<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>
『月平線』
深夜、エルザードの名士宅が強盗に侵入された。
朝陽の昇るより早くから、屋敷は衛兵たちの出入りで騒がしくなっていた。普段は閑静な邸宅の並ぶ通りも騒然とする。周囲の住人の中にも当然様々な憶測が飛び交う。政敵の刺客か、敵国の密偵か。何の確証もないまま、可能性だけが先走りする。
被害者のエルマン卿は、狙われたことに慌てふためくというよりも、そのことで周囲に注目されてしまったことに憤る。その怒りの矛先を執事に向け、あれこれを命じる。使用人たちは自宅へ帰す。自分たちは屋敷であの盗賊を迎え討つ。執事はもちろん後者には応じようとしない。
「なぜだ!」
「どうかご冷静に」
「わしを狙う者にただ尻込みしろ、と?」
「命あっての、です」
「くだらん! 恥さらし以上の屈辱が我々の世界には存在せんことぐらいお前も承知だろう!」
「しかし」
「構わん。ありったけの財産を以って、エルザードに屯する傭兵を集める。あの賊はわしの手で裁く」
執事は溜息を吐きそうになるのを堪え、渋々命令に応じた。自ら賊の奸策にはまることは恥ではないのか、心で反芻しつつ。これも仕事か。時計のことも気がかり。
陽が最も高くなる頃。エルマン卿の自室と寝室だけは何とか今日中に修復を施そうと、工匠たちが作業する。再び盗賊に侵入されて破壊される予感はあったが、エルマン卿はじっとしていられなかった。
その中、集まった戦力は四名。忠実に依頼を引き受けた者。興味本位の者。様々な企図がエルマン卿を取り囲む。
「本当にその時計を奪う、と?」
ウルスラ・フラウロスは問う。
「そうだ、ただの時計のはずだ…。なぜそれが狙われるのか、わしにも分からん」
「あなたが買ったものなのか、それとも贈り物なのか」
「…それも思い出せん」
「見たところは普通の置時計、ですよね」
山本建一は件の時計に見入っている。
「心当たりはない、と。…ではこの時計を口実に、あなたの命を狙っているのかもしれませんね」
「或いは何か仕掛けでもあるんじゃなくて?」
トリ・アマグがのんびりとした感じで口を挟んだ。
「まあそうでなくても、物の価値というのはそれぞれ。俗世には機械仕掛けの予定表、怪盗さんには麗しき宝石箱…」
途中から詠うような口調になっている。
千獣はやりとりをじっと眺めている。単なる時計という一つの物品に、あれこれ思案する様が妙に不思議に感じられる。されど時計、なのか。
「それで――」建一が言う。「その盗賊は他に何と言っていました?」
エルマン卿は少し口ごもったように次の言を躊躇った。
「…わしを殺す価値がないと言いおった」
「穏やかじゃありませんね」
「ああ、逆の意味に取れる」ウルスラが言う。「殺しても問題ない、というつもりなのかもしれん」
「それにしても忌々しい!」
エルマン卿が声を荒げた。
「良く考えれば、あれはどう見ても小娘だった! 小娘ごときに『殺す価値はない』だと。わしも軽く見られたものだ!」
「まあ落ち着いて…」建一が宥める。「殺す価値があるかないか…その彼女独自の基準があるような気があるのですが。絶対に殺さないと言い切れないのは確かですけれど」
「命を奪うことに負い目を感じているのでは」とアマグ。「ただ単に『楽しく盗みたい』と思っているのではないかしら」
「まるで舞台で演じるようだな」
ウルスラが呟く。
「…そこの、お前さん」エルマン卿が千獣に向かって言う。「何も言っていないようだか、意見でもないのか?」
「…その、人は…満た、されない、の…かも…」
「満たされない、だと?」
「――人間…とは、糧を、得て…腹を満た、せば良い、だけの…生き物、では、ない…のだ、なぁ…」
「……。アテにはならんな…」
「まあ千獣さんには千獣さんの視点がある、ということです」
建一が言う。ウルスラも、
「ここにいる全員が同じ意思で動いているとは限らない。この事件や時計への興味の度合いも違うはず」
「みな結構な詩人ね」アマグが呟く。「いいわ、互いを尊重し合うというのは」
「僕も一応あなたと同業のようなのですが」
「あら、建一も本物の詩人さん? それは失礼しました。いつか詩を聴かせてくださいな」
一同に笑みがこぼれる。
「…何を和んでおる」
エルマン卿が水をさす。
「満たされない、か…」ウルスラが口を開いた。「そうだとすれば――盗賊は事件を起こしたいのだ。わざと大ごとにして、この顛末を広く世に知らしめたいのではないか。…盗賊にしては派手な現れ方だし、人を悪戯に傷つけたり殺めていない。時計は――」エルマン卿の顔を伺いつつ、「汚い卑劣な手段で持ち去られた物なのかもしれない。あなたが、という意味ではなく。…或いは何者かの形見かもしれん」
だがエルマン卿はやはり心当たりがないと呟く。
建一が言う。
「盗ろうというのは何らかの価値があるということ。あくまで彼女にとっての価値、かもしれませんが」
建一は改めて時計を注意深く観察する。
「見た目とか細工など。それから、年数など、歴史的に価値があるものかもしれないですし…。今分かることは、とても丁寧な彫刻の施された時計、ということぐらいですか。職人の技を感じますね」
「それにしても」アマグが言う。「盗品であるのか、いわくつきなのか? 今、この館にあるべきものではないのか。ある時期を迎えたとき、初めてそれの価値に気付くことになるのか? ――こういったところが問題かしらね。…自分が怪盗さんの立場ならば、魅力を感じるものなら、真っ先に手に入れたいと思うわ。それなのに、なぜ?」
「全くです」建一が言う。「真っ先に盗らなかったことは妙ですね…。正直、護衛を雇えとか言うのはおかしいものです。スリルを求めるのか。さっきアマグさんは『楽しく盗みたいのでは』と仰いましたが、どうもそういうことだけではない気もしますし…。彼女と対峙して判断したい気もします。吟遊詩人の視点から見られることもあるのかもしれません」
「吟遊詩人の視点から、というのなら、私も、かしらね。いずれにせよ、その怪盗さんのお話を聞くとしましょう」
「――他に盗賊が言っていたことは?」
ウルスラがエルマン卿に尋ねた。
「明日――今日のことだが、同じ刻に来ると言いおった。そして骨のある者を雇え、などと」
「そう、ですか」建一が言った。「そして執事さんが僕たちを呼び、今に至る、と」
「盗賊がそこまで計画しているのは間違いないな」ウルスラが言う。
「僕たちがここにいることも計算済み、ということでしょうか」
「或いは我々の会話も筒抜け、ということもあり得る」
「それはそれで構わないわ。――どうぞお聞きなさい、怪盗さん…」
アマグがやや天井の方を向いて呟く。再び皆の苦笑が響く。
「とにかく…」とウルスラ。「実際にその盗賊を目にせんと、分からんこともあるだろうな。時計にまつわる何があったのか、彼女から直接聞きたい。彼女を生かして捕える。――みんなは?」
「やはりお話を伺ってから、ということです」と建一。
「同じく」アマグも同意する。
「千獣もそれで良いのか?」
ウルスラの問いに千獣は黙って頷いた。
「では」建一が言った。「今後の展望を。盗賊の指定した時刻までおよそ半日。込み入った調査は困難ですが、ただ待つには長すぎる、といったところです」
「やはり時計のことだろう」
ウルスラが時計に目を向ける。
「時計技師にでも鑑定してもらったら?」とアマグ。
「それも手ですね」
「待て!」エルマン卿が横槍を入れる。「それを持ち出す気か? わしの護衛はどうなる!」
「おそらく彼女は今は現れません。――それに、四人で行くわけではありません。時計だって、心配でしたら、僕ともう一人で行きますよ?」
「技師をここへ呼べば良い!」
「持って行った方が早いでしょ?」とアマグ。「それに、騒ぎにしたくなかったんじゃなくて? 執事さんはそう仰っていましたけれど。ここに技師を呼べば、そこからさらに余計な噂が膨らんで、しばらく民衆の間で話題になりそうよね。エルマン卿がどれほどの名士かは存じ上げないけれど」
「ぐっ…」
アマグの一言に、エルマン卿は突然静かになる。四人は最初から薄々勘付いていたことだが、エルマン卿にはどこか信用しきれないところがあった。何か、これ以上の騒ぎにはなってほしくないという態度だ。
「私が建一と一緒に行く」ウルスラが言った。「この時計がエルマン卿の物だとは言わない。時計も二人で守る。――それで良いはずですが?」
エルマン卿は頷くだけだった。
「ではしばらくお借りします」
建一とウルスラは部屋を後にした。千獣とアマグが当面の守護となる。
部屋を出てすぐ、建一はウルスラにある提案をした。
「僕は一人で行動しようと思います」
「――どういうことだ?」
「ウルスラさんには、エルマン卿の周辺を調査してほしいのです」
「時計を一人で守りきれるのか?」
「エルマン卿のお話から事件の推移を見る限り――一人になった僕から単に時計を奪うだけで満足するような盗賊に思えましたか?」
「いや、全く」
「でしょ? それに、エルマン卿についての情報も少しはあった方が今後動きやすいですよ」
「それに関しては私も異議はない。…盗賊とエルマン卿が過去に直接関与していたのかは不明だが、殺す価値も無いと吐き捨てられるほどの因縁が絡んでいるのでは、とも思う。憶測だがな」
「考えているじゃないですか。――では、それで良いですか?」
「本当は、単独行動は性に合わないのだがな」
「お互い、少しの間の調査です」
「首尾良く、ただし、深入りせず、だ。何かあれば迷わず逃げろ」
「では、それで行きましょう」
ウルスラと建一は屋敷を出、お互い反対の方向に歩き出した。
エルマン卿のもとに残った二人はしばしの会話。
「いいわね、千獣のシンプルな生き方」アマグが言った。「キミにも詩の素質があってよ?」
「…詩、こと、ば…」
千獣にはどう答えて良いのか分からなかった。時計にまつわることといい、人間は物に妙なほど意味づけを施す。目の前の吟遊詩人なら、言葉に意味を付加する。何のために?
その反応を察したのか、アマグはさらに言葉を続ける。
「ただ陽が昇るだけの事実に感動はないわ。とても良い目覚めの、その瞬間に目撃してこそ、初めて感動が生まれる。印象は何かと結びつくってわけ。言葉だってそう。ただ並べても、意味が通るだけ。音やリズム。それが鼓動と同調しなきゃダメ。…分かるかしら?」
千獣はやはりきょとんとしていた。
ウルスラはまず衛兵たちに情報を求めた。誰もがエルマン卿の名は一度は聞いたことがある、という程の名士らしい。エルマン卿は弁護士の活動から頭角を現し、大物政治家の地位まで登り詰めたようだ。ということは、政争相手との因縁はもちろんのこと、女性との怨恨沙汰だって可能性はある。事実、何人かの女性の名もちらほら出てきた。信憑性の程は分からないが。
ただ、これではかえってエルマン卿の周囲はぼやけてしまう。大物には当然噂が多い。そこから真相のみを手繰り寄せるのは困難だ。エルマン卿に関わる人物の名ばかりが一人歩きする。そうなってはさらに調査を続けても逆効果。得られた情報に逐一認否を施すにも、時間的に厳しい。
だが、分かったことはある。逆に言えば今回のような事件の当事者となるには十分な立場だということ。そしてエルマン卿の、決して人当たりの良いとは言えない性格を踏まえれば…何らかの真相が隠されているとどうしても予測したくなる。盗賊が関与しているのかどうか。残りは盗賊が答えるだろう。ウルスラはここで切り上げることにする。エルマン卿の屋敷の方へ歩き始める。
しかし、次の突き当りで、ウルスラはふと別の道に入る。
――つけられている。いや、誘われているのか。
随分長い間、背後から同じ気配がしている。だが距離を詰めようとはしない。こちらから誘わなければ、姿を見せないということか。
ウルスラは立ち止まる。人気はない。出てくるなら今だぞ?
「――知りたいですか?」
声だけが聞こえた。どこから聞こえるのかは判じなかった。姿はやはりどこにもない。
「真相を、知りたいですか?」
淡々とした、女の声。間違いない。…ターゲットだ。
ウルスラは何も答えず、声の繰言をただ聞く。
「いずれ――お会いするのですが、言いそびれてはいけないので、少しだけ…。覚えていただけると嬉しいです」
ウルスラは剣に手をかけようか迷っていた。声は続く。
「私がなぜ盗るかということには触れる必要はありません。ただ、何を盗るのかだけ、目撃してください――」
そして気配は突然消えた。ウルスラは剣の柄に手を置いていることに気付いた。
――何を盗るのか。「何」とは、どういう意味か。
人気のない脇道には風さえ吹いていなかった。
建一は屋敷から近い通りにある全ての時計屋を巡ってみた。どこの時計技師も言うことは同じ。概ね二つ。見事な彫刻だ。故障していない。
どこか一軒ぐらいは別のことを言っても良いのでは、と冗談半分に思い始めていた。例えば錬金術の逸話で出てくるような、針に使われている金属から黄金が生じる、といった話。屋敷に戻って、話の種ぐらいにはなるだろう、と。
ともあれ、これが何らかの仕掛けの施されたものではないことははっきりした。となれば、この時計にまつわるものとして妥当な要素は、個人的な思い入れ。それはエルマン卿のものか、それとも盗賊のものか。或いは第三者のものなのか。エルマン卿がこの時計を持ち出すのを渋ったことにも、何か理由があるのか。それとも単にあれが彼の性格なのか。
通りに人が行き交う。その流れの淵で建一は一人立ち止まって、ぼんやり周囲を眺める。
だがもう一人。群集の流れに留まる者。
その視線が、建一の方を向いている。建一は少し前に気付いていた。
時計を仕舞う手を、一瞬止める。こちらは視線を合わせず、そのまま気配を伺う。
やや笑っているような赤い瞳が人々の頭の間から見えた。気のせいか。
いや、件の盗賊ならこれぐらいの演出はするのかもしれない。どうもそういう雰囲気があった。
建一は思い切って視線の方へ振り向いてみた。
こちらを見ている。はっきり分かった。
肩にかかる淡い青色の髪を揺らして。女はやはり笑っている。
会釈の代わりに、時計を自分の目の高さに掲げてみる。相手が良く見えるように。これですか、という具合に。
すると女の顔も、それです、と言わんばかりに目を細めて笑う。そして女の顔は群集の向こうに消えた。建一はしばらく同じ方向を見遣ったが、再びあの顔は見えなかった。
建一は苦笑しつつ、時計を仕舞った。
夕刻。陽の翳りも、今日ばかりは安息を見出すことはできない。始まるのか。何かが。
だがエルマン卿はしばしの仮眠をとるとのこと。こんな時に、と言いたいが、昨夜の一件から一睡もしていない。無理なからぬこと、とは四名の一致した意見。出された夕食を終え、再び、エルマン卿の自室。
「夕食のためだけに」アマグが言った。「せっかく家に帰した使用人を呼び寄せるなんて…無神経よね」
「そしてこんな時に仮眠とは。政治家らしい図太さ、といったところだな…」と、ウルスラ。
「…眠け、れば…。…自然、に、目を…閉、じる…から」千獣がポツリと呟く。
「まあそっとしておきましょう。昼間は気が立っていたようですし」建一も苦笑する。
ようやく本題に入れる、という具合にアマグが言う。
「それで…何か分かったのかしら?」
ここにエルマン卿がいないことは好都合なのかもしれない。初めて四人だけとなった。遠慮なく出せる話題もあるかもしれない。
「ただの時計です」建一が言った。「何の仕掛けもないようです。ですから、個人的な因縁の線が益々深まりました」
「私もそう思う」ウルスラが言った。「…考えても見ろ。エルマン卿のあの性格だ」
建一は、それを言っては、と苦笑い。千獣は相変わらず無表情。アマグは思わず肩を竦める。
「だが――」
ウルスラの口調が変わった。
「…会ってきた。盗賊と」
三人が一様にはっとした。
「まさか――」建一も少し動揺した。「交えたのですか…?」
「いや姿は見えなかった。声だけ聞いた。女だったな」
「…じゃあ、僕の見た女性は一体…?」
「――ちょっと待ちなさいよ」アマグが口を挟む。「その様子だと――キミたち二人で行動してたんじゃないわけ? まさか単独になっていたというの?」
「建一が、な。どうしても、と言うから」
「まあ、半信半疑だったのですが、時計は盗られないと踏んだもので」
「…危、ない…」
「反省してます」
「それより、よ。キミたちはそれぞれ、『女』に遭遇したのね?」
「私は声だけだ」
「僕は遠くから姿を見かけただけです。僕の方を見て笑いかけてきました」
「このタイミングといい、どう考えても同じ人物よね。いえ、二人…? まさか、ね…。――その女の特徴はどうだったの? ああでも…ウルスラは声だけ、建一は姿だけ。総合できないわね…」
アマグの呟きの後、しばらく四人は黙り込む。
「…たぶ、ん…また…来る」千獣が口を開いた。
「そりゃそうじゃないのさ」とアマグ。「今夜なんでしょ? 怪盗さんの舞台は」
「…そう、じゃ…ない。――言い、たい、ことが…あった…。それ、を…全部―伝え、ようと…。…盗り、たいモノ…を、盗ら、なかった…。それ…は――別の、何か…目的、が――」
「何考えてるのよ、千獣?」
「…まだ、時間、じゃ…ない…」
千獣はおもむろにテラスの方に歩み、扉を横切ってそのまま外に出る。静かだった部屋に、千獣と入れ替わるように、微かな夜の風が紛れ込む。
「はて…?」アマグは首を傾げる。
「…うん、何か千獣さんには考えというか、予測でもあるんですかね」と建一。
「千獣の場合、予感、という感じなのかもな」ウルスラが呟く。
「それにしても」アマグが言う。「その怪盗さん、挑発、よね?」
「だろうな」
「敢えて乗ってみました」
「じゃあ――私も、誘いに乗るのが、礼儀なのかしら、ねェ?」
「何考えているんです、アマグさん?」
建一は再び苦笑した。ウルスラもアマグが何を考えているのか少し分かった。
「私もキミたちのように、お出迎えしたいものだわ」
「そう都合よく出没してくれますかね?」
「吟遊詩人の視点、というやつよ」
「なるほど、ごもっとも」
「もし遭遇したら、ついでに『女』が一人なのか二人なのか、確かめてくれ」
ウルスラの言葉に、アマグは静かに笑みを送った。
遠くで陽が沈んでゆく。橙の輪郭が紫の空に溶け、徐々に色あせる。
本当に時計やエルマン卿が標的なのだろうか。盗れる時に盗らなかった。相手が獲物なら、そんな回りくどいことはしない。単純明快。生きるか死ぬかの世界では、見逃すことは有り得ない。だが件の盗賊には独自の生のルールがある。あくまで、あの時に盗らないことこそが盗賊にとっての善だったのかもしれない。他者が同意するかは問題とせず、ただ自分自身を肯定しているだけなのだろうか。
千獣は屋敷の屋根に腰掛ける。待ち人は、すぐに現れた。
「――昼間、ご友人をお見かけしました」
千獣のすぐ横の屋根の棟部に、黒い影が静かに降り立つ。話の盗賊か。千獣は目を合わせない。今が戦いの時ではないことはその雰囲気で分かる。
「あれこれと、考えてくれたようです。時計のこと、エルマン卿のこと、私のこと…」
風は止んでいる。響くのは細身の女の淡々とした声。
「でも、あなたは少し違うようです…」
千獣は少し目を細める。じっと盗賊の言葉を聞く。
「あなたも――ある一つの善悪の観念をお持ちのようです。あなた独自の、ね」
千獣の瞳が少しピクリと動いた。
「――戦いになれば、話せることも話せなくなります。今のうちに、お声を聞きたい」
「…何、も…言う…つも、り、は…。――な、い…」
突如――遠くで鳥たちが鳴いた。沈黙の向こうで。
賊は満足そうに笑みを浮かべた。そして千獣に背を向ける。
「後ほど――」
黒くなりつつある空に飛び立つ。
徐々に月明かりが夕陽に勝る。
ウルスラはじっと思案に耽る。待ち遠しい。考えれば考えるほど、あの盗賊が気になる。昼間、なぜわざわざ現れた? 目撃しろ、とはどういう意味か。
「気がかり、ですか?」
建一の声にも、ただ頷くだけだった。
「ウルスラさんの聞いた声の主と、僕の見た女性が同一人物かどうか。そう問われれば、同一人物でしょう。それが自然ですし…仮にそうでなかったとしても、別段今後の僕たちの行動に影響はありません。ともあれ僕たちの目的は、エルマン卿と彼の時計の警護。冷静にいきましょう」
ウルスラは別のことを考えていた。あの盗賊とエルマン卿との関係を懸念しているのは、実のところウルスラだけなのだ。
「建一」
「はい?」
「いや――何でも、ない…」
怪訝そうなウルスラを、建一は見守った。
「――吟遊詩人の視点として…。アマグさんとは違うかもしれませんが、あくまで僕の視点、ということですが。あの盗賊は、自分が舞台の中心に立っている、と思い込んでいる節があります」
ウルスラは黙って聞いている。
「自分の目の届く範囲、或いは声の届く範囲が、彼女にとっての舞台。僕たちはその舞台の登場人物――そんな気がしています」
「…ふざけた盗賊だな」
「罪を犯すことに呵責を感じる者もいれば、逆に快楽を覚える者もいる。あの盗賊なら、後者でしょうか」
「罪を罪とも思っていないのかもな」
「何を以って罪と呼ぶか、それはとても難しい問題ですね。宗教の経典が罪だと主張すれば、それはやがて罪になっていきます。社会が罪と呼べば、やはりやがて罪になっていきます」
「問題は…その盗賊が、世間一般の善悪の範疇にあるのか、ないのか。ないフリをしているのか。本当にない、と言うのなら…最早真相どころではないだろう。何を言っても通じんだろうからな」
既に窓の外は闇に包まれている。窓ガラスに映る顔を見遣った。何を思うのか、自分でも分からない。
もう一人の吟遊詩人は思う。ただ、クライマックスだけを切り取って披露するだけでは見世物にはならない。それは演劇の一連の運動の中で機能してこそ、観衆のどよめきを呼ぶ。轟音を待ち受ける静寂も、その跡の余韻も、全ての瞬間に意味がある。まずは舞台を整えなければならないのだ。
「――泣いた、泣いた、真っ赤なお花…」
黒い空に半人半鳥のシルエットが溶け込む。呟くように、ゆっくりと、しかし朗々と詠う。
「ふふ…。こんばんは、こんばんは、おはよう…。夜のお散歩は大好きです。人が死ぬならばもっと好きです――」
アマグの細い目に笑みが浮かぶ。
「…命の繋がりと言うのは実に面倒。怪盗さん、あなたに家族はいますか?」
目の前には誰もいない。だが必ずこの声を聞いているはず。
「――今度は賑やかな方ですね」
黒い衣装を纏った細身の女が、空中に姿を現した。賊の赤い瞳は嬉々として大きくなる。
「こんな程度でも、怪盗さんの舞台の前座にはなったかしら?」
「既に見入ってしまう程です」
賊は声を上げて笑う。アマグもつられて顔が綻ぶ。
「怪盗さんは英雄? それとも、道化?」
「舞台次第、です」
賊の口元が薄く笑みを作る。
アマグは黒い翼を翻す。
「開演が待ち遠しいわ。私は早々に去りましょう」
「では次の登場で――」
二人はすぐ傍を交錯し――互いに笑みを浮かべたまま、すれ違った。
「――そうだ、忘れてた…」
突如、アマグが呑気な声を出す。
「怪盗さん――姉妹とか、いらっしゃいません?」
「一人、ですよ」
賊は背を向けたまま、夜の向こうに姿を消した。
舞台がこれから始まる。
舞台を見守る観衆が憤る条件は三つ。一つは大根役者の独擅場。一つは愛すべき登場人物の死。そしてもう一つは、期待を裏切る展開。
部屋の中央にあった机やソファは全て壁に寄せた。盗賊は必ずこちらの舞台に合わせてくる。屋敷の外で迎え撃つことは敢えてしない。屋内での戦いを誘う。そして、まずは捕捉を。
問題は、盗賊がどこから侵入するかだ。廊下からの入り口は扉が一つ。だが、テラスからは扉が一つと窓が三つ。窓を割って侵入されるかもしれない。
エルマン卿と執事は廊下側の家具を背に立つ。それを守る形で建一。すぐ傍で、廊下側の扉の近くにウルスラ。テラス側の扉の傍に千獣。アマグは唯一定位置を決めず部屋の中央をゆるりと歩く。
静寂。広い部屋に、照明だけが揺らめいている。その鮮やかな橙色に、思わず瞳を閉じたくなる。これから何かが起こる。それなのに、なぜこれほど穏やかな気分になるのか。相手との邂逅を済ませたからか。それでも、その登場の仕方は想像がつかない。一体、どう出る?
突然。
四人の瞳が鋭く光る。
無造作に建一がシャドウバィディング、束縛の呪文を唱える。
アマグが部屋の中央から飛び退く。
部屋に風が吹いた。
建一が窓に向け、術を放つ――
だが現れた影は、既に部屋の中央。
左手を天井に向け、その手がやや緑色に輝いている。
そして、場違いな光景だった。女は大きなガラス板を左の掌に乗せている。
それが――窓枠から綺麗に刳り貫かれた窓ガラスであることに、全員がしばらく気付かなかった。
何の音もしなかった。敢えて言えば、風の音だけ。
この一瞬で、盗賊の登場は果たされた。
「――やはり一発ではうまくいきませんか…」
建一は呟き、注意深く盗賊を見遣る。昼間見た時と同じ笑顔。近くで見るのは初めてだ。美しいと言って良い。
盗賊はおもむろに窓ガラスをテラス側の壁に静かに置く。やはり音を全く立てず。全員がそれをただ眺める。本当に、静かだ。
「今夜は」ウルスラが言った。「派手に登場しないのだな」
盗賊が振り向いて、にこやかに頷いた。
…どうやって侵入した? 誰にも分からなかった。動きが見えなかった。
盗賊はちらっと千獣の方を向く。千獣は表情を変えなかったが、盗賊はやはり微笑んだ。
「すごいわ。何の物音も立てず…盗人らしい登場もできるのね」とアマグ。
盗賊はアマグに軽く会釈すると、再び部屋の中央にゆっくり歩む。
そして、誰に向くでもなく、静かな声で呟いた。
「――リズフェクス、と名乗っています。偽名です」
四人はまだ動けない。しばらく盗賊の様子を見ているが、先が全く読めない。
青白い髪が肩の上に舞う。
黒服の女は、微笑のまま。
腰に細剣を携えているようだが、今の侵入の際に使ったのかどうかも分からない。
そして、左手が微かに緑色に輝いていたことも、一体何の術だったのか。
――強い。
恐らく、四人が分かったことは、これだけだ。
「整った、ようですね」
いつの間にかエルマン卿の方を向いていた。はっとして、時計握り締めた右手にさらに力がこもる。そして舌打ちをして、睨みつける。
盗賊が口を開いた。そして薄く瞳を閉じる。
「――誘え、知識よ――」
綺麗な声だった。
呟いたその言葉を、誰も解釈できないまま――
三人に戦慄が走る。建一を除く三人に。
盗賊の左手から三方向に緑の閃光が向けられる。
そして三人に届く寸前で蛇行する。
先端が蛇の頭の形。
千獣は獣化した左手を一閃させ、掻き消す。
アマグも自身の背丈ほどの大鎌を一振り。蛇は消滅する。
ウルスラも同時に剣を抜き、一閃。そのまま盗賊に向かって走ろうとする。
しかし――
「――うっ!?」
目の前に盗賊の微笑が現れていた。
そのままウルスラはしばらく動けなくなる。相手はまだ剣を抜いていない。だか、斬りかかれなかった。
「まだ迷っているようですね」
盗賊は静かに話しかける。ウルスラに僅かな焦りが生じる。
「相手の様子を伺ってから、という戦い方で、私は倒せません――」
「ウルスラさん!」
建一の声が響く。今度はムーンアロー、スリープ攻撃。
盗賊は一旦ウルスラから距離を取り、建一の術をやり過ごす。
すぐ背後からアマグが大鎌で襲い掛かる。捉えた瞬間、盗賊の姿が掻き消え――
今度は空中で、千獣と盗賊が交錯する。千獣の右の拳が盗賊の腹に食い込む。
そのまま盗賊は天井に飛ばされ、その軌道に建一のシャドウバィディング。
だが術の寸前で再び盗賊の姿が消える。
「左だ!」
ウルスラが建一の方、エルマン卿たちのいる方に向けて叫ぶ。
すかさず建一がエルマン卿たちをかばう形で回り込む。だが、攻撃はなかった。
「誘え、知識よ――」
代わりにあの声が響く。
アマグがその声に即座に反応し、大鎌で盗賊を狙う。捉える寸前で盗賊の姿はまたもや消える。
ウルスラが次の動きを予測し、誰もいない場所に迷わず剣を振るう。
突如、ウルスラの一閃の脇から緑色の光が漏れ、剣を避ける体制の盗賊の姿が現れる。
左手の術は中断され、元の手の色に戻る。
青い髪がまだ微かに揺れている。盗賊はとてつもない速さで動き回っていた。
ウルスラには辛うじて見えてきた。だが一旦剣を下げる。すぐ後ろに千獣の姿もあった。
千獣もようやく盗賊のパターンが分かってきた。
「そうか…」アマグが言った。「その『誘え…』。怪盗さんの詩かと思ったのだけれど…。実は――呪文ね」
盗賊は頷かなかった。だがその笑みを浮かべた赤い瞳が、アマグの問いを肯定していた。
「…本、気で…戦、って…いな、い」千獣が呟く。
「みたいだな」とウルスラ。
「まるで僕をわざと避けているかのようですね」建一が苦笑した。「エルマン卿を直接守っている僕さえ倒せば、あなたの目的は早くに達成されると思うのですが…。まさか、あなたは僕たち全員を倒してから、時計を奪うおつもりで?」
「せっかくですから」
「できないわよ」とアマグ。「怪盗さんの戦い方は、私たちの体力の消耗を狙ったもの。怪盗さんはまだ誰にも決定的な攻撃を加えていない。いえ――できないのよ。その隙に、別の誰かの攻撃を受けるから」
「それは――まだ…私に話がある方がいらっしゃるようですから」
その赤い瞳は――ウルスラの方を向いていた。
「何だと…?」
ウルスラは身構えた。
「私とエルマン卿の過去の因縁説…でしょ?」
「語る気になったのか?」
「ありませんよ、最初から因縁なんてものは」
「ではなぜ時計を狙う?」
盗賊は答えなかった。少しだけ、赤い瞳に、これまでの歓喜以外の感情が見えるようだった。
動いた。そう見えた。
次の瞬間。
ウルスラの目の前の視界が一瞬ぼやけた。
「ウルスラ…!」
「ウルスラさん!」
アマグと建一が叫んだ。
盗賊の細剣が、ウルスラの左の腹を捉えていた。
息ができない。呻くこともできない。
「私の剣は――」
盗賊が淡々と述べることだけは分かった。
「――刀身に刃がついていません。本来は鎧を貫くために作られたようです。ですから――大丈夫です」
ウルスラはそのまま床に倒れ込む。ようやく痛みの感覚が生まれ、苦痛に顔を歪める。
「それより――せめて、戦う時ぐらいは、何の気兼ねもなく交えたかったのです…。私を生かしたまま捕らえて話を聞き出そうとお考えのようでしたが、そんなことをする必要はなかったのですよ。私はただ目撃して下さいと言いました。――ですから、しばらくはそうして下さい…」
盗賊はなぜか申し訳なさそうに呟いた。今度はアマグの方を見て、
「――できましたよ」
あの微笑に戻っていた。そして建一の方も見る。
「…あなたとも交えたいのですが。私はあなた方全員を倒すまで、時計は絶対にいただきません」
「素直に信じられるでしょうか」
「信じてください」
無理な相談だ、と言うべきだが、この笑顔相手に、声には出せなかった。
「――大、丈…夫…」千獣が言う。「…この、人…は、…気が済、む、まで…戦う…」
盗賊は今度は千獣の方を向き、
「あなたとは何の気兼ねもなく戦えそうです」
「御澄ましもいい加減になさい…」
アマグが少し鋭い口調になる。
「戦いに気兼ねなんて関係あるかしら? 感情の交錯があるのは実際の舞台だけ。戦場では感情すら追いつかない。流れるのは血のみ」
「…構わ、ない」
千獣がアマグの言葉を遮る。
「では――」
盗賊は再び左手に緑の輝きを灯す。
「挑発に乗ってはいけない、千獣」
だが、千獣は盗賊と向き合う。
二人の姿が掻き消える。そして部屋に衝撃音が響く。火花のような閃光。
その余韻の中。
千獣の右手が、盗賊の細剣の刀身を握り締めている。その赤い瞳は、やはり赤い瞳を見つめている。
長い静止。
ふいに千獣の右手が力を抜く。盗賊は黙って剣を下ろす。
再び両者の姿が掻き消える。今度は天井に衝撃が響く。
やや遅れて、二人の姿が現れる。今度はお互いに背を向けて。
ただし、盗賊の細剣は、部屋の床に鈍い音を立てて落ちる。
千獣が払いのけたのだ。
盗賊の目がピクリと動く。少し意外だ、という表情。自分の右手を眺める。
「もう勝ち目はありません」建一が言った。「首尾良く盗みを遂行するならともかく、まるで遊びのように…」
盗賊はそれでも再び千獣に向き合う。
建一は万が一のため、呪縛の呪文の準備。アマグは盗賊が逃げないよう、大鎌を構え直す。
盗賊は千獣に向かっていく。左手からまた蛇を出現させる。
千獣には最早通じない。軽く右手で払いのける。
だが――
感触がなかった。
一瞬千獣の動きが止まった。盗賊にはそれで十分だった。術の発動を、直前で解除したのだ。
「――誘え」
千獣の懐に一瞬で詰め寄り、その腹に左手を当てる――
そして。今度こそ発動。
背中に激しい衝撃。いや――
自分が吹き飛ばされたことに気付くまで、少し時間がかかった。背中の痛みだけだった体に、今度は鳩尾に熱い苦痛がじわりと広がる。
建一は焦った。千獣に仕掛けた時、自分の術が盗賊を確かに捉えたのだ。なぜ平然としている? いや、もしかしたら、何か防御呪文でも使ったのかもしれない。それとも、目の前の女は、本当にただの人間なのか。
アマグは黙って眺めていたが、その心中は穏やかではない。まだ辛うじて盗賊に引けをとらない自信は残っていたものの、この盗賊を生かしたまま捕らえる思惑は既に消えていた。
「建一」アマグが言った。「殺すわ」
「その方が良いのかもしれませんね」
そのやりとりに盗賊は意外そうな顔をする。
「…最初はそのつもりではなかった、というのですか?」
「僕は、ね」
「私もよ」
「――あなた方の主義、ですか?」
「個人の思想に関係ありません。ただ、あなたのようなやり方は個人の経験として聞いたことがなかった、というだけのことです。だからその真意を探ってみたかったんですよ」
「少なくとも――時計のこと、そろそろ教えてくださっても、よろしいんじゃなくて? 死んでしまっては心残りでしょうに」
アマグが大鎌を見せつける。
時計、と聞いて、盗賊はエルマン卿の右手を見遣った。
そして…。
小さな声を上げて笑い出し――
やがて。
――高笑い。
全員がその光景を呆然と眺める。盗賊は腹を抱えている。本気で笑っている。
「――そう、そんなにも…。人は意味や価値を執拗なまでに見出そうとする…! ――人というのは面白い。手に入れたその瞬間の歓喜を忘れ、埃を被った財宝が、数年後に再びその価値を見出される時、その埃を被っていた時間というものは、一体何であったのだろう…。財宝自体が姿を変えたわけではないのに、人が財宝を変えていく。その価値を、書き換えていく…」
その言葉を、どう解釈するべきなのか。
「埃を払いのける機会とはいかなる瞬間なのか…。それは何か目覚めに近いものなのか。――私は…」
そこで盗賊はようやく元の落ち着きを取り戻す。細剣を拾いながら、
「私は、結局その機会を追い求めているだけなのかもしれません。何も作らず、ただ待っている…。そうであるなら――私は英雄などではありません。道化でさえないのでしょうね」
「――では、何者なのだ?」
痛みが少し和らぎ、ウルスラが声を出す。まだ体を完全に起こすことはできないが。
「私も観衆なのですよ」
「ふ…ふざけるな!」
声を荒げるのは、エルマン卿。
「そんなはずはない! たかが盗賊の趣味で、わしの立場が台無しだと! ふざけるな。本当は何を企んでおる?」
「何も企んでいませ…」
「嘘だ――」
盗賊の声を遮ったのはウルスラだった。
「違う…。少なくとも、その時計には、因縁がある」
「――何を言っておる…?」とエルマン卿。
「昼間、エルマン卿の様々な噂を聞いた。どれも嘘に思えた。しかし――」
ウルスラはやや間を置いて呟く。昼間衛兵から聞いた情報から、固まりつつある仮説があったのだ。
「――密偵」
その言葉にエルマン卿が凍りついた。
ウルスラは続ける。
「噂だ。掻い摘んで言う。エルマン卿には医師にして政治家の政敵がいた。エルマン卿は医師を陥れたかった。そこでエルマン卿は密偵を医師に差し向けた。密偵は、医師が結婚の際に夫人に贈ったという『あるもの』を盗んだ…」
エルマン卿は明らかにうろたえている。
「…医師の夫人は、それに気付かず、サロンを開催した。そこに、その『あるもの』を持った密偵が現れた。――ちなみにこの密偵は女だ。…つまり、医師の愛人役として登場したわけだ。医師は大勢の前で、ありもしない愛人の存在を暴露された形となり――」
「――もう良いです」
遮ったのは、盗賊。
「自ら――そのことは、エルマン卿自らで思い出して欲しかったのです…。そして私はあなたの取り乱す様を見られる、と思っていたのですが、結局あなたはそのことを思い出さなかったようで…。逆にその自尊心が私への憎悪を膨らませた。――でも安心してください。それはそれで見物でしたよ」
「…き、貴様は…!?」
「その密偵から、あなたのことを伺ったのですよ。その『あるもの』とはもちろん――時計です」
これで謎は解けたことになる。これほどの手練の盗賊が関心する出来事にしては極めて些細な真相だったが。
「…も、う…済ん、だ…?」
千獣が体を起こしつつ呟く。
「そうです、ね…」
盗賊も静かに頷く。
「目撃しろ、とは…?」
ウルスラが盗賊に問う。
「そう――」盗賊は言う。「私の興味は、何らかの真相を暴くことではなく――そこに至るまでの過程。…実を言えば、本当にその時計が欲しかったのではありません。…そのことにはお気付きの方もいらっしゃったかもしれませんね。ただ、その時計をいただくと私が宣言すれば、一体何が起こるのか――それがとても楽しみだったのです。その時計には少なからず因縁めいた逸話が隠されていましたが…それにも心から興味があったわけではありません。ただ、口実にしたまで…ですよ」
「では」建一が言う。「最早あなたには果たすべき目的は残っていない。…これからどうされるおつもりです?」
「去ります」
「殺せ…!」
エルマン卿が呻くように呟いた。
「わしをここまで侮辱して、無事に帰れると思うな…」
「哀れですね。あなたも笑えば良いのに」
「時計などくれてやる。だが、お前は裁く」
「――その言葉は、いただけません」
初めて、盗賊の瞳から笑みが消えた。
だがその顔も一瞬しか見せなかった。
盗賊は瞬く間にエルマン卿に迫り――
小さな音が、響いた。
最も近くにいた建一でさえ、動けなかった。
その傍に、盗賊は佇んでいた。建一は思わず盗賊の方を振り向き――
だが、後ろで何かが倒れる音。
執事が駆け寄る。主人は、動かなかった。
四人は、ただことの成り行きを見ていた。動けなった、というよりも、動かなかったと表現した方が良いのかもしれない。今エルマン卿の屍を見て、何も思えないのだから。
時計も床に転がっていた。
「せめて――」
盗賊は悲しそうに細剣を鞘に収める。
「命懸けで、守って欲しかった…。その時計のせいで…」
「――二人死んだからな…」
ウルスラが呟いた。
「その捏造の愛人騒動の後、夫人は真相を知らぬまま自殺した。それを悲観した医師も、後を追った」
盗賊はウルスラの方を見て、悲しく微笑んだ。
「でも、やはり――所詮物は物に過ぎません。物を相手に、悲しんだり、愉快になったり――本当はそんなことをするべきではないのでしょうね。全ては人の解釈なのですから…。時計は物です。けれどそこに新たな解釈を施すことで、本性を超えた観念が生じる。まるで神話のように、ね。それを頭で理解していても、私は感情的になってしまう――それを含めて、私は笑うのですよ…」
しばらく沈黙が続いた。盗賊はゆっくりと部屋の中央へ歩く。顎を上げ、瞳を細める。その頭がふと窓の外に向けられる。月の輪郭が本当に近くに見えた。青白く迸る、美しい曲線が。その光に、盗賊の髪の色が溶け込んでいる。
「あなた方も、笑ってください――」
その言葉の後――
あの微笑は既に部屋にはなかった。姿が消えていた。
…逃げられた。四人が同じことを考えていた。
■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
整理番号/PC名/性別/年齢/職業
2491/ウルスラ・フラウロス/女性/16歳/剣士
0929/山本建一/19歳/男性/アトランティス帰り(天界、芸能)
3087/千獣/17歳/女性/異界職
3619/トリ・アマグ/24歳/無性/歌姫/吟遊詩人
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