<東京怪談ノベル(シングル)>
群れは愛する彼女の心
精霊の森が、ひとりの少女の心によってにわかに騒がしくなろうとしていた。
「あの、ね……ちょっと、外に、いて、くれ、る……?」
千獣は、精霊の森の小屋の中で遊んでいた家族をさりげなく外へ出した。
そして小屋に残ったのは彼女と、ただひとり。
――精霊の森の守護者、クルス・クロスエア。
クルスは今、ベッドの上でぐったりとしていた。
千獣は最近街で手に入れた吸呑みを使い、そっとクルスに水を飲ませた。
「……大丈、夫?」
「ああ……ありがとう、千獣。――どうしたんだい」
顔色が赤いクルスは柔らかく微笑んで、自分のパートナーとも言える少女を見る。
しかし胸中では不思議に思う。――彼女が人払いをした。それは、彼女が他人に自分が荒れる瞬間を見せたくない時だ。
「クルス……」
千獣は軽く目を伏せた。「おはな、し、できる……?」
「ああ、今日は調子がいいよ」
「よかっ、た……」
少女の顔に浮かぶ笑み。しかし次にはまた苦しげな顔になり、
「クルス、の、受け、た、呪い――」
とずっと言いたかったことを口にした。
呪い。
フェニックスの呪い。
今、クルスの体をさいなむ、その。
――この小屋に住んでいる、フェニックスと深く関わりのある少女の、背中のあざを診ている時にかかってしまった呪いだった。
クルスは片腕を額に乗せ、
「ああ……」
と吐息とともに声を出す。
「少し、油断していた、な。……あの子があざを見せるのを嫌がるのは、触られるのが嫌なんじゃなく……こうなることを知っていたからかもしれない」
「………」
「……どうしたんだい?」
クルスは重ねて優しく尋ねた。
その優しさが胸に痛くて、千獣はぎゅっと自分の胸元を掴む。
「あの」
「ん?」
「呪い、熱、出る、だけ……?」
クルスは呪いにかかっていらい高熱で寝込んでいる。先日千獣が街に出て、クルスの薬作りの師匠から一時的に熱を下げる薬だけは受け取ってきたが、それで元気でいられるのはやはり一時的だ。
「熱、もう、下がら、ない……? 他、には、何、も、ない……?」
「―――」
クルスは目をそらす。
「こっち、見て!」
思わず叫んだ。
青年は黙っていた。
千獣は知っていた。本当は知っていた。彼がこの頃頻繁に嘔吐していること。食べる量が減っていること。
利き手をしびれさせたように、物を落とすことが多くなったこと。
眠っている時間が増えたこと。眠っている時にうめくことが多くなったこと。
そして一度、こんなこともあった――
何故か突然小屋を飛び出して、森にひとつだけある泉に飛び込んだ……
まるで急激に熱くなった体を冷やそうとしたかのように。
――クルスは何も言わない。
千獣は問いを変えた。
「ど、うした、ら、治る……? 私、何、でも、する」
「千獣……」
「それ、とも、治し、たら……あの子、に、何か、起きる?」
「―――」
「だった、ら、呪い、私、の、体、に、移す! 私、なら……私の、中、の、子、たちが……」
――いつだって生命の危険は癒してくれる。
呪いは消えなくても、千獣は生きたままいられるだろう。それも、クルスより楽に生きられるだろう。
「呪い、消えない、なら、私に!」
千獣はクルスの手をつかんで胸に抱いた。
「お願、い。クルス、が、苦しん、で、る、の……辛い。あの子、が、辛、そう、なのも、辛い」
私はどうなってもいいから。
2人の笑顔が戻るなら。
森に笑顔が戻るなら。
「……森……が、苦し、む、の、は……いや……」
抱いた青年の腕が熱い。
「森に、いる、みんな、が……苦し、む、の、いや……」
「千獣」
クルスは思う。自分の腕にすがってそんなことを願う彼女を見て。
ああ、やはりこの子は獣の中で育ったのだな――と。
千獣の願いは、獣たちによくある群れ意識に他ならない。群れを護るためなら何でもする。これ以上ない利他的な考え方。
一番大切なことを忘れてしまって……
――彼は無理やり、体を横向かせた。
千獣がびくっとする。青年のもう片方の手が千獣の頬に触れる。――熱い。
「千獣……」
「ク、クルス……?」
息をするのも苦しいことを隠しながら。クルスは言葉を紡ぐ。
「解呪の方法は、俺が見つける……。あの子に負担になるかどうかも俺が調べるべきことだ……キミが気にすることじゃない」
「だった、ら、私、ただ、の、役、立た、ず!」
千獣は激しく首を振る。そんな自分は嫌だと。
まるで群れから除け者にされるのを嫌がる獣のように。
クルスは微笑んだ。
「キミに呪いがかかったら……俺もあの子も、今度はキミを心配しなきゃいけなくなるんだぞ……?」
「―――」
千獣はクルスの緑の瞳を見つめる。それから目を伏せて、
「わ……私、なら……死な、ない」
「それなら俺だって死なない」
クルスも不老不死の魔術で自分を戒めた身だ。
「クルス、が、苦しん、で、るの、見るの、いや……!」
「俺らだってキミが苦しんでいるところを見るのは嫌なんだ!」
クルスが怒鳴った。
千獣は心の底から震え上がった。――クルスが怒鳴るなんて。この、温厚な青年が、怒鳴るなんて。
少女の目から雫がこぼれた。
「……悪かった」
クルスはため息とともに、千獣の涙を指で拭った。「怒鳴って悪かった……俺も少し混乱してるな……」
ううん、ううん、と千獣は首を振る。
違う、怒鳴られて怖かったんじゃない。
自分のやりたいことは間違っているのと思っただけ。クルスを怒らせるほど間違っているのと思っただけ。
クルスは少し咳き込んだ後、千獣の顔を覗き込んだ。
「いいかい? 千獣」
「う……ん……」
「キミは森が、森のみんなが助かるなら、自分が苦しくてもいいと思っているだろう」
「ん……」
千獣はこくんとうなずいた。
「それはね、とても嬉しいことだ。だけどとても悲しいことだ」
「かなし、い……?」
「この森にとっては、キミもとても大切だということだよ」
忘れないで――と彼は囁いた。
「群れの中には、『キミ』もいる。『千獣』という存在がいる。そして群れの中にいる存在全員、大切にされるべきだ。誰も……苦しむべきじゃない」
「私……が、いる……?」
「そうだ」
クルスは強くうなずいた。
「私……が、苦しん、じゃ、いけ、ない?」
「ああ」
千獣の頬を撫でて、「どうかキミには、自分を傷つけるような方法で俺たちを助けようとしないでほしい」
「じゃあ、どう、すれば」
「俺が約束通り呪いを研究するから」
だから――
「キミは、その手伝いをしてくれ。それだけでいい……」
そこまで言って、クルスは咳き込んだ。
「………っ」
千獣はクルスの腕を抱く手に力をこめた。
――手伝いをしてくれ。
それだけでいい。
それだけで、いい……
青年の口が、小さく動いた。
「こんなに……弱って悪かったけど……」
それでも、口元に微笑みを浮かべて。
「俺たちにも……キミを大切にさせてくれ……」
「―――」
「俺たちに、キミが傷つくようなことをさせないでくれ……」
見たくないんだ、と彼は千獣が先ほど彼にかけた言葉を繰り返した。
「俺らだって、キミが苦しんでいるところを見るのは、嫌なんだ……」
千獣を怒鳴りつけた時と同じ言葉。
けれど今度は優しさに満ちていて。
千獣はすねたような声でつぶやく。
「今、苦し、い……」
「……そうだな」
「今、傷、ついて、る……」
「……そうだな」
「―――」
千獣はクルスに覆いかぶさるように抱きついた。
「でも、でも、私、頑張、る!」
熱い体温。いつもよりずっと熱い彼の体温。
――自分の体などどうでもいいと思っていた。
けれど彼は言うのだ。彼女も傷ついてはいけない存在のひとりだと。みんな彼女を大切にしたいのだと。
そんなこと思ってもみなかった。
群れの中には自分がいるのだと。そんな当たり前のことを。
(みんな、は、みんな、を、大切、に……)
自分も大切にされるべき存在なのだと。
でも。
(それ、じゃ、我慢、できな、い、から)
「大切、に、する。クルス、も。あの子、も」
「ありがとう……」
クルスは囁いた。
千獣は彼の上からどいた。そして、
「水、飲む? 何か、して、ほしい、こと、ある?」
「水……」
千獣はすぐに吸呑みをクルスの唇に添える。
「これから、も。何でも、言って、ね」
「何でも言うよ」
青年は口元を和らげた。「キミを信頼している。これからも、俺たちを助けてくれ」
千獣は強くうなずいた。
呪いの正体が何なのか。まだ欠片も分かっていない。
それでも千獣は、彼の傍らにいようと。
動けなくなっていく彼の手足になろうと。
誓って。
心を添えて、心を添えて、大きな心を添えて……
大切にしよう。彼らの心を聞きながら。その声を、胸に抱きながら――……
―FIN―
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