<東京怪談ノベル(シングル)>
常闇の夢を憐れむ歌
吸い込まれてしまいそうな闇が居た。
まだ明るく賑やかな昼間であるのに、建物に邪魔される事も無く爽やかな青空が何処までも見渡せる開けた場所なのに――そのぽつんと佇む闇は人目を惹いて憚らない。
とある大きな町。広場の中央に置かれているのは大きな鳥の像とステージ。そのステージは特に大きくもない筈なのに、人目を惹いた。闇がそこに姿を見せた時点で、ステージに立ち唇を開いた時点で、声を発した時点で――元々そこに観客として居た者だけではなく、ステージを使用する吟遊詩人や歌姫、大道芸人などと言った旅の芸人たちには興味が無かった、ただその場を偶然通りすがっただけのような者でさえもつい足を止めて闇の姿を見てしまうような。
そんな、引力があった。
まるで置かれている像の眷族ででもあるかのように、その闇は大きな両翼を持っていた。
半人半鳥の、有翼人――ウインダー。
纏う色は漆黒。
長い髪も翼もマントも同じ。
瞳も、また。
…ひょっとすると、吸い込まれてしまいそうに思えるのはその瞳故、もあるのかも知れない。
表情を持ち光を照らす事はなく、何もかもを――受け入れもせず、同時に拒絶もしないような。
そんな、不思議な色をした瞳。
口許にだけ浮かぶ、静かな微笑みは常の事。
そのアルカイックスマイルもまた人目を惹く要因の一つかもしれない。
決して張り上げている訳ではない、けれどよく通る美声が静かに語り始める。
「――…私は泣いた。夜に泣いた。
静かな夜には、得てして人が死ぬのです。
そればかりですから、悲しくなったのです…――」
一度、言葉が切られる。
暫し沈黙に想いを匂わせ、再び言葉の穂を継ぎ足す。
変わらぬ微笑みは消えない。
「――…ですが私は、それが本当かどうかわからなくなってきました」
彼の腕にはハープが抱えられている。
青白く細い繊手が張られた弦に伸ばされる。
そのさりげない仕草さえもまた人目を惹く。
これから奏でられるのだろう音が無意識の内に期待される。
「………………これは、ある日の夜、もしくは冷たい冷たい夢のお話です」
言の葉を追い掛けるように、漸くハープの旋律が紡がれる。
何処までも悲しく澄んだ音が響き渡る。
それから、歌も始まって――今はステージの上に居ないカレン・ヴイオルドは、ステージ上で歌う吟遊詩人の歌曲へと耳を澄ませる事を選んでいた。…自分の出番は彼の前だった。もうカレンはステージから下り、仕事は済んだ。けれど彼の歌うその声を奏でる旋律を耳にしてしまえばそのまま去る気になれなかった。
だから観客としてそのまま居る事にした。
…確かこの彼の名は、トリ・アマグ。
カレンとは同業で、曰く言い難い魅力を持つ有翼人。取り敢えず『彼』と呼んではいるが、話してみると女性のように思える時もある。…男とも女とも付かない。どちらでもないのかもしれない。ともあれ、それもまた魅力の一つなのかもしれない。
と、カレンのすぐ脇から不意にひそひそ声が聞こえた。
そのひそひそ声による予期せぬ不協和音にカレンは眉を顰めかけるが、その『話す内容』が聞こえると、先にそちらに興味が向いてしまった。
…あの吟遊詩人、ちょっと嫌な噂あったよな。
…ああ、あの奇怪な殺人事件起こしてるの、奴じゃないかってのな。
…そうそう、この歌だってまるっきりその事件歌ってるような感じだし。
噂する声はそこで止まった。…すぐ側に居た、アマグの歌曲に聞き惚れている観客から険を込めてじろりと睨まれた為だった。それでひそひそ声の主たちはそそくさと立ち去った――と言うか、移動した。中傷と言っても通るだろう噂を交わしつつも、この歌曲を聞きたい、アマグの姿を見たいと言う気持ちは変わらないのだろう。観客で居るのを止める気はないらしい。
矛盾のようでもあるが、その気持ちはわからないでもない。
不穏な噂。
…それは、カレンも別の場所で聞いている。
平和な日々が続いていたこの街で、夜毎起きている奇怪な殺人事件の話。
それも、アマグがこの街を訪れたのと同じタイミングで起き始めたその事件。
アマグが広場のステージで披露するその歌も、まるでその事件を歌っているように思わせる歌で。
だが、しかし…。
■
「――…誰も正しくないし誰も間違ってないんだよ。
ほら。全てを飲み込む夜空の何と美しい事か…――」
いつからこの場所がそうだったのかわからない。
ただ、暗い。
昏くて、真っ黒で。
夜。
その空の色と同じくらい真っ黒な死神が佇んでいる。
夜の闇に溶け込む両翼を広げ、背丈程もある大鎌を立てて持っている。死神自身の肩に凭せ掛け、石突を軽く地面に突いたままでいる。三日月型の刃を天に向けた状態で、特に持ち上げたり振り上げたりしている風もない。
足許には一人、人型の何かが倒れている。
命の気配は既に無い。
ここのところ雨が降った記憶も無いのに、水溜りができている。
その水溜りの上に、その人型は倒れている。
水溜りは墨を垂らしたように黒い色。
昏い昏い月も無い夜だから彩りは判別できない。
無彩の世界に黒い死神が佇んでいる。
だからきっと、倒れているのは『死体』なのだろう。
大鎌の切っ先からぽたりぽたりと、真っ黒な滴が垂れている。
ただ、その場所の空気は凪いでいる。
その場所からは凶々しさも何も感じない。
ただ、静かな。
静かな夜に、人が死ぬ。殺される。
その事実だけがそこにある。
恐ろしい事の筈なのに。
何故か同時に、意味の感じられない世界。
死にすら意味は無く――死は初めから意味は無い。
ただ、悲しいと思う事を選んでみる。
悲しいと言う感情を自分の中に構築し味わう事を考えてみる。
大鎌の刃を振り下ろした時の事を考えてみる。
この結末に悲しいと言う意味を付けるのは誰だろうかと考えてみる。
悲しい…とは少し違うのかな、とも思ってみる。
だけど完全に違う訳でもないな、と考え直してみる。
死神は視線に気付いた。
少し離れたところ。
瞠目して、茫然と死神を見ている。
死神は目だけでちらりとそちらを見てみた。
姿を認めた。
記憶にあった。
艶やかで豊かな白い髪の、吟遊詩人。
いや、もし彩りがあるのなら、彼女が持っていたのは淡い金髪、だったかな。
死神は挨拶のつもりで、今度こそ確り彼女を見返した。
黒い死神の静かな微笑みが吟遊詩人に向けられる。
それは全く普段通りの、口許だけに浮かぶアルカイックスマイル。
表情の無い瞳に、唐突に黒い飛沫が散っている端整な白い顔。
――――――トリ・アマグ。
■
ぶん、と思わず頭を振っていた。
カレンはたった今自分の頭に浮かんでいた考えを振り払う。…アマグの歌。噂通りに、自分自身が事件の犯人であり自分自身が起こした事件の事を歌にしているのだろうか。
否。そんな筈は無い。
これは、アマグの資質であり技量。それ故に歌曲に持たされる真実味。
それでも、妙に人の心に食い込み歌の内容が『真実』だと思わせるその歌。
有り得ないと思っていても揺らがせられる。
見てもいない筈なのに、目の前にその光景が浮かぶ――真実だろうが虚構だろうがどちらでも構わないと思わせる。ああ、だから不穏な噂が生まれるのかとカレンは不意に理解する。…その事までも、織り込み済みだと。
アマグの歌が終盤に差し掛かった。
「――…世界よ、さようなら。
そしてありがとう。
手を差し伸べるのなら、私は喜んで終末を迎えます…――」
爪弾かれた弦が音を連ねる。
今にも吸い込まれてしまいそうな闇が自らの歌を紡ぎ終えた。
優雅に一礼し、アマグは観客からの心付けを待つ。
それから、ステージを下りてきた。
カレンの側に。
アマグは相変わらずの微笑みのままカレンに軽く会釈した。
「聞いていて下さったんですね、カレンさん」
「凄い歌でした」
「そんな。…大した歌じゃありませんよ」
「御謙遜を。鳥肌が立つくらい真実味溢れる死に纏わる哀切に満ちた歌。凄いと言わずしてどうします?」
「真実味…まぁ、それは道理なんだと思いますけど。ふふ」
「…。…不躾なようですが、どちらでその事件についての詳細を仕入れたのか伺っても?」
「おや。カレンさんなら巷の噂でお耳にしてるんじゃないですか? 私の事を。黒い死神。大鎌の」
「真っ暗な。静かな夜に。ただ殺される――ですか。確かにそれは耳にしていますが」
噂は、噂です。
「でしょう?」
と、カレンはアマグへとにこやかに笑いかける。
…本当にあなたがこの事件を起こしている訳ではないのでしょう? と含み。
当然して欲しいとばかりに、同意を、求める。違うと。歌はあくまで歌であり決して真実そのままではないのだと。
カレンの心の奥底の何処かに、同意されない事への恐れがあるのは――気のせいか否か。
と、そんなカレンの心の内を知ってか知らずか、アマグもまた、あるか無きかの相変わらずの笑みをカレンに返している。
アマグはそのまま少しカレンの顔を見つめてから、さぁ? と小首を傾げて空惚けた。
「カレンさんはどう思われます?」
私が事件の犯人か。それとも違うか。
…そんな事、どちらでもいい事だとは思いませんか?
今ここの空は明るく何処までも青いのだし、鳥たちは健やかに羽ばたきと囀りを聞かせてくれているんですから。
そんなこの場所で。求める皆の耳に歌を響かせる事ができれば、常闇の夢を心に響かせる事ができるなら――それで。
アマグはそう告げると、では、とまた優雅に一礼しカレンの前から去って行く。
ステージ上では次の出番の芸人が現れ用意を始めていた。
カレンは何となく立ち去るアマグの背を目で追っていてしまう。
と、カレンの耳に耳慣れた別の声が飛んで来た。…近付いて来ていた観客二名。この町に来てからのカレンの御贔屓さんであり、もう顔見知りで気安い間柄。即ち、カレンの作る歌の情報源と言う面もある。
「二人とも」
「…ネタ仕入れそびれたな? カレン姉さん」
「つーか、カレンさんあんなにずばり本人によく訊けるよな。あのトリ・アマグって奴、ただ話しかけるだけでも結構躊躇いそうな…近寄り難い感じだっつーのに。あのすげえステージ見ちまえば余計に怖えしさ。…ったく吟遊詩人て人種はすげーよな」
「…そうかな? 彼の歌が凄いって事には同意するけど、私はそんな大した事はしてないと思うけど。それに今のネタは――もし聞けたとしても私は歌にするつもりはなかったよ」
「そうなのか?」
「うん。あれは私には歌えない。アマグ以上に歌える人は居ないよ。きっと。さしずめ…『常闇の夢を憐れむ歌』ってところかな」
「じゃあ何でわざわざ事件のネタ元訊いてみたんだ?」
「ただの好奇心。好奇心旺盛な事は吟遊詩人にとって必須の資質だからね。余計な事にも興味は向いちゃうんだ」
にこり。
笑う。
…カレンはそれから少しいつも通りに雑談を交わし、二人と別れる。
一人になる。
ステージ上で次の出し物が始まった。
周囲の視線は全てそちらに向かう。
それをさりげなく確かめてから――だれも自分に注意を向けていないと確かめてから、カレンはいつの間にかきつく握り締めてしまっていた自分の拳をゆっくり開く。
いつからかかいてしまっていた冷汗で、掌がべとついていた。
それはいつからだったかを、考える。
………………それは、ステージを終えたアマグと言葉を交わしていた、その時。
【了】
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