺した人物として、追われる事になった」
そう。彼は彼女を殺した犯人として追われ、
私の家に隠れていた。
私が彼の事を匿っていた。
けれども私は彼に何も訊かなかったし、
また彼も私に何も語らなかった。
私たちはあの運命の日までの半月間をただ同じ家に居るというただそれだけの関係で過ごした。
そして、
「殺された元主役の付き人であった犯人は、自分が殺した相手から教えてもらっていた歌唱法によって一躍主役の座に躍り出て、見事にその座を得、たったの半月間しかなかったというのに、見事に主役をやりきれるほどの実力を得た。
いや、それは当たり前なんだろうね。
彼女はずっと毒薬である紅茶を飲ませながら練習をしてきたのだから。
そうして舞台初日、彼女は主役として舞台に立つはずだったのだけれども、
そこに醜い火傷を負った顔に仮面を付けた彼が現れ、彼は彼女を殺した。
劇場は悲鳴に包まれ、
そしてまた、殺されたふたりの歌姫の怨念がそうしたかのように、激しい炎に包まれた」
―――いえ、彼が舞台に火をつけたのだ。
彼はそれに憧れていた。
自らを地獄の業火で焼く事に。
前にも彼はそれで死のうとしたのだから。
「彼は地獄の業火に焼かれながら優しいアリアを歌ったわ」
私は瞼を開き、穏やかに微笑むクロークを眺める。
瞼を閉じる前に見ていたクロークは穏やかに微笑む優しい青年のようにも見えたのだけれども、今はまるで私を憐れんでくれている思春期の潔癖な愛を夢見る少女のようにも見えた。
だから、つい、………私は言ってしまった。
「私はまだ少女の頃から彼の事が好きだったわ。歌を嬉しそうに歌う彼の事が大好きだった。けれども私が嫉妬してしまうぐらいに彼が愛していた歌は、彼を幸せにはしなかった。彼は自分の変わってしまった声に絶望してしまったから。それでも彼の声はこのソーンでも一番の声だった。でも、それは彼の望む声ではなかった。だから彼は歌う事をやめてしまった。
私は彼女の才能を認めていたわ。
だから私は伸び悩む彼女に歌を諦めろ、と言った。
彼女もまた、自分の声に満足していなかったから。その感情が彼女の成長を邪魔していたから。
誰かが大好きだった歌を憎み、傷つく姿を見るのは、もう誰だろうと嫌だった。
だから私は、彼女に諦めろと言った。
指導者失格ね。
彼は見事に彼女の才能を開花させたわ。
彼女にどれだけ歌が好きなのか、
歌える事がどんなに素敵な事なのかを気づかせて。
いつの間にか歌に恐れを抱いていた私には出来ない事を彼はして見せた。
だから私は現役を引退した。
けれども、地獄の業火に焼かれながら、それでも歌を愛して止まなかった彼の歌声を聴いて、私は考えを改めたわ。
私はこの命が潰えるまで、どれだけ喉が潰れようが、舞台の上で歌い続けましょう。
歌は私から私の愛して止まないもの全てを奪っていくけれども、
それでも私の歌が誰かの救いとなって、
それがまた樹の枝のように広がっていくのだと、
彼とあの娘が教えてくれたから。
ありがとう、クローク。
決心が出来たのは、あなたのおかげよ」
私はクロークにそう告げて、店を後にする。
その私の背を追いかけてきたのは、
「どういたしまして」
優しく穏やかな、クロークの声だった。
END
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